悪魔がオレに笑いかけていた。
目が合うと、少し歪に顔をひしゃげてオレに笑っていた。
オレより少しだけ目線は高め、見た目だってかなりいかつい。そんな奴は、大黒は毎回オレに笑ってくる。
大黒唯我、二年三組席は斜め後ろ。
付き合いがあるわけではない、ただ同じ教室で一年間一緒に過ごす奴の一人。オレにとっては、その程度の存在だった。きっと向こうだって特別な感情があるわけではない、なにか言いたい事があるわけでもなさそうで話しかけてくる素振りも見せない。近くない、遠すぎないそんな距離の関係。よくあるクラスメイトの枠である大黒の事はそれだけしか知らなくて、それ以上オレは知らなかった。
ただちょっと目が合う度に笑ってくるそれは、二年生になってしばらくした辺りから向けられるようになって、だからと言って声をかけてくるわけでもない。本当にそれだけの距離のまま、大体半年が過ぎていた。
あぁけど一つだけ、その半年の中でも最近なんとなくわかった事もある。
「おい陽翔、またあいつ笑ってるぞ」
「やっぱりお前仲良いんじゃ」
「だから違う」
休み時間、クラスの奴らに話しかけられて顔をしかめる。言われるままに指を指す方へ目を向ければ案の定大黒と目が合って、ぎこちなく笑われてしまう。目元に入った大きな傷はそれだけで圧を増やしているようで、ヒクと喉の奥が動いた気がする。
「けどなんだろうな、あいつ」
「なんだっけ――笑うグリズリー?」
「いや、グリズリーが笑うの冷静に考えてホラーだろ」
「命の危機を感じる」
オレを置いて周りの奴が好き勝手言うそれは、どれも大黒の事についてだ。
いわく、中学時代は伝説の不良だったとか。
いわく、ヤクザの息子だとか。
いわく、少年院手前まで言ったとか。
そのイカつい風貌のせいなのか毎度噂は絶えなくて、そんな中でもオレにいつも通り笑いかけてくる。
それで付いたあだ名が、笑うグリズリー。
不名誉極まりないそれを与えられた大黒は、周りの声を気にしていないようだった。むしろどちらかと言えば、自分の事だと気づいていないのか。どちらにせよ噂のイメージとはズレているそれは、大黒唯我へ意識を向けるにはじゅうぶんすぎる材料だった。
「で、陽翔はあのグリズリーとなんかあったのかよ。いつもお前の事睨んでるだろ」
あれが睨んでいるのかどうかは、さておいて。
隣にいる奴に話を振られても、首を横に動かすだけ。心当たりなんかはこれっぽっちもなくて、目をつけられるような事だってしていない。
それにそもそも、あくまでも仮定の話だけど。
あれを睨んでいると言っていいのか、それがわからない。
「……いや、多分そうじゃないだろ」
多分こいつ、笑顔が壊滅的に下手なんだ。
無理やり持ち上げたような口角は明らかに睨んでいるのはかけ離れていて、ならなにをしているのかと言えば本気で笑おうとしているのがオレには正しく見える。
それをわかってからは特段なにを思うでもなく、むしろ今日も頑張っているなんて他人事で観察をするようになった。
ヤクザの息子とか、地元で一番の不良とか。そういった噂があるのは事実だけど。それでもこいつの笑顔に嘘はなくて、周りの言うような感情を持つ事はできなかった。
そう思ったのが、そんな理由で大黒の事をきちんど見るようになったのが今からだいたい一週間前の話。
それで、どういうわけか今そいつに、笑うグリズリーに体育館裏へ呼び出しをされている。
「……いや、なんで」
待って、オレなんかしたか?
ぐるぐる回る思考の中でも心当たりは微塵もなくて、どうしたものかと目の細める。だって、体育館裏なんてあまりにも定番すぎる。
「……ヤクザの、ムスコ」
噂が、脳裏をよぎった。
いや、噂は噂で嘘でしかない。本当かなんて本人以外にはわからないし、それをとやかく言うつもりは微塵もなかった。けれども実際サシになると考えると話は別で、言葉にするのが難しい恐怖心がどっと押し寄せてくる。
海に沈められたら、指を詰められたらどうしよう。
少し前に見たひと昔前の任侠映画を思い出すとまた怖くなって、ぶるりと身震いをした時だ。
「白萩陽翔」
「うおっ!」
背後から突然名前を呼ばれて、過剰なまでに肩を揺らした。
顔を上げると問題の大黒が立っていて、じっとオレの事を見ていた。
「すまない、呼び出したのに遅れて」
「あ、いや、そんな待ってねえよ」
態度から、そこまで怒っているわけではないらしい。
とりあえずほっとしたが、油断はできない。豹変したらと考えると自然と身体が身構えていて、呼吸も浅くなる。
「それで、用事ってなんだ?」
悟られないように言葉を選び、慎重に投げかける。ここで怒らせたらどうなるかわからないから、けっして怖いとかではない。
「それは、だな」
対する大黒は、少し視線を泳がせたと思えばもごもごと言葉を口の中で転がしている様子だった。遠慮しているというよりは、躊躇している。そう見える大黒は身構えていたよりも気弱で、話が読めない。
「これは、白萩にしか相談できない内容なんだ」
もったいぶった言葉と、グリズリーにしては弱く揺れる瞳。
それはオレを閉じ込めるのにじゅうぶんで、黒い水面を揺らしていた。
「オレだけ?」
「あぁ……その、だな」
覚悟を決めたように、言葉を選んでいる。
「わ、笑い方を教えてほしいんだ」
「……笑い方?」
けれども飛び出した言葉を頭が絶対処理できるかと言われればそんな事はなく、むしろ理解ができず言われたままに復唱する。今こいつ、なんて。なんでオレが、こいつに笑い方を教えてほしいって言われてんだ?
「俺は、正直笑うのが下手だ。それは自覚している」
どうやらこの笑うグリズリー、自分の笑顔が下手だってわかっていたらしい。
「それにこの顔だ、怖がられているのは知っているがあらぬ噂が立つのはなんとかしたい」
「……そこまで知っているのかよ」
自分の噂を聞いてそのままにするのは、他者に興味がないのか優しいのか。この数分話しただけでも後者であるのは手に取るようにわかり、あえて深くは聞かなかった。
「じゃあ、伝説の不良って噂は」
「出所は知らないが、中学まで無遅刻無欠席だ」
「その目元の傷は?」
「これは、昔サッカーをしていて顔から地面に転んだ時のものだ」
「……ヤクザの息子ってのは?」
「その噂が一番よくわからないが……うちは弟一人がいる四人家族だ」
噂とは正反対の人間像に、思わず深く息を吐いた。
どうやらオレ達は、大黒にとんでもなく失礼な印象を持っていたらしい。
「……悪い大黒、オレ達」
「いい、気にしていない」
本当に気にしていないようで、首を横に振る。
それでも腹の底に居座る申し訳なさに溜息を零しながら、オレは噂よりずいぶん懐の広いそいつを見た。
「ちなみに、それをオレだけにしか相談できない理由は?」
そんな関わりがないオレなんかに、大黒本人としては深刻なのだろう内容を。理由がわからず言葉を待っていると、それは、ともったいぶった言い方をされる。
「白萩は、愛想笑いが上手いだろ」
「お前喧嘩売ってんのか」
悪気はないですって顔だけど、絶対喧嘩を売っている。そう思えてならないそれに顔をしかめると、案の定本人はそういったつもりがなかったらしくそのまま目を伏せてしまった。
「じゃあ聞くけどお前、なんでオレが愛想笑いしているって思ったわけ?」
「……なんでって」
少し考えるように眉間にしわを寄せる。けどそれもすぐに答えが出たようで、それは、と言葉を続けてきた。
「白萩が、なんか胡散臭い笑いをしているから」
「よーし、やっぱお前喧嘩売ってるだろ買うぞ」
今のは絶対、喧嘩を売ってきた。
不機嫌な顔を作りながら睨んでやると、大黒本人は違う、と言いながら首を勢いよく横へ振っている。
「白萩はいつだってクラスの中心にいる……けど、その笑顔が暗いと思っていたんだ」
「……暗い?」
なにを言っているのか、最初わからなかった。
けど、理由はわからないけど胸の奥が痛い。なにもかもを見透かされたような感覚で、あまりいい気分ではなかった。けどそれは、大黒に向けたものではない。他でもないオレ自身への不快感だ。
「お前、笑顔下手なのに人の笑顔を見るのは上手いんだな」
自虐的に笑う、否定をする事はできなかった。
大黒の言っている事は、なに一つ間違っていない。
なんだか拍子抜けで、肩を落とす。
けれども頼られる事を悪いとは思わないし、拒否をするつもりはなかった。
「……じゃあ、行くか」
「行くって、どこに」
悪い印象を持っていた罪悪感も少しあるから、このままにしておくのも気が引ける。
だからとその場で背伸びをして近くに置いておいた通学カバンに手を伸ばすと、大黒が首をかしげながら後ろをついてくる。
「そんなん決まってんだろ、美味いもん食いにだよ」
***
「白萩、なんだこれ!」
「……お前ピザまん知らなかったのか?」
学生の美味いものなんて限られていて、人肌が恋しくなればおのずと向かうのはコンビニのレジ横だ。
お詫びの気持ちにピザまん二つ、紙の袋に入れてもらい外に出ると大黒がすっかりグリズリーのなりを潜めた表情で笑っていた。
「名前は知っているが、あまり買い食いはした事がない」
「あー、なるほど」
そうか、今まであまりそういった関係を持たなかったとか言っていたもんな。
体育館裏での会話を思い出しながら、手の中にあったオレの分を二つに割る。ちゃんとチーズが伸びるタイプだったそれはトマトソースの香りと重なってかなり食欲が誘われるから、オレまで頬が緩む。
「で、なんでお前は笑い方の練習をしたいんだよ」
ガードレールに体重を預けながら、大黒の顔を覗き込む。
「それは……」
少し躊躇したように言葉を選んだ大黒は、なにかを決意したように視線をぶつけてくる。黒い瞳はオレを綺麗に映していて、静かに揺れていた。
「白萩に、笑顔を返したかったからだ」
「……オレ?」
「いつも俺に笑い返してくれていただろ」
「それは、確かに」
何回か、確かに笑い返してやった事はある。
オレにとっては普段と変わらないはずの愛想笑いだったのに、なんでそれが理由になるのか。
「感情表現が、昔から苦手ではあった。このガタイだからあまり人も寄ってこなくて、だから異性はもちろん同性の知り合いだって少ない……だから、一人大人しくいる事を選んでいた」
言葉を選ぶように、たっぷり間をあける。
なにかを考えているのかその視線は泳いでいて、それでもじっとオレを見ている。
「……けど、白萩を見ていたら俺もあぁなれれば人と上手く付き合えるかもと思ったんだ」
「人と?」
「あぁ」
大黒は、仏教面のまま強く頷く。
「いつも愛想笑いをして、笑顔を作るのが上手いと思った。俺も白萩みたいに笑いたいと思ったのと同時に、白萩が本当に笑ったらどんな顔をするんだろうと感じたんだ」
だから近づいたんだという大黒の表情は、少しだけ笑っている気がした。些細な変化だったそれを見つけて、目が離せない。
「なんで愛想笑いをしているのかはわからないけど、白萩も一緒かもしれないと思った。真逆で、一緒だと思ったんだ」
自己申告通り人付き合いが薄いのか、真剣に話すその姿も表情から読み取るには少し難しい。それでも言いたい事はなんとなく伝わってくるし、嫌味とかではないから不快には思わない。ただ、少しだけ。ずっと口角が下がったそいつは飼い主に叱られる大型犬のようで、言葉を発するたびになぜか申し訳なさそうに身体を小さくしている。
自分で話しといて、変な奴。
「ほら、大黒」
「なん、なひ?」
むにゅと、大黒の口角を指で無理やり持ち上げてやる。それだけでいつもの教室で見る顔で、少し下手な笑顔に近い。笑うグリズリー、大黒唯我。それが今オレへの話一つで、オレの指一つで喜怒哀楽面白い顔をしている。そう思えばなんだか愉快な気持ちになれて、つい頬も緩んでしまう。
「ふは、おもしれえ顔!」
面白いと言えば失礼なのはわかっていたが、我慢できなかった。コロコロ自分でも面白いくらいに笑っていると、目の前にいる大黒は驚いたように目を丸くしていた。
「……しら、はぎ」
「ふふ、ふは! なんだよ、だってお前すげえ顔だったから」
指を離して、ごめんと心にも思っていない言葉で謝る。大黒本人も怒ってはいないみたいでよかったなんて思ったけど、その代わりなぜかじっとオレの事を見ている。驚きというより、この表情は幸福が近い。宝物を見つけたような、そんな顔。
あんなにもわかりにくいと思っていた表情から滲み出てくる感情はじゅうぶんすぎるくらいオレにも伝わってきて、つい言葉を飲み込んだ。
お前、そんな顔もするんだななんて。
つい、そんな事すら思ってしまう。
「そんな顔で、白萩は笑うんだな」
「なんだよ、悪いか」
つい憎まれ口を叩きそうになったが、それよりも先に大黒が首を横に動かす。
「いや、とても素敵だと思っただけだ」
ふと、大黒が頬を緩めていた。
それだけで優しい表情で、なにも言う事はできない。お前だって、大黒だって同じだろ。お前、そんな風に笑えるんだな。
笑顔が下手くそな大黒も、笑顔が上手すぎるオレも結局は一緒なんだ。笑顔を作るのに必死で、本当の笑い方はわからない。そのはずなのに大黒を見ていたら自然と頬は緩んで、それだけで楽しいと思える。単純と言われればその通りで、なにも言う事はできない。
「ほら、早く食えよ。せっかくだから隣の駅でたい焼きも食ってくぞ」
こいつのありのままである表情をもう少し見たいと言ったら、大黒はどんな反応をするだろうか。胸の奥で燻った感情を飲み込んで誘うと、大黒は確かに頷いた。
頷いた後、なにかを考えるように目を伏せ白萩、とオレの名前を呼ぶ。
「今日は、ありがとう」
「お礼言われるほどじゃないだろ」
オレがただピザまんを食いたくて、ついでにたい焼きも食いたいだけ。それで、それを一緒に食う大黒の表情がよかっただけ。ただそれだけの話なのに、大黒は幸せそうに笑っている。
「その、だな」
「言ってみろって」
かと思えば言葉を詰まらせたそれを、優しく促してやる。
「白萩がもしよければ、なんだが……今度、どこか一緒に遊びに行きたい。これからもたまにでいいから、俺と一緒に遊んでくれないか?」
かなり真剣に、義理堅く言うそれは真面目を通り越しているようで。忠誠のような言葉はグリズリーよりも大型犬の方が似合っているのかもしれない。
「……まぁ、お前の好きにすればいいんじゃね?」
素直になれなかったのは、オレ自身がきっと天邪鬼だから。
嬉しそうに笑う大黒を視界の端で見ながら、オレまで笑ってしまいそうだった。
***
「白萩、ここに行きたい」
「……野郎二人でスイーツバイキングはきつくないか?」
帰りのホームルームも終わった時間。帰る準備をしていたオレの元へきた大黒は、スマホの画面を突き出して無表情のまま仁王立ちをしていた。少しオレとこいつにとってファンシーな絵面は見るだけで甘そうで、つい顔をしかめる。
「しかし、白萩の好きそうなシャインマスカットもある」
少し残念そうに目を伏せた大黒は叱られた大型犬のようで、それを見せられたらなにも言う事ができない。ぐっと喉の奥を鳴らして、大きく息を吐く。こいつと一緒にいるようになって、オレも甘くなったかもしれない。
「……次のテスト期間終わったらな」
「あぁ、楽しみにしている。約束だ」
相変わらず表情筋は動いていないけど、なんとなく喜んでいるのはわかった。
今にも花が舞いそうな気がして、見ているこっちが恥ずかしくなる。けれどもそれでいいかと思える辺り、もしかするとオレは大黒に心を許し始めているのかもしれない。
嬉しそうにカバンを取りに戻る大黒を横目に、オレも帰る準備をする。今日はゲーセンに行った事がないと話していたこいつを連れて行く約束だ、オレも正直久々だから少し楽しみにしていた。
「白萩、先生にプリントだけ出してくる」
「おう、ここで待ってる」
オレよりも少し目線が高め、ガタイはオレよりも確実にいい背中を見送ると、教室の空気が変わる。わらわらとオレの周りに人だかりができて、目線は大黒の出て行った廊下へ向けられていた。
「え、なんだよ陽翔、お前いつからグリズリーと仲良くなったんだ!?」
「いい加減その呼び方やめてやれよ」
面白いおもちゃを見つけたように茶化してきたそれを睨んで、肩を落とす。
仲がいいと言っても、確かに差し支えないかもしれない。こいつと、大黒と出会ってそれなりに経つ。笑顔を教えてくれなんて最初はどうしようかと思ったが、案外楽なもので一緒にどこかへ行くだけでいいらしい。最初はもちろんどう笑っているのかやどんな気持ちかなんて事も聞かれたが、ここ数日はそれもない。どちらかと言えば遊ぶ約束をしてくる方が多くて、一見表情は読み取れなくても行きたい気持ちは伝わるからそのたびに首を縦に振った。
「話してみるとあいつ、悪い奴じゃなかったし」
「陽翔ってお人好しな部分あるからな」
「だから、違うって」
最初は、義理で付き合っていたかもしれない。
けれども今もそうなのかと聞かれたら、言葉に悩む。
多分、確証があるわけじゃないけど。こいつに向けているオレの感情は、とっくに義理を通り越していると思う。けれども同時に湧き上がるのは言葉にするのが難しい感情で、この答えはずっと見つける事ができない。たとえば、友だちと呼ぶには少し近すぎるような。たとえば、親友と呼ぶにはあまりにも緩いような。知らない感情も言葉も全部大黒のせいで引き出されて、思考も感情もミキサーにかき混ぜられたような感覚だった。
そう、あえて言葉にするなら。
「……オレが、オレじゃないみたいだ」
オレなのに、なにか違うような。
ずっと愛想笑いで生きていたオレにとって、普通にいるという事は不思議な感覚だった。まるでオレの知らないオレを見ているような、そんな感覚。それが不快かと聞かれたらそういうわけではなく、むしろ居心地の良さを感じてしまう。
オレが自然に笑えるように、あいつの表情は少しわかるようにもなった。それでいいだろなんて、らしくない事を考える。
「別に、友だちだから遊びに行くのは普通だろ」
取り繕うように、言葉を選んだ。
なにも嘘はついていない、ありのままの言葉。そのはずなのに、はっと息を飲む音が聞こえる。誰のものかは、見なくてもわかってしまう。
「……待たせた、白萩」
凪のように静かな、大黒の声が響く。
普段と同じはず、誰も気づいていない。そのはずなのに、その声がどこか悲しそうに感じたのはオレだけかもしれない。
「全然待ってねえよ」
気にすんなと言葉を添えると、若干不服そうにしながらも小さく頷く。本当に、こうして見ると大型犬以外の何者でもない。
「今の、話は」
「今のって、遊びに行くって話か?」
こてんと首をかしげると大黒の表情が、少しだけ変わったように見える。
けどそれは愛想笑いでもなんでもない、どちらかと言えば苦しそうという表現が正しい。今まで見た事のない大黒のそれがなんだったのかわからず、目を細める。
「大黒?」
なにを考えているのか、顔を覗き込もうとすると腕を掴まれる。そのまま立ち上がると強引に、大黒に手を引かれた。
「行こう、白萩」
「お、おう。じゃあまた明日な」
クラスの奴らにお得意の愛想笑いを向けて、教室を抜け出す。どこのクラスもほとんど教室には誰も残っていない、二人分のスリッパの音だけが廊下に響く。
「大黒、おい」
「…………なんだ」
「なんかオレ、お前の事怒らせちまったか?」
機嫌が悪いのかと、最初思った。
けれどもそうでは無かったらしく、立ち止まった大黒がオレの方へ顔を向ける。普段と変わらない仏教面なのに苦しそうな、悲しそうな表情に見えた。
「機嫌が悪い、わけではないが」
そこまで言うと、言葉に悩んだのか大黒が面白いくらい顔をしかめた。これも初めて見る表情だななんて呑気に考えていると、大黒はなにかを決めたように顔を上げる。
「……わかった」
「いや、なにがだよ」
一人でなにかを勝手に納得したらしい大黒は、オレを掴んでいた手に力を込める。
「もっと俺が頑張るから、見ていてくれ白萩」
笑顔の事を言っているのはわかるが、そんな真剣にならなくても。
笑顔の練習はしなくても、オレがわかるからいいのになんて。
こんな事を考えてしまうオレは、ずるいのだろうか。
***
それからの大黒は行動が早く、人が変わったようだった。
あれだけ一人でいいと言っていたはずなのに口角を上げる練習までして、クラスの奴らに積極的に声をかける。かと思えばオレから離れる様子もなく、どちらかと言えば忠犬が飼い主の周りを見ているようだった。
どれだけ笑っても相変わらず笑うグリズリーだったが、それでも今までのイメージを壊すにはじゅうぶんすぎる。
どいつも大黒が優しいとか声をかけて、それをただ静かに眺めていた。ずっと、喉の奥で蠢く何かがある。
「……なんだよ、これ」
知っているはずの感情に、知らないフリをした。
本当はずっと、この感情に気づいていたのかもしれない。気づいて、見ていないフリをしていたのかもしれない。
「……ヤキモチって、いうやつか?」
オレだけが知っていたはずの大黒が、他の奴にも知られてしまう。それだけでなんだか面白くなくて、いつもの愛想笑いだってなりを潜めるくらいにいい気分ではない。けど、だからと言ってそれを大黒に話すのかと言われればまた違った。むしろ、この感情を大黒に話す事はできない。話してしまったらだめな気が、オレの中でしていた。
「白萩」
突然顔を覗き込まれ、あからさまに肩が揺れる。当の本人はオレの反応を気にしていないのか、聞いてるか、と勝手に話を続けてきた。
「さっきから呼んでいる」
「あ、わ、悪い。なんだった」
「飯、一緒に食いたいと思って」
見せられたコンビニの袋の中には、こいつの昼飯なのだろう菓子パンが二つ入っている。誘われるまま頷いて同じようにカバンから菓子パンを取り出しと、大黒は嬉しそうにオレの腰を抱き寄せて廊下へ、そのまま昼だけ解放されている屋上へと連れ立って行く。そんな急かさなくても、昼休みはまだあるのに。
「お、貸切」
つい言葉を弾ませながら定位置に座ると、後に続くように大黒も腰を下ろす。さっきまでの教室で愛想を振りまく大黒とは全然違う、自然体の大黒がそこにいた。
「……なぁ大黒」
つい、思っていた事が形になる。
「いいよお前は愛想笑いなんかしなくても」
それはこいつへのエールなのか、邪な感情なのか。
正直もう、オレにはわからなかった。
この言葉をこいつは、大黒はどう思うのか。それが怖いと思ったが案外杞憂だったらしく、大黒の口角がほんの少しだけ緩む。
「白萩みたいに笑いたいからな」
それ、答えになってないと思うけど。
投げそうになった言葉をしまい込むと、大黒の視線とぶつかった。
「白萩は、なんで愛想笑いをするようになったんだ?」
逆に言葉を返されて、目を丸くしてしまう。
「なんでって、それは」
あまり人に触らせてこなかった部分で、一瞬悩んでしまう。
「……そっちの方がいろいろと都合もいいだろ」
人当たりがいいって思われる、愛想がいいって思われる。
それでもって一線は引いているから、変に踏み込まれない。そんな距離を保てるから、愛想笑いが癖になっていた。
「それに裏切られるのって、怖いだろ」
「……それは」
「オレは、すげえ怖かった」
どこにでもある、単純な話だ。
心から人を信用して、裏切られた。たったそれだけの話。愛想笑いをしておけば一線が引けて、そんな事に怯える心配もない。自分の事なのに情けないと思うと、目の前の大黒は自分の事のように悲しい表情を貼り付けている。じっとなにかを考えるように顔をしかめて、白萩、と名前を呼ばれた。
「安心してくれ、俺は白萩をこの先絶対に裏切らない」
まるでプロポーズみたいだと、反射的に考える。
大黒らしくまっすぐで、オレを考えた言葉。そのはずなのにまだ胸の奥ではなにかが燻って、むしろ大きくなるような気がした。
こんな優しい顔も言葉も、頑張って作る愛想笑いだって全部。
他の奴に見せるのかと考えると、それはなんだか気に食わない。
「……オレの前だと自然なのにな、オレはお前の笑顔好きだけど」
他意はない、自然と出た感情だった。
本当にその程度だったのに、大黒の顔を見たらなにもかもが消し飛んだ感覚だった。だってお前、そんな。突然顔を真っ赤にして、呼吸をするのだって忘れている。
「あ、別に、そういう意味じゃ!」
「いや、俺が過剰に反応したからだめなんだ!」
首をブンブン横に振ったが、ちゃんと伝わった自信はない。否定のつもりだったそれをこいつはどう見たか、嬉しそうに笑っていた。
「好き、か」
笑うグリズリーの欠片もない、優しい笑顔だった。
きっと些細でわからない、オレだけがわかる笑顔。
「そうか、そう思ってくれるなら俺も嬉しいな」
問うわけでも責めるわけでない、ありのまますぎる言葉。あまりに優しくて、オレの方まで息をするのも忘れてしまう。
もしかして、もしかすると。
こいつがこんな表情をするって知っているのはオレだけかもしれない。オレだけが、こいつの笑顔を知っている。グリズリーなんかじゃない、大黒唯我の笑顔をオレだけが知っている。
そう思えば腹の底にいたのは、どちらかと言えば優越感と罪悪感だ。ただ静かに居座って、気づけと叫んでいる。
こいつへの感情に、今持っている気持ちの意味に。
「……の、飲み物なくなったから買ってくる!」
「あ、白萩っ」
大黒の声が聞こえた気がするけど、そんなので足を止めていられない。逃げるように立ち去った階段の踊り場、大黒が追ってこないのを見て、深く息を吐く。吐いて、ズルズルとその場に座り込んでしまう。
「……だめだ」
はっきりとわかった、オレはこいつに絆されている。絆されて、このままでは骨の髄まで溶かされてしまう。
「……隠さないと」
男相手に、同性相手に持っていい感情ではない。
それは他でもない、オレ自身が一番理解している。
***
日が沈んでいくのが早い。
数か月前ならまだじゅうぶんすぎるくらい明るかった世界も、今では茜色に染まり切っている。
「……帰るか」
今日も一人で、教室を出た。
屋上は昼じゃないから立ち入り禁止の札が立っていたけど、そんな事は気にしない。ただ大黒の奴がオレを探しているかもしれないから、単なる時間稼ぎに使っていた。
あの日から、オレは大黒を避けている。理由なんてものは目に見えていて、自分がなによりも情けない。ぐっと喉の奥に溜まった黒い感情を飲み込みながら、大きく溜息をつく。
ヤキモチであいつへの感情に気づくなんて、女々しい以外のなにものでもない。弱いといえばそれまでの話で、愛想笑いで取り繕える自信もオレにはなかった。
それに、どうせ愛想笑いをしてもあいつにはバレる気がする。ありのままの自分を見せた今、前に戻る事はできないから。
「今日はそのまま帰って、それから」
「帰って、なにをするんだ?」
「それは、特にないからゲームでも……ん?」
オレだけだったはずの空間に、突然声が現れた。顔をしかめながらそちらを見れば見慣れた姿があって、傷の着いた目元を苦しそうに歪めながらこちらを見ている。
他でもない、大黒唯我がそこにいる。
「やっと見つけた」
「おま、なんでっ」
「なんではこっちのセリフだ、ここ数日俺を避けるように帰ってただろ」
だめだ、今顔を合わせたらこの気持ちが溢れてしまいそうなのに。愛想笑いで取り繕えないなにかを、大黒にぶつけてしまいそうなのに。
鼻の奥がツンとした気がして、咄嗟に顔を背ける。早くここから立ち去ろうと思っても既に腕は掴まれていて、顔をくしゃくしゃにした大黒が慌てた様子で白萩、と名前を呼んできた。
「待て、待ってくれ白萩!」
もう逃げられなくて、顔を上げる。
視線が、黒い瞳とぶつかった。いつもと同じはずなのに、揺れるオレの姿はいつもよりも大きく揺れている。
「なんで、どうして逃げるんだ!」
「わかるだろそんな事、なんで追ってくるんだよ!」
こんな情けない姿を見せたくなかった、こんな弱いところは見られたくなかった。この感情だけでも、せめてバレたくなかった。考えれば考えるほど思考は沈んでいくだけで、なにかが決壊する。瞳からなにかが落ちていく気がして、ハッと息を飲む音が聞こえた。
「泣いている白萩は、見たくない」
自分の事のように話す大黒は、じっとオレの事を見ている。
遠くで、運動部のボールの音が響く。軽音楽の音も烏の鳴き声だって聞こえるのに。それなのに全部別の世界の音みたいだ。遠い、オレと大黒だけが切り離されたようだ。
「なんで俺を避けていたのか、教えてもらえるか? 俺は白萩といたいんだ……白萩の嫌な事はしたくないし、白萩と一緒にいたい」
オレと、一緒に。
その言葉は、また静かにオレの心臓を突き刺していく。オレの考えている事と、こいつの一緒はきっと違う。だからこいつの横にいる価値なんかないのに、それなのに大黒の言葉に甘えようとするオレがいるのも事実だった。
「……多分、だけど」
絞り出すように、言葉をこぼす。
悩んで、苦しくて。それでも落とした言葉は、喉の奥でつっかえる。これを言ったら、大黒はどう思うのだろう。考えるだけで苦しくて、その一歩が踏み出せない。それでも、逃げ道はとうの昔になくなっているから。
「――おれ、おまえと、大黒の思っている一緒にいたいと、違う感情を持っちまったから」
これは懺悔だ、罪を認める人間の断頭台での言葉だ。
拒絶されるだろうそれを、祈るように落としていく。
どうか軽蔑してくれ、どうか拒んでくれ。ここまでくるなら、そっちの方がいっその事楽だと思えてしまう。
「……なんだ、そんな事か」
それなのに返ってきたのはずいぶんラフなもので、勢いよく顔を上げる。なんだって、お前。
「……気持ち悪くないのかよ」
「むしろ、俺は嬉しい」
予想外の言葉に、なにを言っているのかがわからなかった。
「……嬉しい?」
「あぁ。やっとこの感情が白萩に届いたかもしれないって、そう思えたから」
なにがなんて、そんな野暮な事を聞くほどオレは鈍感じゃない。
心臓の音が、やけにうるさかった。呼吸だって浅くなって苦しいのに、どこかで期待をしているオレがいる。肌を撫でる風はやけに冷たいのに、腹の底はずっと熱いと思えた。
「悪い白萩、きっと俺がずるいだけなんだ」
今度は大黒が、言葉を選んでいく。オレなんかとは比べ物にならない懺悔の言葉を、オレよりもまっすぐすぎる感情を乗せて。
「白萩に友だちだと言われた時、すごく悔しいと思ってしまった……だから、もっとアピールしようと思ったんだ。結果として白萩を不安にさせたのは悪かった」
反省した犬のようで、けれどもすぐだけど、なんて言葉を続けてくる。
「俺はあの時から、コンビニで白萩の本当の笑顔を見た時から白萩といたいと思ったんだ。白萩の本当の笑顔は、俺だけが見ていたと思った」
だから俺は一緒にいたいだなんてそんな、どんな愛の言葉より不器用で熱い言葉を投げられたら、拒否なんてできない。
元からそんなつもりはないけど、それでも不安そうに目を伏せる大黒はなんだか面白くて、ついいたずらをしてやりたくなる。
「おーぐろ」
「なんだ、しらはひ」
言葉が終わる前に、あの時みたいに口角を指で持ち上げる。情けない声もあの時と同じで、それがつい愛おしいと思ってしまった。
「しらはひ……!」
「ほら、お前だって笑えよ」
オレだけ笑うなんて、フェアじゃない。
一緒に笑顔が下手なもの同士笑えば一緒なんだから、それだけでじゅうぶんだろ。
「お前、もう頑張らなくていいよ」
「がんば、なんでだ」
「だって、お前の良さにみんな気づいちまうだろ」
オレだけがこいつの事を知っていればいいなんて、そんな利己主義な話。
ふとそんな事を考えて言葉にしたけど、じわじわととんでもない事を言ったと脳みそが理解をして心臓の音がまたうるさくなる。
「ごめ、今のやっぱなし」
「だめだ、なしにしないでくれ」
両手で顔を隠そうとしたのを、無理やり止められた。息が重なるくらいの距離で、大黒とオレだけ。頭まで沸騰しそうで、愛想笑いだって取り繕えない。
「そんな顔もできるんだな、お前」
それは、こっちのセリフだ。
大黒の表情はどこまでもかっこよくて、その瞳の中で溺れてしまうのではと錯覚する。
なにもかも隠すなんて無理だ、全部大黒に絆されたから。
「白萩、笑ってくれ」
「大黒も、オレだけに笑ってよ」
茜色に染まった大黒の表情は、なによりも柔らかい。
この表情を知っているのはオレだけ、大黒のこんな顔を知っているのはオレだけ。
けどそれは、大黒だって同じだから。