「なんで最近避けてんの」


目が合ったら逸らす。姿を見かけたら逃げる。やむを得ず接するときのやり取りは最低限。連絡は無視。何度来ても無視。もちろん、電話にも出ない。繋がりのあるSNSは一切更新しないし反応もしない。

避けていないよ、とたった一言を返すには、心当たりがありすぎた。

放課後、誰もいない廊下。不機嫌を顔にも声音にもありありと押し出して、進路を塞ぐ橋立くんからじりっと一歩後退ると、すかさず伸びてきた手がわたしの腕を掴んだ。


「に、逃げないから、離して」
「無理」
「逃げても、橋立くんの足には勝てないってわかってるから……だから、大丈夫。離してほしい」


逃げるつもりは本当になかった。男女だし、体格差もある。力の加減は知っているはずなのに、橋立くんの手はわたしの腕が軋むほど、ぎゅうっと強く握られていた。痛みに顔をしかめながら懇願すると、橋立くんはハッとして手を解く。

じんと痺れる腕を無意識に摩ると、橋立くんは唇を引き結んで眉根を寄せた。そんな顔しなくても平気だと伝えてあげたいのに、彼の不安や心配を和らげることよりも、口をききたくない一心が勝る。


「避けてんの、おれのせい?」


俯くと、橋立くんのお腹から下しか見えない。スラックスの端を巻き込んでかたく握りしめた拳が震えていた。その手を包みたいと思ってしまうのが嫌で、もう、瞳を閉じてしまう。


「橋立くんのせいじゃないよ。断じて、本当に、それだけは間違いない」
「避けてたのは認めるってこと?」
「……それは、事実、だから。ごめんね、連絡も返さなくて」
「いいよ、今それは。おれがききたいのは、理由だから」


これはきっと、避けていたことを謝っても橋立くんの気が済まない。何も言わずに避け続けたツケが回ってきたのだ。避けてしまえば橋立くんは踏み込んでこないだろうと高を括っていた。そもそも、わたしが橋立くんを遠ざけたきっかけだって、気にとめていないものだと思っていた。

たとえこうして詰められたとしても、橋立くんのせいなんかじゃなくてわたしの問題だからってきっぱり言えるって、言わなきゃいけないって、決めていたのに。

苦しいとか、こわいとか、不安とか、つめたいとか、痛いとか、これまでもこれからも出会う感情の中に、ぽつんと佇んで消えたくないと叫ぶ星のような、橋立くんに与えられた心があった。

きっと、橋立くんの中にも、わたしがいる。


「おれのこと、好きになってくれたと思ったんだ」
「……そんなこと、ないよ」
「うそだ。好きだよ、朝木さんはおれのこと。だってあの日、笑ってた」
「あの日って」
「先月の終わりごろ。ふたりで帰ったとき」


いつの間にか、閉じていた目を薄らと開けていた。橋立くんの手はわたしの手を握っていた。やさしく、触れていた。

橋立くんの言う、あの日の失態をわたしはどうにか拭いたかった。笑ったのだ。ただ、それだけ。でも、わたしはずっと笑えなかったから。笑わなかったから。笑顔が何を示すのか、橋立くんは他の誰よりも、知っていたはずだ。


「朝木さん、聞いて 」
「いやだ、きかないし、言わない。知らない!」
「知ってるでしょう。朝木さんが、いちばん」


振り払うと、橋立くんの手はあっさりと離れた。安堵するのに、寂しいと感じてしまう。相反するのが、恐ろしかった。自分の心なのに、従いたくない。ふたつに分裂したところで、わたしの体はひとつしかない。今も過去もわたしのものにしかならない。


「おれは、優しいだけじゃないから。今まで言わなかったけど、はっきり伝える方が朝木さんのためにもなるって、勝手にそう思ってる」
「いわないで、お願い。本当はわかってるから、ぜんぶ」
「わかっていても避けるなら他人の言葉が必要だよ」
「い、いらない。いらないの、まだ……」


勢いはない、激しさもない。ただゆっくりと、真綿で首を絞めるように橋立くんは言葉を紡いだ。一言が、一文字が、宙に霧散するように見せかけてその実収束していく。

そうして、綻んだ。まだ、と口にした瞬間、橋立くんはわたしの顔を覗いた。瞳が至近距離にある。だから、気付けた。でも、わからなかった。いつから、泣いていたのか。


「……美陽(みよ)ちゃん」


泣きそうなわたしを映す瞳で、切なさを織り交ぜた声で、何よりも誰よりも愛しい人の名前を紡ぐように、名前を呼ぶ。

わたしも、そうだった。世界で一番愛しい人の名前を呼ぶとき、同じ音を放っていた。どうしてだろう。声の質も高さも違うのに、愛しさを含んでいると気付くのは。わたしが解ききれなかった問いに、いつか誰かは答えを見つけるのだろうか。見知らぬその人の持つ愛は、わたしのものよりも、深いだろうか。だとしたら、わたしはその愛に至る前に大切な“彼”を失ってしまった。





心の底から、愛した人がいた。中学生のころのことだ。幼い身に余るほどの昂りに支配されていたときもあった。思いの丈をぶつける手立ての最上を肉体的な触れ合いだと信じて疑わなかったとき、本気で止めてくれた感謝を、自分の行いの浅慮さを、伝えられなかったのも思い知ったのも、彼がいなくなったあとだった。

放課後は一緒に帰るけれど、朝は委員の仕事があるからと別々に登校していた。彼が事故に遭ったのが夜だったのなら、わがままで引き止めたあの数分がなければと悔やんだだろうか。

朝の静かな住宅街に鳴り響いた救急車やパトカーのサイレン。この先の道を塞いでいるのなら、別の道を通ろうかと迂回したせいで、彼の死を知ったのは、数時間後だった。道を変えずにいたら、さいごに会うことができたのだろうか。ぞわりと背筋が粟立って道を変えようと決めたのはもしかしたら、彼が血まみれの姿を見せないように示してくれたのかもしれないと、都合のいいようにも考えた。

わたしの世界から彼が消えても、否応なしに明日はやってくる。わたしと彼の関係を知っている人の反応は様々だった。何でもないように接する人もいれば、腫れ物に触るように慎重に言葉や態度を選ぶ人もいた。実際、ほんの些細なことで泣いたり塞ぎ込んだりとする日々が随分続いた。

友人と呼べる人がその一件で減ったのは確かで、遠くの高校に進学したのも、顔見知りが少ない方が良かったから。

唯一の同じ高校に来た橋立くんは、小学校から一緒で、地区は違うけれど家も近い。幼いころはよく遊んでいた。彼のこともよく知っている。

高学年や中学生にもなると、敢えて名字に呼びかえる人もいる中、橋立くんはずっと、わたしを美陽ちゃんと呼んでいた。

『朝木さん』と呼ぶようになったのは、わたしがそう頼んだからだ。

忘れていくのが怖かった。彼の声もぬくもりも姿も匂いも感触も、少しずつ波にさらわれる砂のように、薄れていく。『美陽』と呼ぶ声を思い出せなくなっても、他の誰かに不意に呼ばれることはあっても、僅かでも、彼に与えられたものを残しておきたかった。

片道二時間の通学。わざわざそうしなくても一緒に登校することになる。同じ電車から同じ車両、同じ座席の端と端から隣合うようになって、話をすることも増えた。もともと仲が良かったこともあり、学校でも一緒に過ごす時間はあるし、それ以外の時間に連絡を取り合うことも少しずつ増えていった。

頭の中に、心の中に、彼のいない時間が増えていく。その空白にふと寂しさが満ちる前に、橋立くんが居てくれた。肩が触れ合うとき、そのぬくもりを心地好いと感じる。帰りの電車の中で眠ってしまった橋立くんの寝顔が可愛らしいと思う。どうしても、彼を思い出してしまうとき、前触れもなく涙がこぼれたとき、連れ出してくれた手を握り返した。


そして、あの日。

眠そうな目を擦って、暖房の効いた電車を降りて寒空の下を歩く最中、どちらからともなく繋いだ手を、離したくないと思った、そのとき。


『……いま、わらった』


外灯の下で、橋立くんが目を真ん丸くして呆然と呟くから。

わたしはその手を振り解いて、橋立くんから、逃げた。





橋立くんはわたしの顔を覗いたまま、薄く開いた唇から浅く息をしていた。

美陽ちゃん、と呼ばれた声はまだ、その形を保ったまま耳元を揺蕩う。

雪だって、いつかは溶けるから。形あるものはいつか壊れる。声なんて脆いものは、いくつか呼吸する間に崩れてしまう。

なくならないで、まだ、いなくならないでと願う心を聞いたように、橋立くんが口を開いた。


「美陽ちゃんは、他の誰かを好きになっちゃいけない?」


声と同じように、瞳も想いを物語っていた。嘘も揶揄もない。


「まだ、時間が足りない?」
「……ううん」
「美陽ちゃんの気持ちは、ほんの少しもおれに向いていない?」
「ううん」
「誰かを好きになるの、こわい?」


言葉に表せる気持ちで例えようとしたら、いつかは正解を掴むだろう。言葉は無限ではないから。言い表せない気持ちでさえ、どこかは何かに繋がっている。果てのない宇宙を漂うのではなくて、この地に足をつけて生きているのだから。橋立くんと言葉を交わしているのだから。


いちばん近いと思うその問いかけに、小さく、うなずく。


心は、癒えるか死ぬかだ。わたしは死ななかった。あの日、笑えたことが、笑ったことが真実だと思う。

それでも誰かを、橋立くんを好きだと口にするのは怖い。


わたしが答えていないから、橋立くんは黙っていた。

次の質問をされることもない。

橋立くんの輪郭が、瞳の縁が、曖昧になるのは、わたしが今泣いているから。


「わたしの知っているあの愛は、もう、進まない。目に見えないから、形にないから、別のものを知ってしまったら、本当に終わってしまう」


年月も深さも、あの愛を追い越すだろう。

勇気があれば、受け入れられるもの?

覚悟があれば、思い出と割り切れるもの?

時間があれば、彼に還すことができるもの?

どれもきっと正しくて、どれもきっと足りない。


愛を説くには早すぎたのだと言われてしまえば、その通りなのだと思う。でもあれが愛だと気付いてしまった。そしてそれを持ち合う相手を、永遠に失ってしまった。


「わたしの人生でいちばんだって信じたあの愛を、一生に一度だって信じた人を、明け渡すのはこわいよ」


言葉にしてからほんの少し、心をぎゅうぎゅうに縛っていたものが緩んだ気がした。心に際限はない。彼を置いたまま、橋立くんと一緒にいることはできる。でもそれが、いつかまた波のように砂を入れ替えて、気付かぬ間にすり変わってしまうのではないかと恐ろしくなる。時間の波は阻むことができなくても、橋立くんを避けることはできる。


「おれは、美陽ちゃんのことが好きだよ」
「っ、ねえ! きいてた? わたしの話……」
「ごめん。正直、いらついてるところもある。おれのこと避ける時点で美陽ちゃんもそうだって言ってるようなものなのに。それでも怖いって言うなら、避けるんじゃなくておれに話してほしかった」
「そんなの、なんて言えばよかったの? す、すきに、なるの、怖いなんて、それこそ本人に言えるわけないのに!」
「言葉にするまでは好きじゃないとか思ってる? 美陽ちゃん、一人で何でもできるしわざわざ人と関わりにいかないのにおれのところには来てくれたり、手繋いでも解かなかったり、顔にも出てるし嬉しそうなのわかるし、認めたくなくて避けてるの丸わかりなんだよ。こうするしかないだろ」


どちらも引けずに言葉を交わす途中で思いきり顔を背けたから、橋立くんは屈んでいた背を伸ばしてわたしを見下ろしていた。また顔は見えなくなったけれど、たぶん、いや絶対に怒ってる。

居た堪れずに、もう痛みはない腕をぎゅっと握る。

この空気で、帰りの電車も同じなことをふと思い出して深く息を吐いたとき、橋立くんもふうっと大きく息をしていた。


「今日、何が何でも美陽ちゃんに認めさせようとか、口にさせようとか、思ってないから安心して」
「それは……よかった」
「適当な返事してるけど、まだ話すから。とりあえず駅行こう。次の乗り遅れたら途中乗り換えになる」
「いいよ、先に行って。わたし後から帰る」


乗り換え程度、この話と空気が続くことに比べたら安いものだ。わざと壁側に向いて背中を見せると、橋立くんは苛立ったように強引にわたしの手を掴む。冷静さは欠いていないようで、掴む手は優しい。


「美陽ちゃん」
「……その、名前も、呼ばないでって」
「話逸らすのも下手。いいよ、おれは別にここで話をしても。遅くなっても家まで送るだけだし」
「陽真くん」
「……は?」


ぽろっと掴まれた手が落ちる。その手を途中で捕まえて握り直す。

落とさないで、ちゃんと捕まえていてほしい。そんな小さなわがままを、彼には言えていた一言を、まだ口にする勇気はない。


「よ、陽真くんが呼ぶから。仕返し」
「いやそれは、おれは呼んでいいならずっと美陽ちゃんって呼びたかったよ。朝木さんなんて、呼びたくもねえ」
「口、ちょっと悪いんだよね、陽真くん」
「うるせえな」


余裕がなくなると、ほんの少し口が悪くなる。日頃から橋立くんを見ていたからわかる。他のクラスメイトや友人に向けるそれを羨ましく思うときもあったから。


橋立くんの手を顔の高さまで持ち上げる。

両手で包んでも足りない大きな手に額をそっと押し当てた。

顔を見てはまだ、伝えられないから。

でもちゃんと、橋立くんに伝えたいことだから。


「後悔は、ないの。伝えたいことは毎日伝えてた。また明日って約束が叶わなかっただけで、思い出も気持ちも宝物みたいに、きらきらしてる。寂しいとか、会いたいとか、これからも消えない気持ちですら、ちゃんとひとつずつ、なぞっていたい」
「……美陽ちゃん」
「そのかたわらに、陽真くんがいてくれたらいいなって、おもう」


まだ、怖い。

でも、心から。宝物を埋めた心の底から、その気持ちを宿してる。

だから、きっといつか、怖くなくなる日が来る。


「わかった」
「あ、ありがとう……?」
「でも朝木さんには戻らない」
「えっ、あ、でもわたしは」
「どっちでもいーよ」


呼びたくなったら呼んで、とわたしの手を握り直して歩き出した橋立くんに、ふと目に付いた時計が既に電車の定刻を過ぎていることを伝えようとして、名前を呼ぶとぱっと振り向く。その顔が、本当に嬉しそうで、わたしの好きな、陽真くんで。


目を見開いた陽真くんが、つぶやく。


「いま、わらった」


繋いだ手は、そのままに。




【いつか想いをわたす日に。】