その日の夜のことだった。
 夕食を終えた紅月が、灯織に風呂を勧めた。
「お風呂……ですか」
 灯織は目を泳がせる。
「あの……私、お風呂は最後で大丈夫です」
 灯織はびくびくしながらも意志を告げる。すると、紅月は怪訝そうに首を傾げながらも、そう、とそれ以上強く言うことはなかった。
 紅月はそのまま居間を出ていく。先に入るのだろう。
 紅月の姿がなくなると、灯織は肺に溜め込んでいた空気をどっと吐き出した。
 灯織がいちばん憂いていたのは、これだった。
 灯織は、体質上水に触れることができない。もちろん、手洗いや洗濯など少量の水に触れる程度なら問題ない。だが、全身が濡れるほどの水に触れたら最後、灯織は本来の姿に戻ってしまう。
 もし、なにも知らない紅月に本来の姿を見られてしまったら。
 婚約はもちろん破棄されるだろうが、なにより人間を騙したとしてあやかし庁に通報されるだろう。しかも華族の次期当主を騙したとなれば、重罪だ。
 確実に幽世に強制送還されてしまう。灯織はもともと現世のしかも神域出身。幽世に居場所などない。
 いや、居場所どころの話ではないかもしれない。
 罰はおそらく、灯織だけでなく千家家の家族にも及ぶ。そしてあやかし庁の捜査が進めば、確実に一華のほうの家族にも手が伸びるだろう。
 もし、そうなれば。
 一華が灯織と入れ替わったことが露見する。
 そんなことになれば、灯織は間違いなく殺されるだろう。
「……はぁ」
 灯織はため息をつく。
 この心労が、これから毎日続く。そう考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。
 千家家にいるときは、扱いは女中以下だったけれど、あやかしということは周知の事実だったため、こういった心労はなかったのだ。
「……なんて」
 ――こんなときまで私は、じぶんの心配ばっかり……。
 いやになる。そもそもこうなった原因はじぶんにあるのに。

 その後、お風呂を済ませた灯織は実家から持ってきた藤柄の浴衣に着替えると、脱衣所を出た。
 灯織はそのまま寝室には戻らず、庭に出る。
 秋の夜空には、虫の声が涼やかに響いている。それ以外にはなんの音もしない。
 ――不思議。
 来たときにも思ったが、本堂邸にはあやかしがいないのだ。気配すらない。
 灯織は池のそばに寄ると、じっと水面を見た。池のなかには、数匹の美しい金魚がいた。長い鰭を優雅になびかせ、悠々と泳いでいる。この池の金魚たちは、灯織を見ても逃げようとしない。
 むしろ鰭をなびかせて、灯織のそばに集まってくる。
「……気持ちいい?」
 灯織はそっと金魚たちに話しかけた。
「いいなぁ。私も混ざりたい」
 彼らはあやかしではない。だから、灯織の声は届かない。
 でも、だから話しかけられた。あやかしとしての名前を奪われた灯織は、今やあやかしたちのなかでは蔑むべきもの、虐げるべきものとして認識されている。本来の姿に戻ったが最後、灯織はおそらく、現世にいるすべてのあやかしから攻撃を受けることになるだろう。
 灯織はあの事件以来、家族に捨てられ、千家家には虐げられ、ずっと孤独に生きてきた。
 ――ここに、灯織がいてくれたらな……。
 心のなかで思う。だけど、それを口にすることはぜったいに許されない。
 灯織は、もう会うことのできない親友への想いを、言葉ではなく涙に変えて零した。
 しばらく池をぼんやりと眺めていると、灯織の横をひんやりとした静かな風が抜けていく。水面が揺らめき、そこに写っていた月が消えた。金魚たちが離れていく。
 え、と思っていると、背後で砂利を踏み締める音がした。
「こんなところにいたのか」
 灯織が振り返ると、池の向こう側に浴衣姿の紅月が立っていた。
「紅月さん」
 灯織は慌てて濡れた頬を拭いながら、立ち上がる。紅月は灯織に優しく微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「灯織さんは、金魚が好きなのか?」
 紅月が訊ねる。
「え?」
 灯織は首を傾げた。
「昼間もここにいたから」
 あぁ、と思う。
「……いえ。ただ……水を見ていると落ち着くので」
 不思議なものだ。水のなかにいた頃は、水面の波紋や金魚の泳ぐ姿に心が動いたことなんて一度たりともなかった。それどころか、ひとの姿になることのほうがわくわくしたくらいなのに。
「寒くない?」
 となりにやってきた紅月は、自身が羽織っていた羽織りを灯織の肩へかけた。
「え……あ、ありがとうございます……」
 夜中に外に出るなんてはしたない、と怒られるかと思ったが、紅月に不機嫌な様子は見られない。
 紅月は灯織のとなりに立つと、空を見上げた。
「金魚もいいが、今日は月がきれいだな」
 言われて灯織は空を見上げた。
 漆黒の闇のなかに、黄金色に輝く三日月があった。
「本当だ……」
 小さく感嘆する灯織を見て、紅月が微笑む。
「さて、そろそろ戻ろう。せっかく風呂に入ったのに、身体が冷えてしまうから」
「…………」
 紅月に促されるが、灯織はその場から動くことができない。
 このあとのことを想像すると、どうしても。
 正体が露見することも怖いが、それと同じくらい、知り合ったばかりの紅月に求められることにも抵抗があった。
 ――もし、今。同じ寝室に行くのが怖い、と本音を言ったら、紅月はどんな反応をするのだろう。
 紅月が振り向いた。
「……灯織さん?」
「……あ、その……すみません」
 なんと言えばいいのか分からず、灯織はただ謝り、羽織りを強く握った。既に数歩歩き出していた紅月が、ゆっくりと戻ってくる。
「……君はすぐに謝るんだな」
 そばへ戻ってきた紅月が呟く。
 おずおずと顔を上げると、紅月と目が合った。
 月明かりに照らされた紅月の顔は、微笑んでいるのにどこか寂しげに見える。
「灯織さん。俺たちはまだ夫婦じゃない。だから、寝室はべつだよ」
「……え、そ、そう……なのですか?」
 反射的に反応してから、ハッとする。紅月が苦笑した。
「……やっぱり、心配していたのはそこか」
 灯織は俯く。
「……す、すみません」
「べつに君が謝ることじゃない。俺たちはまだ正式な夫婦になったわけではないし、もとより俺もそんなつもりはなかったから」
 ほっとした。
「そうだ。この際だから取り決めでも作ろうか」
「取り決めですか?」
「この一ヶ月間、俺たちは夫婦のまねごとをするわけだけど、まだ夫婦じゃないから。お互い仲良く過ごせるよう、ある程度の線を引くんだ」
「それは……」
 きょとんと目を瞬かせる灯織に、紅月が補足する。
「たとえば、朝と夜はなるべくいっしょに食事をする、とか」
 なるほど、とほっとした顔をした灯織に、紅月が微笑む。
 そうしてふたりは池の縁に並んでしゃがみこみ、これからの一ヶ月間の取り決めを交わした。
 一、寝室、風呂はべつべつに。
 一、朝と夜はいっしょに過ごす。
 一、紅月の仕事場には来ないこと。
「あとは、そうだな……一日一回口付けを交わす、とか」
 ある程度決めごとが定まったあと、紅月が不意に爆弾を投下した。
 それまで和やかだった空気が、一瞬にして霧散する。言葉を失った灯織を見て、紅月がぷっと吹き出した。少し残念そうに。
「やっぱりそれはだめか」
「あ……いや、あのだめではないんですけど……その、ちょっと早いような」
 わたわたし始める灯織に、紅月はさらに迫る。
「じゃあ、一日一度、抱き合うというのならいい?」
「だ……抱き合う……!?」
 灯織の顔は、月明かりのなかでもそうと分かるほど、真っ赤になっていた。
「もちろん、それ以上のことはしない。だけど少しくらい、夫婦らしいこともしたい。……だめか?」
 まっすぐな眼差しで言われてしまい、灯織は困惑した。しかし、紅月はかなり灯織を気遣ってくれている。これ以上わがままを言うのは申し訳ない。
「……わ、分かりました」
 びくびくしながら頷くと、承知されると思わなかったのか、紅月が驚いた顔を灯織に向ける。
「えっ、いいの?」
「だ、抱き合う、だけ……なら」
 どちらにせよ灯織は経験がないが、口付けよりは気が楽な気がする。たぶん。
 紅月は少しの間黙り込んだあと、ふっと俯いた。
 どうしたのだろう、と灯織が様子をうかがっていると、紅月が呆然としていることに気付いた。
「紅月さん……?」
「……いや、ごめん。まさかいいって言われると思わなくて」
 もしかして、冗談のつもりだったのだろうか。真面目に反応してしまったことに恥ずかしさがじわじわと込み上げてくる。
「す、すみません、私その……い、今のはやっぱりなしで」
 言いかける灯織の手を、紅月が掴んだ。息を呑む。
「だめだよ。なしはなし」
「で、でも……」
 紅月の眼差しに、もう逃げられない、と灯織は悟る。
「……はい」
 紅月は灯織が頷くと、その手を掴んだまま立ち上がる。合わせるように、灯織も立った。
 手を引かれ、距離が縮まる。紅月が優しく灯織の背中に手を回すと、灯織の頬が紅月の胸板にぴたりとくっついた。合わさった肌からは、どきどきというどちらのものか分からない心臓の音が聴こえてくるようだった。

 ***

「すごい……ひとが、こんなに……!?」
 東京の繁華街を歩きながら、灯織は思わず感嘆の声を漏らした。
 見渡す限り、ひと、ひと、ひと。
 繁華街は、灯織が見たこともないほどのひとたちでごった返していた。
 矢絣柄の着物に袴姿のいわゆる女学生や、袴にハットを合わせた書生、さらにはワンピース姿で大胆に足を出した女性や、着物の下にフリルブラウスやスカートを合わせた職業婦人風の女性もいる。
「東京のかたはみんなお洒落なんですね……!」
 灯織は、地元では見たことのない格好をしたひとびとに目を輝かせた。
 本堂家へ花嫁修行に来て一週間。灯織は、紅月とともに街へ来ていた。
 灯織ははじめ、じぶんのために紅月のせっかくの休日を使わせるなどとんでもないことだと断ろうとした。だが紅月に、本堂家に嫁ぐのなら一度くらいは街を見ておくべきだともっともなことを言われてしまい、仕方なく行くことにしたのだ。
 紅月の次期花嫁として本堂邸に住む以上、灯織は紅月の顔に泥を塗るわけにはいかない。
 出てみればそこは、たしかに紅月の言うとおり、灯織の知らない世界が広がっていた。
「灯織さんは、東京の街を歩くのは初めて?」
 駅を出て足を止めた灯織に、紅月が問いかける。
「はい! 昨日は本堂邸に辿り着くことばかり気にして、まわりなんてぜんぜん見えてなかったから……。それにしても、すごい……。みなさん、すごく可愛いお着物を着てるんですね……!」
 忙しなく行き交うひとびとを見ては目を輝かせる灯織に、紅月が笑う。
「まるで花のあいだを飛び回る無邪気な蜜蜂のようだな」
 紅月が漏らした呟きに、灯織ははっと我に返った。
「す、すみません。珍しくてつい……」
 子どもっぽい反応をしてしまい、しゅんとなる。
 灯織はそもそもあやかしで、灯織として生きることになってからも正体が露見することを恐れて閉鎖的に生きてきた。そのためこういった場には不慣れなのである。
 街は、華やかな格好をした都会女子たちであふれている。灯織が住んでいた京都ではまだまだ着物が主流で、こんな華やかな格好をした女子はひとりとしていなかった。
「いや、いい。君がこんなに喜んでくれるとは思わなかったから、嬉しい誤算だ」
 そう言って微笑みかけてくる紅月は本当に嬉しそうだった。不意打ちのような笑顔を食らって、灯織は反射的に俯く。
 近頃、どうも紅月と目を合わせるのが恥ずかしい。毎日の抱擁で次第に慣れるだろうと思ったのに、日に日に緊張が増していくようだった。灯織はなにも言わずに唇を引き結んだ。
「大正浪漫って言うんだよ」
「たいしょうろまん……?」
 灯織は顔を上げ、首を傾げる。
「そう。和と洋を掛け合わせた新たな文化のことを言うらしい」
「へぇ……!」
「この街は特に、先進的なひとびとが集まっているからね。これからきっと、さらに目まぐるしく変わっていくんだろうな」
 紅月が呟く。見上げた紅月の横顔は、どこか寂しげに映った。
 灯織は紅月から、街並みへ視線を移す。
 華やかな格好をしたひとびとが、忙しなく行き交っている。
 紅月の言っていることは、なんとなく分かる。変化は真新しさを連れてきてくれる。けれど同時に、一抹の寂しさも抱かせると、灯織は思う。
 新しいものは新鮮味があるし、便利になったりしていいけれど。ときおり、じぶんだけがこの世界から取り残されてしまったような疎外感を感じることもある。
「……紅月さんは、従来の文化を大切になさるかたなんですね」
「……どうかな。ただ、変わっていくことに臆病なだけかもね」
 灯織が首を傾げると、紅月は曖昧に微笑んだ。
「さてと。それじゃあ行こうか」
 紅月はさりげなく灯織の手を取ると、人波を縫うようにして歩き始めた。
 灯織は突然握られた手に驚きながらも、振りほどくことはしなかった。
 本堂邸へ来たあの日のように、紅月のことがいやだとはもう思えなかった。むしろ――。
 歩きながら、不意に紅月がふふっと肩を揺らして笑った。
「え、紅月さん、なんで笑ったんですか?」
「ううん、ごめん。なんでもないよ」
 灯織が訊ねると、紅月は謝りながらも手の甲で口元を隠し、まだ笑っている。
「な、なんでもないのに笑ったんですか……?」
 灯織は青ざめる。
 もしかして、顔になにかついていたのだろうか?
 灯織は顔を手のひらで触る。なにもなさそうだ。それに、もし顔になにかついていたのなら、家を出る前に言ってくれるだろう。
「それならなんで……」
 訊ねようとしたとき、ドン、と灯織の身体が傾いた。近くにいたひとに押し退けられたようだ。その拍子に、紅月と繋いでいた手が離れる。
「灯織さん!」
 紅月が灯織を呼ぶ。それと同時に、「紅月さん!」とどこからか女性の声がした。
「まぁまぁ! 奇遇ですわ! 紅月さんじゃありませんか!」
 灯織は傾いた身体をなんとか持ち直し、顔を上げる。すると、見知らぬ女性が紅月に話しかけていた。
 ――わっ……きれいなひと……。
「あ……、雪野さん」
「まぁ〜相変わらずハンサムだこと! なぁに? 今日はお買い物?」
「えぇ、まぁ」
「奇遇ね! 私もなの!」
「そうでしたか」
 紅月は笑顔で女性に応対している。女性はとなりにいる灯織には目もくれず、頬を紅潮させて嬉しそうに紅月を見上げていた。どうやら知り合いのようだ。
 紅月に雪野さん、と呼ばれたその女性は、濃茶色ストライプの袷の下に同じく濃茶色のロングワンピースを合わせた、たいしょうろまん、の格好をしていた。裾や袖から見えるフリルが可愛らしい。
 灯織はじぶんを見た。
 うぐいす色の雪輪柄袷に、無地の深緑色の帯。帯留めはない。
 京都にいた頃はまわりも似たようなものだったし、なにも思わなかったけれど、こうしてみると灯織は、同年代の女性に比べてずいぶん地味な格好だ。
 途端に紅月のとなりを歩くじぶんが場違いに思えてくる。
 垢抜けている紅月のとなりには、やはり雪野のような華やかな女性のほうがお似合いだ。
 灯織はふたりの邪魔をしないよう、そっと背後から紅月に囁く。
「……あの、紅月さん。私、先に帰りますね」
「えっ……灯織さん?」
 紅月が振り向くより先に、灯織は足早に歩き出す。
「待って、灯織さん」
 立ち去ろうとする灯織を、紅月が手を掴んで引き止めた。
「あら?」
 紅月が灯織を引き止めると、雪野がひょこっと紅月の背後から顔を出す。
「まぁ。あなたまさか知り合いだった? ごめんなさい私、また紅月さんが女学生に言い寄られているのかと思って」
 失礼なことしちゃったわね、と雪野が早口で言う。なるほど、だから雪野は紅月と灯織のあいだに割って入るようにしてきたのだ。
「それであなた、どちらさま?」
 雪野が灯織を見る。
「あ、いえ……その、私は」
 灯織は困って紅月を見上げた。紅月は灯織に大丈夫だよ、と言うように微笑むと、灯織の肩を優しく引き寄せた。
「雪野さん、彼女は俺の婚約者の灯織さんですよ」
「えっ!? な、なんですって!?」
 雪野がぎゅん、と音がしそうなほど勢いよく灯織を見る。
「まあまあまあ! あなた、紅月さんの婚約者さまなの!? まあーっ!!」
 雪野が灯織に駆け寄ってくる。すかさず手を握られた。
「それならそうと早く言ってくださいな! なによ私、勘違いしてしまったじゃない! 婚約者だなんて素敵ね! まああなた、よく見たらとても美人じゃない!」
 雪野は紅月と灯織の顔を交互に見つめ、ひとりで話している。雪野の声は、まるで小鳥のさえずりのように華やかでよく通る。
 紅月が灯織を見る。
「灯織さん、彼女は本堂雪野さん」
 紅月に紹介された雪野はようやく口を閉じ、ぺこりとお行儀よく頭を下げた。
「よろしくどうぞ」
「よ、よろしくお願いします……って、え、本堂?」
 紅月と同じ苗字だ。驚く灯織に、紅月が付け足す。
「俺と雪野さんは従姉妹同士なんだよ」
「紅月さんとは、こーんなに小さな頃からいっしょに遊んでましたのよ!」
 雪野はこーんな、と言いながら、手のひらを地面に平行にして、当時の身長を表現する。ずいぶんお茶目なひとだ。紅月にはあまり似ていない。
「そ、そうだったんですね」
「そうだよ。だから誤解しないで。俺と雪野さんは兄妹のようなものだから」
 紅月がにこやかに灯織に言う。どきりとした。灯織は黙ったまま、こくこくと頷く。
「ねえ、灯織さんっ!」
 ふたりの世界に入りかけたとき、雪野が灯織の手を掴んだ。
「さっきはごめんなさいね! 私ったら、紅月さんの奥さまを追い払おうとしていたなんて最低な女だった! 謝るわ、ごめんなさい!」
 灯織は慌てて、とんでもない、と首を振る。
 大切に思ってはいても、雪野はどうやら紅月に特別な感情を抱いているというわけではなさそうだ。
 ――よかった……。
 ちょっとほっとしているじぶんがいることに気付き、あれ、と思う。
「ねえ灯織さん! あ、灯織さんって呼んでもいいかしら? 私のことは雪野さんと呼んでくださいな!」
「は、はい」
「ねえ、呼んでみて!」
「ゆ、雪野さん……?」
「そう! 私、雪野! ねえ私たち、お友だちになりましょ!?」
「え……」
「これからよろしくね、灯織さん!」
「は、はい……」
 灯織の胸のなかに、あたたかい陽が差したようだった。こんなふうにあたたかな気持ちになるのはいつぶりだろう。
 考えなくても明らかだった。
 灯織がいた、あの頃の景色が、匂いが、胸の高鳴りがよみがえる。
 涙が出そうになり、灯織はぐっと奥歯を噛んだ。
「ふたりはこれからどちらにお出かけ?」
「ああ……うん、ちょっと呉服を見に行こうかと」
 灯織の代わりに紅月が答える。
「あら、それはいいわね! 灯織さんせっかく可愛いのに、なんだかちょっと野暮ったいもの!」
 気持ちいいくらいにばっさりと言われた。灯織は苦笑する。
「さてと、灯織さん。お話はまたあとで。お茶でもしながらゆっくりとね! あ、もちろんふたりでよ? 紅月さんがいると噂話ができないから」
「え、あ……」
 そうなのか。
 ちらっと紅月を見ると、紅月は困ったように笑って肩を竦めている。
「あらやだ。もちろんこれは悪口ではなくってよ? ただ、女には女にしか分からない苦労とかいろいろあるものなの。ねえ、灯織さん?」
 雪野は茶目っ気たっぷりに耳打ちしてくる。ここは頷くべきなのだろうか。戸惑っていると、紅月が灯織の手を掴んだ。
「雪野さん。灯織さんと仲良くしてくれるのはありがたいですが、俺の悪口を言うのだけはやめてくださいよ」
「まあ」
 雪野は口元を押さえて、きらきらと目を輝かせた。
「まあまあ、紅月さんったら! 本当に灯織さんのことが好きなのね! やだ、羨ましい!」
 雪野は、灯織と紅月をそっちのけで盛り上がっている。
 紅月の様子をうかがうと、紅月も困った顔をしてこちらを見ていた。
「さて、そろそろ本当に行かなきゃだわ。じゃあまたね、ごきげんよう!」
「ご、ごきげんよう……」
 ひととおり話して満足したのか、雪野は笑顔で挨拶をすると、あっという間に人混みのなかに消えていった。
「……ごめんね、いきなり驚いたでしょう?」
 呆然と立っていると、紅月が振り向いた。
「い、いえ! 雪野さん、素敵なかたでしたね」
「雪野さんはね……黙っていればとても映えるひとなんだけど、喋るとあの調子だから、なかなか縁談が決まらないんだ」
「そうなんですか……」
 さっぱりとして明るい上に美人だし、灯織なんかよりよほど男性に好かれそうな気がするが。けれどたしかに紅月の言うとおり、おしゃべりな性格が幸いしてか、外見に見惚れる暇はなかったかもしれない。だが、それもまた、彼女の魅力のひとつのように灯織は思った。
「彼女、灯織さんのことをとても気に入ったみたいだ」
 雪野が歩いていった方向を見つめながら、紅月が言った。
「そのうち、お茶会の誘いでも来るんじゃないかな」
「お、お茶会……」
 緊張し始める灯織を見て、紅月は笑いながら再び歩き出すのだった。

 ***

 雪野と別れたあと、紅月が向かったのは高級感漂う呉服店だった。
 躊躇いなくなかへと入る紅月のうしろを、灯織は気遅れ気味におずおずと着いていく。
「いらっしゃいませ」
 客の来店に気付いた女将が声をかけてくる。目鼻立ちのはっきりとしたきれいなご婦人だ。歳の頃は四十手前くらいだろうか。背筋がしゃんと伸びていて、いかにも女将といった雰囲気を醸し出している。
「これは、本堂さま! いらっしゃいませ」
 女将は来店した紅月を見て、あらためて挨拶をしながら丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、礼子(れいこ)さん」
 紅月は笑顔で挨拶をする。どうやら彼女もまた、紅月の知り合いらしい。
 紅月に次いで、灯織もぺこりと頭を下げる。
「あら。今日は可愛らしい子を連れているのね」
 礼子が灯織に気付き、微笑みかける。礼子の微笑みは、同性でもどきっとしてしまうほど美しい。自然と背筋が伸びた。
「灯織さん、こちらはこの呉服店の女将、礼子さんです」
「こんにちは、奥さま。女将の礼子と言います。本堂家のみなさまには、創業当時からご贔屓にしてもらってるんですよ」
 礼子がにっこりと微笑む。
「よ、よろしくお願いします」
「礼子さん、こちらは俺の婚約者の灯織さんです。今日は彼女の紹介ついでに、彼女に似合う呉服をいくつか仕立ててほしいんですが」
「まあ! それはおめでとうございます。もちろん、とびきりのお着物をひと揃えさせていただきますよ。さ、奥さまこちらへ」
 礼子は嬉しそうに言って、灯織の手を掴んだ。
「えっ!? いや、あの……!?」
 拒む間もなく、灯織は礼子にあちらこちらを採寸され、さまざまな柄の反物を合わせられていく。
 灯織は目を回しながらも、必死に応えた。
 しばらくしてようやく開放された灯織は、よろよろと紅月のもとへ戻った。
「お疲れさま」
「は、はい……」
 ぐったりとした灯織を見て、紅月が小さく笑う。
「どの反物も、とてもよく似合っていたよ。仕立て上がるのが楽しみだ」
 紅月に褒められながらも、灯織の心の内では嬉しさよりも申し訳なさのほうが勝っていた。
「……そうでしょうか」
 女将から『奥さま』と言われて思い出した。紅月の優しさにすっかり絆されていたが、灯織は灯織であって灯織ではないのだ。
 女将に『奥さま』と呼ばれるたび、冷水を浴びせられている気分になった。
 これからの季節にぴったりなうさぎ柄、大人っぽい椿柄に爽やかな流水、それからほたる暈しの小紋は淡く優しい雰囲気。
 どの反物もとても美しくて、いつまででも眺めていられる。けれどやっぱり、こんな高級な織物は灯織には不釣り合いだ。
「もしかして、興味なかった?」
 紅月が訊ねる。
「お洒落着を着てた子たちを嬉しそうに見ていたから、着物が好きなのかと思って急遽喫茶店から呉服屋に変更したんだけど」
 灯織は慌てて首を横に振った。
「もちろん嬉しいです! ……でも、どれも素敵過ぎて私には分不相応なんじゃないかって……」
 灯織も歳頃だ。お洒落にはそれなりに興味がある。
 今日ここへ来るまでに見かけた女性が着ていた着物だけでも、素敵だと思うものがたくさんあった。
 たとえば菊に楓。それから、雪輪の着物に幾何学模様の帯。袴はやはり薔薇柄が可愛いと思ったし、それから袴の代わりになるという洋服――スカートという履きものや、フリルたっぷりのブラウスも気になる。
 だが、灯織はこれまで、一度もじぶん用の着物など持ったことはない。今持っているものはすべて、本物の灯織のお下がりだった。
 そのため、実際にじぶんが着るとなるとどうしても気遅れしてしまうのだ。
 それに……。
「……灯織さん」
 俯いた灯織を見てなにやらじっと考え込んでいた紅月が、そっと呼びかけた。
「気になっていたんだけど……君は、どうしてそんなにじぶんに自信がないんだ? 昔の君はもっと……」
 紅月は言いかけて、口を閉じた。
 紅月の疑問はもっともだ。
 灯織はこの帝国に極小数しか存在しない華族のひとり娘であり、なかでも千家家は神職を生業にしている。表向きは立派な家柄だ。
 けれどそれは、灯織が本物の灯織だったら、の話である。
 本来ならここにいるのはじぶんではなく、灯織だった。紅月からの愛は、灯織が受け取るべきもの。じぶんがもらっていいものではない。そう思うと、紅月が似合うと言ってくれた反物も、向けられる笑顔も、素直に喜ぶことができないのだ。
 ――せめて……。
 せめて政略結婚らしく、紅月が灯織に冷たかったなら、ここまで罪悪感を感じずに済んだかもしれないのに。
 と、そんなふうに紅月のせいにしてしまいそうになるじぶんが、余計にいやになるのだった。
「無理にとは言わないけど……なにか話したいことがあったら、聞くから。いつでも」
 紅月が優しく言う。
 ――違うんです。
 本当に受け止めてくれそうな紅月の眼差しに、灯織は思わず口を開きかけて、けれど結局言えずに言葉を呑み込んだ。
 もし灯織が本当のことを言ったら、紅月はなんと言うだろう。
 優しい彼のことだ。きっと慰めてくれる。けれど、予定どおりに婚約とはいかないだろう。
 本堂家は千家家なんかよりもずっと格式が高い。華族の血どころか、あやかしである灯織との婚姻など、言語道断だろう。
 もし本当のことを話してこの家を追い出されたら、灯織は行き場を失ってしまう。
 灯織は、このうそを貫きとおすしかない。たとえ、この胸が引き裂かれるように痛んだとしても。