茂蔵の話
昔々、ある山里の村の外れに、一軒だけポツンと離れて建つ小さな家がありました。
その家の主は、茂蔵という名の若者で、猟師を生業としていました。茂蔵にはお雪という美しい妻がいました。
二人はとても夫婦仲が良く、幸せに暮らしていました。ところがある時、二人は揃って流行り病に罹ってしまいました。
二人は共に、食べ物もろくに取ることもできないまま、高いに熱にうなされ続けました。そんな中でも二人は、どうにか声を絞り出してお互いに励まし合いました。
ある朝、茂蔵が目を覚ますと、熱がすっかり下がっていました。茂蔵は嬉しくなり、隣に眠るお雪の方に顔を向けて声を掛けました。しかし、何度呼び掛けても、お雪は一向に目を開けませんでした。
茂蔵は不安になりました。布団から体と起こし、お雪の額に触れてみました。悲しい程に冷たい肌触りでした。茂蔵が目を覚ます前に、お雪はもう息絶えていたのです。
茂蔵は泣きました。泣いても泣いても、涙はいつまでも枯れませんでした。
まるで自分の体の半分を切り取られて失ったような悲しみから、茂蔵はいつまでも抜け出すことができませんでした。
しかし、茂蔵はずっと泣いてばかりはいられませんでした。お雪の亡骸をきちんと葬ってあげなければ、お雪も成仏できないだろうと思ったからです。
そこで、茂蔵は家の裏手に穴を掘り、そこにお雪の亡骸を葬りました。そうして、お雪を埋めた所に、いくつか石を積んで小さな石塔を建てました。
そもそも病み上がりの上に、お雪を失くした悲しみの中で埋葬を終えた頃には、茂蔵はすっかり疲れ切っていました。気力を失った茂蔵は、部屋に上がると床に崩れ落ち、そのまま深い眠りに落ちてしまいました。
寝ている間に、茂蔵は夢を見ました。しかし、翌朝、目を覚ました時、茂蔵はそれがどんな夢だったか思い出せませんでした。
でも、茂蔵は、夢の中で誰かが自分に語り掛けていたような気がしました。『生き続け、強く願えば、また、お雪に会える』、そんなことを言われていたような気がしました。
茂蔵は、その朧げな夢の中の言葉にすがることにしました。
『生き続けないことには、またお雪には会えない』、それならばと、茂蔵はまた猟に出かけことにしました。そうして、折に触れて願いを掛けました。
猟の途中、空を見上げては願いました。お雪が立っていた台所を見ては願いました。お雪の機織りの道具を見ては願いました。日々の暮らしの中で、お雪の面影が浮かぶ度に茂蔵は願い続けました。
そんな風にして数日が過ぎましたが、お雪は一向に茂蔵の前に姿を現しませんでした。
まだお雪が生きていた頃、茂蔵は、夕方に猟から帰り、家に明かりが点いているのを見ると静かな気持ちになったものでした。
ですから、茂蔵は、夕方、家に明かりが点いていないかと思いながら家路を辿ることが常になりました。しかし、七日が過ぎても、猟から戻る度に、茂蔵を待っていたのは明かりの消えた暗い家でした。
そんな虚しい日々が八日目にもなると、夢の中の言葉にすがった自分が愚かだったのかと茂蔵は思い始めました。
しかし、猟の帰り、家の傍まで来た茂蔵は、何とも言えない思いで胸が一杯になりました。喜びと驚き、そして、少しの恐れが入り混じった不思議な気分でした。
猟を終えて帰りついた家には明かりが点っていました。
茂蔵は少し戸惑いながら家の戸を開けました。
お雪がそこにいました。
茂蔵を見たお雪は少し驚いたような顔をしていました。
「おかえりなさい」
茂蔵を迎えるいつも通りの言葉にも、どこか慌てた様子が感じられました。
茂蔵も茂蔵で、すぐに言葉が出てきませんでした。
「ただいま」
茂蔵がようやく返した言葉もどこかぎこちなくなっていました。
それから、黙り込んでいたお雪が、我に返ったように口を開きました。
「ああ、もうすぐ夕ご飯ができるから、着替えて待っていて」
亡くなった妻が生きていた頃と同じように夕ご飯の支度をしていたと知り、茂蔵は狐につままれているような気がしました。
故に茂蔵は、お雪に色々と問いたい気持ちになりましたが、問わないことにしました。それらの問いを口にしてしまったら、お雪が消えてしまいそうな気がしたからでした。
夕ご飯の間、茂蔵は取り留めのない話をしてお雪と過ごしました。茂蔵が聞きたいことを聞けないまま無理に話を続けようとしたせいか、夕ご飯のひと時はぎこちなく過ぎてゆきました。茂蔵はお雪に何も聞かず、お雪も自分の身の上に起こったことを口にしようとはしませんでした。
『もしかしたら、お雪は自分が死んだことに気づいていないのかも知れない』、茂蔵は、そのうちそんな気もしてきました。それならばなおのこと、お雪を問い詰めてはいけないと茂蔵は思いました。
そして茂蔵は、何も問わずに、生きていた時と同じようにお雪と向き合おうと心に決めました。その甲斐もあってか、二人の間には少しずつぎこちなさがなくなってゆきました。
夜が更けると、茂蔵はお雪を抱きました。お雪の体は温かく、数日前に感じた冷たい手触りなどどこにもありませんでした。
一度失われた温もりが戻ってきた嬉しさから、茂蔵はつい我を失い、己の欲のままにお雪を強く求めすぎてしまいました。茂蔵は申し訳ないと思いましたが、お雪は嫌な顔はしませんでした。
その後、茂蔵が少し不思議に思うことがありました。恥ずかしがり屋を絵に描いたようだったお雪が、進んで茂蔵を求めてきたのです。それも一度ではなく、繰り返しでした。お雪が生きている頃にはないことでした。
しかし、死ぬ前とは違うお雪の振舞は茂蔵の心の中に不安の種を蒔きました。
『お雪が自分のことを何も語らないまま、こうして俺を求め続けるのは、俺もあの世に連れてゆきたいからでは?』と思い始めたのです。
『この世の者でないお雪と何度も交わっていると、俺もあの世に連れていかれてしまうかもしれない』、芽を出した不安はどんどん大きくなりました。
けれど、そのうち、茂蔵は、そんなことはどうでも良くなりました。『今、この幸せがあれば、次の朝、目を覚ますことが無くても、もう構わない』と茂蔵は思いました。
翌朝、茂蔵が目を覚ますと、お雪の姿はどこにもありませんでした。
前の晩が幸せだった分、茂蔵は深い悲しみに沈みました。猟には出たものの、気持ちが揺れて、一つも獲物を捕らえることができませんでした。肩を落として、夕方、家路につきました。すると家には明かりが点っていました。
お雪も家にいました。しかし、次の朝には、またいなくなっていました。
次の日も、また次の日も、同じことが続きました。
お雪は、もうこの世の者ではないのだから、朝が来れば消えてしまうのは仕方がないと、茂蔵は頭では分かっていました。しかし、朝、目が覚める度に感じる寂しさは耐えがたいものでした。
朝も、昼も、仕事がない時には一日中、茂蔵はお雪と一緒にいたいと思いました。茂蔵はそのことを何度もお雪に伝えそうになりました。しかし、茂蔵がそれを口にすることはありませんでした。
その言葉は、お雪を傷つけるかもしれないし、それを告げることによって、もうお雪には会えなくなるかもしれないと思ったからです。
茂蔵にとって、幸せと悲しみが互い違いにやって来る日々が六日過ぎました。そして、とうとう茂蔵はあることを心に決めました。
夫婦の営みの後、朝が来るまで目を覚ましていようと思ったのです。それはお雪がどのように消えてしまうのか確かめるためではありませんでした。眠らずに起きたままでいれば、お雪は朝が来ても消えないかもしれないと思ったからでした。
お雪が戻ってきてから七日目の夜、茂蔵はお雪には気づかれないようにして、ずっと起きていました。
『この世のものでないお雪が消える所に居合わせたら、恐ろしいことが起こるかもしれない』、そんなことも考えて、茂蔵は少し怖くもなりました。しかし、朝まで起きていようという気持ちは変わりませんでした。
この時の茂蔵は、その先、自分に思いもよらぬことが起こるとは知る由もありませんでした。そうして、八日目の朝がやってきました。
お雪の話
昔々、ある山里の村の外れに、一軒だけポツンと離れて建つ小さな家がありました。
その家にはお雪という若い女が、夫の茂蔵と共に住んでいました。茂蔵は腕の良い猟師で、茂蔵が山に行っている間に、お雪は機織りをして暮らしていました。
二人は夫婦仲も良く、幸せに暮らしていましたが、ある時、二人とも流行り病に患ってしまいました。
ろくに食べることもできず、高いに熱にうなされながら、二人はお互いを思い、声を掛け合いました。
ある朝、お雪が目を覚ますと、熱が下がっているのに気がつきました。たぶん茂蔵の熱も下がっているだろうと思い、体を起こし茂蔵の額に触れると、茂蔵の体はもう冷たくなっていました。
お雪は泣きました。いつまで泣いても、涙は止まりませんでした。
しかし、そのまま泣き続けている訳にはいきませんでした。茂蔵の亡骸が傷む前に葬ってあげなければいけなかったからです
泣きたいのを堪えて、お雪は家の裏手に穴を掘りました。そして、そこに茂蔵の亡骸を収めました。それから、被せた土の上に、いくつか石を積んで小さな石塔を設けました。
それが済むと、お雪には、もう一欠けらの力も残っていませんでした。部屋に入った途端に足がよろけて床に倒れこむと、そのまま眠り込んでしまいました。
眠っている間に、お雪は夢を見ました。しかし、翌朝、目覚めた時、どんな夢だったか思い出せませんでした。
でも、お雪は、夢の中で誰かが自分に囁いていたような気がしました。『生き続け、強く願えば、茂蔵は帰ってくる』、そんな囁きだったように思えました。
お雪は、自分の思い込みかもしれない言葉にでもすがらなければ、生きてゆけませんでした。
『生き続けないことには、また茂蔵には会えない』、自分に言い聞かせて、お雪は機織りをしながら茂蔵を待つことにしました。そうして、日々の暮らしの中で、折に触れて茂蔵の帰りを願いました。
けれど、数日が経っても、茂蔵は帰ってきませんでした。
しかし八日目の夕方、夕ご飯の支度をしていたお雪は、家の外で足音がするのが耳に入りました。
お雪の胸が高なるのと一緒に、少しだけ恐ろしさも芽生えました。
そして、家の戸が開く音がしました。
戸が開くと、茂蔵がそこにいました。
待っていたとはいえ、いざ茂蔵の姿を見ると、やはりお雪は驚いてしまい、すぐに言葉が出てきませんでした。
「おかえりなさい」
お雪は慌てていつも通りの言葉を掛けました。
お雪には、茂蔵の方も言葉に詰まっているように見えました。
「ただいま」
間が開いて返ってきた茂蔵の言葉も、お雪にはどこかぎこちなく聞こえました。
次に何を言ったらいいのか分からなくなり、お雪は一度黙り込んでしまいました。しかし、不意に時間稼ぎの言葉を思いついて、慌ててそれを口にしました。
「ああ、もうすぐ夕ご飯ができるから、着替えて待っていて」
そう言って、とりあえずその場をしのいだものの、お雪は気持ちが落ち着きませんでした。望み通り茂蔵が帰ってきたとはいえ、茂蔵がこの世のものでないことは確かでした。もしかしたら、自分は狸にでも化かされているのかと、ざわついた気分になりました。
だから、お雪は、茂蔵に色々と聞きたくなりました。しかし、聞かないことにしました。聞いてしまったら、茂蔵が消えてしまいそうな気がしたからです。
夕ご飯の間、お雪は世間話をして茂蔵と過ごしました。お雪が聞きたいことを聞けないでいたせいか、話が途切れることも度々でした。お雪は何も問わず、茂蔵も自分のことを話そうとはしませんでした。
『もしかしたら、茂蔵は自分が死んだことに気づいていないのかも知れない』、お雪は、そのうちに、そんなことを考え始めました。それならば余計に、茂蔵に語らせてはいけないとお雪は思いました。
だから、お雪は、何も聞かずに、死ぬ前と同じように茂蔵と過ごすことにしました。そのおかげか、二人の間は少しずつ元通りに近づき始めました。
夜が更けると、お雪は茂蔵に求められました。お雪を抱く茂蔵は力強く、体中に精気がみなぎっていました。
茂蔵は、何かに憑かれたように荒々しくお雪を求めてきました。そのようなことは、それまで一度もありませんでした。
しかし、お雪はそれが嫌ではありませんでした。むしろ、お雪の体は、それまで感じたことのない程の大きな悦びで満ち溢れたのです。そして、お雪はそれまでの自分が崩れ去る音を聞きました。
お雪は、茂蔵が一度ことを済ませ後、ためらうことなく何度も茂蔵を求めました。
この世の者でない茂蔵が、次の日もお雪の傍にいるとは限らないと思うと、そう
せずにはいられなかったのです。
しかし、悦びに浸りながらも、お雪の心の中には不安の染みが広がり始めました。
『茂蔵が自分のことを何も語らないまま、初めに激しく私を求めたのは、私もあの世に連れてゆきたいという気持ちがそうさせたのかも?』と思い始めたのです。
『この世の者でない茂蔵と何度も交わっていると、私もあの世に連れていかれてしまうかもしれない』、不安の染みはどんどん大きくなりました。
しかし、やがて、お雪は、そんなことはどうでも良くなりました。『今、この幸せがあれば、次の朝、目を覚ますことが無くても、もう構わない』とお雪は思ったのです。
翌朝、お雪が目を覚ますと、茂蔵の姿はどこにもありませんでした。
前の晩が幸せだった分、お雪は深い悲しみに襲われました。機織りの仕事も手に着きませんでした。それでも、もしやという思いから、夕ご飯の支度をして茂蔵を待ちました。
夕方、茂蔵は家に帰ってきました。しかし、次の朝には、またいなくなっていました。
次の日も、また次の日も、同じことが続きました。
茂蔵は、もうこの世の者ではないのだから、朝が来れば消えてしまう定めなのだろうと、お雪は感じていました。しかし、朝、目が覚める度に、寂しさがお雪の心を切り裂きました。
『朝も、昼も、もっと茂蔵と一緒にいたい』とお雪は思いました。お雪は何度も茂蔵にそう言いそうになりました。しかし、お雪は言い出せませんでした。言えば茂蔵が傷つくかもしれないし、もう会えなくなるかもしれないと思ったからです。
お雪にとって、幸せと悲しみが波のように寄せ返す日々が六日過ぎました。そして、とうとう、お雪はあることを心に決めました。
交わりの後、朝が来るまで眠らないでいようと思ったのです。それは茂蔵が如何にして消えるのか確かめるためではありませんでした。目を覚ましたままでいれば、茂蔵は朝が来てもいてくれるかもしれないと思ったからでした。
茂蔵が帰って来てから七日目の夜、お雪は茂蔵に分からないようにして、ずっと目を覚ましていました。
『この世のものでない茂蔵が消える所に居合わせたら、怖いことが起こるかもしれない』、そう思うと、お雪は少し恐ろしくもなりました。しかし、朝まで寝ないでいようという気持ちは変わりませんでした。
この時のお雪は、その先、自分に思いもよらぬことが起こるとは知る由もありませんでした。そうして、八日目の朝がやってきました。
老僧の話
昔々、一人の老僧が修行の旅をしていました。老僧は、ある深い山奥の寺に、たいそう美しい仏様があると聞き、是非、お参りしたいと思いました。
老僧が、その寺に向かって歩いていると、村外れにポツンと建つ一軒の家が見えてきました。その家は、昼間だというのに雨戸を閉ざしていて、人の営みが感じられませんでした。
空き家なのかもしれないと思いながら近づいて行くと、僧であるが故に覚えがある嫌な臭いが漂ってきました。老僧は気分が沈みました。その家で不幸があったのだと思わざるを得ませんでした。
家の様子から考えると、家の中で誰かが命を落とし、その亡骸が、弔うものもないまま朽ちていっているのだろうと思えました。『そのままでは、死者も安心して成仏できまい。ささやかでも弔いをしてやるのが、僧の務めであろう』と思い至り、老僧はその家の前で足を止めました。
その家に人がいるとは思えなかったので、老僧は黙って扉を開きました。その途端、嫌な匂いが一気に濃くなりました。僧でもなければ、とても耐えきれずに逃げ出してしまうほどの匂いでした。
家の中に入ると、正面の部屋に、亡骸が二つ、並んで横たわっているのが目につきました。若い夫婦のようでした。
老僧はわらじを脱いで部屋に上がりました。部屋には盗賊に荒らされたような跡もなく、夫婦で争ったような跡もありませんでした。
老僧は一度手を合わせてから、二人の亡骸を調べました。二人の亡骸には傷を負った様子もありませんでした。おそらく二人は、近頃多くの人の命を奪い続けている流行り病で亡くなったのだろうと老僧は思いました。
それから老僧は、二人の亡骸を家の裏手に埋めてあげることにしました。穴を掘って二人の亡骸を収めた後、近くから石を集めて、それぞれのために一つずつ、合わせて二つの石塔を建てました。
その後、お経を挙げようとしましたが、二人の名前も分からないままでは十分な供養ができないような気がしました。
そこで老僧は、家の中に何か二人の名前を知る手掛かりはないか調べてみることにしました。家の中に入ったものの、目立つところに手掛かりは有りませんでした。そこで老僧は、少し後ろめたい気もしましたが、箪笥を開けてみることにしました。
箪笥の一番上の小さな引き出しを開けると、都合の良いことに夫婦の名前が書いてありそうな書付がみつかりました。老僧が思った通り、そこには夫婦の名前が書いてありました。
夫の名前は「茂蔵」、妻の名前は「お雪」でした。
三人の話
茂蔵とお雪の弔いを終えた後、老僧は無事に山奥のお寺に着き、お目当ての仏様を拝むことができました。
しかし、老僧は、旅の疲れからか体を壊してしまいました。『寺でゆっくり体を休めてから、また旅を続けては?』と寺の住職に勧められ、老僧はその言葉に甘えることにしました。
そのため、老僧が来た道を引き返し、茂蔵とお雪の家の辺りまで戻ってきたのは、二人を葬ってから、九日目のことでした。
老僧は、もう一度お経を挙げてゆこうと思いながら歩いてきましたが、茂蔵とお雪の家が見えた時に少し驚きました。雨戸が全て開いていて、縁側に男と女が並んで腰を降ろしているのが遠目に見えたからでした。
老僧は、夫婦の親戚が後始末に来たのだろうと思いました。それならば、二人を葬ったいきさつを伝えなければなりませんでした。
しかし、更に家に近づいた時、老僧はひどく驚きました。縁側に座っていたのが、九日前に自分が葬ったはずの茂蔵とお雪だったからです。修行を積んだ老僧でさえ、背筋が寒くなりました。
けれど老僧は、恐れてばかりいてはいけないと思いました。もし、自分のお経が十分ではなく、二人が成仏できずにこの世を彷徨っているのだとしたら、なんとしても、きちんと送り出してあげなければならないと感じたからです。
老僧が恐る恐る家に近づくと、茂蔵が声を掛けてきました。
「これはこれは、お坊様。修行の旅の途中でいらっしゃいますか?ありがたいことでございます。何のおもてなしもできませんが、お茶でも召し上がって、少々お休みになっていっては如何でしょうか?」
「是非、そうしてくださいませ」
老僧はお雪にも誘われました。
老僧は二人の誘いを受けることにしました。
「これはかたじけない。ではお言葉に甘えさせていただこう」
老僧は礼を言って二人の隣に腰を降ろしました。
「では、お茶をお持ちしますから、しばらくお待ちください」
お雪は言いながら台所の方に向かいました。
老僧は、腰を降ろしたものの気持ちが落ち着きませんでした。何が起こっているのか見当もつかなかったからです。
確かめたいことが頭に浮かぶと、老僧は、もうじっとしていられず、茂蔵に尋ねました。
「お茶が入るまでの間、少々この辺を歩かせてもらっても構わんかな?」
「どうぞ、お好きなようになさってください」
老僧の頼みに茂蔵は笑顔で応じました。その顔には成仏できていない幽霊の憂いなど欠片もないように見えました。
老僧は、かつて成仏できずに彷徨っていた死者の魂を、あの世に導いたことがありました。その時のことを考えると、老僧には茂蔵とお雪は幽霊のようには見えませんでした。
縁側から立ち上がると、老僧は家の裏手に回りました。自分が二人を埋めた所がどうなっているのか確かめたかったからです。
そこには確かに自分が建てた二つの石塔がありました。二人を葬った場所は九日前とまるで変っておらず、埋められた二人が土中から這い上がってきた様子などありませんでした。
茂蔵とお雪の二人は、幽霊でも、這い上がってきた亡骸でもないと、老僧は思わざるを得ませんでした。老僧の心の中にわずかに残っていた恐れは消え去りましたが、裏腹に謎は更に深まることになりました。
一体何が起こっているのだろうかと考えながら老僧が縁側に戻ると、ちょうどお雪がお茶を持ってきたところでした。老僧が腰を降ろすのを待って、お雪はお茶を差し出しました。
「どうぞ、お召し上がりください」
「かたじけない」
老僧が一口茶を啜った所で茂蔵が語り掛けてきました。
「お坊様、見ての通りここはひどい田舎で、世間の話があまり流れてこないのでございます。お坊様が旅の途中で見聞きした面白いお話などありましたら、是非、お話しいただけませんでしょうか?」
「私も、聞きとうございます」
お雪もそう言って茂蔵の隣に腰を降ろしました。
老僧は、こちらから『不思議なこと』こととして話を切り出す良い機会かもしれないと思いました。もちろん、いきなり『お前たち二人の亡骸を自分が葬った』という話をするのは避けて話を始めました。
「実は、面白いというよりは不思議なできごとがございましてな」
「ほう、どういったことでしょう?」
茂蔵が聞いてきました。
「実は、わしは九日程前にここを通ったのじゃが、その時に、お二人にお会いしたような気がするのじゃ。もちろん、お二人には今日初めて出会ったのじゃが」
「はて、それは不思議なことでございますね」
そう言ってきたのはお雪の方でした。
「どうも、わしはお二人とは不思議な縁があるように思えてならないのじゃ。もしかして、お二人にも近頃、不思議なことが起こったりしておらぬじゃろうか?」
「いいえ、何もございません」
答えた茂蔵の言い様には何かを隠しているような気配が有りました。
「ええ、何もそのようなことは」
お雪の言葉にもどこか後ろめたさが感じられました。
老僧は、二人が気分を悪くしても二人から話を聞き出そうと決めました。そうしなければいけないような気がしたのです。
「本当に何もなかったんじゃろうか?もし、お二人に何かあったとしたら、それをそのままにしておくと、大変なことになるかもしれず、心配なのじゃ。わしがそう感じるのは御仏の思し召しと思い、話してはくれんじゃろうか?」
老僧の話を聞いて、茂蔵とお雪は一度顔を見合わせましたが、なぜか戸惑った様子で目を逸らしてしまいました。相手に何かを言おうとしたが言えなかった。老僧にはそう見えました。
もう一度、頼んでみようと思った時、茂蔵が重い口を開きました。
「わかりました。お話いたしましょう。これは、まだお雪にも話していなかったことでございます」
茂蔵は、そう言って話を切り出すと、前の晩までに自分の身に起こったことを全て話しました。そうして、その後にこう付け加えました。
「七日目の夜からずっと寝ないでいたら、八日目の朝になってもお雪は消えませんでした。私は嬉しくなって仕事を休み、一日中お雪と一緒に過ごしました。夜寝る前は、またお雪が消えてしまいはしないかと不安になりましたが、いつまでも寝ない訳にもいきません。仕方なく眠りにつくと、夢の中で『大丈夫、お雪はもう消えたりしない』と誰かに言われたような気がしました。でも、言っていたのは私自身だったような気もしました。そうして、今日、九日目の朝が来てもお雪は消えず、お昼過ぎになってお坊様がお見えになったのです」
老僧はその話にとても驚きましたが、お雪の方が自分よりも驚いているように見えました。
「その様子からすると、お雪さんにも不思議なことがあったようなじゃ?」
「はい、ございました」
先に茂蔵が話をしたので気が楽になったのか、お雪もあったことを全て話しました。話し終えると、茂蔵とお雪は互いの顔を言葉もないままに見つめ合いました。
老僧は二人の話の大事な所を確かめることにしました。
「さて、茂蔵さん。お前さんは夫婦ともに流行り病に倒れたが、自分は生き残り、お雪さんが亡くなったと言うのじゃな?」
「はい、そうでございます」
「お雪さん、お雪さんは反対に自分が生き残り、茂蔵さんが亡くなったと言うのじゃな?」
「ええ、そう申しました」
「そうか、不思議な話じゃな。だが、不思議な話はそれだけではないのじゃ。ちょっとついてきてくれんかな?」
老僧は立ち上がると二人を家の裏手に連れてゆきました。
石塔が二つ建っているのを見て茂蔵とお雪は驚きました。
「茂蔵さん、お雪さん。お二人に同じことを尋ねるが、自分たちの家の裏手には石塔は一つしかなかったであろう?」
茂蔵とお雪は言葉も出ず、老僧の言葉に頷くだけでした。
「さて、これからわしの言うことを驚かずに聞くんじゃ。良いか、あの二つの石塔は九日前、私がお前さんたち二人の亡骸を埋めた所に立てた物なんじゃ」
信じがたい話を聞かされた茂蔵とお雪は、しばらく何も言い出せませんでした。少しして、茂蔵が恐る恐る老僧に尋ねました。
「お坊様、もしかしたら、私たちは共に、自分が生き残ったと勘違いしていただけで本当は二人とも死んでいて、私たち二人は、今、あの世にいるのでしょうか?」
「いや、そうではあるまい。お二人は幽霊のようには見えないし、地中から這い上がってきた亡骸でもない。何か別の不思議なことが起こっているようじゃな」
老僧がそう言うと、茂蔵が助けを求めてきました。
「お坊様、私どもとは違って、お坊様には学問がお有りでしょう。どうか私どもにも分かるように、お坊様のお考えをお聞かせいただけませんでしょうか?」
「いや、わしとて、まだ、何が起こっているのか、分かっていないのじゃ。少し時をくれぬか?」
「もちろんでございます」
茂蔵がそう答えた後、三人は縁側に戻りました。
縁側に戻ってしばらく考えた後、老僧は自分の考えを茂蔵とお雪に話すことにしました。
「さて、では、わしの考えを話すとしよう。だが、これは悪までも、こう考えればわしら三人の話の辻褄が合うというだけで、今の学問で証が立てられるといものではないのだ。だから、わしの考えが正しいかどうかは分からぬ。それでも良いかな?」
「はい、もちろんでございます」
茂蔵の答えには気を張った様子が見られました。
「では、話すとしよう。まず、お二人はあの世とこの世があることは知っておるな」
「はい」
茂蔵とお雪は揃ってそう答えました。
「まだ修行の足らんわしには、あの世のことはよく分からんが、どうやら、この世は一つではないようじゃな。少なくとも、この世は三つあるようじゃ」
「三つと申しますと?」
茂蔵が恐る恐る口を挟みました。
「そうじゃな。三つというのは『茂蔵さんが生まれたこの世』、『お雪さんが生まれたこの世』、そして『わしが生まれたこの世』のことじゃ。そして、これら三つのこの世は、ほとんど違いの無いものだったようじゃ。どのこの世にも茂蔵さんとお雪さんがいて、二人はどのこの世でも同じように夫婦になったのじゃ。ところが、それぞれのこの世で茂蔵さんとお雪さんのお二人が流行り病に罹った後、三つのこの世の時の流れはそれぞれ別の方に向かったようじゃな。『茂蔵さんの生まれたこの世』では、茂蔵さんが生き残り、お雪さんが亡くなった。『お雪さんが生まれたこの世』では反対に、お雪さんが生き残り、茂蔵さんがなくなった。そして、『わしが生まれたこの世』では茂蔵さんもお雪さんも二人とも亡くなったのじゃ」
老僧がそこで一度話を止めると、茂蔵は自分の考えを伝えると共に、問いを投げかけてきました。
「にわかには信じがたいお話ですが、今お話になった所までは、お坊様の考えは正しいような気がします。でも、その先が解せないのです。私たち二人は、どのようにして会っていたのでしょう?そして、なぜ朝になるとお互いの前から消えてしまったのでしょう?」
老僧は、茂蔵が不思議に思うのも無理はないと思いました。老僧にとっても茂蔵の問いに答えるのは少々やっかいでした。
「おそらく、お二人の『会いたい』という思いが、この世の間の壁に抜け道を作ったのじゃろう。そして、お前さんたち二人は、そうとは気づかないままに、夕方になると『わしの生まれたこの世』にやってきては逢瀬を重ねたが、営みが済んで二人とも寝てしまうと、眠っている間にそれぞれのこの世に戻っていたんじゃろう」
老僧は、そこでまた一度言葉を切りました。
「さて、ここからがややこしい話になるのじゃ。二人には同じことが起こっていたのじゃが、茂蔵さんの目から見た話をさせてもらおう」
老僧は更にもう一度言葉を切ってから続きを始めました。
「茂蔵さんは、夕方『わしの生まれたこの世』に来てはお雪さんに会っていた。そして夫婦の営みが済んで、寝ている間に『茂蔵さんが生まれたこの世』に帰っていたのじゃ。もちろん、『茂蔵さんが生まれたこの世』には、もうお雪さんはいない。しかし、茂蔵さんは、前の日の夕方から次の朝までの間に、ほとんど違いの無い二つのこの世を往来してきたことなど知る由もない。だから、茂蔵さんの目には、お雪さんが夕方にやってきては、目が覚めるといなくなっているように見えた訳じゃ。それと同じことがお雪さんにも起こっていた訳じゃが、お雪さんには逆のことが起こっているように見えたのじゃ」
「つまり、私の目から見ると、茂蔵さんが、夕方にやってきては、目が覚めるといなくなっているように見えたわけですね」
老僧の言葉を、お雪はきちんと飲み込めたようでした。
「その通りじゃ」
老僧がそう言うと、茂蔵が次の問いを投げかけてきました。
「もう一つ、お聞きします。私たちが、昨日は、朝が来ても、元いたこの世に戻らなかったのは、朝まで寝ないでいたからでしょうか?だとしたら、その後寝てしまったのに、今もここに留まることができているのは何故でしょう?」
「うむ、それは良く分からんな。お前さんたちが昨日の朝になっても元のこの世に戻らなかったのは、たぶん寝なかったからであろう。今もここに留まっていられるのは、昨日、朝から晩まで一日一緒に過ごすことによって互いを思う気持ちがより強くなったからかも知れんし、何か別の力が働いたのかも知れん」
「私たちは、これからどうすればよいのでしょう」
少し不安げにお雪が呟きました。
「ここで仲良く暮らせば良いじゃろう。ただ、お互いのことを思う気持ちを強く持ち続けることじゃな。その気持ちが弱まれば、それぞれが生まれたこの世に戻ってしまうこともあるかもしれん」
「分かりました。肝に銘じます」
茂蔵は強く言い切りました。お雪はそれを聞いて小さく頷きました。
一晩泊っていっては?という誘いを断り、老僧は二人の家を後にすることにしました。
その前に、もう一度、家の裏手に眠る二人のためにお経を挙げたいと老僧が言うと、茂蔵とお雪もついてきました。
三人で亡くなった二人の冥福を祈った後、老僧は茂蔵とお雪に頼みごとをしました。
「わしは年老いた旅の僧故に、もう、この二人の供養をすることはできまい。済まぬが、わしに代わって時おり二人に花でも手向けてやってはくれまいか?」
「もちろんです」
茂蔵とお雪は揃って答えました。
それから茂蔵は自らの思いをこう伝えました。
「このお二人は、私とお雪にとって恩人のような気がするのです。私たち二人が『会いたい』と願っただけでは、私たちは会えなかったのではないでしょうか。『自分たちの代わりに、私たちにここで幸せになって欲しい』、お二人がそう願って、私たちをここに導いてくれた。お坊様のお話を聞いてから、私にはそう思えてきました」
「私もです」
お雪も茂蔵と同じように考えていました。
『そうかもしれない』、老僧も思いました。そうして、老僧はもう一度二人に向かって手を合わせました。
その後、茂蔵とお雪の二人はいつまでも幸せに暮らしました。
おしまい
後書き
「和風恋愛ファンタジー×パラレルワールド」の本作、如何だったでしょうか?少々分かりにくい作品に最後までお付き合い頂きありがとうございます。感想などお聞かせ頂ければ幸いです。
いつかはパラレルワールドの作品を書いてみたいと長年思っていましたが、ようやく実現しました。「和風恋愛ファンタジー×〇〇」というテーマをもらったことがきっかけで、古典的怪談とパラレルワールドの掛け算という、自分でも思いもしなかったアイデアが浮かびました。
まだまだ、未熟な私ですが、今後とも私の拙い作品に目を通して頂ければ幸いです。
昔々、ある山里の村の外れに、一軒だけポツンと離れて建つ小さな家がありました。
その家の主は、茂蔵という名の若者で、猟師を生業としていました。茂蔵にはお雪という美しい妻がいました。
二人はとても夫婦仲が良く、幸せに暮らしていました。ところがある時、二人は揃って流行り病に罹ってしまいました。
二人は共に、食べ物もろくに取ることもできないまま、高いに熱にうなされ続けました。そんな中でも二人は、どうにか声を絞り出してお互いに励まし合いました。
ある朝、茂蔵が目を覚ますと、熱がすっかり下がっていました。茂蔵は嬉しくなり、隣に眠るお雪の方に顔を向けて声を掛けました。しかし、何度呼び掛けても、お雪は一向に目を開けませんでした。
茂蔵は不安になりました。布団から体と起こし、お雪の額に触れてみました。悲しい程に冷たい肌触りでした。茂蔵が目を覚ます前に、お雪はもう息絶えていたのです。
茂蔵は泣きました。泣いても泣いても、涙はいつまでも枯れませんでした。
まるで自分の体の半分を切り取られて失ったような悲しみから、茂蔵はいつまでも抜け出すことができませんでした。
しかし、茂蔵はずっと泣いてばかりはいられませんでした。お雪の亡骸をきちんと葬ってあげなければ、お雪も成仏できないだろうと思ったからです。
そこで、茂蔵は家の裏手に穴を掘り、そこにお雪の亡骸を葬りました。そうして、お雪を埋めた所に、いくつか石を積んで小さな石塔を建てました。
そもそも病み上がりの上に、お雪を失くした悲しみの中で埋葬を終えた頃には、茂蔵はすっかり疲れ切っていました。気力を失った茂蔵は、部屋に上がると床に崩れ落ち、そのまま深い眠りに落ちてしまいました。
寝ている間に、茂蔵は夢を見ました。しかし、翌朝、目を覚ました時、茂蔵はそれがどんな夢だったか思い出せませんでした。
でも、茂蔵は、夢の中で誰かが自分に語り掛けていたような気がしました。『生き続け、強く願えば、また、お雪に会える』、そんなことを言われていたような気がしました。
茂蔵は、その朧げな夢の中の言葉にすがることにしました。
『生き続けないことには、またお雪には会えない』、それならばと、茂蔵はまた猟に出かけことにしました。そうして、折に触れて願いを掛けました。
猟の途中、空を見上げては願いました。お雪が立っていた台所を見ては願いました。お雪の機織りの道具を見ては願いました。日々の暮らしの中で、お雪の面影が浮かぶ度に茂蔵は願い続けました。
そんな風にして数日が過ぎましたが、お雪は一向に茂蔵の前に姿を現しませんでした。
まだお雪が生きていた頃、茂蔵は、夕方に猟から帰り、家に明かりが点いているのを見ると静かな気持ちになったものでした。
ですから、茂蔵は、夕方、家に明かりが点いていないかと思いながら家路を辿ることが常になりました。しかし、七日が過ぎても、猟から戻る度に、茂蔵を待っていたのは明かりの消えた暗い家でした。
そんな虚しい日々が八日目にもなると、夢の中の言葉にすがった自分が愚かだったのかと茂蔵は思い始めました。
しかし、猟の帰り、家の傍まで来た茂蔵は、何とも言えない思いで胸が一杯になりました。喜びと驚き、そして、少しの恐れが入り混じった不思議な気分でした。
猟を終えて帰りついた家には明かりが点っていました。
茂蔵は少し戸惑いながら家の戸を開けました。
お雪がそこにいました。
茂蔵を見たお雪は少し驚いたような顔をしていました。
「おかえりなさい」
茂蔵を迎えるいつも通りの言葉にも、どこか慌てた様子が感じられました。
茂蔵も茂蔵で、すぐに言葉が出てきませんでした。
「ただいま」
茂蔵がようやく返した言葉もどこかぎこちなくなっていました。
それから、黙り込んでいたお雪が、我に返ったように口を開きました。
「ああ、もうすぐ夕ご飯ができるから、着替えて待っていて」
亡くなった妻が生きていた頃と同じように夕ご飯の支度をしていたと知り、茂蔵は狐につままれているような気がしました。
故に茂蔵は、お雪に色々と問いたい気持ちになりましたが、問わないことにしました。それらの問いを口にしてしまったら、お雪が消えてしまいそうな気がしたからでした。
夕ご飯の間、茂蔵は取り留めのない話をしてお雪と過ごしました。茂蔵が聞きたいことを聞けないまま無理に話を続けようとしたせいか、夕ご飯のひと時はぎこちなく過ぎてゆきました。茂蔵はお雪に何も聞かず、お雪も自分の身の上に起こったことを口にしようとはしませんでした。
『もしかしたら、お雪は自分が死んだことに気づいていないのかも知れない』、茂蔵は、そのうちそんな気もしてきました。それならばなおのこと、お雪を問い詰めてはいけないと茂蔵は思いました。
そして茂蔵は、何も問わずに、生きていた時と同じようにお雪と向き合おうと心に決めました。その甲斐もあってか、二人の間には少しずつぎこちなさがなくなってゆきました。
夜が更けると、茂蔵はお雪を抱きました。お雪の体は温かく、数日前に感じた冷たい手触りなどどこにもありませんでした。
一度失われた温もりが戻ってきた嬉しさから、茂蔵はつい我を失い、己の欲のままにお雪を強く求めすぎてしまいました。茂蔵は申し訳ないと思いましたが、お雪は嫌な顔はしませんでした。
その後、茂蔵が少し不思議に思うことがありました。恥ずかしがり屋を絵に描いたようだったお雪が、進んで茂蔵を求めてきたのです。それも一度ではなく、繰り返しでした。お雪が生きている頃にはないことでした。
しかし、死ぬ前とは違うお雪の振舞は茂蔵の心の中に不安の種を蒔きました。
『お雪が自分のことを何も語らないまま、こうして俺を求め続けるのは、俺もあの世に連れてゆきたいからでは?』と思い始めたのです。
『この世の者でないお雪と何度も交わっていると、俺もあの世に連れていかれてしまうかもしれない』、芽を出した不安はどんどん大きくなりました。
けれど、そのうち、茂蔵は、そんなことはどうでも良くなりました。『今、この幸せがあれば、次の朝、目を覚ますことが無くても、もう構わない』と茂蔵は思いました。
翌朝、茂蔵が目を覚ますと、お雪の姿はどこにもありませんでした。
前の晩が幸せだった分、茂蔵は深い悲しみに沈みました。猟には出たものの、気持ちが揺れて、一つも獲物を捕らえることができませんでした。肩を落として、夕方、家路につきました。すると家には明かりが点っていました。
お雪も家にいました。しかし、次の朝には、またいなくなっていました。
次の日も、また次の日も、同じことが続きました。
お雪は、もうこの世の者ではないのだから、朝が来れば消えてしまうのは仕方がないと、茂蔵は頭では分かっていました。しかし、朝、目が覚める度に感じる寂しさは耐えがたいものでした。
朝も、昼も、仕事がない時には一日中、茂蔵はお雪と一緒にいたいと思いました。茂蔵はそのことを何度もお雪に伝えそうになりました。しかし、茂蔵がそれを口にすることはありませんでした。
その言葉は、お雪を傷つけるかもしれないし、それを告げることによって、もうお雪には会えなくなるかもしれないと思ったからです。
茂蔵にとって、幸せと悲しみが互い違いにやって来る日々が六日過ぎました。そして、とうとう茂蔵はあることを心に決めました。
夫婦の営みの後、朝が来るまで目を覚ましていようと思ったのです。それはお雪がどのように消えてしまうのか確かめるためではありませんでした。眠らずに起きたままでいれば、お雪は朝が来ても消えないかもしれないと思ったからでした。
お雪が戻ってきてから七日目の夜、茂蔵はお雪には気づかれないようにして、ずっと起きていました。
『この世のものでないお雪が消える所に居合わせたら、恐ろしいことが起こるかもしれない』、そんなことも考えて、茂蔵は少し怖くもなりました。しかし、朝まで起きていようという気持ちは変わりませんでした。
この時の茂蔵は、その先、自分に思いもよらぬことが起こるとは知る由もありませんでした。そうして、八日目の朝がやってきました。
お雪の話
昔々、ある山里の村の外れに、一軒だけポツンと離れて建つ小さな家がありました。
その家にはお雪という若い女が、夫の茂蔵と共に住んでいました。茂蔵は腕の良い猟師で、茂蔵が山に行っている間に、お雪は機織りをして暮らしていました。
二人は夫婦仲も良く、幸せに暮らしていましたが、ある時、二人とも流行り病に患ってしまいました。
ろくに食べることもできず、高いに熱にうなされながら、二人はお互いを思い、声を掛け合いました。
ある朝、お雪が目を覚ますと、熱が下がっているのに気がつきました。たぶん茂蔵の熱も下がっているだろうと思い、体を起こし茂蔵の額に触れると、茂蔵の体はもう冷たくなっていました。
お雪は泣きました。いつまで泣いても、涙は止まりませんでした。
しかし、そのまま泣き続けている訳にはいきませんでした。茂蔵の亡骸が傷む前に葬ってあげなければいけなかったからです
泣きたいのを堪えて、お雪は家の裏手に穴を掘りました。そして、そこに茂蔵の亡骸を収めました。それから、被せた土の上に、いくつか石を積んで小さな石塔を設けました。
それが済むと、お雪には、もう一欠けらの力も残っていませんでした。部屋に入った途端に足がよろけて床に倒れこむと、そのまま眠り込んでしまいました。
眠っている間に、お雪は夢を見ました。しかし、翌朝、目覚めた時、どんな夢だったか思い出せませんでした。
でも、お雪は、夢の中で誰かが自分に囁いていたような気がしました。『生き続け、強く願えば、茂蔵は帰ってくる』、そんな囁きだったように思えました。
お雪は、自分の思い込みかもしれない言葉にでもすがらなければ、生きてゆけませんでした。
『生き続けないことには、また茂蔵には会えない』、自分に言い聞かせて、お雪は機織りをしながら茂蔵を待つことにしました。そうして、日々の暮らしの中で、折に触れて茂蔵の帰りを願いました。
けれど、数日が経っても、茂蔵は帰ってきませんでした。
しかし八日目の夕方、夕ご飯の支度をしていたお雪は、家の外で足音がするのが耳に入りました。
お雪の胸が高なるのと一緒に、少しだけ恐ろしさも芽生えました。
そして、家の戸が開く音がしました。
戸が開くと、茂蔵がそこにいました。
待っていたとはいえ、いざ茂蔵の姿を見ると、やはりお雪は驚いてしまい、すぐに言葉が出てきませんでした。
「おかえりなさい」
お雪は慌てていつも通りの言葉を掛けました。
お雪には、茂蔵の方も言葉に詰まっているように見えました。
「ただいま」
間が開いて返ってきた茂蔵の言葉も、お雪にはどこかぎこちなく聞こえました。
次に何を言ったらいいのか分からなくなり、お雪は一度黙り込んでしまいました。しかし、不意に時間稼ぎの言葉を思いついて、慌ててそれを口にしました。
「ああ、もうすぐ夕ご飯ができるから、着替えて待っていて」
そう言って、とりあえずその場をしのいだものの、お雪は気持ちが落ち着きませんでした。望み通り茂蔵が帰ってきたとはいえ、茂蔵がこの世のものでないことは確かでした。もしかしたら、自分は狸にでも化かされているのかと、ざわついた気分になりました。
だから、お雪は、茂蔵に色々と聞きたくなりました。しかし、聞かないことにしました。聞いてしまったら、茂蔵が消えてしまいそうな気がしたからです。
夕ご飯の間、お雪は世間話をして茂蔵と過ごしました。お雪が聞きたいことを聞けないでいたせいか、話が途切れることも度々でした。お雪は何も問わず、茂蔵も自分のことを話そうとはしませんでした。
『もしかしたら、茂蔵は自分が死んだことに気づいていないのかも知れない』、お雪は、そのうちに、そんなことを考え始めました。それならば余計に、茂蔵に語らせてはいけないとお雪は思いました。
だから、お雪は、何も聞かずに、死ぬ前と同じように茂蔵と過ごすことにしました。そのおかげか、二人の間は少しずつ元通りに近づき始めました。
夜が更けると、お雪は茂蔵に求められました。お雪を抱く茂蔵は力強く、体中に精気がみなぎっていました。
茂蔵は、何かに憑かれたように荒々しくお雪を求めてきました。そのようなことは、それまで一度もありませんでした。
しかし、お雪はそれが嫌ではありませんでした。むしろ、お雪の体は、それまで感じたことのない程の大きな悦びで満ち溢れたのです。そして、お雪はそれまでの自分が崩れ去る音を聞きました。
お雪は、茂蔵が一度ことを済ませ後、ためらうことなく何度も茂蔵を求めました。
この世の者でない茂蔵が、次の日もお雪の傍にいるとは限らないと思うと、そう
せずにはいられなかったのです。
しかし、悦びに浸りながらも、お雪の心の中には不安の染みが広がり始めました。
『茂蔵が自分のことを何も語らないまま、初めに激しく私を求めたのは、私もあの世に連れてゆきたいという気持ちがそうさせたのかも?』と思い始めたのです。
『この世の者でない茂蔵と何度も交わっていると、私もあの世に連れていかれてしまうかもしれない』、不安の染みはどんどん大きくなりました。
しかし、やがて、お雪は、そんなことはどうでも良くなりました。『今、この幸せがあれば、次の朝、目を覚ますことが無くても、もう構わない』とお雪は思ったのです。
翌朝、お雪が目を覚ますと、茂蔵の姿はどこにもありませんでした。
前の晩が幸せだった分、お雪は深い悲しみに襲われました。機織りの仕事も手に着きませんでした。それでも、もしやという思いから、夕ご飯の支度をして茂蔵を待ちました。
夕方、茂蔵は家に帰ってきました。しかし、次の朝には、またいなくなっていました。
次の日も、また次の日も、同じことが続きました。
茂蔵は、もうこの世の者ではないのだから、朝が来れば消えてしまう定めなのだろうと、お雪は感じていました。しかし、朝、目が覚める度に、寂しさがお雪の心を切り裂きました。
『朝も、昼も、もっと茂蔵と一緒にいたい』とお雪は思いました。お雪は何度も茂蔵にそう言いそうになりました。しかし、お雪は言い出せませんでした。言えば茂蔵が傷つくかもしれないし、もう会えなくなるかもしれないと思ったからです。
お雪にとって、幸せと悲しみが波のように寄せ返す日々が六日過ぎました。そして、とうとう、お雪はあることを心に決めました。
交わりの後、朝が来るまで眠らないでいようと思ったのです。それは茂蔵が如何にして消えるのか確かめるためではありませんでした。目を覚ましたままでいれば、茂蔵は朝が来てもいてくれるかもしれないと思ったからでした。
茂蔵が帰って来てから七日目の夜、お雪は茂蔵に分からないようにして、ずっと目を覚ましていました。
『この世のものでない茂蔵が消える所に居合わせたら、怖いことが起こるかもしれない』、そう思うと、お雪は少し恐ろしくもなりました。しかし、朝まで寝ないでいようという気持ちは変わりませんでした。
この時のお雪は、その先、自分に思いもよらぬことが起こるとは知る由もありませんでした。そうして、八日目の朝がやってきました。
老僧の話
昔々、一人の老僧が修行の旅をしていました。老僧は、ある深い山奥の寺に、たいそう美しい仏様があると聞き、是非、お参りしたいと思いました。
老僧が、その寺に向かって歩いていると、村外れにポツンと建つ一軒の家が見えてきました。その家は、昼間だというのに雨戸を閉ざしていて、人の営みが感じられませんでした。
空き家なのかもしれないと思いながら近づいて行くと、僧であるが故に覚えがある嫌な臭いが漂ってきました。老僧は気分が沈みました。その家で不幸があったのだと思わざるを得ませんでした。
家の様子から考えると、家の中で誰かが命を落とし、その亡骸が、弔うものもないまま朽ちていっているのだろうと思えました。『そのままでは、死者も安心して成仏できまい。ささやかでも弔いをしてやるのが、僧の務めであろう』と思い至り、老僧はその家の前で足を止めました。
その家に人がいるとは思えなかったので、老僧は黙って扉を開きました。その途端、嫌な匂いが一気に濃くなりました。僧でもなければ、とても耐えきれずに逃げ出してしまうほどの匂いでした。
家の中に入ると、正面の部屋に、亡骸が二つ、並んで横たわっているのが目につきました。若い夫婦のようでした。
老僧はわらじを脱いで部屋に上がりました。部屋には盗賊に荒らされたような跡もなく、夫婦で争ったような跡もありませんでした。
老僧は一度手を合わせてから、二人の亡骸を調べました。二人の亡骸には傷を負った様子もありませんでした。おそらく二人は、近頃多くの人の命を奪い続けている流行り病で亡くなったのだろうと老僧は思いました。
それから老僧は、二人の亡骸を家の裏手に埋めてあげることにしました。穴を掘って二人の亡骸を収めた後、近くから石を集めて、それぞれのために一つずつ、合わせて二つの石塔を建てました。
その後、お経を挙げようとしましたが、二人の名前も分からないままでは十分な供養ができないような気がしました。
そこで老僧は、家の中に何か二人の名前を知る手掛かりはないか調べてみることにしました。家の中に入ったものの、目立つところに手掛かりは有りませんでした。そこで老僧は、少し後ろめたい気もしましたが、箪笥を開けてみることにしました。
箪笥の一番上の小さな引き出しを開けると、都合の良いことに夫婦の名前が書いてありそうな書付がみつかりました。老僧が思った通り、そこには夫婦の名前が書いてありました。
夫の名前は「茂蔵」、妻の名前は「お雪」でした。
三人の話
茂蔵とお雪の弔いを終えた後、老僧は無事に山奥のお寺に着き、お目当ての仏様を拝むことができました。
しかし、老僧は、旅の疲れからか体を壊してしまいました。『寺でゆっくり体を休めてから、また旅を続けては?』と寺の住職に勧められ、老僧はその言葉に甘えることにしました。
そのため、老僧が来た道を引き返し、茂蔵とお雪の家の辺りまで戻ってきたのは、二人を葬ってから、九日目のことでした。
老僧は、もう一度お経を挙げてゆこうと思いながら歩いてきましたが、茂蔵とお雪の家が見えた時に少し驚きました。雨戸が全て開いていて、縁側に男と女が並んで腰を降ろしているのが遠目に見えたからでした。
老僧は、夫婦の親戚が後始末に来たのだろうと思いました。それならば、二人を葬ったいきさつを伝えなければなりませんでした。
しかし、更に家に近づいた時、老僧はひどく驚きました。縁側に座っていたのが、九日前に自分が葬ったはずの茂蔵とお雪だったからです。修行を積んだ老僧でさえ、背筋が寒くなりました。
けれど老僧は、恐れてばかりいてはいけないと思いました。もし、自分のお経が十分ではなく、二人が成仏できずにこの世を彷徨っているのだとしたら、なんとしても、きちんと送り出してあげなければならないと感じたからです。
老僧が恐る恐る家に近づくと、茂蔵が声を掛けてきました。
「これはこれは、お坊様。修行の旅の途中でいらっしゃいますか?ありがたいことでございます。何のおもてなしもできませんが、お茶でも召し上がって、少々お休みになっていっては如何でしょうか?」
「是非、そうしてくださいませ」
老僧はお雪にも誘われました。
老僧は二人の誘いを受けることにしました。
「これはかたじけない。ではお言葉に甘えさせていただこう」
老僧は礼を言って二人の隣に腰を降ろしました。
「では、お茶をお持ちしますから、しばらくお待ちください」
お雪は言いながら台所の方に向かいました。
老僧は、腰を降ろしたものの気持ちが落ち着きませんでした。何が起こっているのか見当もつかなかったからです。
確かめたいことが頭に浮かぶと、老僧は、もうじっとしていられず、茂蔵に尋ねました。
「お茶が入るまでの間、少々この辺を歩かせてもらっても構わんかな?」
「どうぞ、お好きなようになさってください」
老僧の頼みに茂蔵は笑顔で応じました。その顔には成仏できていない幽霊の憂いなど欠片もないように見えました。
老僧は、かつて成仏できずに彷徨っていた死者の魂を、あの世に導いたことがありました。その時のことを考えると、老僧には茂蔵とお雪は幽霊のようには見えませんでした。
縁側から立ち上がると、老僧は家の裏手に回りました。自分が二人を埋めた所がどうなっているのか確かめたかったからです。
そこには確かに自分が建てた二つの石塔がありました。二人を葬った場所は九日前とまるで変っておらず、埋められた二人が土中から這い上がってきた様子などありませんでした。
茂蔵とお雪の二人は、幽霊でも、這い上がってきた亡骸でもないと、老僧は思わざるを得ませんでした。老僧の心の中にわずかに残っていた恐れは消え去りましたが、裏腹に謎は更に深まることになりました。
一体何が起こっているのだろうかと考えながら老僧が縁側に戻ると、ちょうどお雪がお茶を持ってきたところでした。老僧が腰を降ろすのを待って、お雪はお茶を差し出しました。
「どうぞ、お召し上がりください」
「かたじけない」
老僧が一口茶を啜った所で茂蔵が語り掛けてきました。
「お坊様、見ての通りここはひどい田舎で、世間の話があまり流れてこないのでございます。お坊様が旅の途中で見聞きした面白いお話などありましたら、是非、お話しいただけませんでしょうか?」
「私も、聞きとうございます」
お雪もそう言って茂蔵の隣に腰を降ろしました。
老僧は、こちらから『不思議なこと』こととして話を切り出す良い機会かもしれないと思いました。もちろん、いきなり『お前たち二人の亡骸を自分が葬った』という話をするのは避けて話を始めました。
「実は、面白いというよりは不思議なできごとがございましてな」
「ほう、どういったことでしょう?」
茂蔵が聞いてきました。
「実は、わしは九日程前にここを通ったのじゃが、その時に、お二人にお会いしたような気がするのじゃ。もちろん、お二人には今日初めて出会ったのじゃが」
「はて、それは不思議なことでございますね」
そう言ってきたのはお雪の方でした。
「どうも、わしはお二人とは不思議な縁があるように思えてならないのじゃ。もしかして、お二人にも近頃、不思議なことが起こったりしておらぬじゃろうか?」
「いいえ、何もございません」
答えた茂蔵の言い様には何かを隠しているような気配が有りました。
「ええ、何もそのようなことは」
お雪の言葉にもどこか後ろめたさが感じられました。
老僧は、二人が気分を悪くしても二人から話を聞き出そうと決めました。そうしなければいけないような気がしたのです。
「本当に何もなかったんじゃろうか?もし、お二人に何かあったとしたら、それをそのままにしておくと、大変なことになるかもしれず、心配なのじゃ。わしがそう感じるのは御仏の思し召しと思い、話してはくれんじゃろうか?」
老僧の話を聞いて、茂蔵とお雪は一度顔を見合わせましたが、なぜか戸惑った様子で目を逸らしてしまいました。相手に何かを言おうとしたが言えなかった。老僧にはそう見えました。
もう一度、頼んでみようと思った時、茂蔵が重い口を開きました。
「わかりました。お話いたしましょう。これは、まだお雪にも話していなかったことでございます」
茂蔵は、そう言って話を切り出すと、前の晩までに自分の身に起こったことを全て話しました。そうして、その後にこう付け加えました。
「七日目の夜からずっと寝ないでいたら、八日目の朝になってもお雪は消えませんでした。私は嬉しくなって仕事を休み、一日中お雪と一緒に過ごしました。夜寝る前は、またお雪が消えてしまいはしないかと不安になりましたが、いつまでも寝ない訳にもいきません。仕方なく眠りにつくと、夢の中で『大丈夫、お雪はもう消えたりしない』と誰かに言われたような気がしました。でも、言っていたのは私自身だったような気もしました。そうして、今日、九日目の朝が来てもお雪は消えず、お昼過ぎになってお坊様がお見えになったのです」
老僧はその話にとても驚きましたが、お雪の方が自分よりも驚いているように見えました。
「その様子からすると、お雪さんにも不思議なことがあったようなじゃ?」
「はい、ございました」
先に茂蔵が話をしたので気が楽になったのか、お雪もあったことを全て話しました。話し終えると、茂蔵とお雪は互いの顔を言葉もないままに見つめ合いました。
老僧は二人の話の大事な所を確かめることにしました。
「さて、茂蔵さん。お前さんは夫婦ともに流行り病に倒れたが、自分は生き残り、お雪さんが亡くなったと言うのじゃな?」
「はい、そうでございます」
「お雪さん、お雪さんは反対に自分が生き残り、茂蔵さんが亡くなったと言うのじゃな?」
「ええ、そう申しました」
「そうか、不思議な話じゃな。だが、不思議な話はそれだけではないのじゃ。ちょっとついてきてくれんかな?」
老僧は立ち上がると二人を家の裏手に連れてゆきました。
石塔が二つ建っているのを見て茂蔵とお雪は驚きました。
「茂蔵さん、お雪さん。お二人に同じことを尋ねるが、自分たちの家の裏手には石塔は一つしかなかったであろう?」
茂蔵とお雪は言葉も出ず、老僧の言葉に頷くだけでした。
「さて、これからわしの言うことを驚かずに聞くんじゃ。良いか、あの二つの石塔は九日前、私がお前さんたち二人の亡骸を埋めた所に立てた物なんじゃ」
信じがたい話を聞かされた茂蔵とお雪は、しばらく何も言い出せませんでした。少しして、茂蔵が恐る恐る老僧に尋ねました。
「お坊様、もしかしたら、私たちは共に、自分が生き残ったと勘違いしていただけで本当は二人とも死んでいて、私たち二人は、今、あの世にいるのでしょうか?」
「いや、そうではあるまい。お二人は幽霊のようには見えないし、地中から這い上がってきた亡骸でもない。何か別の不思議なことが起こっているようじゃな」
老僧がそう言うと、茂蔵が助けを求めてきました。
「お坊様、私どもとは違って、お坊様には学問がお有りでしょう。どうか私どもにも分かるように、お坊様のお考えをお聞かせいただけませんでしょうか?」
「いや、わしとて、まだ、何が起こっているのか、分かっていないのじゃ。少し時をくれぬか?」
「もちろんでございます」
茂蔵がそう答えた後、三人は縁側に戻りました。
縁側に戻ってしばらく考えた後、老僧は自分の考えを茂蔵とお雪に話すことにしました。
「さて、では、わしの考えを話すとしよう。だが、これは悪までも、こう考えればわしら三人の話の辻褄が合うというだけで、今の学問で証が立てられるといものではないのだ。だから、わしの考えが正しいかどうかは分からぬ。それでも良いかな?」
「はい、もちろんでございます」
茂蔵の答えには気を張った様子が見られました。
「では、話すとしよう。まず、お二人はあの世とこの世があることは知っておるな」
「はい」
茂蔵とお雪は揃ってそう答えました。
「まだ修行の足らんわしには、あの世のことはよく分からんが、どうやら、この世は一つではないようじゃな。少なくとも、この世は三つあるようじゃ」
「三つと申しますと?」
茂蔵が恐る恐る口を挟みました。
「そうじゃな。三つというのは『茂蔵さんが生まれたこの世』、『お雪さんが生まれたこの世』、そして『わしが生まれたこの世』のことじゃ。そして、これら三つのこの世は、ほとんど違いの無いものだったようじゃ。どのこの世にも茂蔵さんとお雪さんがいて、二人はどのこの世でも同じように夫婦になったのじゃ。ところが、それぞれのこの世で茂蔵さんとお雪さんのお二人が流行り病に罹った後、三つのこの世の時の流れはそれぞれ別の方に向かったようじゃな。『茂蔵さんの生まれたこの世』では、茂蔵さんが生き残り、お雪さんが亡くなった。『お雪さんが生まれたこの世』では反対に、お雪さんが生き残り、茂蔵さんがなくなった。そして、『わしが生まれたこの世』では茂蔵さんもお雪さんも二人とも亡くなったのじゃ」
老僧がそこで一度話を止めると、茂蔵は自分の考えを伝えると共に、問いを投げかけてきました。
「にわかには信じがたいお話ですが、今お話になった所までは、お坊様の考えは正しいような気がします。でも、その先が解せないのです。私たち二人は、どのようにして会っていたのでしょう?そして、なぜ朝になるとお互いの前から消えてしまったのでしょう?」
老僧は、茂蔵が不思議に思うのも無理はないと思いました。老僧にとっても茂蔵の問いに答えるのは少々やっかいでした。
「おそらく、お二人の『会いたい』という思いが、この世の間の壁に抜け道を作ったのじゃろう。そして、お前さんたち二人は、そうとは気づかないままに、夕方になると『わしの生まれたこの世』にやってきては逢瀬を重ねたが、営みが済んで二人とも寝てしまうと、眠っている間にそれぞれのこの世に戻っていたんじゃろう」
老僧は、そこでまた一度言葉を切りました。
「さて、ここからがややこしい話になるのじゃ。二人には同じことが起こっていたのじゃが、茂蔵さんの目から見た話をさせてもらおう」
老僧は更にもう一度言葉を切ってから続きを始めました。
「茂蔵さんは、夕方『わしの生まれたこの世』に来てはお雪さんに会っていた。そして夫婦の営みが済んで、寝ている間に『茂蔵さんが生まれたこの世』に帰っていたのじゃ。もちろん、『茂蔵さんが生まれたこの世』には、もうお雪さんはいない。しかし、茂蔵さんは、前の日の夕方から次の朝までの間に、ほとんど違いの無い二つのこの世を往来してきたことなど知る由もない。だから、茂蔵さんの目には、お雪さんが夕方にやってきては、目が覚めるといなくなっているように見えた訳じゃ。それと同じことがお雪さんにも起こっていた訳じゃが、お雪さんには逆のことが起こっているように見えたのじゃ」
「つまり、私の目から見ると、茂蔵さんが、夕方にやってきては、目が覚めるといなくなっているように見えたわけですね」
老僧の言葉を、お雪はきちんと飲み込めたようでした。
「その通りじゃ」
老僧がそう言うと、茂蔵が次の問いを投げかけてきました。
「もう一つ、お聞きします。私たちが、昨日は、朝が来ても、元いたこの世に戻らなかったのは、朝まで寝ないでいたからでしょうか?だとしたら、その後寝てしまったのに、今もここに留まることができているのは何故でしょう?」
「うむ、それは良く分からんな。お前さんたちが昨日の朝になっても元のこの世に戻らなかったのは、たぶん寝なかったからであろう。今もここに留まっていられるのは、昨日、朝から晩まで一日一緒に過ごすことによって互いを思う気持ちがより強くなったからかも知れんし、何か別の力が働いたのかも知れん」
「私たちは、これからどうすればよいのでしょう」
少し不安げにお雪が呟きました。
「ここで仲良く暮らせば良いじゃろう。ただ、お互いのことを思う気持ちを強く持ち続けることじゃな。その気持ちが弱まれば、それぞれが生まれたこの世に戻ってしまうこともあるかもしれん」
「分かりました。肝に銘じます」
茂蔵は強く言い切りました。お雪はそれを聞いて小さく頷きました。
一晩泊っていっては?という誘いを断り、老僧は二人の家を後にすることにしました。
その前に、もう一度、家の裏手に眠る二人のためにお経を挙げたいと老僧が言うと、茂蔵とお雪もついてきました。
三人で亡くなった二人の冥福を祈った後、老僧は茂蔵とお雪に頼みごとをしました。
「わしは年老いた旅の僧故に、もう、この二人の供養をすることはできまい。済まぬが、わしに代わって時おり二人に花でも手向けてやってはくれまいか?」
「もちろんです」
茂蔵とお雪は揃って答えました。
それから茂蔵は自らの思いをこう伝えました。
「このお二人は、私とお雪にとって恩人のような気がするのです。私たち二人が『会いたい』と願っただけでは、私たちは会えなかったのではないでしょうか。『自分たちの代わりに、私たちにここで幸せになって欲しい』、お二人がそう願って、私たちをここに導いてくれた。お坊様のお話を聞いてから、私にはそう思えてきました」
「私もです」
お雪も茂蔵と同じように考えていました。
『そうかもしれない』、老僧も思いました。そうして、老僧はもう一度二人に向かって手を合わせました。
その後、茂蔵とお雪の二人はいつまでも幸せに暮らしました。
おしまい
後書き
「和風恋愛ファンタジー×パラレルワールド」の本作、如何だったでしょうか?少々分かりにくい作品に最後までお付き合い頂きありがとうございます。感想などお聞かせ頂ければ幸いです。
いつかはパラレルワールドの作品を書いてみたいと長年思っていましたが、ようやく実現しました。「和風恋愛ファンタジー×〇〇」というテーマをもらったことがきっかけで、古典的怪談とパラレルワールドの掛け算という、自分でも思いもしなかったアイデアが浮かびました。
まだまだ、未熟な私ですが、今後とも私の拙い作品に目を通して頂ければ幸いです。