「匠―起きなさい。今日から三年生でしょ。起きなさーい」

 時計の目覚まし音をバックに、母さんの声が下から聞こえる。あっ、止めないと。定位置の時計に手をのせ、止める。

 あれ、待てよ、俺、昨日アラームをかけずに寝た…はず。翌日、何もない日で、特別、朝早く起きなくてもいい日は、目覚まし時計をセットしないで寝ている。昨日も、そうしたはず。頭の中で状況を整理しようとしたが、無理そうだ。あぁ、えっ? どういうこと?

 返事をしなかったせいで、母さんが勢いよく階段を駆け上がり、部屋にやってきた。

「何してるの! 匠、学校だよ」
 怒の感情を沈めた声が耳を突き抜ける。

「えっ、卒業したし」

 昨日卒業式だったし、もう学校行く必要ないはずなのに…起きたはずなのに、これは夢なのか。

「何寝ぼけているのよ。今日から三年生でしょ」

 溜息を交えつつ、母さんは呆れた表情をみせる。俺がおかしいのか、でも、昨日卒業式だった……。

「今日って何日?」

 取りあえず日にちを聞いてみることにした。

「4月5日」

 頭上からタライを落とされたかのような衝撃で目が覚めた。

「2023年?」

 SF物のドラマや映画の主人公みたいに西暦を聞くなんて、思いもしただろうか。

「そうだよ」

 状況をなかなか飲み込むことができなかった。えっ、昨日、卒業式だったよな。

 あのおじさんの言葉が、まさか……現実になったのか。すぐには現実を呑み込めなかったが、これで、後悔を消すことができる。これからの行動次第で、水島を救うことができるんだ。

「ありがとう!」

 卒業式を終え、もう制服を着て学校に行くことは無いと思ったのに、高校生活、三年間で充分だと思っていたはずなのに、俺はまた三年生をやり直すことができると知って、心の底から叫びたくなるほど嬉しさがこみ上げてきた。

「早く支度しなさいよ」

「分かった」

 もう袖を通すことないと思っていた制服を手にして着替える。

 正直言うと、まだ実感が湧かない。

 着替えが済むと、カバンを持って、朝食を食べに降りる。
 昨日で終えたはずの高校生活を途中から巻き戻しスタートするとは思いもしなかったが、これで水島を救えるし、後悔を上書きすることが出来ると思うと、嬉しさで満ちていた。
 テレビに視線を移すと、世界的に有名な芸術家Ninoの特集がされていた。あまり絵には興味はないが、ご飯を食べながら、とりあえず見ることにした。でも、この芸術家、どこかで見た覚えが……。去年も、朝ご飯食べ終わて、立ち上がるときに、こんな特集流れていた。

 あっ、思い出した。水島がこの芸術家のファンだと言っていた。水島は実は美術部に所属しており、絵が上手で、この芸術家の美術展にいつか行くのが夢だと話してくれた。
 本当に始業式の日に戻ってきたんだ。現実になるなんて思いもしなかったけど、与えられたチャンスを無駄にはしたくない。
 決意と共に残りのご飯を勢いよく流し込む。

「ごちそうさまー」

 食べ終わり、食器を流しに持っていく。そして、洗面所に向かい、歯磨きをし、身だしなみを整え、台所に戻り、カバンを手にし、靴箱の上に置いている自転車のカギを持って、家を出る。

 桜の花びらが心地よく風と共に舞い散る中、ケツメイシのさくらを歌いながら自転車を漕ぎ学校に向かう。

 自転車を置き、クラス替えの紙が貼られている掲示板がある玄関に足を急がせる。クラス替えで一喜一憂する生徒たちが視界に入る。そんな中、水島がやって来るのを今か今かと待つ。

「おはよう。匠!」

 一周目と同じく大樹が後ろから肩を強く叩く。

「おはよう!」

 一周目より、再び戻ってこれたことへの嬉しさで、声がスキップをしているかのように軽やかに跳ねる。
「匠、いいことでもあった?」

 大樹がいつもと様子の違う匠を不思議に思う。

「いや、別に」
 あまりの嬉しさに少し浮かれてしまっている自分を見て反省する。二周目だから、分かりきっているけど、クラスを一応見る。一周目と同じ三組で、水島と同じクラスだ。

 そんなことを思っていたら、水島が視界に入る。俺は高まる心臓に手を置き、深呼吸をして落ち着かせる。そして、水島の元へと歩いて行く。

「あの、俺のこと覚えているかな? 幼稚園で同じだった柴崎匠なんだけど」

 あの日の後悔を消しゴムで消すかのように、勇気を出して、水島に話しかける。

「すみません」

 驚いた表情をしていて、瞬きをする水島を見ると、まるで時が止まってしまったかのようだった。

「幼稚園の頃の記憶がなくて」

 水島から発せられた予想外の言葉に、俺は言葉を失ってしまった。戸惑いを見せながら、頭を申し訳なさそうにさげる水島の様子が映し出される。

 心が、雑巾を絞るかのようにギュっと締め付けられた。

「花凛、おっはよう! 今年も同じクラスだね。やったね!」

 水島の肩を叩いた人物は、小坂芽生。モデルのようにスラっとして、少し暗めのストレートの茶髪が、太陽の光に照らされ、透き通っている。そして、猫のように存在感のある切れ長の目が特徴的である。一周目も、水島に話しかけていた気がする。でも、小坂芽生のことが記憶からぽっかり抜けている。

「おーい、匠。大丈夫か? 体調でも悪い?」

 俺の肩に手を置く大樹。忘れられていたことがショックだった。

「平気、平気……」

 口ではそう出ていたが、平気なんかじゃなかった。穴を掘って潜りたい気分だ。頑張って絞り出した勇気がいとも簡単に風で吹き飛ばされたのだから。

「じゃあ、行きますか、教室」

 吹き飛ばされた勇気を探す間もなく、大樹が言う。

「おぉ……」

 シャボン玉が割れたかのような声が出る。そして、失意の中、教室へと向かった。

 久しぶりに会った君は、俺のことを忘れていた。でも、君が生きていて、俺は、心の底から叫びたいほど嬉しかった。忘れられていたことはショックだったけど、俺も忘れていたから、責めることなどできやしない。いったい君は何を抱えているのだろうか? 何が何でも、俺は水島花凛の死を阻止して、あの日伝えられなかった思いをちゃんと言葉にして伝えたい。

 ――もう後悔はしたくない。



 学校が終わるとすぐ、俺はとある人を探しにある場所へと自転車を走らせた。始業式の日は部活がないから、ちょうど良かった。

 確か、この公園だったはず。いるか分からない。だけど、この公園に来たら何だか会える…そんな気がしていた。俺は、自転車を邪魔にならないように端に止め、その人物を探す。

 その人物とは、昨日、出会ったあの男だ。昨日と言っていいのか分からない。未来から戻って来たから。もし、その男がいたら、タイムリープのことを聞きたかった。だから、この場にやってきた。

 しばらく、探していると、聞き覚えのある口笛が耳に入ってきた。昨日も、ブランコを漕ぎながらこのリズミカルな口笛が聞こえて来た。有名な楽曲であることは間違いないのだが、名前が出てこない。そんなこと、どこだ、どこだとキョロキョロと周りを見渡していると滑り台を滑って登場した。

「俺のこともしかして探していたのかい、少年」

 この滑り台はトンネル型で、最後まで誰が滑ってきたか分からない。俺は、滑り台の出口付近に立っていた。そのため、おじさんの姿が現れた瞬間、俺は驚きで声がどこかに飛んでしまっていたかのようになり、口が開いたままになってしまった。咳払いをして、口を開く。

「……そうですけど」

「2024年3月1日振りか」

 この言い方だと、この人も一緒に時間を巻き戻して過去に来たということなのか。

「あの、昨日は、ひどいこと言ってしまいすみませんでした」

 滑り台の場所から、ブランコに移動して、俺たちは本題に入った。

「全然問題ないさ。少年に一つ言い忘れていたことがあったんだ」

「あの、タイムリープの仕組みについて教えてください」

 おじさんの言葉を遮って、疑問をぶつっけた。俺が好きな『パステルライド』は残業帰りのサラリーマンが夜空を眺めていると空からタイムリープできるタクシーが現れ、乗ったことで始まる過去と未来を行き来する冒険物語である。俺もいつかはこの世界観に入ってみたいとか幻想を抱いていたことあったけど、まさかこの俺がタイムリープしているなんて思わなかった。だから、正直、まだ頭の中の整理がついていない。

「分かった。タイムリープは過去に戻りたいという人を過去に送り届けることができる。でも、どういう仕組みなのかは秘密。ただ言えるのが、タイムリープには代償が伴う」

「俺が差し出した代償はいったい何なのだろう」

 地面を見つめながら、心当たりがないか探す。

「恐らく、少年自体が差し出した代償はないが……君の思い人の大切な記憶が消されたのではないのだろうか」

「あっ、そういえば……幼稚園の頃の記憶を忘れていました」

「そうか、そうか。そういう場合もある。タイムリープをする者の周りの誰かが何かを失ってしまう場合もある。代償は選べたり、勝手に決められたり、そこの基準は私にもよくわかっていない」

「でも、俺は水島、初恋の人が生きていると分かって、心の底から嬉しかった。ずっと後悔していたから、俺はあの日に戻れてやり直せれるだけで幸せなんです。だから、おじさんに感謝の気持ちを伝えたかったんです。本当にありがとうございます」

「俺はお礼を言われるほど、大したことはしていない。でも、君にはやらなければならないことがあるだろ」
 おじさんの言葉が心に響く。その通りだ。水島があの日なぜ、殺されたのか突き止めて、悲劇をどうにかして避けなければいけない。

「はい。でも、おじさんはこの公園によくいるんですか」

「まぁ……うん」

 おじさんが視線を逸らす。逸らした先は、空にあった。確かに、今日は、雲一つないほど空が澄み渡っている。

「じゃあ、また来ます」

 頭を下げると、おじさんは穏やかな笑みを浮かべ手を振ってくれていた。

 ――幼稚園の頃の記憶がない水島とどうやって、仲良くなればいいのだろう。

 公園から帰った後、俺はベッドに転がり、パン生地をこねる綿棒のようになりながら、思考を巡らせる。

 時計の針の音が頭の中で流れている。チクタク、チクタク……。
 あぁ、どうすればいいのかと、天井を仰ぐ。

 突如、良いアイディアが思いつき、思わず飛び起きる。

「あっ、俺たちには『パステルライド』がある!」

 でも、どうやって、この話題を出せばいいのだろう。クラス替えをしても、自己紹介は特にないからなぁ。

 あっ、あ、あ―――あるじゃないか。

 明日の英語の授業で、自己紹介ゲームをした気が…。俺は、あの時、『パステルライド』を読んでいなかったから、好きな物として紹介しなかったし、もし、読んでいたとしても、『パステルライド』が好きというのを他人に言うのが恥ずかしくて、一周目みたいに実直に好きなスポーツは「サッカー」と言っていただろう。

 大人買いをして揃えた『パステルライド』も、タイムリープと共に無くなり、本棚は寂しくなっていた。


 明日の部活帰りにも、『パステルライド』買って帰ることにするか。