鬼の継母~虐げられし天女は鬼の二度目の花嫁となる~

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 天宮家で役立たずと虐げられていた椿が、幽世の羅漢の元へ嫁入りしてから一年あまり。
 今では洋式の洒落たお屋敷での生活にもすっかり慣れ、『羅漢の小さな若奥様』とあやかしたちに噂されるようになっていた。
 一年ほど前に体が少し成長したものの、それ以降、椿の体に大きな変化はなかった。

「今日のおやつはなぁに? お母しゃま」

 椿のことを、「お母しゃま」と呼ぶのは青い瞳をもった青斗だ。

「今日は『ハットケーキ』よ、青斗」
「わぁい、蜂蜜たっぷりかけてね」
「かーちゃん、おれは黒蜜!」

 椿を「かーちゃん」と呼ぶのは、赤い瞳をもった赤瑠だ。

 小麦粉に溶いた卵、砂糖、牛乳、膨らし粉を入れて混ぜ、フライ鍋で焼く丸いハットケーキは帝都のデパートで出されたものが始まりだが、幽世にも洋風のおやつとして伝わっていた。
 青斗と赤瑠は椿を「母」と呼び、甘えるようになっていた。穏やかだけれど、幸せを噛みしめる日々。虐げられていた天宮家での生活が遠い過去のようだ。

(これからも家族と幸せに暮らせますように)

 椿の願いは、夫である羅漢と継子の青斗と赤瑠と共に平和に生きていくこと。
 だが椿のささやかな願いは、羅漢からもたらされた報せで急変することとなる。

「椿、君の御父上から連絡があった。椿に会いたい、帰ってきてほしいそうだ」
「えっ、お父様が……?」

 椿の実父である源太郎は、天女の末裔である娘たちを『天宮家の花嫁』として嫁がせることに執着しており、体の成長が止まってしまった椿を冷遇していた。美しく成長した妹の牡丹ばかりを可愛がり、牡丹の祝言の邪魔になるからと椿を幽世の羅漢に嫁がせた。椿は死んだということにされて。
 生家の家族にはもう二度と会うことはないと覚悟していたのに、なぜ今になって父は椿に帰ってこいというのだろうか。理由はわからないが、あまり良い意味ではない気がした。欲深い源太郎は嫁いだ娘を恋しがる男ではないからだ。

「旦那様、椿はお父様に会うつもりはございません」
「わたしもそのほうがいいと思うよ。秋羽に調べさせたが、君の妹君の嫁ぎ先が揉めているらしい」
「何があったんでしょう?」
「詳しいことはまだわからない。牡丹さんの姿を見た者が最近いないそうだから」
「牡丹の姿が? そんなはずは……」

 華やかなことが好きな牡丹のことだから、嫁いでからも、あちこちにお出かけしていることだろうに。

「慎重に調べさせるから、椿は心配しないでくれ」
「はい、旦那様にお任せいたします」

 羅漢に任せておけば無事に解決してくれる、椿はそう思っていた。妹の牡丹のことは少し心配だったが、椿に何かできるとは思えなかったからだ。
 だがしばらくして、青斗と赤瑠が忽然と姿を消してしまった。

「青斗、赤瑠! どこに行ったの?」

 椿のことを母と呼ぶようになってから、許可なくお屋敷を出ていくことは一切なくなっていた。危険な遊びはしないこと。それが父と継母との約束だからだ。だから二人が椿に知らせることなくお屋敷を出ていくことはありえない。
 仕事から急ぎ戻った羅漢、執事の秋羽や使用人たちとも必死に探したが、どこにもいない。途方に暮れながらも、椿は必死に探し回った。

「青斗、赤瑠、お母しゃまはここよ……」

 目眩を感じた椿は近くの岩に腰を下ろした。ほど良い高さの岩がちょうどあったのだ。

『ミツケタ……』

 聞き慣れぬ声。ぞくりと悪寒が走って立ち上がると、背後から何者かに口を封じられた。必死に抵抗したが、手刀で首元をぶたれ、椿は気を失ってしまった。

「ん……」

 椿が意識を取り戻すと、目の前にあったのは天宮家の座敷牢だった。椿はかつて何度かここに閉じ込められた。役立たずの娘として。

「だれ……?」

 座敷牢から女の声が響く。その声に聞き覚えがある。忘れたくても忘れられない相手のものだ。

「お姉様……? いやぁ! お姉様の幽霊よっ!」

 座敷牢の中で震えながら土下座しているのは、椿の妹、牡丹であった。美しかった妹が、見る影もなくやつれている。

「牡丹、どうしてここに? 新堂家に嫁いだのではなかったの?」
 
 椿の声が聞こえていないのか、牡丹はがたがたと座敷牢の中で震えている。

「お姉様を虐めたりしたから罰があたったんです……許してください、お姉様ぁ! わたしを呪わないでぇ!」

 父親から椿は死んだと本当に聞かされていたのか、目の前にいる姉を幽霊だと思い込んでいる。

「牡丹、落ち着いて。事情をゆっくり話してちょうだい」

 驚いた椿が問うと、背後から二度と聞きたくない声が響いた。

「牡丹はな、役立たずの娘だったのだ。新堂家に嫁いだのに一年経っても才華の子を授からなかったゆえ、離縁された」

 振り返ると、そこにいたのは椿の父、源太郎だ。不気味なほど優しい笑みを浮かべている。

「美しくなったな、椿。やはりおまえこそが天女の娘だったのだ。天宮家の花嫁として新堂家に嫁いでおくれ」

 父はいったい何を言っているのか。幽世に嫁いだ娘を強引に呼び戻すとは正気とは思えない。

「お父様……まさかとは思いますが、青斗と赤瑠、私の息子たちを攫ったのはお父様ですか?」
「あいつらは椿の本当の子ではない。あやかしを雇って連れてこさせたが、おまえさえ戻ってくれれば、無事に返すと約束しよう」
「お父様っ……!」

 実の父がこれほど卑劣だったとは。強欲な男ではあったが、無謀なことはしなかったはずなのに。

「新堂家からの援助を打ち切られた。牡丹の支度金も返せという。だが椿が新堂家に嫁げば、すべて解決する。椿、おまえはいい子だ。父の願いを聞いてくれるだろう?」

 血走った眼でふらふらと椿に近づいてくる源太郎も、げっそりとやつれている。金策に尽きて、正常な判断ができない状態なのだろう。

「お父様、青斗と赤瑠を返してください。牡丹も座敷牢から出してあげて」

 椿はできるだけ冷静に、要求だけを父に伝えた。

「だから実の子ではない鬼の子と、役立たずの牡丹など必要ないと言っているだろう!」

 父のあまりに身勝手な発言に、椿の体が震える。それは恐怖ではない。純粋な怒りだった。
 子どもたちの命を、そして女の一生を何だと思っているのか。

「お父様、女性は、天宮家の娘は、才華の子を産むために嫁ぐわけではありません。嫁ぎ先で夫と共に新しい家族を作るために嫁ぐのです。天宮家の娘はあなたの道具ではない。今すぐ息子たちを返しなさいっ!」

 怒りに震える椿の体に異変が起きていた。手と足がするりと伸び、顔立ちも体も、少女から大人の女性へと変化していた。丸みを帯びた女性らしい体つき、驚くほど長くなった髪は椿を守るように波打っている。神々しいまでに美しく成長した椿の姿。源太郎はごくりと唾を飲み込んだ。

「おお、まさに天より降り立った天女様だ。やはり椿こそが天宮家の花嫁。さぁ、父の元へ帰ってこい」
「私は帰りません。子どもたちは返していただきます」

 ちらりと座敷牢を見ると、施錠された鍵が外れ、座敷牢の戸が開いた。閉じ込めれていた牡丹が、不思議そうな表情をしている。
 次は子どもたちだ。父の横を素通りしようとすると、源太郎が椿にすがりついた。

「待てっ! 父の許しもなく、どこへ行くつもりだ」

 椿は無言で父の手を振り払ったが、なおも源太郎はすがりつく。

「椿ぃ、実の父を見捨てるつもりか?」

 恥も外聞もなく、源太郎はおいおいと泣き始める。椿が優しい娘であることを誰より知っているのだ。
 
「お父様、なぜ私の体が今になって成長したのかわかりますか? 私は守りたいんです。愛する家族を。青斗と赤瑠を守るために、私は変わったのです。あなたのためではありません。金輪際私をあなたの娘と言うのはお止めください」

 椿の毅然とした態度に、源太郎は力なくしゃがみこんだ。娘がとっくに父の手を離れたことを、ようやく理解したようだ。
 椿が再び歩み始めると、可愛らしい声が響いた。

「お母しゃま!」
「かーちゃん!」

 青斗と赤瑠だった。双子を抱いているのは、椿の夫、羅漢である。

「旦那様! 青斗! 赤瑠!」

 可愛い息子たちに夢中で駆け寄った椿は、泣きながら二人を抱きしめた。

「無事で良かった、青斗と赤瑠……」

 青斗と赤瑠も椿にしがみつき、ぽろぽろと涙をこぼしている。

「怖かったよぅ、お母しゃま」
「お、おれは怖くねぇもん。ちょびっとぶるぶるしてた、けどさ」

 素直に恐怖を訴える青斗と違い、赤瑠は強気なことを言っている。だかその体は震えているため、強がっていることがよくわかる。

「遅れてすまない、椿。まずは子どもたちを救うのが先だと思ったのだ」
「ええ、青斗と赤瑠のほうが大事ですから。それより私の父が……申し訳ございません」
「君が謝ることじゃない。むしろわたしのほうがこの事態を予測しておくべきだった。青斗と赤瑠を少し任せてもいいか?」
「はい」

 青斗と赤瑠を羅漢から受け取ると、羅漢は呆然と座り込む源太郎に歩み寄った。

「わたしの妻だけでなく、子どもたちにまで危害を加えたことは到底許せない。二度とわたしの家族に近づくな!」

 文字とおり鬼の形相で怒鳴られた源太郎は、「ひぃ」と惨めな悲鳴を上げて震えあがった。

「せめて椿の妹君だけは大事に看病してやりなさい。それさえもできないのであれば、即刻つぶす。家もおまえもだ!」
「は、はいっ! お許しください」

 地に這いつくばった源太郎は頭をこすりつけるようにして詫びた。どこまで反省しているのかわからないが、二度と椿に近づくことはないだろう。

 椿と子どもたちの前に戻ると、羅漢は優しく微笑んだ。

「さぁ、帰ろう。我が家へ」
「ええ、帰りましょう」

(今度こそさようなら、お父様。そして牡丹)

 血の繋がった家族に心の中で永遠の別れを告げると、椿は羅漢に寄り添った。
 愛する夫、そして可愛い息子たちの温もりに包まれながら、椿は幽世へと帰っていった。


 *

 お屋敷に着くなり、青斗と赤瑠はこてんと寝てしまった。慣れ親しんだ我が家に戻ったことで、ようやく落ち着いたようだ。
 椿は二人を布団に入れてやると、そっと頭を撫でた。

「無事で本当に良かった。この子たちだけは守りたい……そう思ったら、私の体がこんなことになりました」

 椿はあえて悪戯っぽく微笑んだ。椿とて、攫われた恐怖を思うと、心がどうにも落ち着かないのだ。

「椿、無理して笑わないでくれ。あなたを守ると言ったのに、不甲斐ない夫ですまない」

 羅漢は椿の体をそっと抱きしめる。羅漢の体も、かすだが震えている。もう二度と妻を失いたくない羅漢にとって、愛妻が攫われることは何より辛いことなのだ。

「旦那様はご立派でした。凛々しくて誰より素敵でしたわ」
「嬉しいことを言ってくれる。それにしても、ずいぶんと変わったね、椿は」

 二十一歳の大人の女性、しかも誰もが見惚れるほどの美女へと成長した椿の姿を、羅漢は眩しそうに見つめている。

「そんなに変わりましたか?」
「ああ、とても。今の君なら、口づけぐらいしてもかまわないかい?」
「旦那様……」

 これまでの羅漢は決して椿に無理強いはしなかったのだ。
 羅漢の指先が椿の頬に触れる。椿は静かに目を閉じ、羅漢の愛を静かに受け入れることにした。

(私、羅漢様の本当の妻になるのかしら……なんだか怖い……)

 緊張と恥ずかしさで、心がどうにかなりそうだ。椿は体をぎゅっと縮めた、その瞬間。
 ぽん! という奇妙な音と共に、椿の体は少女の肉体に戻っていた。

「え……?」

 二人同時に声を発した。
 短い手足に戻った自らの体を確認した椿は、泣きそうな表情で羅漢を見上げる。

「羅漢様ぁ……体が子どもに戻ってしまいました……」

 目を丸くしていた羅漢だったが、やがて楽しそうに笑い始めた。

「なぜ笑うんですか? 羅漢様。私はやっと大人になれて嬉しかったのに」
「きっとたぶん、君の心はまだ大人になれていなかったということなんだろう。でも焦ることはないさ。わたしはいくらでも待つからね。君の心と体がわたしを受け入れてくれるまでね」

 大人の余裕の微笑みを浮かべた羅漢は、椿の頭を優しく撫でる。子ども扱いされているとわかるが、今は大人しく受け入れるしかない。

「天女、幽世へ降り立つ、か。君は幽世で伝説になるかもしれないね」
「私はそんなものいりません。羅漢様の妻でいたいだけです」
「可愛らしいことを言って、わたしを誘惑するのはやめてくれないかな?」

 羅漢の言葉の意味が理解できないのか、椿は不思議そうに頭を傾けている。

「可愛い椿。子どもの姿であっても、麗しい美女になっても、君はわたしの妻だ。これからも一緒に生きてくれるかい?」
「はい、旦那様」

 二人は互いの思いを確認するように、ひしと抱き合った。

 天女の血を受け継ぐ椿は幽世の鬼である羅漢へと嫁ぎ、数奇な運命に導かれ、鬼の継母となった。
 そしてこれからも温かな家族を夫と共に作っていくのだ──。


   了