「帰ろう」

月冴の言葉に少女は微笑みを返して、やさしい温もりに手を重ねた。

それからまどろむ心地に飲まれ、意識を取り戻したときに見たのは木目の天井だった。


(帰ってきたんだ)


また寝ていた、と妙な懐かしさにクスッと笑ってしまう。

だがあの時と違って乱暴な足音はしない。

障子扉が開いており、そこから風が吹き抜ける。

月冴の白銀の髪がキラキラと光っており、指ざわりの良い輝きに触れたくて身体を起こす。

縁側に座り込む月冴に歩み寄り、そっと背中に頬を寄せた。



「起きたか」

その一言に少女はうなずく。

やさしい鼓動を前から聞きたくて、背中から月冴の前に身体を滑り込ませた。

目を閉じて少しだけ小刻みな心音を追いかける。

長い時を孤独に過ごしてきた月冴も生きていると実感し、より一層抱きしめたいという想いに駆られて月冴の頬を包み込んだ。


「あれが私の答えです」

「そうか」

「私は貴方様をお慕いしております。どうか、貴方様の答えを教えてくださいま……」


言葉は途切れた。

月冴が少女の腰に手を回すと、夜空を隠すようにして唇にひんやりとした感触をのせてきた。

粉雪のような冷たさのあとに、溶けだしてほんのり温かくなる。

頭に直接聞こえるような粘着の音と、少し乱れた息遣い。

唇が離れると二人を繋いでいた銀の糸が名残惜しく切れた。

頬の熱さに安堵を得ると、少女はまつ毛の水滴を弾いて顔をあげた。


(月冴さまは本当にキレイな方)

今の少女はキレイなものに手を伸ばす。

自分を卑下して、欲しがる気持ちを見過ごすのはもうやめた。

蒼玉の瞳に、白銀のきらめきに、少女にだけ見せてくれるやさしい微笑みをいとおしく思う。


“この人は私の好きな人。私だけの人”

自分がどう想うか、どう想われたいかをむき出しにして月冴の頬を包み込んだ。


「もう寂しくないか?」

「はい。とても満たされています」

「なら良い。私もお前が離れない限りは……」


きっと今、赤々とした果実のような顔をしているだろう。

少女の人生で褒められた経験はほとんどない。


月冴の言葉は明確に”少女がここにいていい理由”と示しており、安心と喜びに涙をする。

こんなにも甘くて、優しい感情は知らない。

誰かをこんなにも想う幸せは、自分の気持ちを伝えるともっと幸せだと知った。



月冴の傍にいたい。

月冴が与えてくれた感情の分だけ、いや、それ以上に月冴にも与えてたい。

良いところも悪い所も、全てをひっくるめて月冴を受け入れたかった。


「月冴様を、愛しています」

「私もだ。……ただの、か弱い存在だと思っていたのに」

気恥ずかしそうに月冴は目を反らす。

意外と照れ屋な一面に愛らしさを感じてクスクスと笑った。


「あの、お願いがあります」

「なんだ?」


いざ口にしようとすると、むずがゆくなってしまい、モジモジしながら月冴を上目に見る。


「名前、いただけませんか?」


その言葉に月冴の目が見開かれる。

少女に名前はない。

だからこそ、自分が生きている事実が欲しい。



少女は常に“自分”を自覚することがなかった。

こうすれば正しい。

自分のためではなく、他力本願な考えとなっており、本音と建前が混ざってわからなくなっていた。



(私は寂しかった。でも本当は、怒りたかった。どうして大切にしてくれないのって、怒りたかったんだ)


怒った後の虚しさなんて知らなかった。

何も言えず、何に心が消えていくのか。

誰にも呼ばれることのない名前のない少女。

そんな自分を誰よりも蔑ろにしていたと自覚したからこそ、自分を愛する第一歩として月冴から響きをもらいたかった。



(月冴さまに私を呼ばれたい)

泥水の中でも必死に咲いた自分に、素直に生きてみたかった。



「……彩夜」

「さよ?」

「彩夜。……いやか?」

「いいえ。いいえ! その名が、その名前がいいです!」


彩夜、それが“私の名前”だ。
くすぐったいと私は目に見えない名前を心で抱きしめる。


「嬉しいです。大切にします」

「……そうか。……そうか」


月冴は口元に手をあて、表情を隠してしまう。

それが嫌だと思った私はぐっと前のめりになって、月冴の手を掴んだ。


「なんだ」

「いいえ、なんでもないです。私だけが知っていればいいんです」



月冴の本音は私だけのもの。

こんな独占欲が私の中にあると知らなかった。

きっと私はこれからたくさんのことを知って、心に素直になっていく。


(彩夜。私の名前。私の居場所)


クスクスと笑っていると、月冴が私の手を引っ張りそっと額に唇を押しつけた。


「挑戦的なのは良い。だが主導権は私だ」

「はい。それくらいがちょうどいいです」

「ずいぶんと……余裕があるのか。さすがにこちらも困ってしまうな」

「きゃっ!?」




それからの二人がどのように過ごしたかは、二人だけの秘密。

この関係に名前はあるのか。

月明かりは色んな彩りがあって、夜をやさしく照らす。

空白だった私に、冴えわたる冬の月。

寒くても、今は私がいて、彼がいる。

これは名前のない少女が一人のあやかしに恋をして、生き方を見つけるお話。

私ははじめて私になる、夜を彩るためのやさしい物語。


[完]