――体感としては、ほんの数分後。
 
 何処からともなく、クロミツは戻ってきた。
 ご主人の元へ、一直線に駆け寄る姿は、本当にワンちゃんみたいだ。
 もし尻尾があれば、千切れんばかりに振られている事だろう。
 
 そして、私へのひと睨みも忘れない。
 ……彼に睨まれる様なこと、したかな?
 
「お待たせしました! あちらへ()()()()()()()
「ご苦労様です。それでは私達も参りましょうか」
「……え、私も!?」
 
 差し出された手と目線で、初めてその「達」に自分が含まれていると知った。
 もたつく私に、イラつきが隠しきれないクロミツは、大きなため息を漏らす。

「察しが悪いな。当たり前だろ、あんた当事者なんだから」 
「君自身の今後に関わりのあることですので、参りましょう」
「そう、なんですか……分かりました」  

 あれ、さっき準備がどうのって言ってたな。
 なんだろう。乗り物の手配とか?
 車にでも乗っていくのかな。

 ……なんて、能天気に考えながらついて行くと、敷地の隅に案内された。
 当然、行き止まりだ。
 
 目の前には、正式名称は思い出せないけれど、神社においてある最初に手を洗うアレが。
 ただ……私の記憶が正しければ。
 常識的には、透き通った水が溜まっているはずだよね。
  
 それが何故、水面にはゆらゆらと、ここには在りもしない鳥居を映しているのか?
 プロジェクターで投影しているのかと、あたりを見渡すも、そんな装置は見当たらない。

「よいしょっと」 
「…………あの、なにしてるんですか」 

 あろうことか、トウノサイはお風呂に入る気軽さで、石の囲いに腰をかけ、その不自然な水中に両足を沈めた。
  
「こちらを通り抜けて行きますよ」
「……は、はい?」 
  
 なにを言ってるのだろうか。
 全く意味がわからない。

「あの遠慮したいです、全力で」
「あぁ? なんでさ、(もぐ)るだけだろ」
 
 断固、嫌だ……!
 得体が知れない上、シンプルに怖いよ、主に発想が。
 ど、どうにかして逃れなくては。
 
「何でって……そう! 私、お泳げませんから」  
 
 渾身(こんしん)の言い訳を披露したのに、二人からの反応は散々だった。
 
 クロミツは芋虫を噛み締めた様な、忌々しそうな表情。
 トウノサイなんかは、瞳をうっすら開き、キョトンとしている。
 
 ……まるで私の方が、見当違いな主張をしてるみたいに錯覚する。
 
「バッカ! 今から素潜りやれって意味じゃない。寧ろ一滴も濡れないの、ただの出入り口!」 
「いや……いやいや、流石に無理がありますから。どこのSFファンタジーですか!」
「なるほど。愉快な方ですが、困りましたね……では心の準備が整ったら、いらして下さい」 
 
 そう言うなり、トウノサイはなんの躊躇もなく、入水。
 その長身な人物は、決して深くない、囲いの中へすっぽり消えてしまった。
 
 残されたのは、不機嫌そうな少年と、脳内処理が追いつかない少女。
 
「なっ、え?! どうなって……」  
「はあああぁ。もーーーー、早くいけよ」
「どうして……消えちゃった」
「見てただろ。これはただの手水舎(ちょうずや)じゃなくて、神域同士を繋げるドアみたいなもんなの。受け入れろ。そして二度とここへは来るなよ、迷惑だから!」
 
 不用意に覗き込んでいた私の背中を、ここぞとばかりに押すクロミツ。
 ぐんぐん視界に迫る、怪しい水面。
 心なしか、花の様な甘い香りがするにしても、だ。
 
「わわわっ、ちょっと押さないで! 心の準備が!」
「いつまでもお待たせするな! 庭師の俺様がいるから、こうして楽に、安全に行けるの。さっさと……しな!」

 ついに手加減の限界が来たらしい。
 勢い良く足蹴りされてしまった。
 
 成すすべなく、そのまま頭から突っ込んで……どうなったのか?
 
 きたる冷たい水の衝撃に身構えていたけど、それは本当に僅か一瞬のことで。
 今は寧ろ、暖かい何かに支えられているような、想像とは真逆の感触。
 
 真実を確かめるべく、固く閉ざした瞼を開けると、誰かの腕に力強く支えられていた。

「昨日の……!」 

 状況を判断するのに、ワンテンポ遅れた私は、その声に反応して顔を上げた。
 
「す、すすすみませんって、あああっ! ユメビシさん!?」
 
 それは、あまりに予想外の人物で、つい大きな声が出てしまった。
 心臓へ追い討ちをかける様に、今このタイミングで、最も会いたかった人の登場。
 
「平気か? 勢いよく飛び出してきたけど」
「は、はい……すみません、色々驚いてしまって……」

 ようやく動悸も治まり、ゆっくり体を離しながら、ふと疑問が一つ。

 あれ? そう言えば。
 ユメビシさんもいるなんて、そんなこと一言も……。
 
 前方で何やら、優しそうなお兄さんと談笑しているトウノサイに、抗議の視線を送る。
 すると彼は肩をすぼませ、澄んだ瞳で言い放った。
 
「それは、聞かれませんでしたから」と。
 
 

 ――そして、現在。
 
 ユメビシと三木しずなは、思わぬ形で再会を果たした。
 外部の人間が招かれることのない、ヨミトが管理する中立神域へ。

「あ、あの!」
 
 溢れる想いを落ち着かせ、声を上げた三木。
 まだ適切な言葉は見つからず、どれだけの感謝を述べても足らないと思った。
 それでも、まずお礼だけは言わないと。
 
 身を投げ出してまで助けてくれて、手を離さないでいてくれて、ありがとう。
 そして……そんなことをさせてしまって、ごめんなさい、と。
 
 ――しかしその声は、ユメビシに届くよりも先に、威勢の良い声でかき消されてしまった。