「どうなって、」
   
 ヨミトによる不可解な退出芸は……この際、目を瞑るとして。
 真に驚くべきは、あの気怠さが嘘のように、体が軽いのだ。
 寧ろ、ここ最近で一番調子が良いと思えるほど。

 ……果たして、何をされたんだろう。
 いや、もしかしたら今見てたのは白昼夢で、ヨミトなんて来てない可能性もあるじゃないか。
 
 と、納得しかけて部屋を見渡せば。
 小さな机の上に、見覚えのない洋服が、一式放置されてる。
 それは唯一部屋に残された、奴が来た事を証明するものだった。

 ――何がしたいんだ、あいつは……? 
 
 そもそも準備出来たら迎えに来るとは、言ってたが。
 ……まあ迎えに来てどうするとか、何時に来るとかそう言ったことは、一切聞いてないけども。
 
 わざわざ俺を……どうやったか知らないが回復させて、着替えさせて、玄関に向かわせて。
 また何処かに移動するのだろうか?
 
 ともあれ寝込む理由を失い、他にやる事もない。
 腑に落ちないまま、手袋をはめて、用意された皺一つない服を手に取る。
 
「もし、トオツグさんって人待たせてるなら、悪いしな……」
 
 そう鏡に映る自分を説得して、ボタンに指を掛けた。


 
 ***

 
 
 未だ安眠の静寂を纏う傘ザクラは、扉の開閉音にも気遣わなければ、音が響く。
 慎重にそっと閉めると、安堵の息が漏れた。
 流石に廊下はやや肌寒く、深く吸い込むと体内に冷気が満ちる。

 さて、右手側にまっすぐ進むと玄関だが……ん?
 少し長い裾を捲り歩き出すと、随分低い位置にある人影を視認できた。
 どうやら地面にしゃがみ込んでいるようだ。

 近づくとその全貌は明らかになる。
 ぴしゃりと閉められた戸の前で、一人の男が座り込み、コクコクと頭を上下に動かしている。
 右手には白いチョークを握り、戸や地面に何か模様を書き込んでいたらしい。
 しかし……途中で、線はあらぬ方向に伸ばされ止まっている。
 
 まさかと思い、横から顔を覗き込めば、今にもずり落ちそうな眼鏡が危うく揺れていた。
 レンズの奥には、シュンセイよりは控えめでありながらも、しっかりとクマが刻まれている。
 
「……あの、大丈夫ですか?」
「えぇ、はいはい、問題ないですよ三徹くらい。どうってこと……」

 ――上げられたその端正な顔を、これといった理由もなく、ただ単純に()()()()()()()()()()()

「えっと……何か、僕の顔についていますか?」
「……いえ、それ。何を書いてるのかと」
「今し方、急にヨミトに頼まれまして。これ()()()()消えるんですかね? 見つかったら、アリマ君に怒られちゃいますよ」

 ははは、と笑う声は力無く消え入りそうな物だった。
 真っ白い顔に、よろよろと眼鏡を掛け直す姿は、余程疲れているのだろうと見てとれた。
 
「いけない、申し遅れました。僕はトオツグ。あなたがユメビシ君ですね?」
「そうですけど……ん、その()()とは?」
「なんだか会合が前倒しになったとかで、今回はここを入り口にするらしいですよ。その下準備をしてたんですが……はい、これでよし」

 か、会合……?
 当然だが何も聞かされてない。
 
 話についていけてない俺と対照的に、テキパキとその下準備とやらを済ませた彼は、懐から小瓶を取り出した。
 蓋を外すと、ツーンとした香りが鼻腔を刺激する。
 
 ――酒か? どうして今、そんなもの出したんだ?
  
 あまりにも不思議そうな顔をしていたのだろう。
 トオツグさんが慌てて、補足を入れる。
 
「これはヨミトから預かった御神酒(おみき)です。試飲用じゃ無いですよ、これはこうして……」

 ――パシャ

「え」 
  
 躊躇なく、彼は戸にその中身をかけると、玄関に日本酒独特の香りがじんわり広がる。
 
 滴り落ちた液体は、あのチョークで描かれた模様に到達し、染み込んでいく。
 すると白かった線は、徐々に朱色へと変わり、更に心無しか発光しているようにも見えた。
 
「上手くいって良かった。でもこれ片道切符ですね。帰りは徒歩になりそうだ」 
「は、はぁ……」 
「それでは参りましょうか」 

 彼が戸を引くと、目の前には()()が広がっていた。
 明らかに廊下の窓から覗く、眩い朝の景色とはかけ離れた……色彩を失った「無」。

 ……しかし、目を凝らすと奥には灯りらしきものが見える。

「大丈夫ですよ、僕もご一緒しますから」
「え、あ、ちょっと……!」

 心の準備もそこそこに。
 トオツグに手を引かれたユメビシは、奇妙な空間へ、足を踏み入れる羽目になった。