トキノコの叫び声を耳にしながら、真っ逆さまに落ちた先。
現在俺は崖下から生えた大木の茂みに引っかかっている。
「はぁ……何してるんだ俺は」
幸か、不幸か。俺は通常の人間より頑丈な体質だった。
痛みこそ本物だが、怪我は嘘のように忽ち治ってしまう。
喰い姫に砕かれた骨も、トキノコが診ようとした際、ほぼ完治していたのだ。
その辺りの事情は……特に告げる必要もないと思って、口にしなかったが。
今となっては、余計な心配をかけないためにも言えば良かったな、と反省した。
落下の途中、崖の出っ張りに衝突して肋骨にひびが入ったものの、あと数分したら問題なく動けるだろう。
――さて、どうしたものか。
木登りや崖登りも別段苦手ではないが、流石にこの格好で絶壁を登れると思うほど、過信もしてない。
そうなれば一番確実で、現実的な案としては……。
「まあ、一度下まで降りて、上へ戻る方法を探そうか」
木の根元まで降りると、しっとり肌を湿らせる、重い霧が出ていた。
片腕を伸ばした先までの範囲しか見通せない。
手探りで障害物となる木々を避けながら、崖沿いを進む。
何処かに必ず上へ登る手段があるはずだ。
……そう考えてのことだったが、歩くほどに方向感覚を奪われ、あっという間に現在位置が不明瞭になる。
気づけば、一つの道標だった崖も見失い、同じような木々が立ち並ぶ林の中を彷徨っていた。
これは良くない、と元来た道を引き返そうとした。
しかし。
……何かに呼ばれたのだ、「タスケテ」と。
それは細い小川が隔てた先。
体を小さく折りたたみ、うずくまって泣いている者の声だった。
自分と同じく迷ったのだろうか?
飛び越えられない幅ではないから、あちら側へ行くのは難しくない。
……それにしても何故、向こう側だけ霧が晴れている?
不思議に思いながらも、一歩踏みだす瞬間。
「それ以上はいけないよ」
そんな台詞と共に、突然後ろから力強く腕を引かれる。
頭上から聞こえた男の声は、聞き覚えがあった。それもつい最近。
その者は、傾く体を難なく抱き止め、空いた手で俺の目を塞ぐ。
背中越しに感じる、どこかひんやりとした感覚を。
――でも、なんだろうか。この圧倒的な既視感は。
前にも、似たようなことがあったような。
『――それ以上奥へ行ってはいけないよ』
違うのは体格差……いや、厳密には身長差。この男はもっと大きな存在に感じていた気がする。
それが一体何を指し示すのか?
『――門まで送ろう』
単純かつ明快。俺が小さかったのだ。
…………あぁ。だからきっと、幼かった頃の話だ。
ならばどこで会った?
実家……でこんな軽々しく俺に接する者はいなかったし、外部の者と関わりを持ったのは、あの一度きり。
俺の人生を狂わせた、忌まわしい一夜。
『――ワタシの名は……ト』
かつて掛けられた言葉の節々が蘇る。
「まさか、」
「しーっ。問題児だね、まったく……こんな場所まで来ちゃってさ。ほら、戻るよ」
「なに、が」
「アレは残骸だ。分かりやすい罠だよ。ここの小川は此方と彼方を隔てる境界さ……言ってる意味分かる?」
「……なんとなく」
「よろしい。くれぐれも目を合わせないで。ちょっかい出される前に行くよ」
「助けてくれたのか」
「まぁ、そうなるかな? さあ。ボクだけ見て、ボクの声だけ聞いて、ついて来なさい。それとも……」
その台詞を合図に拘束が解かれ、パッと身体を離れた。
わざわざ正面に回り込み、顔を覗きこんで、視界を独占してくる。
そんな銀色の長髪で片目を隠した優男は、妖しい笑みを浮かべ、口を開いた。
「昔みたいに手を繋ぐかい?」
「……! いいや、結構だ」
幼少期の記憶が呼び起こされる。
何故今まで忘れていたのか。
この声、この顔間違いない。
あの時の男だ。
「そう? じゃあ、はぐれないようにね」
つい今しがた見せた妖艶な表情はなりを顰め、人当たりの良い雰囲気で微笑み、歩き出す。
一瞬躊躇したものの、ここにとどまっても仕方ないので大人しく後へ続いた。