七 挑発
「入道に忠告しておく。女子を辱めることのないよう」
帝の忠告など、入道はどこ吹く風だ。
「胸を触るな、という意味かな」
「衣をむしるな、ということではないか」
「なんにしろ、指一本で、とんと押せば済む」
「抗うほど莫迦な女でないならよいが」
衆人環視の中、半裸に近い格好で化け物に挑む女は莫迦と呼ばれてけっこう。桔梗は腹をくくったのだ。
前傾姿勢で構えを取る桔梗を無視して、入道は地べたにあぐらをかいた。
「少し疲れたな。嬢ちゃん、肩でも揉んでくれんか」
「な……っ」
「ふむ、このほうがいいかな」
腹ばいになって桔梗を挑発する。そんな入道の滑稽な仕草を見て、観衆は腹を抱えだした。
入道の意図は明白だ。女など相手にならないと侮っているのだ。
「ほら早くせんかい」
入道を裏返せば桔梗の勝ちだが、牛車を牽くよりはるかに重いだろう。
どうしたらよいのか。
「おや、肉厚な畳だ」
桔梗は入道の大きな背中にあぐらをかいて座った。
「なにをするか、無礼者め」
怒った入道が体を起こした。
「おおっ!」
観客が息を飲んだ。桔梗が転がり落ちそうになったからだ。地面に背中がつけば、桔梗の負けだ。
すんでのところで桔梗は回避した。
入道が立ちあがる。
にらみあった。ようやくこちらを向かせることができた。勝負はここからだ。
「あの嬢ちゃん、やる気だよ」
「無謀だ」
「身の程知らずめ」
桔梗は充分な間合いを取った。掴まれたら一瞬で終わる。
防戦に見せかけておいて、入道の巨大な手を避け、素早く股の下をくぐった。
「おお?!」
桔梗の精妙な動きに、会場が息を飲んだ。
蜂蜜を奪いあって熊と対峙したこともある桔梗である。足の速さと度胸は山で鍛えられていた。
「熊が怖くて蜂蜜がとれるかあ!」
背後に回り、思い切り蹴りつけた。だがびくともしない。
「ええい、ちょこまかとすばしこい奴だな」
入道はなるほどどっしりと構えて大岩のようだ。だが動きは早くない。
「野鼠が熊に勝てるとでも……うっ」
入道が目を押さえた。すかさず客席から声援が飛ぶ。
「頑張って桔梗!」
義母だ。横目で確かめると、まぶしい光が目を射た。桜子が檜扇を掲げている。
「ふん。二度とその手には乗るものか」
入道は義母たちに背を向けた。目眩ましはもう効かない。
「ならこれでもくらえ」
砂を放った。地面に手をついたときに握りこんだものだ。大きな目玉は狙いやすかった。
帝から制止の声はあがらない。
「くそ、卑怯者め」
入道は片手で顔面をこすりながら、もう片方の腕を棍棒のように振り回す。
足下をちょろちょろと動いて逃れる桔梗を、入道は手探りで捕まえようとする。桔梗は犬のように地に伏した。
「危ない!」
踏み潰されたら終わりだ。
ぎりぎりの間合いを計り、届かない位置に逃げる。
だが逃げてばかりでは勝てない。
ヒュウと風が吹いた。
「あ……」
風に促されるようにして、桔梗は大空を仰ぎ見た。透明な青。青空を自在に舞う龍笛の旋律が聞こえてくる。
友成だ。
友成の笛の音を聞き間違えることはない。
周囲を素早く見やる。幔幕の裏に人影があった。
友成の笛の音は天に届き地を撫でる、天駆ける龍の鳴き声のようだ。
呼応するように風が顔を撫でていき、桔梗の額の汗を飛ばす。
「元気が出た。ありがとう、友成」
「ゆるさんぞ、小娘が……!」
目を瞬かせながら手を伸ばす入道。身長差のせいでかなり前屈みにならないと入道の手は届かない。
伸ばされた腕に、桔梗はひょいと飛びついた。
「おお」
桔梗一人に飛び乗られても、入道はたいして重さは感じないだろう。だがそれは予測できているときだけだ。虚を突かれた入道は蹈鞴を踏んだ。
「ああ、惜しい!」
観衆の声援が聞こえる。
桔梗は腕から離れ背後に回った。振り返ろうとする入道の横っ腹を押しては引く。蹴っては引っ込める。体当たりしては身をひるがえす。
やがて、入道がよろり、と傾いだ。
「意外と……」
「膂力が……」
桔梗は何度も体当たりした。入道が向きを変える度に桔梗も回り込む。速さと正確さは入道を上回っている。
「毎日何往復も水汲みをする女の腕力を舐めるなあ!」
「おお!」
「山で鍛えた足腰を笑うなあ!」
「おお!」
入道はぐるぐると同じところを回らされ、ぐらぐらと傾きだした。このまま仰向けに転倒すれば桔梗の勝ちだ。
「くっそう。目が回る」
大番狂わせが起きるのかと会場は沸き立った。だが反撃はそこまでだった。
「あ」
入道が振り回した腕が偶然桔梗の頭にあたった。吹っ飛ばされた桔梗は空中で体を入れ替えようとしたが間に合わなかった
「入道に忠告しておく。女子を辱めることのないよう」
帝の忠告など、入道はどこ吹く風だ。
「胸を触るな、という意味かな」
「衣をむしるな、ということではないか」
「なんにしろ、指一本で、とんと押せば済む」
「抗うほど莫迦な女でないならよいが」
衆人環視の中、半裸に近い格好で化け物に挑む女は莫迦と呼ばれてけっこう。桔梗は腹をくくったのだ。
前傾姿勢で構えを取る桔梗を無視して、入道は地べたにあぐらをかいた。
「少し疲れたな。嬢ちゃん、肩でも揉んでくれんか」
「な……っ」
「ふむ、このほうがいいかな」
腹ばいになって桔梗を挑発する。そんな入道の滑稽な仕草を見て、観衆は腹を抱えだした。
入道の意図は明白だ。女など相手にならないと侮っているのだ。
「ほら早くせんかい」
入道を裏返せば桔梗の勝ちだが、牛車を牽くよりはるかに重いだろう。
どうしたらよいのか。
「おや、肉厚な畳だ」
桔梗は入道の大きな背中にあぐらをかいて座った。
「なにをするか、無礼者め」
怒った入道が体を起こした。
「おおっ!」
観客が息を飲んだ。桔梗が転がり落ちそうになったからだ。地面に背中がつけば、桔梗の負けだ。
すんでのところで桔梗は回避した。
入道が立ちあがる。
にらみあった。ようやくこちらを向かせることができた。勝負はここからだ。
「あの嬢ちゃん、やる気だよ」
「無謀だ」
「身の程知らずめ」
桔梗は充分な間合いを取った。掴まれたら一瞬で終わる。
防戦に見せかけておいて、入道の巨大な手を避け、素早く股の下をくぐった。
「おお?!」
桔梗の精妙な動きに、会場が息を飲んだ。
蜂蜜を奪いあって熊と対峙したこともある桔梗である。足の速さと度胸は山で鍛えられていた。
「熊が怖くて蜂蜜がとれるかあ!」
背後に回り、思い切り蹴りつけた。だがびくともしない。
「ええい、ちょこまかとすばしこい奴だな」
入道はなるほどどっしりと構えて大岩のようだ。だが動きは早くない。
「野鼠が熊に勝てるとでも……うっ」
入道が目を押さえた。すかさず客席から声援が飛ぶ。
「頑張って桔梗!」
義母だ。横目で確かめると、まぶしい光が目を射た。桜子が檜扇を掲げている。
「ふん。二度とその手には乗るものか」
入道は義母たちに背を向けた。目眩ましはもう効かない。
「ならこれでもくらえ」
砂を放った。地面に手をついたときに握りこんだものだ。大きな目玉は狙いやすかった。
帝から制止の声はあがらない。
「くそ、卑怯者め」
入道は片手で顔面をこすりながら、もう片方の腕を棍棒のように振り回す。
足下をちょろちょろと動いて逃れる桔梗を、入道は手探りで捕まえようとする。桔梗は犬のように地に伏した。
「危ない!」
踏み潰されたら終わりだ。
ぎりぎりの間合いを計り、届かない位置に逃げる。
だが逃げてばかりでは勝てない。
ヒュウと風が吹いた。
「あ……」
風に促されるようにして、桔梗は大空を仰ぎ見た。透明な青。青空を自在に舞う龍笛の旋律が聞こえてくる。
友成だ。
友成の笛の音を聞き間違えることはない。
周囲を素早く見やる。幔幕の裏に人影があった。
友成の笛の音は天に届き地を撫でる、天駆ける龍の鳴き声のようだ。
呼応するように風が顔を撫でていき、桔梗の額の汗を飛ばす。
「元気が出た。ありがとう、友成」
「ゆるさんぞ、小娘が……!」
目を瞬かせながら手を伸ばす入道。身長差のせいでかなり前屈みにならないと入道の手は届かない。
伸ばされた腕に、桔梗はひょいと飛びついた。
「おお」
桔梗一人に飛び乗られても、入道はたいして重さは感じないだろう。だがそれは予測できているときだけだ。虚を突かれた入道は蹈鞴を踏んだ。
「ああ、惜しい!」
観衆の声援が聞こえる。
桔梗は腕から離れ背後に回った。振り返ろうとする入道の横っ腹を押しては引く。蹴っては引っ込める。体当たりしては身をひるがえす。
やがて、入道がよろり、と傾いだ。
「意外と……」
「膂力が……」
桔梗は何度も体当たりした。入道が向きを変える度に桔梗も回り込む。速さと正確さは入道を上回っている。
「毎日何往復も水汲みをする女の腕力を舐めるなあ!」
「おお!」
「山で鍛えた足腰を笑うなあ!」
「おお!」
入道はぐるぐると同じところを回らされ、ぐらぐらと傾きだした。このまま仰向けに転倒すれば桔梗の勝ちだ。
「くっそう。目が回る」
大番狂わせが起きるのかと会場は沸き立った。だが反撃はそこまでだった。
「あ」
入道が振り回した腕が偶然桔梗の頭にあたった。吹っ飛ばされた桔梗は空中で体を入れ替えようとしたが間に合わなかった