宵那国の後宮は、先帝の時代よりかなり小さくなっていた。華沙は浪費を重ねた先帝の後宮を見直し、調度や食事は落ち着いたものになった。
けれど涼子の月の宮は常に華沙の贈り物で華やいでいた。ほとんどの後宮の住民が、帝が中宮の元を訪れた後でも涼子の寝所に通っていることを知っていたが、それに異を唱えられる者は一人としていなかった。
だから後宮に大勢の客を招いて宴が開かれるのは、先帝の時代以来だった。そしてそこに帝の掌中の珠である涼子が出席するというのは、重臣すら驚かせた。
華沙は支度の整った涼子と対面してほほえんだ。
「すず、よく似合う」
噂の渦中にある涼子は、朝から医師の診察を受け、夕方にようやく単衣を重ね、装飾品を身につけさせられた。
華沙は一度涼子の手のひらに唇を寄せて目を閉じると、涼子を抱いて立ち上がる。
「参ろうか」
欄干の向こうには夜との境界が見えていた。まぶしいばかりの太陽が退場して、東の空に月が姿を現そうとしていた。
公達たちはすでに半刻前から席につき、帝と涼子の訪れを今か今かと待ち構えていた。
そしてその時はやって来た。奥から歩み出た帝は、風雅な梅の香りをまとって上座に現れた。
彼が腕に抱いた月の姫宮は、帝とは対照的に、ふんわりと漂う桜の香をまとっているようだった。
もちろん几帳の向こうにおわす帝と涼子は、公達が姿を見ることは叶わない。けれど傍らでそれを覗き見ることができる女官たちは、一様にほうとため息をついた。
几帳の向こうで、帝と涼子は月灯りのような光をまとって見えた。それほどまでに二人のいでたちは洗練されているのだと、公達たちは胸を熱くしていた。
華沙は公達に視線をめぐらせると、来客より一段高い御座所の傍らに涼子を下ろす。そして自らは堂々と、彼だけが着くことを許される椅子に座した。
華沙は決して張り上げてはいないのに、夜の中から響いて来るような声で告げた。
「よく来てくれた」
彼が涼子に触れた言葉は短かったが、公達を制するような力があった。
「紹介しよう。わが妹の涼子だ。こういった場は不慣れゆえ、不作法は許せ」
それだけ告げると、華沙は酒杯を掲げる。
「……月の国宵那に、幸多からんことを」
宵闇に人々の寿ぎの言葉が続いて、宴が始まった。
楽師が音楽を奏で、舞姫が踊る。女官たちが客人たちに酌をして、食事を勧めた。
今宵の宴には中宮礼子も装って出席している。またそれに劣らない美しさの女官たちが薄い裾をひらりと動かしながら行きかう。後宮だけが持つ、なまめかしい色があった。
けれど訪れた人々の目を引き付けてやまなかったのは、ひとえに帝とその傍らの妹姫だった。
普段めったに表情を変えることがない華沙が、少し体を傾けて涼子に何事かささやいて、たびたび喉を鳴らすように笑う。
客人たちは、まるで秘め事を覗き見ているような気分にさせられた。実際、普段なら決して見ることができない光景があった。
あらかじめ固く命じられていたとおり、涼子に直接声をかける者はいなかった。涼子に気に入られるというのは、帝の歓心を得られるより怒りを買う可能性が高い。大臣たちは公達に、決して姫宮に無礼を申し上げてはならないと言い聞かせていた。
けれどまだ若い公達は、儚げでありながら危うい空気をまとう涼子の姿を、つい熱を帯びたまなざしでみつめてしまう。
華沙はそういったぶしつけな視線に気づいていたが、あえてそのままにしていた。代わりに公達が口にする歌や、帝の言葉にどう返すかを、一人一人検分するように見ていた。
華沙は涼子の様子にも意識を向けていた。涼子は相変わらず無言で、年頃の公達に興味を示す素振りもない。
宴の開始から一刻が経ち、涼子が小さく咳をした。
華沙は涼子に振り向き、その顔をのぞきこむ。涼子は春になってから血混じりの咳をすることはなくなったものの、未だに外気に触れることはめったにない。
華沙は労わるように優しく言う。
「冷えただろう。そろそろ下がってもよい」
華沙の言葉に、涼子は微かに首を傾けた。甘えるようなその仕草に、華沙は庇護欲と微かな熱を同時に抱いた。
涼子は疲れている。早く休ませてやらなければと思いながら華沙が苦笑した、そのとき。
ずっと伏せられていた涼子の目が、ふっと動いた。ここのところ華沙を追う以外動かなかった目が、何かをみつけたようだった。
華沙がその視線の先を追うと、一人の公達がいた。
彼は青年公達と言うには少し年かさで、二十代の後半だった。それもそのはずで、彼は十五歳のときから父親に代わって所領を治めてきた。今日も父親に連れられてではなく、自らが侍従を引き連れてやってきた。
若々しく豊かな黒髪、どちらかといえば中性的な面立ち。けれど華沙と目が合っても、多くの公達がするように恐れをはらんだ表情を浮かべることなく、優雅で見事な微笑を返してみせる。
華沙は涼子にそっと問いかける。
「あの公達が気になるか?」
涼子の目はその公達をじっとみつめていた。華沙の問いに、涼子は首を横に振る。
否定さえしなかった涼子が反応を返した。華沙は哀しい喜びを感じながら、よい、と言葉を続ける。
「あれは東の国を所領に持つ、比良の君。礼子に似ているだろう。従兄にあたるのだ」
「義姉上の」
ぽつりとつぶやいた涼子に、華沙はうなずく。
「そうだ。遠い所領の、もっとも私の意のままにならぬ公達だ……」
涼子はようやく、亡霊以外の生きた男を瞳に映した。
華沙は喜びと苦しみの狭間で、その事実をかみしめた。
けれど涼子の月の宮は常に華沙の贈り物で華やいでいた。ほとんどの後宮の住民が、帝が中宮の元を訪れた後でも涼子の寝所に通っていることを知っていたが、それに異を唱えられる者は一人としていなかった。
だから後宮に大勢の客を招いて宴が開かれるのは、先帝の時代以来だった。そしてそこに帝の掌中の珠である涼子が出席するというのは、重臣すら驚かせた。
華沙は支度の整った涼子と対面してほほえんだ。
「すず、よく似合う」
噂の渦中にある涼子は、朝から医師の診察を受け、夕方にようやく単衣を重ね、装飾品を身につけさせられた。
華沙は一度涼子の手のひらに唇を寄せて目を閉じると、涼子を抱いて立ち上がる。
「参ろうか」
欄干の向こうには夜との境界が見えていた。まぶしいばかりの太陽が退場して、東の空に月が姿を現そうとしていた。
公達たちはすでに半刻前から席につき、帝と涼子の訪れを今か今かと待ち構えていた。
そしてその時はやって来た。奥から歩み出た帝は、風雅な梅の香りをまとって上座に現れた。
彼が腕に抱いた月の姫宮は、帝とは対照的に、ふんわりと漂う桜の香をまとっているようだった。
もちろん几帳の向こうにおわす帝と涼子は、公達が姿を見ることは叶わない。けれど傍らでそれを覗き見ることができる女官たちは、一様にほうとため息をついた。
几帳の向こうで、帝と涼子は月灯りのような光をまとって見えた。それほどまでに二人のいでたちは洗練されているのだと、公達たちは胸を熱くしていた。
華沙は公達に視線をめぐらせると、来客より一段高い御座所の傍らに涼子を下ろす。そして自らは堂々と、彼だけが着くことを許される椅子に座した。
華沙は決して張り上げてはいないのに、夜の中から響いて来るような声で告げた。
「よく来てくれた」
彼が涼子に触れた言葉は短かったが、公達を制するような力があった。
「紹介しよう。わが妹の涼子だ。こういった場は不慣れゆえ、不作法は許せ」
それだけ告げると、華沙は酒杯を掲げる。
「……月の国宵那に、幸多からんことを」
宵闇に人々の寿ぎの言葉が続いて、宴が始まった。
楽師が音楽を奏で、舞姫が踊る。女官たちが客人たちに酌をして、食事を勧めた。
今宵の宴には中宮礼子も装って出席している。またそれに劣らない美しさの女官たちが薄い裾をひらりと動かしながら行きかう。後宮だけが持つ、なまめかしい色があった。
けれど訪れた人々の目を引き付けてやまなかったのは、ひとえに帝とその傍らの妹姫だった。
普段めったに表情を変えることがない華沙が、少し体を傾けて涼子に何事かささやいて、たびたび喉を鳴らすように笑う。
客人たちは、まるで秘め事を覗き見ているような気分にさせられた。実際、普段なら決して見ることができない光景があった。
あらかじめ固く命じられていたとおり、涼子に直接声をかける者はいなかった。涼子に気に入られるというのは、帝の歓心を得られるより怒りを買う可能性が高い。大臣たちは公達に、決して姫宮に無礼を申し上げてはならないと言い聞かせていた。
けれどまだ若い公達は、儚げでありながら危うい空気をまとう涼子の姿を、つい熱を帯びたまなざしでみつめてしまう。
華沙はそういったぶしつけな視線に気づいていたが、あえてそのままにしていた。代わりに公達が口にする歌や、帝の言葉にどう返すかを、一人一人検分するように見ていた。
華沙は涼子の様子にも意識を向けていた。涼子は相変わらず無言で、年頃の公達に興味を示す素振りもない。
宴の開始から一刻が経ち、涼子が小さく咳をした。
華沙は涼子に振り向き、その顔をのぞきこむ。涼子は春になってから血混じりの咳をすることはなくなったものの、未だに外気に触れることはめったにない。
華沙は労わるように優しく言う。
「冷えただろう。そろそろ下がってもよい」
華沙の言葉に、涼子は微かに首を傾けた。甘えるようなその仕草に、華沙は庇護欲と微かな熱を同時に抱いた。
涼子は疲れている。早く休ませてやらなければと思いながら華沙が苦笑した、そのとき。
ずっと伏せられていた涼子の目が、ふっと動いた。ここのところ華沙を追う以外動かなかった目が、何かをみつけたようだった。
華沙がその視線の先を追うと、一人の公達がいた。
彼は青年公達と言うには少し年かさで、二十代の後半だった。それもそのはずで、彼は十五歳のときから父親に代わって所領を治めてきた。今日も父親に連れられてではなく、自らが侍従を引き連れてやってきた。
若々しく豊かな黒髪、どちらかといえば中性的な面立ち。けれど華沙と目が合っても、多くの公達がするように恐れをはらんだ表情を浮かべることなく、優雅で見事な微笑を返してみせる。
華沙は涼子にそっと問いかける。
「あの公達が気になるか?」
涼子の目はその公達をじっとみつめていた。華沙の問いに、涼子は首を横に振る。
否定さえしなかった涼子が反応を返した。華沙は哀しい喜びを感じながら、よい、と言葉を続ける。
「あれは東の国を所領に持つ、比良の君。礼子に似ているだろう。従兄にあたるのだ」
「義姉上の」
ぽつりとつぶやいた涼子に、華沙はうなずく。
「そうだ。遠い所領の、もっとも私の意のままにならぬ公達だ……」
涼子はようやく、亡霊以外の生きた男を瞳に映した。
華沙は喜びと苦しみの狭間で、その事実をかみしめた。