高校生活最後の日が訪れた。俺の高校生活は、水島の死で埋め尽くされてしまった。楽しい思い出も、一つでも嫌な出来事があれば、暗い気持ちになる。何にも面白くない。
楽しみにしていたアーティストのライブが一部のルールを守れないファンによって、壊される。アーティストは何も悪くないのに、ただ一部のモラルが欠如しているファンが空間を台無しにする。悲惨な主旨が綴られているSNSを目にしたことがあるが、まさに、その気持ちが理解できた。俺の高校生活は、そこそこに良かったと思うが、水島の死が、「そこそこ」も「良かった」もぶち壊した。壊れてしまった高校生活を修復することなど出来なかった。
「皆さんのことこれからも応援しています」
この言葉で締めくくられて終わった高校生活最後のホームルーム。ありきたりな贈る言葉に飽き飽きしてやっと終わったと思い、すぐ帰る準備をする。荷物を入れて、椅子を机に引き寄せて教室が賑わいを見せている中、帰ろうとする。
「匠もこの後、打ち上げ行くだろ」
大樹が帰ろうとする俺を制止する。
「匠くんがいてくれたら盛り上がるんだけどな」
そう言ってクラスの中心的な人物で家がお金持ちである金城優芽が俺の手首を掴む。正直言うと、迷惑だ。その手をゆっくりと剥がす。
「ごめん、行きたいのはやまやまなのだけど、今日どうしても外せない用事があって」
半分嘘をついていて、半分はついていない。
「そっか」
「じゃあ、帰る……わ」
「おぉ、じゃあな、匠」
手を振り、残りの卒業証書をカバンに突っ込み、貰った花を持って、教室を後にする。出来るだけ早く学校を後にしたかった。ただでさえ、傷が癒えていない。最初からいなかったことにされているこの学校に腹が立ってしかたがなかった。
早く視界から消し去りたかった。
「兄ちゃん、お待たせ。忙しいのにごめん」
運転席の窓をトントンと叩き、後ろの席に座る。学校の駐車場で兄ちゃんと待ち合わせをしていた。
「全然大丈夫!」
「ありがとう」
「今日は水島花凛ちゃんの家に行くんだろ」
「うん」
受験が忙しくて、なかなか行けてなかった。だから、挨拶をしに行きたくて、兄ちゃんに住所を聞き、一人で行こうと思っていた。だが、兄ちゃんが送ってくれることになった。俺がシートベルトを締めたのを兄ちゃんは確認すると車を走らせた。
「ところで匠、卒業おめでとう」
「あ、ありがとう」
受験は終わり、後は結果を待つだけだけど、俺の心の中は、封じ込めていたやるせない気持ち、そして水島への思いが膨れ上がっていた。
水島は一体何を抱えていたのか知りたい。なぜ、殺されたのか。真相は闇に葬られてしまった。でも、俺は知りたい。知ることで前を向くことができるかもしれない、だから……。
「着いたよ、匠」
あたりを見渡すと閑静な住宅街の中にある二階建ての一軒家の前に来ていた。
「あっ、ありがとう」
「俺も一緒に行こうか」
兄ちゃんが心配そうな顔で窓からのぞく。
「いや、大丈夫だよ。ありがとう。なるべく早く戻ってくる」
「時間なんて気にしないでいいから、よし、行っておいで」
兄ちゃんの言葉が心に沁みる。
「うん、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
水島が住んでいた家は住宅街にある二階建ての黒い屋根が特徴的の一軒家だった。深呼吸をし、インターフォンを鳴らす。
「はい」
インターフォンから大人の女性の声が聞こえる。
「水島花凛さんの同級生の……」
「……開けますね」
ドアがカチャッと開く音がする。
「はじめまして」
視線を上げて挨拶をする。すると、出てきた女性が頭を下げる。水島と同じ凛とした雰囲気を感じる。髪型は水島と同じボブで、服装と佇まいから気品の高さが見て取れる。
「花凛の同級生が訪れるの何て初めてだから嬉しいわ、きっと花凛も喜んでいることだわ。入って」
インターフォン越しで聞いた声より、声のトーンがほんの少し明るくなった気がする。
「ありがとうございます。失礼します」
「名前聞いてもいいかな」
「柴崎……」
躊躇いもなく名前を名乗ろうとすると、水島のお母さんの表情が変わるのに気づいた。まるで電気がパァッと点いたかのような表情だった。
「えっ、もしかして匠くん!」
驚くことに俺の名前を当てたのだ。何で、水島のお母さんは俺の名前を知っているのだろう。不思議でしかたなかった。
「どうして、俺の名前を?」
俺がぶつけた質問で、さきほどの電気が一段階暗くなってしまった。
「忘れていてもしょうがないわよね」
声のトーンが、急に雲がかかったかのように暗くなる。俺はどこかで水島のお母さん、水島に会ったことがあるのか……。
案内されるまま水島のお母さんについて行く。水島の仏壇を見つけた。制服姿で照れながらピースをしている額縁の中にいる水島と目が合う。そして、胸が締め付けられる。
「あの、線香あげてもよろしいですか」
「もちろん」
水島、今日卒業式だったよ。俺は水島と一緒に卒業式を迎えたかった……水島と一緒に『パステルライド』買いに行きたかったし、アニメの感想も言い合いたかった。
思いが溢れそうになる。目頭がどっと熱くなる。線香をあげ立ち上がる。そして、何の花か分からないが一輪だけ生けられている花瓶に、卒業式で貰った花を全て挿す。
「良かったらお茶でも飲んでいって、匠くん」
「はい」
椅子に座り、出されたお茶を飲みながら、部屋の中を眺める。すると、水島のお母さんが手に何かを持っているのが視界に入る。
「これ、昔の花凛の写真、横に映っているのが…」
水島のお母さんが、娘の成長を記録したアルバムを持ってきた。そして、とある写真を「あった。あった」と言葉を漏らしながら差す。水島が幼稚園の頃の写真だ。男の子と二人で、公園の滑り台前でポーズをしている。
微笑ましいなと思っていると、目の前に光がこの横の男の子に見覚えがあることに気づく。
夢に何度も出てきた少年にそっくりだ。いや、俺だ。
そして、気づいてしまった。
――繰り返し見ていた夢の女の子の正体、それは、水島だったんだ。島田写真館と書かれている茶封筒に入れられた幼稚園の卒園式の集合写真や俺と水島が二人で映っている写真が出てきて、確信した。俺と水島は、ずっと前に会ったことがあったんだ。
なんで気づかなかったのだろう。
馬鹿だ、馬鹿だ。
過去の自分を殴りたい。
殴ったって、何も解決しないのに……
水島は戻ってこないのに……
「花凛ね、幼稚園の頃、匠くんのこと好きだったんだよ」
アルバムの写真を眺めて、写真に映る自分の娘をなぞり、悲しそうな目をする。
衝撃的な事実に吹雪に遭遇したかのように目の前が真っ白になる。
「ただいま」
ドアが開く。水島のお父さんかなって思いつつも、俺は水島が父は小さい時に亡くなったと言う話を聞いたことがあった。だから、父親という答えをすぐに除外した。
「あれ、お客さん?」
ドアの向こうから、肘ぐらいまでシャツを腕まくりし、黒のカバンを背負った会社帰りと思われる二十代半ばぐらい男性が現れた。
「花凛のクラスメイトの匠くん」
水島のお母さんが、俺のことを紹介する。
「そうなの? 初めまして、牧瀬修です。わざわざ来てくれてありがとう」
手を出し、握手を求めて来たので、その手を握る。
「伺うのが遅くなりすみません」
謝罪の言葉を口にすると牧瀬さんは頭を横に振る。そして、どんよりとした表情を浮かべ、言葉を漏らす。
「花凛ちゃんの父親になる予定だったのに、一緒に暮らしていたのに花凛ちゃんが自殺を選ぶほど苦しい思いをしていたなんて気づけなかった」
空間に灰色の雲がかかり、今にも雨が降り出しそうだ。思った通り、話している途中に涙声になり、手で目を覆い始めた。
「修くん」
牧瀬さんの背中に手をそっと置く水島のお母さん。「ごめん」と嗚咽を漏らす牧瀬さんの背中を、水島さんのお母さんは「修くんは悪くない」と言ってなだめる。
「俺、そろそろ帰りますね」
居るのが気まずくなったので、帰ることにした。
「今日はありがとうね。またいつでも来てね」
「遠慮なくまた来てね」
水島のお母さん、そして続けて牧瀬さんが言葉をかける。
「はい、失礼します」
玄関先で挨拶をし、水島の家を出た。深呼吸をし、最後に振り返る。こんな形で来たくなかった。
でも、一つ引っ掛かった。あの二人、結構な年の差がある。年が離れているからっていって、他人の恋愛を否定するのは良くないことだと言うのは分かっている。でも、あの牧瀬という男は、自殺と言う言葉をやけに主張していた…そんな気がする。
違和感が胸の中で蠢いていた。
水島のお母さんが見せてくれた写真を見たあの時から、記憶が少しずつ蘇ってきていた。早く一人になって、水島との幼稚園の頃の記憶を思い出したい。
水島の家を出て、兄ちゃんの車に乗ろうとすると、電話で誰かと話しているようだった。電話が終わると、俺に気づき、窓を開けるといなや、申し訳なさそうな顔を見せる。
「ごめんな、匠。事件が起きたから、兄ちゃん行かないといけなくなった」
「俺なんか気にしないでいいから、行って」
忙しいのに送ってくれただけで感謝しないといけない。家までそんなに遠くなさそうだし、一人でも大丈夫そうだ。
「ごめんな。匠。じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
兄ちゃんはいつも心配してくれる。少し、過保護な気がするけど、たまにそのはみ出た過保護さが、いざという時に助けてくれる。
「ありがとう。仕事頑張って」
「おう」
そういうと兄ちゃんは、窓を閉め、車を走らせる。
本当は一人になりたい気分だった。
だから、ちょうど良かった。
水島の家から何も考えずに歩いて帰っていると、誰もいない公園に無意識に吸い寄せられた。ブランコに座り、ゆっくりと漕ぎながら、水島のことを考えていた。気づくと、幼稚園帰りと思われる子供たちが滑り台をしていた。帰ろうかと、ブランコのスピードを緩めて動きが止まるのを待っていると、強い視線を感じる。気のせいかと思いもしたが、視線が体に突き刺さる感覚がする。その視線を恐る恐る辿ると、白髪で焦げ茶色のスーツを着て、少し大きめの黒い鞄を肩に下げているおじさんが立っていた。
「何か俺に用ですか?」
問いかけるとそのおじさんが近づいてくる。
「少年、もしかして……何か後悔を抱えているのではないか」
肩が驚きでピクっと反応する。想像以上に暗い顔をしていたのかもしれない。自分がどういう表情でいるのかは、鏡で見ないとはっきり分からない。
「そうですけど」
嘘でも否定しておけばよかったのに...なぜだか正直に答えてしまった。
「もし、過去に戻れるなら、戻りたいか」
「戻れるものなら、戻りたいです。でも、そんなの現実では無理でしょ」
いろんな感情が怒りへとひとまとめにされ、爆発しそうになる。あの悲劇以来、俺の発する言葉、表情は周りを冷たくしている気がする。だから、出来るだけ人と関わりたくない。迷惑かけたくないから、一人でこの感情をどうにかするしかないのだ」
ありえない。神経を逆なでされるような発言にガラスがパリンと割られたかのような音が鼓膜に響き渡る。
「あの、誰だか知りませんが、からかわないでください」
怒りで、水が沸騰するかのような声を向ける。
「からかってなどないさ」
その男の人は、俺の怒りをものとせず、答える。
「失礼します」
何だか子供だからと馬鹿にされたかのようだ。怒りをぐっと抑えながら、その場を逃げるように離れる。
「明日起きたら、きっと戻っているはずさ」
去り際、男の声が耳に入ってくる。その言葉が脳に書きおこされる。消しゴムで消そうと試みるが消える気配がしない。
あぁ、この公園来るんじゃなかった。
公園を出てすぐ、俺は本屋に向かった。
『パステルライド』の新刊を買いに来た。ショッピングセンターの三階、楽器屋の横に位置するこの本屋は、この町で比較的大きい本屋として知られている。俺は行きつけの本屋が閉店したことをきっかけに、この本屋に、『パステルライド』の新作が出る度に、学校帰り通うことにしている。
実は、学校以外の場所で水島と初めて出会った場所である。正確にいえば幼稚園の時に出会っていたから初めてではないが。俺が記憶喪失になっていなかったら。今、横に水島がいたのかもしれない、かもしれないじゃなくていた。そして、一緒に、新刊を買って、感想を言い合いっ子して、アニメだって、一緒に見たかったのに…
新刊が出ているのを見つけたら、いつもは表紙を見て、手に取ると心躍る気持ちになるはずなのに、今は水をあげても一切喜びもしない植物のようだ。
――水島とこの本屋で会った時は、確か八巻だったな。
あの時は本当にびっくりした。もし、『パステルライド』がなかったら、水島のことを気づかずに高校生活に幕を閉じていた。
水島とこの本屋で出会ったことを昨日のように鮮明に覚えている。確か…「秋の日は釣瓶落とし」ということわざがパッと頭に思い浮かぶ季節のことだった。
♢
この本屋に来るの初めてだ。少しワクワクしている。でも、いつもより広いから迷うな。『パステルライド』どこ置いているだろう。
あまりにも広すぎる。だから、検索機を使って探すことにした。文字を入力して、出てきたレシートを頼りに探す。この筋にあるはず。
いつも寄っていた本屋は閉店したため、仕方なくこの店を利用することにした。昨今、本屋の数が減少している。本屋に行かなくても、スマホやタブレットの端末で読むことができる。そして、家から注文し、家で受け取ることができる。他にも、フリマサイトで定価より安く購入できたりもする。昔と比べたら、便利な時代になったのだろう。でも、俺は、直接、紙で読みたいし、本屋で手に取って購入したい。フリマサイトで買う方がお財布に優しいのは分かっているけど、この素晴らしい作品を描いている作者の人に還元したいし、これからも多くの人を魅了する作品を描き続けてほしい、アニメ化もしてほしい。だから、この方法を取っている。
場所が示されたレシートを確認しながら、歩いていると、『パステルライド』のポスターが視界に入ってくる。すると、早く購入して帰って読みたいという衝動から、足をいつの間にか走らせていた。
「あった」
手を伸ばすと、誰かの手とぶつかってしまった。すぐに手を引っ込める。本を探すのに夢中になりすぎたあまり、視界がはっきりと見えていなかった。
「ごめんなさい」
ぶつかった手の持ち主に謝ろうと、顔に視線を移すと、見知った顔がそこにはいた。向こうも驚きのあまり、口が開いていた。
「み、水島?」
「はい。何で私の名前……」
やっぱりそうだ。
「同じクラスの水島花凛だろ?」
「うん……」
本屋で同じクラスの生徒に出会うと思わなかった。しかも、同じ本の目の前で出くわしたことに驚いている。
「水島もこの本好きなの?」
声が嬉しい気持ちを隠せず無意識に高くなる。
「好き!」
水島は、本を胸に抱えて、微笑む。その笑顔を見て、俺も何だか嬉しくなる。
「俺も好きなんだ。たまたまテレビでこの本の宣伝を見て、面白そうだなと思い、電子書籍で一巻買って読んだら、はまってしまって」
「そうなんだ! 私は、この作者さんの画風が好きなのと、前作が面白かったからこの漫画も買っている」
嬉しそうに語る水島に、頬が緩んでいく。
「へぇ―。俺も、作者の人の画風好きだわ。今度、この作品アニメ化するよな」
「うん! 私の今の楽しみなんだ」
水島の弾けるような笑顔が脳内で響き渡る。
「……俺もすごい楽しみ!」
水島と目を見て一対一でちゃんと話すの自体初めてかもしれない。そんなことを考えていると、反応が遅くなってしまった。
閉店時間の三十分前のアナウンスが響く。話を切り上げて、会計レジに向かい、本を購入し、お店の前に出る。
同じクラスに、『パステルライド』好きがいると思わなかったから、今日は仲間を見つけることができて、本当に嬉しかった。
「水島…また、明日…」
「うん、明日!」
本屋前で水島と別れた。水島はこんな素敵な笑顔を持っているなんて、同じ教室で過ごしていたはずなのに全く気づきもしなかった。飽き飽きした日常に、もう慣れてしまった。モノクロの世界に急に色がついたかのように明日が楽しみになったのを今でも覚えている。この日をきっかけに学校でも水島と『パステルライド』の話で盛り上がり、一緒にいる時間がかけがえのないものになった。そして、心の中に新たな感情が芽生えた。その感情に名前をあてはめるとしたら、恋なのかもしれない。
水島と似たように笑う女の子を俺は、どこかで見た気がする。俺の心臓の鼓動をなぜだか高くするこの笑顔……。
俺は、その正体に気づいた。正確に言えば、気づかされた。気づいたときには、もうその女の子は、この世界からいなくなってしまった。なぜ、もっと早く気づくことができなかったのか。
家に戻り、ベッドに倒れ込み、後悔に押しつぶされそうになっていると、水島から貰った本の存在を思い出した。
受験が終わってからでいいから良かったら読んでと渡された小説版の『パステルライド』である。本棚の片隅に、紙袋に入った状態で置いていた。水島が亡くなってから、なかなか開ける気にはなれなかったが、前を向くために、手に取ることにした。水島との時間を風化させたくなかった。
紙袋を開けると、小説が五冊と手紙が一つ入っていた。この紙袋は、十二月二十一日に貰ったものだ。水島が亡くなる一日前…小説を一冊ずつ手に取っていくと、三巻目の小説に封筒が挟まれていた。何だろうと思い手に取ると、「柴崎匠くんへ」と書かれている。封を切ると、一枚の写真が入っていた。
この写真は……水島のお母さんから見せられた写真の中にあったものと同じものだ。
幼稚園の卒園式の俺と水島。表面張力のように涙を今にも零しそうな幼稚園の頃の俺と、凛とした笑顔を浮かべている水島。
もう二度と会えないと思っていた初恋に俺は、十年の時を経て気づかないうちに再会していたんだ。深呼吸を一つして、封を切る。
---------------------------------------------------------------------
柴崎匠くんへ
本当は直接伝えなければいけないのに、勇気が出なくて手紙でごめんなさい。
実は、君に会ったことがあります。君の記憶の中には私はいないかもしれないけど、最後だから、私の気持ちを手紙に伝えさせてください。
まさか高校で再会するとは思わなかった。君の姿を学校で見かけた時は、心が跳ね上がるほど嬉しかった。小さい時は、あんなに近くにいたのに、久しぶりに再会した君は、違う世界線を生きているかのようで近づくことができなかった。触れようとした途端、押しのけられたかのような気分になった。だから、遠くから眺めることしかできなかった。
この学校、生徒数多いし、各学年二百人もいるから、同じクラスになるのは無理なのかなって思っていたけど、最後の年で同じクラスになった時は嬉しかった。
三年のクラス発表がされた日、玄関で目が合った瞬間、勇気を出して声をかけようとしたけど、君が視線を逸らし、私のこと覚えていないと悟ったときは、少し落ち込んでしまった。でも、君が小学生の頃、遊具から落ちて記憶喪失になって、幼少期の記憶が消えてしまったと知り、そうだったんだと思うと、私は、幼稚園の頃の記憶と心の気持ちに鍵をかけることにした。鍵をかけて、近づかないように思い出さないようにすることで、高校生活の終わりを待つだけでした。でも、『パステルライド』のおかげで沢山話すことができた。一緒に過ごすことができた。
幼稚園の頃みたいに、かけがえのない時間が過ごせて幸せだった。でも、一緒に過ごすうちに、鍵をかけていた感情が、鍵が壊れそうな勢いで膨れ上がっていた。その感情を抑えるのは辛かった。本当は直接伝えるつもりだった。でも、それは叶いそうにありません。
幼稚園の頃からずっと君のことが好きでした。高校で再会して、短い間だったけど、かけがえのない思い出ができました。また出会えたことに感謝しています。
ありがとう、匠くん。
あなたの幸せを心から願っています。
もう一枚、何も書かれていない便箋が入っている……でも、最後の行に消しゴムで文字が消された跡が、机の上に置いてあった鉛筆を取り、その跡を塗りつぶすと、文字が浮き出てくる。
――もし、私の身に何かあったとしても、何も知ろうとはしないでほしい。お願い。
心臓を引っこ抜かれたかのように色々な感情が錯綜している。水島は自分の身に危険が迫っていたのを知っていたのか。俺の知らない所で君は何に巻き込まれていたのか。誰に殺されたのか。明らかに、水島の死には、何かが隠されている。自殺なんかじゃない、誰かに殺された。
兄ちゃんの地に沈みそうかのような言葉が頭を過る。
――水島花凛ちゃんは他殺だ。首に絞められた跡があった。
この言葉が頭の中で、駆けずり回っていた。水島の死は、いじめを苦に自殺と世間的にはなっている。
確かに、水島はいじめを受けていた。水島は「大丈夫だから」と言っていて、気には留めていなかった。水島はいじめに屈することなく学校生活を送っていた。でも、そうではなかったのかもしれない。本心を隠していたのかも……しれない。俺が心配して声をかけたこともあったが、水島はこう言った。
「あと、もう少しで学校生活も終わることだし。私は、大丈夫」
君は笑顔を向けていた。あの、笑顔を見て、心の中で水島が大丈夫って言うのなら、首を突っ込まない方が良いのだと思い、目を背けていた。もしかしたら、水島を苛めていたやつが、水島をあの日、屋上から突き飛ばしたのか…もしそうだとしたら……。
怒り、後悔の炎が燃え盛っている。目の前が赤く、徐々に黒く埋め尽くされていく。
あのおじさんが言っていたように過去に戻れるなら、四月五日、三年生の始業式の日に時を戻してほしい。後悔を消したい。あの選択を変えたい。水島が殺される未来をこの手で変えたい。そう願いながら、瞼を閉じた。
♢
「匠、おはよう!」
同じサッカー部の大樹が話しかけてくる。
「おはよう」
「今年、匠と同じクラス!」
背中を、紙相撲をしている時かのようにバシバシと叩いてくる。
「おぉ」
そんな会話をしていると、俺に注がれる視線に気づく。一瞬目が合い、何か言おうとしていたが、俺はその視線から逃げてしまった。その後、再び、君に視線を注ぐと、何だか悲しそうな表情を浮かべていたが、友達が来たみたいで笑顔に戻っていたから、気にはしていなかった。
あの日のクラス替えの日、本当は、水島の視線に気づいていた。でも、俺は無視をしてしまった。俺が初恋を忘れてしまわなかったら、忘れていてもちゃんと思い出していたら、水島を傷つけずに済んだし、死なずにすんだのかも知れない。
水島のあの最期に俺に向けられた笑みが頭の中を焦がしつくしている。
「水島、水島、水島……」
お願いだから、もう一度俺にチャンスをください。
君がいない世界で、俺は生きていけない……
楽しみにしていたアーティストのライブが一部のルールを守れないファンによって、壊される。アーティストは何も悪くないのに、ただ一部のモラルが欠如しているファンが空間を台無しにする。悲惨な主旨が綴られているSNSを目にしたことがあるが、まさに、その気持ちが理解できた。俺の高校生活は、そこそこに良かったと思うが、水島の死が、「そこそこ」も「良かった」もぶち壊した。壊れてしまった高校生活を修復することなど出来なかった。
「皆さんのことこれからも応援しています」
この言葉で締めくくられて終わった高校生活最後のホームルーム。ありきたりな贈る言葉に飽き飽きしてやっと終わったと思い、すぐ帰る準備をする。荷物を入れて、椅子を机に引き寄せて教室が賑わいを見せている中、帰ろうとする。
「匠もこの後、打ち上げ行くだろ」
大樹が帰ろうとする俺を制止する。
「匠くんがいてくれたら盛り上がるんだけどな」
そう言ってクラスの中心的な人物で家がお金持ちである金城優芽が俺の手首を掴む。正直言うと、迷惑だ。その手をゆっくりと剥がす。
「ごめん、行きたいのはやまやまなのだけど、今日どうしても外せない用事があって」
半分嘘をついていて、半分はついていない。
「そっか」
「じゃあ、帰る……わ」
「おぉ、じゃあな、匠」
手を振り、残りの卒業証書をカバンに突っ込み、貰った花を持って、教室を後にする。出来るだけ早く学校を後にしたかった。ただでさえ、傷が癒えていない。最初からいなかったことにされているこの学校に腹が立ってしかたがなかった。
早く視界から消し去りたかった。
「兄ちゃん、お待たせ。忙しいのにごめん」
運転席の窓をトントンと叩き、後ろの席に座る。学校の駐車場で兄ちゃんと待ち合わせをしていた。
「全然大丈夫!」
「ありがとう」
「今日は水島花凛ちゃんの家に行くんだろ」
「うん」
受験が忙しくて、なかなか行けてなかった。だから、挨拶をしに行きたくて、兄ちゃんに住所を聞き、一人で行こうと思っていた。だが、兄ちゃんが送ってくれることになった。俺がシートベルトを締めたのを兄ちゃんは確認すると車を走らせた。
「ところで匠、卒業おめでとう」
「あ、ありがとう」
受験は終わり、後は結果を待つだけだけど、俺の心の中は、封じ込めていたやるせない気持ち、そして水島への思いが膨れ上がっていた。
水島は一体何を抱えていたのか知りたい。なぜ、殺されたのか。真相は闇に葬られてしまった。でも、俺は知りたい。知ることで前を向くことができるかもしれない、だから……。
「着いたよ、匠」
あたりを見渡すと閑静な住宅街の中にある二階建ての一軒家の前に来ていた。
「あっ、ありがとう」
「俺も一緒に行こうか」
兄ちゃんが心配そうな顔で窓からのぞく。
「いや、大丈夫だよ。ありがとう。なるべく早く戻ってくる」
「時間なんて気にしないでいいから、よし、行っておいで」
兄ちゃんの言葉が心に沁みる。
「うん、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
水島が住んでいた家は住宅街にある二階建ての黒い屋根が特徴的の一軒家だった。深呼吸をし、インターフォンを鳴らす。
「はい」
インターフォンから大人の女性の声が聞こえる。
「水島花凛さんの同級生の……」
「……開けますね」
ドアがカチャッと開く音がする。
「はじめまして」
視線を上げて挨拶をする。すると、出てきた女性が頭を下げる。水島と同じ凛とした雰囲気を感じる。髪型は水島と同じボブで、服装と佇まいから気品の高さが見て取れる。
「花凛の同級生が訪れるの何て初めてだから嬉しいわ、きっと花凛も喜んでいることだわ。入って」
インターフォン越しで聞いた声より、声のトーンがほんの少し明るくなった気がする。
「ありがとうございます。失礼します」
「名前聞いてもいいかな」
「柴崎……」
躊躇いもなく名前を名乗ろうとすると、水島のお母さんの表情が変わるのに気づいた。まるで電気がパァッと点いたかのような表情だった。
「えっ、もしかして匠くん!」
驚くことに俺の名前を当てたのだ。何で、水島のお母さんは俺の名前を知っているのだろう。不思議でしかたなかった。
「どうして、俺の名前を?」
俺がぶつけた質問で、さきほどの電気が一段階暗くなってしまった。
「忘れていてもしょうがないわよね」
声のトーンが、急に雲がかかったかのように暗くなる。俺はどこかで水島のお母さん、水島に会ったことがあるのか……。
案内されるまま水島のお母さんについて行く。水島の仏壇を見つけた。制服姿で照れながらピースをしている額縁の中にいる水島と目が合う。そして、胸が締め付けられる。
「あの、線香あげてもよろしいですか」
「もちろん」
水島、今日卒業式だったよ。俺は水島と一緒に卒業式を迎えたかった……水島と一緒に『パステルライド』買いに行きたかったし、アニメの感想も言い合いたかった。
思いが溢れそうになる。目頭がどっと熱くなる。線香をあげ立ち上がる。そして、何の花か分からないが一輪だけ生けられている花瓶に、卒業式で貰った花を全て挿す。
「良かったらお茶でも飲んでいって、匠くん」
「はい」
椅子に座り、出されたお茶を飲みながら、部屋の中を眺める。すると、水島のお母さんが手に何かを持っているのが視界に入る。
「これ、昔の花凛の写真、横に映っているのが…」
水島のお母さんが、娘の成長を記録したアルバムを持ってきた。そして、とある写真を「あった。あった」と言葉を漏らしながら差す。水島が幼稚園の頃の写真だ。男の子と二人で、公園の滑り台前でポーズをしている。
微笑ましいなと思っていると、目の前に光がこの横の男の子に見覚えがあることに気づく。
夢に何度も出てきた少年にそっくりだ。いや、俺だ。
そして、気づいてしまった。
――繰り返し見ていた夢の女の子の正体、それは、水島だったんだ。島田写真館と書かれている茶封筒に入れられた幼稚園の卒園式の集合写真や俺と水島が二人で映っている写真が出てきて、確信した。俺と水島は、ずっと前に会ったことがあったんだ。
なんで気づかなかったのだろう。
馬鹿だ、馬鹿だ。
過去の自分を殴りたい。
殴ったって、何も解決しないのに……
水島は戻ってこないのに……
「花凛ね、幼稚園の頃、匠くんのこと好きだったんだよ」
アルバムの写真を眺めて、写真に映る自分の娘をなぞり、悲しそうな目をする。
衝撃的な事実に吹雪に遭遇したかのように目の前が真っ白になる。
「ただいま」
ドアが開く。水島のお父さんかなって思いつつも、俺は水島が父は小さい時に亡くなったと言う話を聞いたことがあった。だから、父親という答えをすぐに除外した。
「あれ、お客さん?」
ドアの向こうから、肘ぐらいまでシャツを腕まくりし、黒のカバンを背負った会社帰りと思われる二十代半ばぐらい男性が現れた。
「花凛のクラスメイトの匠くん」
水島のお母さんが、俺のことを紹介する。
「そうなの? 初めまして、牧瀬修です。わざわざ来てくれてありがとう」
手を出し、握手を求めて来たので、その手を握る。
「伺うのが遅くなりすみません」
謝罪の言葉を口にすると牧瀬さんは頭を横に振る。そして、どんよりとした表情を浮かべ、言葉を漏らす。
「花凛ちゃんの父親になる予定だったのに、一緒に暮らしていたのに花凛ちゃんが自殺を選ぶほど苦しい思いをしていたなんて気づけなかった」
空間に灰色の雲がかかり、今にも雨が降り出しそうだ。思った通り、話している途中に涙声になり、手で目を覆い始めた。
「修くん」
牧瀬さんの背中に手をそっと置く水島のお母さん。「ごめん」と嗚咽を漏らす牧瀬さんの背中を、水島さんのお母さんは「修くんは悪くない」と言ってなだめる。
「俺、そろそろ帰りますね」
居るのが気まずくなったので、帰ることにした。
「今日はありがとうね。またいつでも来てね」
「遠慮なくまた来てね」
水島のお母さん、そして続けて牧瀬さんが言葉をかける。
「はい、失礼します」
玄関先で挨拶をし、水島の家を出た。深呼吸をし、最後に振り返る。こんな形で来たくなかった。
でも、一つ引っ掛かった。あの二人、結構な年の差がある。年が離れているからっていって、他人の恋愛を否定するのは良くないことだと言うのは分かっている。でも、あの牧瀬という男は、自殺と言う言葉をやけに主張していた…そんな気がする。
違和感が胸の中で蠢いていた。
水島のお母さんが見せてくれた写真を見たあの時から、記憶が少しずつ蘇ってきていた。早く一人になって、水島との幼稚園の頃の記憶を思い出したい。
水島の家を出て、兄ちゃんの車に乗ろうとすると、電話で誰かと話しているようだった。電話が終わると、俺に気づき、窓を開けるといなや、申し訳なさそうな顔を見せる。
「ごめんな、匠。事件が起きたから、兄ちゃん行かないといけなくなった」
「俺なんか気にしないでいいから、行って」
忙しいのに送ってくれただけで感謝しないといけない。家までそんなに遠くなさそうだし、一人でも大丈夫そうだ。
「ごめんな。匠。じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
兄ちゃんはいつも心配してくれる。少し、過保護な気がするけど、たまにそのはみ出た過保護さが、いざという時に助けてくれる。
「ありがとう。仕事頑張って」
「おう」
そういうと兄ちゃんは、窓を閉め、車を走らせる。
本当は一人になりたい気分だった。
だから、ちょうど良かった。
水島の家から何も考えずに歩いて帰っていると、誰もいない公園に無意識に吸い寄せられた。ブランコに座り、ゆっくりと漕ぎながら、水島のことを考えていた。気づくと、幼稚園帰りと思われる子供たちが滑り台をしていた。帰ろうかと、ブランコのスピードを緩めて動きが止まるのを待っていると、強い視線を感じる。気のせいかと思いもしたが、視線が体に突き刺さる感覚がする。その視線を恐る恐る辿ると、白髪で焦げ茶色のスーツを着て、少し大きめの黒い鞄を肩に下げているおじさんが立っていた。
「何か俺に用ですか?」
問いかけるとそのおじさんが近づいてくる。
「少年、もしかして……何か後悔を抱えているのではないか」
肩が驚きでピクっと反応する。想像以上に暗い顔をしていたのかもしれない。自分がどういう表情でいるのかは、鏡で見ないとはっきり分からない。
「そうですけど」
嘘でも否定しておけばよかったのに...なぜだか正直に答えてしまった。
「もし、過去に戻れるなら、戻りたいか」
「戻れるものなら、戻りたいです。でも、そんなの現実では無理でしょ」
いろんな感情が怒りへとひとまとめにされ、爆発しそうになる。あの悲劇以来、俺の発する言葉、表情は周りを冷たくしている気がする。だから、出来るだけ人と関わりたくない。迷惑かけたくないから、一人でこの感情をどうにかするしかないのだ」
ありえない。神経を逆なでされるような発言にガラスがパリンと割られたかのような音が鼓膜に響き渡る。
「あの、誰だか知りませんが、からかわないでください」
怒りで、水が沸騰するかのような声を向ける。
「からかってなどないさ」
その男の人は、俺の怒りをものとせず、答える。
「失礼します」
何だか子供だからと馬鹿にされたかのようだ。怒りをぐっと抑えながら、その場を逃げるように離れる。
「明日起きたら、きっと戻っているはずさ」
去り際、男の声が耳に入ってくる。その言葉が脳に書きおこされる。消しゴムで消そうと試みるが消える気配がしない。
あぁ、この公園来るんじゃなかった。
公園を出てすぐ、俺は本屋に向かった。
『パステルライド』の新刊を買いに来た。ショッピングセンターの三階、楽器屋の横に位置するこの本屋は、この町で比較的大きい本屋として知られている。俺は行きつけの本屋が閉店したことをきっかけに、この本屋に、『パステルライド』の新作が出る度に、学校帰り通うことにしている。
実は、学校以外の場所で水島と初めて出会った場所である。正確にいえば幼稚園の時に出会っていたから初めてではないが。俺が記憶喪失になっていなかったら。今、横に水島がいたのかもしれない、かもしれないじゃなくていた。そして、一緒に、新刊を買って、感想を言い合いっ子して、アニメだって、一緒に見たかったのに…
新刊が出ているのを見つけたら、いつもは表紙を見て、手に取ると心躍る気持ちになるはずなのに、今は水をあげても一切喜びもしない植物のようだ。
――水島とこの本屋で会った時は、確か八巻だったな。
あの時は本当にびっくりした。もし、『パステルライド』がなかったら、水島のことを気づかずに高校生活に幕を閉じていた。
水島とこの本屋で出会ったことを昨日のように鮮明に覚えている。確か…「秋の日は釣瓶落とし」ということわざがパッと頭に思い浮かぶ季節のことだった。
♢
この本屋に来るの初めてだ。少しワクワクしている。でも、いつもより広いから迷うな。『パステルライド』どこ置いているだろう。
あまりにも広すぎる。だから、検索機を使って探すことにした。文字を入力して、出てきたレシートを頼りに探す。この筋にあるはず。
いつも寄っていた本屋は閉店したため、仕方なくこの店を利用することにした。昨今、本屋の数が減少している。本屋に行かなくても、スマホやタブレットの端末で読むことができる。そして、家から注文し、家で受け取ることができる。他にも、フリマサイトで定価より安く購入できたりもする。昔と比べたら、便利な時代になったのだろう。でも、俺は、直接、紙で読みたいし、本屋で手に取って購入したい。フリマサイトで買う方がお財布に優しいのは分かっているけど、この素晴らしい作品を描いている作者の人に還元したいし、これからも多くの人を魅了する作品を描き続けてほしい、アニメ化もしてほしい。だから、この方法を取っている。
場所が示されたレシートを確認しながら、歩いていると、『パステルライド』のポスターが視界に入ってくる。すると、早く購入して帰って読みたいという衝動から、足をいつの間にか走らせていた。
「あった」
手を伸ばすと、誰かの手とぶつかってしまった。すぐに手を引っ込める。本を探すのに夢中になりすぎたあまり、視界がはっきりと見えていなかった。
「ごめんなさい」
ぶつかった手の持ち主に謝ろうと、顔に視線を移すと、見知った顔がそこにはいた。向こうも驚きのあまり、口が開いていた。
「み、水島?」
「はい。何で私の名前……」
やっぱりそうだ。
「同じクラスの水島花凛だろ?」
「うん……」
本屋で同じクラスの生徒に出会うと思わなかった。しかも、同じ本の目の前で出くわしたことに驚いている。
「水島もこの本好きなの?」
声が嬉しい気持ちを隠せず無意識に高くなる。
「好き!」
水島は、本を胸に抱えて、微笑む。その笑顔を見て、俺も何だか嬉しくなる。
「俺も好きなんだ。たまたまテレビでこの本の宣伝を見て、面白そうだなと思い、電子書籍で一巻買って読んだら、はまってしまって」
「そうなんだ! 私は、この作者さんの画風が好きなのと、前作が面白かったからこの漫画も買っている」
嬉しそうに語る水島に、頬が緩んでいく。
「へぇ―。俺も、作者の人の画風好きだわ。今度、この作品アニメ化するよな」
「うん! 私の今の楽しみなんだ」
水島の弾けるような笑顔が脳内で響き渡る。
「……俺もすごい楽しみ!」
水島と目を見て一対一でちゃんと話すの自体初めてかもしれない。そんなことを考えていると、反応が遅くなってしまった。
閉店時間の三十分前のアナウンスが響く。話を切り上げて、会計レジに向かい、本を購入し、お店の前に出る。
同じクラスに、『パステルライド』好きがいると思わなかったから、今日は仲間を見つけることができて、本当に嬉しかった。
「水島…また、明日…」
「うん、明日!」
本屋前で水島と別れた。水島はこんな素敵な笑顔を持っているなんて、同じ教室で過ごしていたはずなのに全く気づきもしなかった。飽き飽きした日常に、もう慣れてしまった。モノクロの世界に急に色がついたかのように明日が楽しみになったのを今でも覚えている。この日をきっかけに学校でも水島と『パステルライド』の話で盛り上がり、一緒にいる時間がかけがえのないものになった。そして、心の中に新たな感情が芽生えた。その感情に名前をあてはめるとしたら、恋なのかもしれない。
水島と似たように笑う女の子を俺は、どこかで見た気がする。俺の心臓の鼓動をなぜだか高くするこの笑顔……。
俺は、その正体に気づいた。正確に言えば、気づかされた。気づいたときには、もうその女の子は、この世界からいなくなってしまった。なぜ、もっと早く気づくことができなかったのか。
家に戻り、ベッドに倒れ込み、後悔に押しつぶされそうになっていると、水島から貰った本の存在を思い出した。
受験が終わってからでいいから良かったら読んでと渡された小説版の『パステルライド』である。本棚の片隅に、紙袋に入った状態で置いていた。水島が亡くなってから、なかなか開ける気にはなれなかったが、前を向くために、手に取ることにした。水島との時間を風化させたくなかった。
紙袋を開けると、小説が五冊と手紙が一つ入っていた。この紙袋は、十二月二十一日に貰ったものだ。水島が亡くなる一日前…小説を一冊ずつ手に取っていくと、三巻目の小説に封筒が挟まれていた。何だろうと思い手に取ると、「柴崎匠くんへ」と書かれている。封を切ると、一枚の写真が入っていた。
この写真は……水島のお母さんから見せられた写真の中にあったものと同じものだ。
幼稚園の卒園式の俺と水島。表面張力のように涙を今にも零しそうな幼稚園の頃の俺と、凛とした笑顔を浮かべている水島。
もう二度と会えないと思っていた初恋に俺は、十年の時を経て気づかないうちに再会していたんだ。深呼吸を一つして、封を切る。
---------------------------------------------------------------------
柴崎匠くんへ
本当は直接伝えなければいけないのに、勇気が出なくて手紙でごめんなさい。
実は、君に会ったことがあります。君の記憶の中には私はいないかもしれないけど、最後だから、私の気持ちを手紙に伝えさせてください。
まさか高校で再会するとは思わなかった。君の姿を学校で見かけた時は、心が跳ね上がるほど嬉しかった。小さい時は、あんなに近くにいたのに、久しぶりに再会した君は、違う世界線を生きているかのようで近づくことができなかった。触れようとした途端、押しのけられたかのような気分になった。だから、遠くから眺めることしかできなかった。
この学校、生徒数多いし、各学年二百人もいるから、同じクラスになるのは無理なのかなって思っていたけど、最後の年で同じクラスになった時は嬉しかった。
三年のクラス発表がされた日、玄関で目が合った瞬間、勇気を出して声をかけようとしたけど、君が視線を逸らし、私のこと覚えていないと悟ったときは、少し落ち込んでしまった。でも、君が小学生の頃、遊具から落ちて記憶喪失になって、幼少期の記憶が消えてしまったと知り、そうだったんだと思うと、私は、幼稚園の頃の記憶と心の気持ちに鍵をかけることにした。鍵をかけて、近づかないように思い出さないようにすることで、高校生活の終わりを待つだけでした。でも、『パステルライド』のおかげで沢山話すことができた。一緒に過ごすことができた。
幼稚園の頃みたいに、かけがえのない時間が過ごせて幸せだった。でも、一緒に過ごすうちに、鍵をかけていた感情が、鍵が壊れそうな勢いで膨れ上がっていた。その感情を抑えるのは辛かった。本当は直接伝えるつもりだった。でも、それは叶いそうにありません。
幼稚園の頃からずっと君のことが好きでした。高校で再会して、短い間だったけど、かけがえのない思い出ができました。また出会えたことに感謝しています。
ありがとう、匠くん。
あなたの幸せを心から願っています。
もう一枚、何も書かれていない便箋が入っている……でも、最後の行に消しゴムで文字が消された跡が、机の上に置いてあった鉛筆を取り、その跡を塗りつぶすと、文字が浮き出てくる。
――もし、私の身に何かあったとしても、何も知ろうとはしないでほしい。お願い。
心臓を引っこ抜かれたかのように色々な感情が錯綜している。水島は自分の身に危険が迫っていたのを知っていたのか。俺の知らない所で君は何に巻き込まれていたのか。誰に殺されたのか。明らかに、水島の死には、何かが隠されている。自殺なんかじゃない、誰かに殺された。
兄ちゃんの地に沈みそうかのような言葉が頭を過る。
――水島花凛ちゃんは他殺だ。首に絞められた跡があった。
この言葉が頭の中で、駆けずり回っていた。水島の死は、いじめを苦に自殺と世間的にはなっている。
確かに、水島はいじめを受けていた。水島は「大丈夫だから」と言っていて、気には留めていなかった。水島はいじめに屈することなく学校生活を送っていた。でも、そうではなかったのかもしれない。本心を隠していたのかも……しれない。俺が心配して声をかけたこともあったが、水島はこう言った。
「あと、もう少しで学校生活も終わることだし。私は、大丈夫」
君は笑顔を向けていた。あの、笑顔を見て、心の中で水島が大丈夫って言うのなら、首を突っ込まない方が良いのだと思い、目を背けていた。もしかしたら、水島を苛めていたやつが、水島をあの日、屋上から突き飛ばしたのか…もしそうだとしたら……。
怒り、後悔の炎が燃え盛っている。目の前が赤く、徐々に黒く埋め尽くされていく。
あのおじさんが言っていたように過去に戻れるなら、四月五日、三年生の始業式の日に時を戻してほしい。後悔を消したい。あの選択を変えたい。水島が殺される未来をこの手で変えたい。そう願いながら、瞼を閉じた。
♢
「匠、おはよう!」
同じサッカー部の大樹が話しかけてくる。
「おはよう」
「今年、匠と同じクラス!」
背中を、紙相撲をしている時かのようにバシバシと叩いてくる。
「おぉ」
そんな会話をしていると、俺に注がれる視線に気づく。一瞬目が合い、何か言おうとしていたが、俺はその視線から逃げてしまった。その後、再び、君に視線を注ぐと、何だか悲しそうな表情を浮かべていたが、友達が来たみたいで笑顔に戻っていたから、気にはしていなかった。
あの日のクラス替えの日、本当は、水島の視線に気づいていた。でも、俺は無視をしてしまった。俺が初恋を忘れてしまわなかったら、忘れていてもちゃんと思い出していたら、水島を傷つけずに済んだし、死なずにすんだのかも知れない。
水島のあの最期に俺に向けられた笑みが頭の中を焦がしつくしている。
「水島、水島、水島……」
お願いだから、もう一度俺にチャンスをください。
君がいない世界で、俺は生きていけない……