目覚ましのアラームと共に、霧が晴れたかのように夢から覚める。
起きてすぐカーテンを開けると、雪が薄っすら降り積もり、チラチラと風に舞っている。
今年初の雪に、心を躍らせながらも、今日12月22日は、雪よりも楽しみなことがある。終業式だから、学校が終わるのが早く、その後、クラスメイトとショッピングモールで開催されている大好きな漫画『パステルライド』のコラボカフェに行く約束をしている。
俺は、この日を何より楽しみにしていた。高校三年生の俺は、受験生で一月の半ばには共通テストを控えている。でも、時には息抜きが必要だ。今日は、勉強漬けの日々から解放される日だ。一緒に行く相手は、昨日急遽誘ったが、引き受けてくれた。今までに誰かを誘うことなど緊張したことなかったのに、初めて緊張で心臓がどうにかなりそうだった。
「匠―早く降りてきなさい。遅刻するわよ」
楽しみで時間を気にするのを忘れていた。
「はーい」
下の階から叫ぶ母さんに聞こえるように返事する。でないと、母さんがゴジラのようにやってくる。制服に着替え、荷物を準備し、階段を降りて、台所に朝ご飯を食べに向かう。
「おはよう。匠」
「おはよう。母さん、今日、友達と遊んでから帰るから、遅くなる」
目を擦りながら、眠気を覚ます。
「分かった、遅くなりすぎないようにね」
「うん、分かった」
「もしかして、その子って、同じ漫画が好きな同じクラスの子?」
「……そうだよ」
顔が少し紅潮してしまう。
「その子の話をしているときの匠は何だか楽しそうだよね。もしかして……」
ゴホッ、ゴホッ。お茶が喉で溺れる。胸を拳でトントンして、溺れているお茶に助け舟を出す。涙目になった目を擦りながら、何て言うべきなのか悩む。
「……と、と、友達だから」
今は……という言葉は、口から溢れそうだったけど、咄嗟に胸の奥底に押し込む。危ない、危ない……この気持ちを出していいのは受験が終わってからだ。それまでは、もう少し抑え込んでおかないと。恋愛にうつつを抜かして、受験で失敗をしたくないし、相手にも迷惑をかけたくない。
「あら、そうなの? まぁ、楽しんでおいで」
母さんは理解してくれたみたいで、家事をするために離れて、それから話しかけてくることはなかった。
朝食を済ませ、洗面所で歯磨きをし、寝癖を直したら、椅子に掛けておいたカバンを取る。そして、「行ってきまーす」と家を出る。自転車のカギを開ける音が、冷たい空気にさらされているせいか、カチッという音がいつもより大きく感じる。まぁ、そんなことは気にしないで、学校に行きますか。
白い雪化粧を施した街並みは、いつもと違う世界にいるかのようで、幻想的に思えた。レミオロメンの粉雪を歌いたくなるような風景で、気づいたら思わず、口ずさんでいた。
それほど、今日の俺は、機嫌がいいのだ。
教室に入ると否や、クラスメイト達がおはようと挨拶をしてくる。机の上に荷物を置くと、いつも一緒にいる友達の三鷹大樹と高岩尚登がやってくる。
「匠、今日学校終わるの早いし、カラオケどう?」
大樹が肩を組みながら、誘ってくる。
「あ、ごめん。今日は用事があるから、無理なんだ! また今度」
「そっか、まぁ仕方ないか。ひょっとして彼女でもできた?」
何だよ、大樹。母さんといい、友達と言い朝から揶揄いすぎだって。
「違うよ」
真顔を瞬時に作り出し、すぐ否定する。答えるのが遅いほど、怪しまれるから。
「まぁ、今は勉強の方が大事やもんな」
尚登が肩をポンと叩く。セーフ。
「あぁ、そうだし、勉強大事」
共感する。最後の方、棒読みになっていたかもしれない。
「あっ、チャイムだ。体育館行こ!」
朝のホームルームなくして始まる終業式のために体育館に向かう。校長の話長いんだろうなとか、冬休みだからといって気を抜くなとか長々話すんだろうなとか言っているのを右から左に流しながらも、体育館用のシューズを下駄箱から取り、体育館へと歩いていく。面倒な終業式さえ終われば、後は、楽しい時間だけが待っている。楽しみが顔に出てしまっている。我慢と心に言い聞かせてグッと抑え込み、平常心を保つ。
「周りに迷惑をかけずに、充実した冬休みにしてください。以上で終わります」
校長先生の話が快速電車のように通りすぎた。いつもは、子どもがスーパーマーケットで元気に乗り回しているようなあの小さなカートが進むぐらいのスピードに感じるのだが。校長先生の話と言う一番の峠を越えたら、あっという間に終業式は終わりを迎えた。
後は、2,3,4限と昼ご飯食べて、掃除して帰りのホームルームを終えれば、楽しい時間が手を広げて待っている。あとは、そこに飛び込むだけだ。
「皆さん、良い冬休みを過ごしてくださいね。これでホームルームを終わりにしたいと思います。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
いつもより皆の挨拶の声が心なしか大きい気がする。皆元気良いな。冬休みだからだと思う。でも、受験生だから、実質、学校で授業を受ける時間が、個人で自主的に勉強する時間に変わるだけ。まぁ、もう進路が決まっている人たちは、勉強から解放されて、自由な時間を過ごすことができる。俺はそういう人たちのことを特別羨ましいと思わない。一回しかない人生の中で、どういう選択をするのかは、その人生の所有者が決めることだから、他人があぁだ、こうだといっても、最終的な決定権は、その人にあるのだし、他人の人生と比較したって、自分に得られるメリットって最終的にあるのだろうか。
そんなこと考えながら、机の中に入れていた教科書をカバンにつめていると財布がないことに気づく。
「え……」
絶望が声となり漏れる。なぜ、朝確認しないで家を出たのか……今朝の自分を殴りたい気分だった。
「匠、そんな大きな声出してどうしたの?」
友達の大樹が目を見開き、近づいてくる。この時、周りに聞こえるほどの大きい声を出してしまったのかと気づく。
「あ、いや、なんでもない」
「それなら、いいんだけど、またな」
「おぉ、また」
何でもなくはないのだけど、楽しみのあまり浮かれて財布を忘れてしまったようだ。あ、でも、スマホのバーコード決済で払えばと閃く。スマホの電源を入れ、パスワードを光のような速さで打ち、アプリをタップする。あ、あぁ……思わず、崩れ落ちる。残高が、百円しかない。チャージするの忘れていた。これは、取りに戻るしかない。ここで思いも寄らぬトラップに引っかかるとは、何て馬鹿なんだ。今朝の自分を殴りたい。家に取りに戻るしかない。自転車で来たし、飛ばせば、往復で二十分もあれば帰ってこれるはずだ。まずは、一緒に行く相手に謝らなくてはならない。
「水島」
「柴崎くん、ちょっと待って」
机に置いてあった勉強道具をカバンに詰め込んでいる途中の彼女。髪は肩につくかつかないかのボブで、透明感があって、ふいに見せる笑顔が儚い、簡潔に説明するのが難しい……そんな、彼女の名前は水島花凛。
彼女って、ガールフレンドの方ではなく、三人称単数形の方をさす。まだ、前者の関係性ではない……。
「ごめん。俺、財布忘れたから取りに戻ってもいいかな?」
水島は手を止めて、視線をあげて、頷く。
「いいよ! 玄関で待っとこうか」
「外は寒いし、教室で待ってて」
今日の気温は、十度を切っていて寒いし、天気予報を見ると、夕方から雪マークになっていた。
「分かった」
「ごめんな」
「うん、大丈夫! 怪我しないように気を付けてね」
水島がかぶりを振る。教室の黒板の上の真ん中に取りつけられている時計は十四時十五分を指していた。
「三十五分までには戻って来れそうだから」
早口で告げると急いで教室を飛びぬけ、ダッシュで自転車を取りに行き、家に向かう。
冷たい空気が頬をさす中、車に気をつけながら、今度は自転車が出せる最高速度を保ちながら、家に戻る。快速電車並みのスピードはこの自転車では無理そうだ。
よし、家に着いた。自転車を置き、家に入る。脱いだ靴が散らかっていようが、お構いなしに自分の部屋に入り、机の上に置かれた財布を発見する。財布を開けて、お金がちゃんと入っていることを確認し、階段を駆け下りる。
「あら、匠!」
買い物に出かけるところの母さんと鉢合わせする。驚きを隠せないような表情をして、何か言おうとしているが、会話している余裕はない。待たせてしまっているからな。
「じゃあ」
咄嗟に出た便利な「じゃあ」に母さんは「行ってらしゃーい」と返した。財布をかごに入れ、自転車に過重労働をさせるかの勢いで学校まで向かう。
よし学校着いた。建物に設置されている時計を見ると、34分。目標の25分には及ばなかったけど、急ごう。水島を皿に待たせるわけにはいかない。自転車置き場に、自転車を置き、鍵をかけ、財布を持って走って向かう。
すると、校舎の屋上から、誰かが落ちたのが視界に入る。えっ……見間違い、あ、え、気のせい、え、でも……。
頭の中がホワイトアウトしたかのように真っ白になる。気が動転している。確かめるべく、高まる心臓の鼓動を左手で抑えながら恐る恐る近づく。近くになるほど、血が流れているのがはっきり見える。こんな量の血を見たことがない……恐怖で足が震えながらも、近づいていた。
「えっ、何で……」
悪夢の中に足を踏み入れたのかと思い、頬をつねるが、現実のようだ。
「み、み、水島……」
震える手で水島の体に触れる。教室で待っているはずの、水島がなぜここに、血を流して倒れているのか。屋上を見上げるとフードを深くかぶった人影が見える。視力はいいはずなのに、その正体が見えない。
「誰かに落とされたのか、水島……」
意識が混濁している。屋上に目を向けている間に、水島の唇が真っ青になっている。
「今、救急車呼ぶから。しっかりしろ」
『火事ですか? 救急ですか?』
「救急ですクラスメイトが屋上から落ちて……」
『住所を教えてください』
「京栄高校です」
『どういう状況ですか?』
「頭を強く打ち、意識が朦朧としていて、血が、唇の色が……」
『分かりました。すぐ向かわせます。警察にも連絡入れますので、声をかけ続けてあげてください』
救急車を呼ぶなんて、人生で初めてだ。こんなことで呼びたくなかった。何としてでも助かってくれ。
「水島、救急車呼んだからな」
「ご、め、ん」
必死に声を振り絞り出している。その様子を見て、心が強く締め付けられて、痛みのあまり、叫びたくなるほどだった。
「どうして……」
水島の目が今にも閉じそうだ。閉じてしまったら、もう開かないかもしれないという嫌な予感が過り、必死に声を掛ける。
「だめだ、ダメだ…しっかりしろ、水島」
俺は、震えが治まらない手で、水島の手を固く握る。意識が離れていかないように。
「約束守れなくて……ご、め、ん」
――今はそんなこと、どうでもいい。
「喋らなくていい、また今度行こ。だから……」
――死なないでくれ。生きてくれ。
お願いです、神様、水島花凛を助けてください。
「あり、が、とう……」
水島の口元に耳を近づけるが、最後が聞き取ることができない。風船がしぼんでいっているようだ。もうこれ以上空気が抜けてしまったら……だから、早く、救急車、来てくれ。
――無我夢中で神頼みをしていた。
救急車と警察のサイレンの音が遠くから聞こえてきた。希望の光がわずかに見えてきた。この光に縋るしかないのだ。
「水島、あともう少し……だから」
脈があるが、意識を失ってしまった。あぁ……と声が漏れてしまう。
だめだ、弱気になっちゃダメだ。首を振って、負の感情を吹き飛ばす。グラウンドに救急車が止まり、救急隊員の人が慣れた手つきで、水島を運んでいく。
「どうかお願いします」
深く救急隊員の人に頭を下げる。救急車と警察のサイレンと車に気づいた生徒たちが少しずつ集まってくるのが視界に入る。でも、そんなこと気にしている余裕なんてない。
「何事ですか」
校長や他の先生たちが騒ぎを聞きつけ、外に出てきた。
「校長先生ですか? 京栄高校で、生徒が飛び降りたと言う情報を聞いてやって来ました」
パトカーから降りてきた刑事が、事情を説明する。四十代後半ぐらいで、紺色のコートを身にまとっている。
「えっ、本当ですか」
言葉を失う校長、そして先生たち、次々と集まってきた生徒で視界に埋めつくされている。
「通報された生徒さんは……」
「俺です。柴崎匠です」
手を上げて、刑事さんの元に近づく。
「えっ、もしかして……匠くん?」
俺の名前を知っている。
「あっ……高木さん」
思い出した。俺は、その刑事のことを知っていた。実は、刑事の兄と同じ職場の人で何度か会ったことがある。でも、最後に会ったのが、中学三年生の時だったから、久しぶりだった。
「匠くん、こっちに来てもらえるかな」
「はい」
そう言われると、俺はパトカーの中で事情聴取を受けに向かった。
「田中は、先生たちに飛び降りた生徒について聞き込みを頼む」
「分かりました」
高木さんは部下の人に指示をしている。血で染められた手を見つめながら、俺は水島が助かることをひたすら願うしかできなかった。
「匠くん、行こうか」
足枷を付けられたかのような感覚…途中、段差に躓きこけそうになる。その様子に気づいた高木さんが背中を支えて、パトカーの中まで誘導してくれた。後部座席に座り、車のドアがパタンと閉められたと同時に外の喧騒が静寂と化した。
「久しぶりだね、匠くん」
「はい」
自分の声が、北風のように冷たく感じる。まったく整理がつかない。少しの沈黙が胸を針のように刺していく。
「こんなところで会うとは思っていなかったよ」
そうですねとか言葉にした方がいいのだろうと一瞬思ったりしたが、話す気力と思考がすでに削ぎ落とされていた。
「ゆっくりでいいから、何があったか詳しく教えてほしい」
高木さんに言われると、深呼吸をし、重い扉を開けるかのように口を開いた。
「今日、俺は水島と放課後、遊びに行く約束をしていました。学校が終わり、俺は財布を忘れたことに気づき、14時15分に教室で水島を待たせて、家に取りに帰りました。チャリを走らせ、34分に学校に着き、教室で待つ水島のもとへ行こうとしたら、屋上から、誰かが飛び降りる人影を見て、近づいたら、水島が血を流して倒れていました」
「屋上に誰かいたりした?」
「灰色のフードを被った人物が見下ろしていました。顔はよく見えなかったです」
「教えてくれてありがとう」
「はい」
俺は憔悴しきっていた。楽しみにしていた時間が一瞬にして真っ黒なペンキで塗りつぶされたかのように、絶望に陥ってしまったのだから。
ふと窓の外に視線を移すと、誰かがこっちに向かって走ってくる。
「匠、大丈夫か……」
息を切らし、髪が少し乱れている様子から、慌ててこの場に来たのが分かる。窓越しから、俺の憔悴しきっている顔を心配げに見つめていた。
「……兄ちゃん」
この男は俺の十個離れた兄で刑事をしている健人だ。兄の顔を見るとほんの少しだけ張り詰めていた気分が和らいだ気がする。
「高木先輩お疲れ様です」
「お疲れ、健人、少しいい?」
「分かりました」
「匠くん、少し待ってて」
「はい」
ドアがパタンと閉められた。部屋の電気が急に消えたかのような気持ちになる。二人が話している後ろ姿を窓越しに見つめる。なかなか二人が戻ってくる気配ない。時計もないし、スマホもどこに置いたか分からないから、時間を確かめるすべがない。ただただ、不穏な足音がどんどん近づいてきているかのような不安に駆られていた。両手を強く結び、神に祈る。
――お願いです、神様、水島を助けてください。
「匠くん……」「匠……」
暫くして、二人は戻ってきた。高木さんと兄ちゃんが目を合わせながら、何か言おうとしているが口を開くのを躊躇している。重苦しい表情を浮かべている。その二人の様子から俺は察してしまった……。
「先ほど、水島花凛さんが息を引き取ったと……」
重い口を高木さんが開く。
言葉が重りを引きずり、口から出るのを拒んでいる。水島が亡くなった……考えたくもなかった。思考を放棄しようとしていた。今頃、ショッピングモールで買い物をして、お茶をし、水島の時間を楽しんでいたはずなのに。なぜ、水島が死ななきゃいけないんだ。目頭が熱くなり、涙が許可していないのに流れ落ちてくる。
いつの間にか辺りは暗くなり、外は前が見えなくなるほどの猛吹雪に姿を変えていた。予報通りだ。ずっと、パトカーに乗っているわけにもいかず、事情聴取が終わると、外に出た。水島の血が付いた手を校舎の水道の蛇口を捻り、洗う。救うことができなかった……俺のせいで、水島は死んでしまった。沸々と湧き上がる後悔と無念で水の冷たさを感じる余裕すら残されていなかった。
水島が亡くなったと聞いてからずっと空っぽになっていた。穴がぽっかりと空いたかのようだった。水島のことを考える度に、また一つ穴が空いて行く。あぁ、このままだと、俺の心が穴凹だらけになってしまう。真っ黒に塗りつぶされた予定はもうどうにもならない。俺はどうすればいいんだ……
「匠、今日は、兄ちゃんが送っていくから」
「でも、自転車」
気力をなくした声で、自転車の方に視線を遣る。
「乗せて帰る」
「でも、兄ちゃん、忙しいし」
「あぁ、もう。放っておけるわけないだろ」
心配と怒りが混ざったような兄ちゃんの声が、吹雪とともに耳の中を突き抜ける。
「あ、ありがと……」
無理に繕った声が出せるほどの気力が残されていなかった。本当は全て、俺に向けられる言葉を無視してしまいたかった。声を出すのが精一杯だった……兄ちゃんの目の前だからできることだ。他人の目の前でこの態度を取ってしまったら、不快にさせてしまう。
「よし、行くよ」
自転車を一緒に取りに行き、兄ちゃんの車の後ろに乗せて、家に送ってもらった。
「兄ちゃん、ありがとう」
車の中では終始お互いに言葉を発さず、無言であった。きっと、兄ちゃんは気を遣ってくれたのだろう。でも、暗闇に少しずつ体が呑み込まれていく。
「家着いたよ」
自分で自転車出さないと思っていたが、いつの間にか兄ちゃんが自転車を車から出してくれていた。声かけられないと家着いたことさえも、気づかないほど、気が動転していた。
「温かくして、しっかり休みな」
兄ちゃんの優しい言葉でさえも跳ね返される。
「うん」
兄ちゃんの声に頷くと、家のドアに手をかけて入ると、外の世界に鍵をかけた。
起きてすぐカーテンを開けると、雪が薄っすら降り積もり、チラチラと風に舞っている。
今年初の雪に、心を躍らせながらも、今日12月22日は、雪よりも楽しみなことがある。終業式だから、学校が終わるのが早く、その後、クラスメイトとショッピングモールで開催されている大好きな漫画『パステルライド』のコラボカフェに行く約束をしている。
俺は、この日を何より楽しみにしていた。高校三年生の俺は、受験生で一月の半ばには共通テストを控えている。でも、時には息抜きが必要だ。今日は、勉強漬けの日々から解放される日だ。一緒に行く相手は、昨日急遽誘ったが、引き受けてくれた。今までに誰かを誘うことなど緊張したことなかったのに、初めて緊張で心臓がどうにかなりそうだった。
「匠―早く降りてきなさい。遅刻するわよ」
楽しみで時間を気にするのを忘れていた。
「はーい」
下の階から叫ぶ母さんに聞こえるように返事する。でないと、母さんがゴジラのようにやってくる。制服に着替え、荷物を準備し、階段を降りて、台所に朝ご飯を食べに向かう。
「おはよう。匠」
「おはよう。母さん、今日、友達と遊んでから帰るから、遅くなる」
目を擦りながら、眠気を覚ます。
「分かった、遅くなりすぎないようにね」
「うん、分かった」
「もしかして、その子って、同じ漫画が好きな同じクラスの子?」
「……そうだよ」
顔が少し紅潮してしまう。
「その子の話をしているときの匠は何だか楽しそうだよね。もしかして……」
ゴホッ、ゴホッ。お茶が喉で溺れる。胸を拳でトントンして、溺れているお茶に助け舟を出す。涙目になった目を擦りながら、何て言うべきなのか悩む。
「……と、と、友達だから」
今は……という言葉は、口から溢れそうだったけど、咄嗟に胸の奥底に押し込む。危ない、危ない……この気持ちを出していいのは受験が終わってからだ。それまでは、もう少し抑え込んでおかないと。恋愛にうつつを抜かして、受験で失敗をしたくないし、相手にも迷惑をかけたくない。
「あら、そうなの? まぁ、楽しんでおいで」
母さんは理解してくれたみたいで、家事をするために離れて、それから話しかけてくることはなかった。
朝食を済ませ、洗面所で歯磨きをし、寝癖を直したら、椅子に掛けておいたカバンを取る。そして、「行ってきまーす」と家を出る。自転車のカギを開ける音が、冷たい空気にさらされているせいか、カチッという音がいつもより大きく感じる。まぁ、そんなことは気にしないで、学校に行きますか。
白い雪化粧を施した街並みは、いつもと違う世界にいるかのようで、幻想的に思えた。レミオロメンの粉雪を歌いたくなるような風景で、気づいたら思わず、口ずさんでいた。
それほど、今日の俺は、機嫌がいいのだ。
教室に入ると否や、クラスメイト達がおはようと挨拶をしてくる。机の上に荷物を置くと、いつも一緒にいる友達の三鷹大樹と高岩尚登がやってくる。
「匠、今日学校終わるの早いし、カラオケどう?」
大樹が肩を組みながら、誘ってくる。
「あ、ごめん。今日は用事があるから、無理なんだ! また今度」
「そっか、まぁ仕方ないか。ひょっとして彼女でもできた?」
何だよ、大樹。母さんといい、友達と言い朝から揶揄いすぎだって。
「違うよ」
真顔を瞬時に作り出し、すぐ否定する。答えるのが遅いほど、怪しまれるから。
「まぁ、今は勉強の方が大事やもんな」
尚登が肩をポンと叩く。セーフ。
「あぁ、そうだし、勉強大事」
共感する。最後の方、棒読みになっていたかもしれない。
「あっ、チャイムだ。体育館行こ!」
朝のホームルームなくして始まる終業式のために体育館に向かう。校長の話長いんだろうなとか、冬休みだからといって気を抜くなとか長々話すんだろうなとか言っているのを右から左に流しながらも、体育館用のシューズを下駄箱から取り、体育館へと歩いていく。面倒な終業式さえ終われば、後は、楽しい時間だけが待っている。楽しみが顔に出てしまっている。我慢と心に言い聞かせてグッと抑え込み、平常心を保つ。
「周りに迷惑をかけずに、充実した冬休みにしてください。以上で終わります」
校長先生の話が快速電車のように通りすぎた。いつもは、子どもがスーパーマーケットで元気に乗り回しているようなあの小さなカートが進むぐらいのスピードに感じるのだが。校長先生の話と言う一番の峠を越えたら、あっという間に終業式は終わりを迎えた。
後は、2,3,4限と昼ご飯食べて、掃除して帰りのホームルームを終えれば、楽しい時間が手を広げて待っている。あとは、そこに飛び込むだけだ。
「皆さん、良い冬休みを過ごしてくださいね。これでホームルームを終わりにしたいと思います。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
いつもより皆の挨拶の声が心なしか大きい気がする。皆元気良いな。冬休みだからだと思う。でも、受験生だから、実質、学校で授業を受ける時間が、個人で自主的に勉強する時間に変わるだけ。まぁ、もう進路が決まっている人たちは、勉強から解放されて、自由な時間を過ごすことができる。俺はそういう人たちのことを特別羨ましいと思わない。一回しかない人生の中で、どういう選択をするのかは、その人生の所有者が決めることだから、他人があぁだ、こうだといっても、最終的な決定権は、その人にあるのだし、他人の人生と比較したって、自分に得られるメリットって最終的にあるのだろうか。
そんなこと考えながら、机の中に入れていた教科書をカバンにつめていると財布がないことに気づく。
「え……」
絶望が声となり漏れる。なぜ、朝確認しないで家を出たのか……今朝の自分を殴りたい気分だった。
「匠、そんな大きな声出してどうしたの?」
友達の大樹が目を見開き、近づいてくる。この時、周りに聞こえるほどの大きい声を出してしまったのかと気づく。
「あ、いや、なんでもない」
「それなら、いいんだけど、またな」
「おぉ、また」
何でもなくはないのだけど、楽しみのあまり浮かれて財布を忘れてしまったようだ。あ、でも、スマホのバーコード決済で払えばと閃く。スマホの電源を入れ、パスワードを光のような速さで打ち、アプリをタップする。あ、あぁ……思わず、崩れ落ちる。残高が、百円しかない。チャージするの忘れていた。これは、取りに戻るしかない。ここで思いも寄らぬトラップに引っかかるとは、何て馬鹿なんだ。今朝の自分を殴りたい。家に取りに戻るしかない。自転車で来たし、飛ばせば、往復で二十分もあれば帰ってこれるはずだ。まずは、一緒に行く相手に謝らなくてはならない。
「水島」
「柴崎くん、ちょっと待って」
机に置いてあった勉強道具をカバンに詰め込んでいる途中の彼女。髪は肩につくかつかないかのボブで、透明感があって、ふいに見せる笑顔が儚い、簡潔に説明するのが難しい……そんな、彼女の名前は水島花凛。
彼女って、ガールフレンドの方ではなく、三人称単数形の方をさす。まだ、前者の関係性ではない……。
「ごめん。俺、財布忘れたから取りに戻ってもいいかな?」
水島は手を止めて、視線をあげて、頷く。
「いいよ! 玄関で待っとこうか」
「外は寒いし、教室で待ってて」
今日の気温は、十度を切っていて寒いし、天気予報を見ると、夕方から雪マークになっていた。
「分かった」
「ごめんな」
「うん、大丈夫! 怪我しないように気を付けてね」
水島がかぶりを振る。教室の黒板の上の真ん中に取りつけられている時計は十四時十五分を指していた。
「三十五分までには戻って来れそうだから」
早口で告げると急いで教室を飛びぬけ、ダッシュで自転車を取りに行き、家に向かう。
冷たい空気が頬をさす中、車に気をつけながら、今度は自転車が出せる最高速度を保ちながら、家に戻る。快速電車並みのスピードはこの自転車では無理そうだ。
よし、家に着いた。自転車を置き、家に入る。脱いだ靴が散らかっていようが、お構いなしに自分の部屋に入り、机の上に置かれた財布を発見する。財布を開けて、お金がちゃんと入っていることを確認し、階段を駆け下りる。
「あら、匠!」
買い物に出かけるところの母さんと鉢合わせする。驚きを隠せないような表情をして、何か言おうとしているが、会話している余裕はない。待たせてしまっているからな。
「じゃあ」
咄嗟に出た便利な「じゃあ」に母さんは「行ってらしゃーい」と返した。財布をかごに入れ、自転車に過重労働をさせるかの勢いで学校まで向かう。
よし学校着いた。建物に設置されている時計を見ると、34分。目標の25分には及ばなかったけど、急ごう。水島を皿に待たせるわけにはいかない。自転車置き場に、自転車を置き、鍵をかけ、財布を持って走って向かう。
すると、校舎の屋上から、誰かが落ちたのが視界に入る。えっ……見間違い、あ、え、気のせい、え、でも……。
頭の中がホワイトアウトしたかのように真っ白になる。気が動転している。確かめるべく、高まる心臓の鼓動を左手で抑えながら恐る恐る近づく。近くになるほど、血が流れているのがはっきり見える。こんな量の血を見たことがない……恐怖で足が震えながらも、近づいていた。
「えっ、何で……」
悪夢の中に足を踏み入れたのかと思い、頬をつねるが、現実のようだ。
「み、み、水島……」
震える手で水島の体に触れる。教室で待っているはずの、水島がなぜここに、血を流して倒れているのか。屋上を見上げるとフードを深くかぶった人影が見える。視力はいいはずなのに、その正体が見えない。
「誰かに落とされたのか、水島……」
意識が混濁している。屋上に目を向けている間に、水島の唇が真っ青になっている。
「今、救急車呼ぶから。しっかりしろ」
『火事ですか? 救急ですか?』
「救急ですクラスメイトが屋上から落ちて……」
『住所を教えてください』
「京栄高校です」
『どういう状況ですか?』
「頭を強く打ち、意識が朦朧としていて、血が、唇の色が……」
『分かりました。すぐ向かわせます。警察にも連絡入れますので、声をかけ続けてあげてください』
救急車を呼ぶなんて、人生で初めてだ。こんなことで呼びたくなかった。何としてでも助かってくれ。
「水島、救急車呼んだからな」
「ご、め、ん」
必死に声を振り絞り出している。その様子を見て、心が強く締め付けられて、痛みのあまり、叫びたくなるほどだった。
「どうして……」
水島の目が今にも閉じそうだ。閉じてしまったら、もう開かないかもしれないという嫌な予感が過り、必死に声を掛ける。
「だめだ、ダメだ…しっかりしろ、水島」
俺は、震えが治まらない手で、水島の手を固く握る。意識が離れていかないように。
「約束守れなくて……ご、め、ん」
――今はそんなこと、どうでもいい。
「喋らなくていい、また今度行こ。だから……」
――死なないでくれ。生きてくれ。
お願いです、神様、水島花凛を助けてください。
「あり、が、とう……」
水島の口元に耳を近づけるが、最後が聞き取ることができない。風船がしぼんでいっているようだ。もうこれ以上空気が抜けてしまったら……だから、早く、救急車、来てくれ。
――無我夢中で神頼みをしていた。
救急車と警察のサイレンの音が遠くから聞こえてきた。希望の光がわずかに見えてきた。この光に縋るしかないのだ。
「水島、あともう少し……だから」
脈があるが、意識を失ってしまった。あぁ……と声が漏れてしまう。
だめだ、弱気になっちゃダメだ。首を振って、負の感情を吹き飛ばす。グラウンドに救急車が止まり、救急隊員の人が慣れた手つきで、水島を運んでいく。
「どうかお願いします」
深く救急隊員の人に頭を下げる。救急車と警察のサイレンと車に気づいた生徒たちが少しずつ集まってくるのが視界に入る。でも、そんなこと気にしている余裕なんてない。
「何事ですか」
校長や他の先生たちが騒ぎを聞きつけ、外に出てきた。
「校長先生ですか? 京栄高校で、生徒が飛び降りたと言う情報を聞いてやって来ました」
パトカーから降りてきた刑事が、事情を説明する。四十代後半ぐらいで、紺色のコートを身にまとっている。
「えっ、本当ですか」
言葉を失う校長、そして先生たち、次々と集まってきた生徒で視界に埋めつくされている。
「通報された生徒さんは……」
「俺です。柴崎匠です」
手を上げて、刑事さんの元に近づく。
「えっ、もしかして……匠くん?」
俺の名前を知っている。
「あっ……高木さん」
思い出した。俺は、その刑事のことを知っていた。実は、刑事の兄と同じ職場の人で何度か会ったことがある。でも、最後に会ったのが、中学三年生の時だったから、久しぶりだった。
「匠くん、こっちに来てもらえるかな」
「はい」
そう言われると、俺はパトカーの中で事情聴取を受けに向かった。
「田中は、先生たちに飛び降りた生徒について聞き込みを頼む」
「分かりました」
高木さんは部下の人に指示をしている。血で染められた手を見つめながら、俺は水島が助かることをひたすら願うしかできなかった。
「匠くん、行こうか」
足枷を付けられたかのような感覚…途中、段差に躓きこけそうになる。その様子に気づいた高木さんが背中を支えて、パトカーの中まで誘導してくれた。後部座席に座り、車のドアがパタンと閉められたと同時に外の喧騒が静寂と化した。
「久しぶりだね、匠くん」
「はい」
自分の声が、北風のように冷たく感じる。まったく整理がつかない。少しの沈黙が胸を針のように刺していく。
「こんなところで会うとは思っていなかったよ」
そうですねとか言葉にした方がいいのだろうと一瞬思ったりしたが、話す気力と思考がすでに削ぎ落とされていた。
「ゆっくりでいいから、何があったか詳しく教えてほしい」
高木さんに言われると、深呼吸をし、重い扉を開けるかのように口を開いた。
「今日、俺は水島と放課後、遊びに行く約束をしていました。学校が終わり、俺は財布を忘れたことに気づき、14時15分に教室で水島を待たせて、家に取りに帰りました。チャリを走らせ、34分に学校に着き、教室で待つ水島のもとへ行こうとしたら、屋上から、誰かが飛び降りる人影を見て、近づいたら、水島が血を流して倒れていました」
「屋上に誰かいたりした?」
「灰色のフードを被った人物が見下ろしていました。顔はよく見えなかったです」
「教えてくれてありがとう」
「はい」
俺は憔悴しきっていた。楽しみにしていた時間が一瞬にして真っ黒なペンキで塗りつぶされたかのように、絶望に陥ってしまったのだから。
ふと窓の外に視線を移すと、誰かがこっちに向かって走ってくる。
「匠、大丈夫か……」
息を切らし、髪が少し乱れている様子から、慌ててこの場に来たのが分かる。窓越しから、俺の憔悴しきっている顔を心配げに見つめていた。
「……兄ちゃん」
この男は俺の十個離れた兄で刑事をしている健人だ。兄の顔を見るとほんの少しだけ張り詰めていた気分が和らいだ気がする。
「高木先輩お疲れ様です」
「お疲れ、健人、少しいい?」
「分かりました」
「匠くん、少し待ってて」
「はい」
ドアがパタンと閉められた。部屋の電気が急に消えたかのような気持ちになる。二人が話している後ろ姿を窓越しに見つめる。なかなか二人が戻ってくる気配ない。時計もないし、スマホもどこに置いたか分からないから、時間を確かめるすべがない。ただただ、不穏な足音がどんどん近づいてきているかのような不安に駆られていた。両手を強く結び、神に祈る。
――お願いです、神様、水島を助けてください。
「匠くん……」「匠……」
暫くして、二人は戻ってきた。高木さんと兄ちゃんが目を合わせながら、何か言おうとしているが口を開くのを躊躇している。重苦しい表情を浮かべている。その二人の様子から俺は察してしまった……。
「先ほど、水島花凛さんが息を引き取ったと……」
重い口を高木さんが開く。
言葉が重りを引きずり、口から出るのを拒んでいる。水島が亡くなった……考えたくもなかった。思考を放棄しようとしていた。今頃、ショッピングモールで買い物をして、お茶をし、水島の時間を楽しんでいたはずなのに。なぜ、水島が死ななきゃいけないんだ。目頭が熱くなり、涙が許可していないのに流れ落ちてくる。
いつの間にか辺りは暗くなり、外は前が見えなくなるほどの猛吹雪に姿を変えていた。予報通りだ。ずっと、パトカーに乗っているわけにもいかず、事情聴取が終わると、外に出た。水島の血が付いた手を校舎の水道の蛇口を捻り、洗う。救うことができなかった……俺のせいで、水島は死んでしまった。沸々と湧き上がる後悔と無念で水の冷たさを感じる余裕すら残されていなかった。
水島が亡くなったと聞いてからずっと空っぽになっていた。穴がぽっかりと空いたかのようだった。水島のことを考える度に、また一つ穴が空いて行く。あぁ、このままだと、俺の心が穴凹だらけになってしまう。真っ黒に塗りつぶされた予定はもうどうにもならない。俺はどうすればいいんだ……
「匠、今日は、兄ちゃんが送っていくから」
「でも、自転車」
気力をなくした声で、自転車の方に視線を遣る。
「乗せて帰る」
「でも、兄ちゃん、忙しいし」
「あぁ、もう。放っておけるわけないだろ」
心配と怒りが混ざったような兄ちゃんの声が、吹雪とともに耳の中を突き抜ける。
「あ、ありがと……」
無理に繕った声が出せるほどの気力が残されていなかった。本当は全て、俺に向けられる言葉を無視してしまいたかった。声を出すのが精一杯だった……兄ちゃんの目の前だからできることだ。他人の目の前でこの態度を取ってしまったら、不快にさせてしまう。
「よし、行くよ」
自転車を一緒に取りに行き、兄ちゃんの車の後ろに乗せて、家に送ってもらった。
「兄ちゃん、ありがとう」
車の中では終始お互いに言葉を発さず、無言であった。きっと、兄ちゃんは気を遣ってくれたのだろう。でも、暗闇に少しずつ体が呑み込まれていく。
「家着いたよ」
自分で自転車出さないと思っていたが、いつの間にか兄ちゃんが自転車を車から出してくれていた。声かけられないと家着いたことさえも、気づかないほど、気が動転していた。
「温かくして、しっかり休みな」
兄ちゃんの優しい言葉でさえも跳ね返される。
「うん」
兄ちゃんの声に頷くと、家のドアに手をかけて入ると、外の世界に鍵をかけた。