ある日の夜、雷鳴が轟いた。
それは帝都全土に響き渡り、人々は一時何だ何だと慌てふためいた。
「ここは、どこだ……?」
そして、ある一人の、いや、ある一匹の真神が天界から舞い降りた。
(※真神 狼の神様のこと)
◇
「佳代、のろのろせずにさっさと働きなさい」
「……っは、はい。申し訳ございません、お義母様──」
床に額が付くほど頭を垂れて謝る。
そんなわたしをお義母様が冷ややかな目で見つめているのが痛いくらい分かった。
わたしはすぐに薄汚れた着物の袖をまくり直し、冷たい水で雑巾を洗い長い廊下の掃除を始める。
冬だというのにわたしの額からは汗が流れる。
朝からずっと働いているのだから汗をかくのも仕方のないことだろう。
私は手の甲で汗をぬぐって廊下の床を蹴って廊下掃除を始めた。
「佳代、次は皿洗いです」
「……かしこまりました」
深く頭を下げ、お義母様が目の前から去ったあとにゆっくりと頭を上げる。
私は視線を下に落として食堂に向かう。
「佳代様! わたくしが洗いますので、佳代様はあちらで休んでおられてください」
私が溜まりにたまった皿に手を伸ばすと、側近の菜津が慌てて私に駆け寄ってきた。
「菜津、大丈夫。ありがとう」
私は笑顔を作って菜津の肩をぽんぽんと叩いた。
菜津は複雑そうな表情をして私を見つめる。
強がりな私を見抜くような視線に冷や汗をたらし、上げていた口角がピクピクッと痙攣した。
その日もいつもと同じように屋敷の雑用をしていると、日が暮れていく。
自分のことは何一つできないまま、今日もこの日を終えた。
◇
お義母様に買い出しを言い渡されて、私は菜津とともに帝都に近い繁華街に向かう。
今日は朝から体調が悪くて、でもお義母様に歯向かうことはできず、私は口を噤んで命令に従った。
「佳代様、顔色がとても悪いです。もしかして、体調がお悪いのでは?」
ふらふらと歩く私の腕を支えてくれていた菜津が心配そうに言った。
私はそれに意識もうろうとしながら答える。
「……っ、大丈夫。心配ありがとう」
私は軽く手を仰いで笑顔を浮かべ、菜津を安心させる。
ちゃんと笑えていたかどうかは定かではないけれど、愛想笑いなら慣れっこだ。
楽しくなくても笑みを浮かべることに今ではもう何の違和感も感じなくなっていた。
繁華街に入り、お義母様がおっしゃっていた品物を購入していく。
大事に手に持ち、そのまま屋敷に戻る。
きっとこの門を跨いだら、私はまたお義母様にこき使われるのだろう。
このことを他の家の者に知られたら大問題になるだろう。
一家のご令嬢が下働きとして毎日身が削れる思いで働いているなんて。
「……佳代様、」
菜津が暗い表情で私に視線を向ける。
菜津が言いたいことは分かっている。
本当にこのままこの屋敷に入ってもいいのかと目で訴えかけてくる。
菜津は屋敷の中ではお義母様には逆らえない地位にいる。だから当然、私が働くことに対して何か言及することもできない。
私が子供のころから一緒にいた菜津にとってそれは歯がゆいことだろう。
血の繋がっている実父であれ見て見ぬふりをしている。
私は意を決して門を跨ぎ、屋敷の玄関へ向かう。
そこにお義母様が静かに佇んでいた。
「遅い」
低くうだるような声が聞こえた後、辺りにパシンッという乾いた音が響いた。
私は驚きのあまり口をかすかに開けてお義母様に視線を向ける。
私は今、頬をぶたれたのだ。
どうして、なぜ。
お義母様の言いつけ通りに帰ってきたはず。
「その目はなんですか」
怖いくらいに吊り上がった瞳に睨みつけられる。
「……申し訳ありません」
私はビクビクと怯えて、ただ謝ることしかできない。
そんな自分が不甲斐なくて、だけどお義母様に歯向かえば私の居場所はなくなるだろう。
菜津が口を開けてお義母様に何か言おうとしているのが視界の端に映って、私は静かに菜津を制した。
いいの、大丈夫。
そう心の中で唱えて、小さく首を振る。菜津は泣きそうな目で私を見た。
「……はあ。お前は謝ることしかできないのですか。情けない」
お義母様は深くため息を吐いて、私から目を逸らした。
私は言葉に詰まって、俯いてしまう。
そんな私をまるで汚らわしいものでも見るような視線で射抜き、お義母様は次の仕事を私に言い付けた後、屋敷の奥に姿を消した。
今まで全身に力が入っていた反動で、私は足元から崩れ落ちてしまう。
そんな私を慌てて支えてくれた菜津。
「佳代様……! 大丈夫ですか⁉」
「う、ん。大丈夫。……っだから心配しないで」
私は息をぜえぜえと吐きながら菜津を安心させようと必死に言葉を紡ぐ。
菜津の瞳からぽろりと一筋の涙が伝った。
私は思わず目を見開く。
そのまま二人して地面にへたり込んだ。足に力が入らない。必死に立ち上がろうとするけれど、体は重力に引っ張られて地面へと戻ってしまう。
「菜津、泣かないで」
私のために泣かないで。
私なんかのために、涙を流さなくていいの。
そんな思いで菜津の涙を拭って、そう呟く。
「佳代様、絶対大丈夫なんかじゃないですよね……っ。私には何でも話してくださったっていいんですよ。っ、私は佳代様の味方なんですから」
ひっくひっくと喉を詰まらせながら私をまっすぐに見つめて訴えかけてくる菜津。
そんな菜津につられて、思わず涙を流してしまいそうになる。
だけど私はすんでのところで涙を我慢した。
泣いちゃだめ。
泣いてしまったら、私はもう再び立ち上がれなくなるかもしれない。
いつもでもくよくよとしている自分が嫌いだ。
そんな自分を変えられない自分も嫌いだ。
「菜津、ありがとう。だけどね。私、本当に大丈夫だから。菜津がそばにいてくれるだけで、私はいくらでも頑張れるの。だから、菜津は私のそばにいてくれるだけでいいの」
声が震える。だけど私は精いっぱいの笑みを浮かべて、そう言った。
精いっぱいの私の強がりは私だけが知っていればいい。
大丈夫。その言葉は、まるで呪いのように私を縛り付けて離さない。
口を開けば、大丈夫。そんな言葉が口をついて出てしまうのは、これまで幾度となく口にしてきた結果だろう。
私は地面に座り込んだまま、空を見上げた。
こことは違う、何にも縛られない自由で広い世界。
真冬の透き通った青空が頭上に広がっている。
もしも私に羽があったのならば。あの空の向こうで自由に飛び回る鳥のようになれたのだろうか。
こんなにも居心地の悪い屋敷から、逃げ出すことができたのだろうか。
窮屈で狭い屋敷。うまく息を吸えず、私はただ静かにもがき続ける。
◇
「佳代、いい加減にしなさい」
そんな言葉とともに、私は後ろからドンッと背中を蹴られて床に放り出される。
ギュッと目を瞑って、さらなる攻撃に備えた。
今日はお義母様の機嫌がいつもより悪い。
「いつまでそんなにのろのろしているのですか。さっさと次の仕事に移りなさい」
どうして、こんなことになったのだろう。
なぜ私はお義母様から、この人から、こんなひどい仕打ちを受けてなければならないのだろう。
それはきっと、───。
◇
三年前、私の本当のお母様がご病気で亡くなられて、新しい女がお父様の妻としてこの屋敷に嫁いできた。
最初のうちは私に対しても優しく、穏やかに接してくれていたお義母様がこんなにも豹変してしまったのには理由がある。