八  大団円


 背中をしたたかに打ちつけた桔梗は、痛みに顔をしかめた。
「ああ~」
 嘆声が場を埋め尽くした。
「勝者、角力入道……で、よろしいですか、帝」
 出居はおそるおそる帝を振り仰ぐ。
「いやあ、惜しかったな。うん、面白かった。だが勝者は入道だ」
 まばらな拍手が起こった。
「桔梗、無茶をして」
 片足で跳びながら友成が桔梗のもとに来てくれた。
「勝てなかった……」
「うん。よく頑張ったね」
 桔梗を優しく抱き起こす。
「友成も頑張ったよ。私の誇りだよ」
 近衛府の衣冠も賞金も手に入らなかったが、充分だと桔梗は思った。
 だが父のことだけが心残りだ。これからはこれまで以上に身を粉にして働くしかない。
「帝、そろそろ……」
 取組を終えて宴に進行しようとする蔵人頭を帝はさえぎった。
「もう一度町衆に訊いてみよう。この娘御の勇に触発された者はほかにおらぬのか。角力入道を倒したいと願う者はもういないのか。そうかそうか、では今度こそわ──」
「はあいいいいい!」
 太い手がにょきりと天を指した。
 声のした方を見やり、桔梗はぎょっとした。
 長姉の桜子が立ちあがっていた。
「私がお相手つかまつる!」
 結び紐を解き、十二単をばさりと脱ぎ落とし、単衣になった。顔前の薄布をはずす。結び紐で長い髪を首の後ろでぎゅっと結び、長袴の裾を手で引きちぎる。
「妹の借りは、姉の桜子がきっちり返したいと思います」
 どすん、どすん。桜子は中央で四股を踏んだ。
「さあ、いざ勝負!」
 今度はどこからも桜子を思いとどまらせようとする声は起こらなかった。
「桜子姉さん……」
「頑張れ桜子!」
「ひねりつぶしちゃいなさい!」
 義母と杏子が声援を送ると、徐々に木霊のように声援が拡がった。
 会場中が桜子を応援していた。

 勝負はあっけなくついた。
 桜子の両手首を掴んだ入道は彼女を引き倒そうとした。ところが入道の腕力をものともせず、桜子はひねりを利かせて一歩引いた。逃がすまじと強く引っ張った入道に、桜子は逆らわず、それどころか体重をかけてぶつかった。
 入道はばたんとひっくり返った。
 桜子の完勝である。
「よくやった。桜子」
「さすが姉さん」
 義母と次姉が立ちあがって賞賛する。
 桔梗は友成と支え合いながらなんとか立ちあがった。心から桜子に賞賛を送る。
「桜子姉さんは私の誇りです」
「桔梗が頑張ってくれたから私もやる気になれたのだ。おかげで自分に自信がもてた。礼を言うのはこちらだ」
 義母と次姉もそのとおりだと肯った。
 桔梗は羞恥で体がもぞもぞとなった。思い上がりが恥ずかしかったのだ。
 これまでずっと、自分だけが頑張ればいいと思い込んでいた。役立たずの家族をあてにしてはいけない、自身の不幸を受け入れなければいけない、と自身を叱咤しつつ、家族を見下してきたのだ。
 なんとつまらない考えに陥っていたことか。

「思いの外……力が強いのだな」
 帝の呟きに桜子は単衣の袖で顔を隠しながら答えた。
「だてに十二単は着てませんから」
 十二単は重い。さらに歩きにくく負荷のかかる長袴と裳。あれを普段の暮らしで不自由なく操るにはそれなりの筋力がいるのだ。
「勝者は十条桜子!」
 帝は高らかに宣言した。
「よくやった」
 感極まる義母を見やると、彼女の前には金銭が積まれていた。
「最後に桜子に賭けたら大当たり。ここぞという勝負には強く出なきゃだめよ」

 宴の席では杏子が舞を披露した。
 過剰な装飾を施した十二単で軽々と舞う杏子を、ただ麗しいと評する貴族はいなかった。
「……あれもきっとタダモノではないぞ」
 帝の聖恩を賜り、侍医に診察をしてもらえることになった父はめきめきと回復し、秋には復職することが決まった。十条家の再興である。
 桜子は帝の強い希望で、近衛府に入るか女御として出仕するかを選ぶことになった。女性の近衛兵は先例がないが、麗しい尊顔の帝が「まあ、どっちもそうは変わらぬ。我のそばにおれ」とのたまったので桜子は悩んでいる。
 大の相撲好きの帝は、観覧するだけでなく、直接対戦することもお好きなのだそうだ。相撲の宴で執拗に入道の対戦者を募ったのは、実は自分がやりたくてうずうずしていたからだという。桜子と組み合うのが楽しみだそうだ。
 十二単で軽々と舞った次姉には毎日山のような文が届く。しばらくは時の人となるだろう。
 ついでに角力入道だが、いまでも諸国を渡り歩いているという。『女に負けた』という負の実績に苦労しているという噂だ。相撲興行は人気がある。今日もどこかで力を振るっているだろう。
 桔梗はというと、友成が歩けるようになるのを待っている。夜空を眺めながら、そろそろ来てもいいころだと毎晩考えていた。
「あ……」
 龍笛の音色が近づいてくる。
 修繕しないでおいた築地塀の隙間から、友成が妻問の曲を奏でている。
「早く入ってくればいいのに」
 いざというときに、どうして臆病なのかしら。
 桔梗は、ふと呟いた言葉がいまさらのように恥ずかしく、赤くなった顔を扇で隠した。


                                   ~終幕~