当時のことを、ハッキリと覚えている訳じゃない。
いつも通り自室で就寝したのに、気づけば見知らぬ森を一人で歩いていた。
それから誰かに会って、誰かと話して……アレが起きた。
その頃の俺は「怖い夢」を見た、と本気で思っていた。
夢ならこの痛みも、恐怖も。
朝日が昇る頃には忘れられる……全て元通りだと、信じてやまなかった。
しかしそんな無知な子供に待っていたのは、終わらない苦痛だった。
一夜にしてその家の長男は、変わり果てた姿になっていた。
それに一番早く気がついたのは、厳しい世話係の老婆で。
真っ青な顔でうなされている俺の布団を剥ぎ取り、見つけてしまった。
普段あんなに落ち着いた人が、発狂し取り乱す姿は恐ろしかった。
「いやああああああああ、呪い、呪いじゃあああああああ! 誰か、誰か来てくれええええ」
その迫真迫る悲鳴は、早朝の静けさの真っ只中にあった屋敷全体を震撼させた。
真っ先に駆けつけたのは、朝食の支度をしていたお手伝いさん数名。
その次に親戚の叔母夫婦。
そして一番最後に「騒々しい」と不機嫌そうに吐き捨てながら現れたのは、普段滅多に姿を見せない両親。
あの場に集まった誰もが絶句し、青ざめた。
咄嗟に適切な言葉へ置き換えられるほど、彼らの語彙は豊かじゃなかったのだろう。
しかし、それは仕方のないことだったのかも知れない。
だってあまりに前例のない異常事態。
朝起きたら、齢五つにも満たない小さな子供の腕から、明らかに別人の手が生えていた。
――俺はあの晩、ユメの場所で、手を失くした。
それならば代わりにと、干物の様な手を接合された。
骨と皮、大きな爪。カサカサしてそうで、意外としっとりした外壁。
どう考えても幼い子供の体には不釣り合いな大きさで、歪な代物。
それ以前に赤の他人であり、老人の手。
当然、身体は拒絶反応を示した。
――痛い、熱い、苦しい……早く、終わってよ……。
激痛と高熱に侵される日々。
まともに食事なんて摂れなかったし、眠ることもままならない。
周りのから漂う空気は、生きていても死んでも迷惑だ、と言わんばかりだった。
守るべき本家の跡取り長男から、ただの煩わしい存在へと認識が変わるのに、そう時間は掛からなかった。
この時思ったのはただ一つ。
悲しいとか、悔しいとか、激情に駆られたものではなかった。
単純に「諦め」が優ったのだ。
――人間とは、こうも簡単に態度を変えられるものなのか、と。
少し前なら誰もが自分に優しく……いや。取り入ろうと、必死に世話を焼きたがった。
ほんの少し微熱が出た、指を切った、舌を火傷した。その程度のことで、必要以上に騒ぎ立てる。
それが今回、得体の知れないものが関わってると分かった瞬間に、これだ。
「呪い」だと勝手に決めつけ、本質を見ようとしない。
そう。これは本当に呪いじゃない。体が異物に拒絶反応を示してるだけ。
誰も信じてはくれないだろうが、この手は。この手の持ち主は。
……あの時、危ない所を助けてくれた。
その真相を伝えられるほど、信頼出来る人間が周りにいない。
思い襖を隔てた先で、数名の声が聞こえる。
「……あぁ、どうしてこんなことに」
「まだ40℃から熱、下がらないの?」
「ちょっと、医者なんて絶対呼ばないで。こんなことが他に知られたら、我が一族の恥だわ。それに……普通の医者には治せないでしょアレ」
「たった一人のご子息だったのにねぇ」
「はぁ…………本当、薄気味悪い」
「ねえ聞いた? 発見された時、足や着物が土で汚れていたそうよ」
「なんだって!? 外を出歩いたというのか」
「出歩くって、夜更けに?」
「さあ? そもそも出られないでしょう。門、閉じてるんだから」
「それもそうだよな。あ……」
「何よ」
「神隠しにあってたんじゃないのか?」
「まさかそれで取り替えられたとか? じゃあ、あの子……」
「本物のご子息ではないかもね」
「呪い子だ」
「近づきたくないよ、恐ろしい……」
「もういいわ! 頭おかしくなりそう。空き家に移しておきなさい」
――あぁ。ココには、誰も、味方なんていない。
温かく大きなゴツゴツした手が、額を優しく包む。
『……そうか、こんな場所にいたか。ここを出て一緒に暮らそう。今日からお前は儂の孫だ』
『待たせちゃってごめん……よく頑張ったね』
久しぶりに人の声を聞いた。
一人は別の屋敷に住む遠縁のおじさんの声で、もう片方は女性の声。
この人は……誰だったか。