名前のない贄娘〜養父に売られた私に愛を教えてくれたのは孤独なあやかしでした〜

***

鼓門を抜けると、鬼火が灯る一本道。

牛の頭をしたもの、腕に百の目がくっついた女と様々だ。


「手を離すな。はぐれるからな」

浮きたつ気持ちと不安定さ。

月冴の手を握り返すのが精いっぱいだ。


「こういう場ははじめてか?」

「はい。外はこんなにも賑やかなんですね」


見たこともない大きな塊の肉や、真っ赤なリンゴの飴細工。

ふわふわした綿をパクッと飲み込んでしまう河童と、取り巻く環境につい背伸びをしてしまった。


(月冴さまは私を連れてきて、どんな目的があるの?)


繰り返す退屈な日々しか知らない小娘を連れまわすとは、月冴は相当な変わり者だろう。

余計に胸がざわついた。


「はにゃ? 月冴様がにゃぜこんなところにいるにゃ?」

知らぬ声にパッと顔をあげると、瞳孔のするどい猫又がいた。

ぺろっと唇を舐め、尻尾をゆっくりと腕に巻き付ける。

「私がいてはおかしいか?」

「名のあるあやかしが下賤の町にいるのを不思議に思っただけにゃん」

そう言って猫又は侮蔑を込めた視線を少女に投げる。


「新顔ですにゃ。同族にお優しいことにゃ~」

「そういうのを無駄口と言う。知らなかったか、猫又?」

「にゃ~、こわいにゃこわいにゃ……」


猫又は腕を擦りながらサッと俊敏に去っていった。

月冴の連れに興味を抱くあやかしは他にもおり、強い視線が少女に突き刺さる。

怯えて後ずさると、顔を隠していたお面が外れて石畳に落ちた。


「人間だ」

「月冴様が人を連れている。食いものか?」

急いでお面を拾い、顔を隠すもすでに遅い。

ギラギラした目で詰められると、少女の背にじわじわと汗がにじんだ。
「この人間に手を出してみろ。その時は私が貴様らを食らってやる」


月冴の一言で空気が冷えきり、威圧感に肌がビリビリした。

あやかしが人の世界にまぎれるのは容易だが、その反対はほぼ不可能とされている。

入り込めばすぐにあやかしたちの餌食になるところを、月冴は押しつけられた側なのに守ってくれた。

それだけで胸が熱くなるのに、どこか冷静な気持ちもあった。


(生きてここに来た私が珍しいだけ。……嫌な考えになっちゃう)


「はじめてのことに興味がそそられるだけなのか」

月冴の呟きに顔をあげると、「いや」とすぐに否定して月冴は息を吐く。


「決めるのはお前だ。だがいつまでも自分を認識するのを避けるのはやめろ」

まっすぐな言葉に私はまだ怯えてしまう。

弱虫な私は見捨てられて当然なのに、月冴はそれ以上何も言わずに私の手を引いた。

あやかしたちが隙あらばと息を潜める中で、少女は深くお面に顔を埋め、カラコロ鳴る下駄の音だけに耳を傾けた。



(顔が見えなくてよかったなんて)

養父の後ろ姿に振り返ってほしいと願い、せっせと足を走らせてきた。

それなのに今は月冴に振り返ってほしくないと願っている。

いっそ手が離れてしまえばすべてにあきらめがつくのに……。


鼓門から出ると街が一瞬にして暗闇に消えた。

再び灯火の道を進もうとしたとき、ふと暗い感情に押しつぶされそうになった。

足を止めると月冴が眉をひそめて振り返り、少女を見下ろした。


「私を死なせてください」

「何? 」

少女の願いに月冴は低い声で咎める。

背中ではない、向き合った状態に少女は苦しくなってか弱い声で陰る思いを訴えた。


「私は贄として死ぬためにここに来ました。どうかキレイな思い出のままで死なせてください」

「ならぬ」

「え?」

一呼吸も間を置かないまま、月冴は少女の腕を引き寄せる。

乱暴なようでやさしい触れ方に少女の琴線が震え、伝わってくる体温に唇を丸めた。


たわむれに灰桜ごしに背中を撫でられると恥ずかしさに息が止まる。

月冴の行動すべてに泣きそうになれば、お世辞にもキレイとは言えない少女の黒髪を月冴は戯れに指で梳いた。


(やだ……。月冴様みたいなキレイな方に触れられると悲しくなる)

ごわごわして指ざわりが良くないし、手は荒れてざらついている。

洗練された美しさを持つ月冴と並ぶ資格すらない。

誰かに見られたくないと思ったのはこれがはじめてで、とても苦しいことと知った。

「少しは思い出したか?」

「思い……?」

肩を押されて月冴の胸から離れると、しっとりした親指で頬を横に撫でられた。


「自分の感情ににぶい。いいや、気づきたくなかったんだろう」

「いいえ。ちゃんと自分の気持ちはわかっています」

「私はお前ではないからはっきりとわからぬ。だから気にな……」


そこまで口にして、月冴はパッと目を反らし言葉を飲み込んだ。

やけくそになって少女に背を向け、手を引いたまま大股に進む。


(口の中がしょっぱい。どうして?)

「お前は生きたくないのか?」


顔の見えない月冴の背を見つめ、その問いに答える顔が見られないことに安堵する。


「生きていてはダメでしょう」

「それも想うのも仕方ないこと……か」

"自分は人間らしい生死の葛藤が希薄だ"、と少女はぼんやりと理解しつつあった。


「私は……月冴さまにとって不思議ですか?」


ドロドロした感情にまとわりつかれ、月冴が少女に見たものは……。


「助けを求められないのは皆同じか」


問いを投げても明確な答えは返ってこず、会話が会話にならずに終わった。



「死ぬことは許さない。これは絶対にだ」

「どうして……」


息と同化するほど弱い声しか出ない。

お面が更に壁となって、少女の声を月冴には届けてくれない。

手を引かれたまま月冴を追い、闇のなかに浮かぶ平屋の屋敷にたどりついた。

瓦屋根の門をくぐれば、空は一変して蒼穹が広がった。

振り返った月冴に少女は目を見開き、イタズラな微笑みに魅入った。


「めずらしい者に心躍るのも、長く生きてみれば貴重なものだからな」

(そっか。月冴さまはこんな風に言うしか出来ないんだ)

軽蔑に慣れてしまった少女には、皮肉めいた言葉の色がわかる。

月冴の皮肉は月冴自身に向けられたものだ。


(やさしいんだ。だから余計にさみしい)

少女が月冴のために何か出来るわけでもない。

長年ともに暮らした養父にさえ、たった数枚の貨幣に代えられてしまうような存在だ。

尽くそうが、やさしく接そうが、笑っていようが……捨てられた事実は変わらない。

これまでの生きた道を疑問に思えば、殻にこもりたくなった。


「生きてて……変わることがありますか? 死んだも同然なのに?」

「変わる。自分でどちらかを選ぶ日がくる」


月冴が詰め寄り、青空を背負って少女の頭を乱雑に撫でる。

はじめて息を吸い込んで、胸がいっぱいになる感覚を知った。

浮つく感覚に胸に手をあて、ぐっと首を伸ばして月冴の顔を見つめた。


「考えてみます。ちゃんと、どうすべきか考えます」

「あぁ」


目を奪われる。

単純に、キレイだと思った。

やさしい眼差しと、奥に秘めた憂い。

白銀の髪はたくさんのものを背負った月冴にはきっと白すぎる。

……それを少女は見ていたくなった。

(前を向くって、こういうことなのかな?)

月冴にやさしくされるたびに、頬がゆるむようなこそばゆさ。

お面を外して見せた表情は、きっと庭の片隅に咲く小さな花によく似ていた。
それから少女は月冴と暮らしながら生き方を変えようとした。


「お庭から食べれる植物、採ってもいいですか?」


唐突な発言に月冴は目を丸くし、少女の考えを読めないままにうなずいた。

少女は下駄を履いて庭に飛び出すと隅々まで歩き、草を摘んでいく。

山のように生い茂っているわけではないが、景勝の中でこれだけ見つめるのはワクワクする。

たんぽぽやヨモギ、シソと季節を問わない楽しい庭だった。

浮き立つ気持ちでたんぽぽの綿毛を突いていると、月冴が歩いてきて隣にしゃがみこんだ。


「そんなものも咲いていたのだな」

「これは食べれるんですよ。お餅にしたり、おひたしにしたり」

「餅……。そうか」


ここにいると腹が空くという感覚がない。

月冴にとっては食事をする発想がなかったようで、そのまま少女の指先を観察した。


「……食べてみますか?」

月冴は目を見開いたあと、少女の頭を撫でてうなずいた。

――ぐぅぅぅ……。

何日ぶりかもわからない腹の音が鳴った。



***



屋敷で見る光景にも変化はあるようで、空に月が顔を出すと縁側で涼んでみた。

広い敷地で少女が行動する範囲は、ささやかに自然を感じられる場所だった。


「月見か」

青白い月の光がさしこむなか、月冴が白銀の髪を揺らして隣に腰かける。


「はい。月冴さまも……」


少女の返答を聞くよりも先に、月冴はごくごく自然な動きで少女の膝に頭を乗せた。

流れるような動作に驚きはしたものの、月冴が落ちついた様子で目を閉じているので、気持ちが向くままに月冴の前髪を指で梳いた。


「それは戯れか?」

まぶたが持ちあがると、蒼い瞳にぎこちない笑い方をした少女が映る。

蒼い瞳に魅入られていれば、月冴が鼻で笑うので少女は慌てて顔をあげて月に目を向けた。


「月明かりがこんなにキレイだと知りませんでした。月冴さまの髪とよく似ています」

「そうか。私にはお前の髪の方が好ましいのだが」

「色褪せた黒ですよ。艶もないですし、指通りがいい髪は憧れます。村で一番に美しいと言われていた女性は漆を塗ったかのように艶めいてました」

「見かけのことではない。私にはない色だ。お前の髪は黒檀に似ている」


”黒壇”と言われてもピンとこなかった。

キョトンと目を丸くしていると、月冴は「それもそうか」と笑って少女の髪を指に巻きつけた。


「黒檀とは長く美しいもの。何も飾らなくても飽きぬものだ」

そう語る月冴からは少女にとって嗅ぎなれない気品ある香りだ。


「その香りの名は?」と聞けば月冴はしばらく考えるそぶりを見せ、「白檀の香り」だと答えた。


「私、その香りが好きだと思いま……」

サラッと白銀の髪が風になびき、月冴は縁側に手をついて身体を起こしている。


(やさしい香り……)

きらめく髪と、夜に溶ける黒が長い影を作った。
――ピシャアアアアアン!!


影になっていた二人の背景に稲妻が走る。

月冴は少女の肩を突き放すと、素早く立ち上がり夜に星をなびかせた。



雷は棺の置かれた場所に落ちていた。

駆けつけると石畳が砕け、電流を含んだ黒煙がバチバチと鳴らしていた。


(あの人……!)


白無垢をまとい、唇を赤く染めさせた美しい女性が棺の前に立っている。

影を作り出すほど長いまつ毛に、艶っぽい目元は見覚えがあった。

女性は棺から出ると、パッパッと白無垢の汚れを振り払い、冷めた目をしてあたりを見回した。


「お前はなんだ」

月冴の問いに女性は顔をあげると、上品に微笑んで頭を垂れる。


「お初にお目にかかります。わたしは椿と申します。土地神様である貴方様への捧げ物としてここへ参りました」


その言葉に月冴が眉をひそめる。


「つい最近も送られてきたと思うが」

「不良品を送ったせいで凶作が続いていると。村の者がそう結論を出し、わたしが送り出されました」


黒煙の立ち上がる音で二人の会話があまり聞き取れない。

だが少女にとっては良いことではないと、椿の冷めた眼差しが語っていた。


(私、どうしたらいいのかな)

知りたいのに怖いと思うのは、普通のことだろうか?

仮に二人の会話を理解出来たところで、少女が救われることはないだろう。


(前向きに。前向きに……)

どうすれば前向きになれるだろう。

こうして前向きを意識していることこそ、後ろ向きではないか。

自分の後に来た贄は艶っぽい美しさの持ち主で、同じ捧げものとして劣等感を抱いた


「身体に異変はないのか?」

「異変ですか? 少し息苦しさはありますがすぐに慣れると思います」

「生の執着か。死の恐怖がないのか」

(あ……)


月冴が椿を見る目に興味が灯ったと気づき、二人の横顔に立ちすくむ。

(私には背伸びをしても届かない……)

月冴と椿が並ぶと、自分なんて霞んでしまう。

背伸びをしたところで、少女が実感するのはむなしさだけ。


(私じゃなくてもここにこれる人がいる。こんなにもキレイな人が……)

少女が持ちあわせていた”自信”はあっさりと打ち砕かれる。

二人を見ていられず、目を反らして胸に爪をたてた。


(椿さん……か。私はそんな鮮やかさをもってない)

名前はなく、養父には売られるような価値のなさ。

生贄として役立たず、厄介払いにしかならなかった。


(月冴さまが私に飽いたらどうなるのだろう)


細い糸一本に少女の命は繋がっている。

つまらないと言われれば、少女はどこに行けばいいのか。

(そのときは死んじゃうしかないかも)

最初から死のために来た。

月冴に死を望んだこともある。

今さら生死に戸惑うのは、生贄に不要だ。

無価値を思い知り、この場から逃げたくてたまらなかった。
(やめよう。このまま静かに離れるのがいい)


これが必要とされる選択だ。

目を伏せて裸足で小石を擦ると、視界が後ろに引っ張られる。

「……月冴さま?」

手首を掴まれ、少女がひゅっと喉を鳴らす。

月冴が手首を握る力を強め、広い胸に少女の身体を引き込んだ。


「すでに差し出した生贄はいる。そんなもの、送られるだけ迷惑だ」


(いたい……)

突然、生贄として送られたのだから月冴にとって迷惑でしかない。

厄介者には相応の態度をとってほしいのに、月冴の手は熱くて少女の心を切なくさせる。


「誰が言い出したかは知らぬが、私は土地神ではない」


そう言いきって月冴は鬼火であたりを囲み、椿をけん制した。

物珍しい鬼火に椿は椿は首をかしげ、白無垢の角隠しを外す。


「土地神ではない。ではあなたは何でしょう?」

「あやかしだ。少なくとも人間にやさしい生き物ではない」

「あやかし……ですか」


椿は口元を隠し、目を細めて三日月の形にする。

冷めた目が少女に向き、袖をおろして赤い唇を歪ませた。


「やさしさがないのであればちょうどよいですわ」


まるで凶器だ。

あざやかに雪景色のなかで咲く花、紅の瞳に魅入られれば首は落ちる。


(この人、変わった?)


記憶の中にあるのは村で一番気立ての良い可憐な女性。

ほがらかな笑顔を浮かべ、ドジで転倒した少女に手を差し伸べてくれるような人だった。

誰もが少女をあざ笑うのに、一人だけ少女の着物についた泥を払ってくれた。

やさしい一面しか知らなかったので、今見える鋭さは余計に恐怖をあおってきた。



「わたしはあなたがあやかしでも構いません。……神に嫁ぐ。その覚悟で参りましたから」


挑発か、椿は紅色の唇をペロリと舐める。


「嫁ぐだと?」

「えぇ。たどり着いた先でお会いした方の妻となる」


棺からゆっくりと離れ、椿は月冴の前に立つと視線を流して少女を一瞥した。


「短い間ですが、よろしくお願いしますね。名無しの娘さん」


空虚感に足元に大きな穴が空いた気がした。

椿の髪には白い大輪の花が咲いている。

花の飾りを掴むと、椿はやけくそな微笑みを浮かべて花びらをひらひらと落とした。

波紋する庭石を踏み分けて、椿はためらうことなく屋敷に進んでいく。



「も、戻ります。私が決めることはなにも……」


月冴の胸を押し、少女は熱の集中する頬を袖で擦る。

ここにいる特別さに自惚れていた。

恥ずかしさに頭が締め付けられる。

汗ばんだ手を月冴に気づかれたくなかった。




「逃げるな」


振り向けない。

だけど足は動かない。

肝心なときに決断力がないと、あきらめばかりの生き方に下唇を噛んだ。
「噛むな」

月冴が少女の腰に手を回し、反対の手で血のにじんだ少女の唇を指で押した。


「だ、だめですっ……!」

月冴から離れようと身をよじったが、見かけによらず月冴の力は強くて抜け出せない。

キレイなだけではなく、ちゃんと異性だと恥じらう気持ちが生まれた。


(いやだ。こんなのまるで私が汚してるみたい)


「何をそんなに怯える?」

打ちひしがれる少女に月冴の問いは容赦ない。


「何のためにやさしくしてくださるのですか?」

答えを持ちあわせない少女は、穴埋めをしたくて問いに問いを重ねる。


養父に見向きもされなかったので、価値を見定める目に耐えられない。

相手に価値を見出しても、相手が同じ分だけ少女に価値を感じるかはイコールではない。

鈍くなれば傷を見なくて済む。

いつのまにか深い切り傷になっており、どうしようもない卑屈な感情に対処できなかった。


「お前は本当にバカなのだな」

「そうです。でもバカって言わないでください」

「構わないだろう? 私がバカなのだからお前も似たようなものだ」

「そんなことっ……!」


口づけと呼ぶものだと気づくまでに数秒。

重なった唇は冷たくて、イタズラに遊ぶふわふわとしっとりさ。

あんなに悲観的になっていたのに、唇が重なると声に出来なかった言葉が通じた気がした。



「私はずっとこの場で一人だった」


吐息とともに離れていく唇。

少女の赤色が月冴の唇に移っていた。


「ここは前と違う」

「違う……?」

「愛情には限りある。以前と何が違うのか。お前はもう少しそれを自覚することだな」


そう言って月冴は少女から距離をとり、さっさと屋敷に戻っていく。

夜に浮かぶ白銀色に手を伸ばそうとして、伸ばしきれずに宙をさ迷う。


(前向きに……。前向きに考えるとしたら私はどうしたい?)

落雷で焦げた匂いをはなつ棺に振り返り、拳を握って大きく前に踏み出した。


(月冴さまに気持ちを返してほしい)

それだけが少女を突き動かした。

月冴の手首を掴むと、背伸びをして蒼い瞳との距離を縮める。

頬の熱さをそのままに月冴を見つめれば、月冴はイタズラに口角をあげた。

ひょいと身体を抱き上げられ、薄紅色の唇に噛みつかれる。

酔ってしまいそうな胸の高鳴りに、少女はまどろんで目を閉じた。


(しょっぱい、こんなのは知らない。だけど怖くなかった)


こんなにも激しくて情の熱い口づけがあるとは……。

泣きそうな気持ちはあれど、今は笑っていたいと口角を結んだ。
数日経っても屋敷で椿に遭遇することはなかった。

顔をあわせると何を言えばいいかわからないので、不安はぬぐえないまま。

畑を作ろうと土を耕して気を反らそうとした。


「いたっ……」

クワの持ち手が逆立ち、少女の手のひらに棘が刺さる。

赤色が腕に伸びていくことに、銀世界に咲く花が脳裏によぎった。

(今はまだ……)

***


夜になると月冴が顔を出すようになった。

二人並んで縁側に腰かけ、空に浮かぶ満月を眺めて感嘆の息を吐く。


「ここの生活には慣れたか?」
「はい。……あの、椿さんは」

月冴の気づかいにうなずき、同時に胸に刺さったままの感情を吐露した。

「部屋を与えた。図太い女だ。夜になれば寝所に忍び込もうとする」


おかしな奴だと、月冴にしてはめずらしく声を出して笑った。

あまり見ることのない笑顔に、少女の心がモヤモヤして唇を丸める。

このような感情は月冴を縛りつけると、ふるっと首を横に振って口角をあげた。


「嫁ぐ覚悟と言っておられましたから。ここに来れるのは私だけではなかった。もう月冴さまはお一人ではないのです」

それが事実。

それを口にしただけなのに、月冴の眉がぴくっとあがった。


「”それ”は本気で言っているのか?」

棘のように鋭い声だ。

月冴を見ることが出来ずに肩をすくめていると、頭上からため息がした。

――強く肩を押され、少女の身体が縁側に倒れた。

顔の横に手をつかれ、真上に瞳孔を細くしたあやかしがいる。

白樺のように美しい指先が少女の唇をなぞった。


「たとえそうだとしても先に来たのはお前だ。今までここに送られた贄とお前は違う色をしている」

月冴を不快にさせる色を消そうと、炎で焼き尽くした。

残った焦げの黒さに、白さが恋しくなったと月冴は語った。


「椿は誰よりも焦げた色だ。白無垢を着ていたのは当てつけ以外の何ものでもない」

「それは月冴さまの嫁になるためで……」

「違うな。あれは憎悪だけでここに来た。それでもお前が先に来ていなければ死んでいただろう」


どういう意味、と疑問より先に月冴が物思いに沈んだ微笑みを浮かべた。

(私が先にって……。私はたまたま……)

生きてたどり着いただけだが、私より前に来た人は全員死んでいたのだろうか?

一人もいなかったとは思えず、少女は椿の冷めた顔を思い出した。


(椿さんがたどり着いたのもたまたま?)

可憐な花のようだった人が、瞳に光を失くしていた。

生きているのに、椿はまるで生きたくなかったと語るような目をしていた。

「あそこまですべてを拒絶することはないが……。あれはあれで一種の防衛反応だろう。お前にもお前なりの守り方があったんだ」

「月冴さま?」

そう言って月冴は語ることに飽いたようで、少女の上から退くと縁側で寝転がった。

最初の荒々しさはもうない。

今はおだやかな気持ちで一緒にいられる。

委縮する感覚はないと、くすぐったさに少女は目を伏せた。


(前向きに。前向きに考えたら私はなにをしたいのかな)


かつての願いは養父に振り向いてもらうことだった。

村でよく見かける子どもをかわいがる親のように少女を見てほしかった。

養父との距離が出来ても、その望みが生きているかもしれない。

長年抱き続けた”親としての顔”を見たかった。

それが起因となり、一心に役に立とうと駆けまわっていた。

ようやく腑に落ちたが、だからといって割り切れるものではないと喉の詰まりに指を置いた。


「ひとつ、わがままを言ってもいいですか?」

「なんだ?」

このつっかえを取るには時間がかかる。

模索しながら少女は欲求と向き合い、震える声で月冴に願い出た。


「膝枕、していただけませんか?」

「……は?」

少女の願いに月冴はすっとんきょうな声をあげる。

しかめっ面に少女は間違ったことを言ったと慌てて口元を隠し、「なんでもない」と慌てて身体を引っ込めた。


(なにを言ってるの! 月冴さまにとっては戯れでしかないのに! 私の抱く想いと同じものが返ってくるわけじゃないのに……)


戯れなのだから、期待した分だけまた鈍くなるしかない。

それならば最初から気づかないでいようと、少女は月冴を遠ざけようとした。

異常な自己嫌悪であることに気づかない。

それが少女にとっての当たり前だったので、期待よりも気持ち悪さが上回った。