毎日のように行き来している階段を、一段一段噛みしめるように上がる。千歳は緊張していることだろうが、その感覚は尊にもある。いや、高揚していると言ったほうが正しいか。いつもより速い鼓動が胸を打っている。

 三階へ到着、もう半階上がれば見上げたそこには屋上への扉。ここから見渡せる限りでは千歳の姿はない。屋上の前とあったのだから、扉の前に小さく設けられた踊り場の死角にいるのだろう。もう足音は届いているはずだ。緩む口元に手を添えて、最後の階段を進む。

 思った通り、そこに千歳の姿はあった。下階から続く手すりが直角に曲がったその前で、小さく縮こまっている。ゆっくりと千歳の向かいにしゃがみ、壁に凭れかかる。

「……いつから分かってた?」
「二週間くらい前」
「そんな前から!?」
「うん」

 たっぷり間を空けてやっとのことで声を発した千歳は、早くから気づかれていた事実にひどく驚いたようだ。勢いよく顔を上げ、少し潤んだ目を晒す。

「な、んで、オレだって分かった?」
「内緒」
「……言えばよかったのに。そしたらこんなゲームすぐに止められたじゃん」
「まあな。最初はうぜーって思ったし。でもお前だって分かって、止めたいとは思わなかった」

 素直にそう言うと、千歳は今度はぽかんと口を開けた。それからゆっくりと首を傾げ、視線が彷徨いだす。

「な、なんで? 花村はオレのこと嫌いだろ?」
「は? 別にそんなことねえし、それは俺の台詞だな。お前には嫌われてるってずっと思ってたし。でも……勘違いだったかもって今は思ってる」
「…………」

 そう返すと、千歳はまた顔を伏せてしまった。沈黙が示すのは肯定か否か。表情が見えなくなってしまったことが惜しい。

 膝の間で頭を抱えた千歳に、疑問を投げかける。

「なんであんなメモ置いた?」
「花村には嫌われてると思ってたから……そうでもしないと関われないと思った」
「そんなに俺と話したかったんだ?」
「………………そう」

 たっぷりと間を置いた千歳はおずおずと顔を上げ、けれど目を合わせずこくんと頷いた。

 かわいいな、と思った。立てた膝に頬杖をつき千歳を見下ろしながら、不思議とそう感じた。

 笑顔と冷たい目しか知らなかったのに、この二週間で様々な千歳を見てきた。翳った顔はその中でも色濃く印象に残り、だからこそ頬を淡く染めている今が際立つ。

 新たな感情を静かに確かめていると、ひとつ深呼吸をして千歳が口を開いた。

「オレの負け。花村の言うこと、なんでも聞く」

 その言葉に尊はニヤリと口角を上げる。

「お前がこの賭けでなにをしたかったか、それを教えろ」
「え……そ、それは絶対無理!」
「はあ? こっちこそ無理。賭けは賭けだろ、俺の勝ちだから言え」

 わざと負ける方法も頭を過ぎったけれど、勝ちを得ることにしたのはこれを思いついたからだった。拒否されても一切受け付けるつもりはない。勝者の言うことは絶対、それがこのゲームの条件だ。

「卑怯じゃん!」
「どこが。正当な権利だろ。なあ教えろよ、ちー」
「っ、ちー?」
「お前のユーザー名じゃん。“ち”って言いづれえから、ちーな」
「んだよそれー……」
「ふは、顔あっか」
「見んなよお」

 驚いたかと思えば不貞腐れたように怒って、次の瞬間には萎れた声で顔を赤くする。たった数十秒たらずで、千歳の表情は鮮やかに移ろってゆく。

「ずっとそうしてればいいのに」
「え? なにが?」
「んー? なんでも」

 口をついて出たそれを、けれどはぐらかすように引っこめる。自分だけが知っているのも悪くない気がするからだ。

「ほら、早く言え」
「お願いだからそれ以外にしてほしい」
「やだ」
「……うう」

 なにをそんなに渋るのだろうか。わざわざ机にメモを、しかも連日置き、妙なゲームを始めてまで叶えたかったことがあるのだろうに。

 急かしてみても何度も顔を上げては俯き、たっぷり唸った後。千歳は漸く観念したようだ。

「オレの話、を……受け入れられなくてもいいから、ただ聞いてほしかった」

 ぼそぼそと空気に溶けてしまいそうなほど、小さな声だった。その言葉たちを、一歩体を寄せて余すことなく拾う。なんだ、そんなことか。拍子抜けだなと正直思いつつ、先を促す。

「分かった。じゃあそれ聞く」
「え! いやいいから!」
「勝ったほうの言うことなんでも聞くんだろ。それ言え」
「いやいや! なにがしたかったか答えたじゃん! それで終わり!」
「一個だけとは言ってねえよな」
「そんなん屁理屈じゃん~……」

 今にも床に伏せってしまうのではと思うほど、千歳はずるずると脱力した。一瞬たりとも目が離さない。

「言わなきゃだめ?」
「うん」
「どうしても?」
「どうしても」
「花村絶対引くよ」
「平気だって」
「…………」

 どんなことだろうと、ちゃんと最後まで聞き届ける。その意思を示すために、尊は浮かせていた腰を下ろした。悩ましげにくちびるを噛む千歳と目が合い、促すように眉をそっと上げてみせる。

「じゃあ、なにも答えないで、ただ聞いてくれる?」
「分かった。約束する」
「…………花村のことが好き、って。言うつもりだった」
「……好き? って、もしかして恋愛の意味で?」
「……うん」
「…………」

 そもそもが、自分のことを嫌っていると感じていた相手だ。この二週間でそれを疑わしく思いはしても、まさか好意を持たれているとは考えもしなかった。真偽を確かめるみたいに、ぱちぱちと瞬きをくり返す。本当だろうか。はいそうですかと簡単に受け取るのも難しく、千歳を見つめる。

 あんなメモを連日置いたのも、あの階段下でスマートフォンを嬉しそうに眺めていたのも。何度も目が合っていたのも。千歳にそうさせていたのは、恋心だったというのか。

 誰にも好かれる三上千歳が、話したこともなかった自分を好き、だなんて。

 いつも横顔に本心を見つけてきたように、その片鱗をこの瞬間にも見たくなった。じっと見つめていると、けれどそれは千歳にとって酷なようだった。ぐすん、と鼻を啜ったのは涙が浮かんだのか。ハッとした次の瞬間には、千歳は床を這うようにして立ち上がりかけていた。

「引いたよな、オレもう行……」
「ちー」

 行かせるものかと千歳の手を掴む。

 引かれた、と危惧するのはおそらく男同士だからだろう。だが実際のところ、不快になど感じていない。交際経験は中学の頃に一度だけあるが、男女関係なく誰も好きになったことはない。恋愛ごとには生まれてこの方無関心だ。

 けれど、三上千歳には興味がある。

 千歳とのこの二週間は悪くなかった。いや、いつの間にか楽しくなっていた。千歳の行動が尊に齎したものは、味気ない日々への彩りだった。

 このまま終わってしまっては、話もしなかった頃に元通りだろう。いや、悪化する可能性のほうが高い。もう目も合わず、だから冷たく逸らされることすらない。

 そんなの、ちっとも面白くない。

「俺のこと好きだったんだ?」
「……そうだよ」
「ふうん」

 掴んだままの手を引けば、不安定な姿勢だった千歳の体がぐらりと揺れた。その肩をもう片手で受け止め、至近距離で交わる視線。そっぽを向こうとする顔を追いかけ、尊はくちびるを押し当てた。自分の頬でちゅ、と鳴った音を、千歳はすぐには理解出来ないようだ。弾かれたように距離を取り、まんまるに見開かれた瞳がまっすぐ見つめてくる。

「……え? 今の……え、なん……」

 なんでキスをしたんだ、と言いたいのだろう。だが明確な理由は、あいにく尊自身にもよく分からない。染まる頬を可愛いと思っている、それは確かだが。

 逃げ出しそうな千歳をどうにか引き止めたかった。そうだ、その一心でついしてしまったのだろう。実際に千歳は逃亡を忘れているのだから、この衝動は正解だったと言える。

 自分で自分を納得させながら、今まででいちばん顔を赤くして狼狽えている千歳に声をかける。

「ちー。落ち着け」
「だって、なんで」
「さあ」
「さあって……」
「なにも答えんなってさっき言われたから、言わない」
「それは違うくない!?」
「嫌だった?」
「嫌、なわけない、けど」
「じゃあいいじゃん。これで俺は引いてないって分かったろ」
「そう、かもしんない、けどお……」

 赤い頬をひと撫でし、千歳を観察する。へなへなと座りこんで、ちらりとこちらを窺ってはまたすぐに顔を伏せ唸っている。

 本当に、この男は自分のことが好きらしい。千歳の一挙手一投足は、まっすぐにそう伝えてくる。

「てかさ」
「……なに?」
「なんでも言うこと聞くってさ、もっとすげーのだってできたわけじゃん。俺が好きって割には、それこそキスさせろとかじゃなかったのな?」
「それは……考えなかったわけじゃないけど……」
「はは、考えたんだ」
「うん。でも、そんなんでしたって意味ないし」
「へえ」

 真面目な性分なのだろう。賭けでキスなんてしても意味がない――それはつまり、心ごと欲しがっているということで。またひとつ、千歳の真剣な想いを思い知る。

 尊自身、話せば話すほど千歳には好感が湧いてくる。それこそ、衝動的にキスをしてしまうくらいには。

 だからなのだろうか、と自分に問うてみたくなる。もっと色んな顔を見るためにからかいたい、だなんて。初めての感覚だった。

「じゃあキスしないほうがよかった?」
「花村がしてくれるのは嬉しいに決まってんじゃん」
「はは」

 もう逃げ出すことはしないだろうと判断し、尊は千歳の腕を解放する。その手でミルクティー色の髪に触れてみれば、そんな一瞬の戯れにも千歳は従順に頬を染めた。

「で? 告白にはいもいいえも言えなくして、どうするつもりだったわけ?」
「え……?」
「言って終わり? また喋りもしない関係に元通りか?」
「それは、いやだ」
「うん、俺も」
「っ、オレ、押しまくるから!」

 必死な宣言に、たまらず天を仰ぐようにして笑う。

 千歳に嫌われているとの印象が生まれたのは、春に同じクラスになってすぐだった。それ以上でも以下でもなかったからこそ、こんな会話をできている今が面白い。千歳があのメモを残してくれなかったら、きっと今も嫌われていると思いこみ続けていただろう。千歳の一歩が大きな変化を齎している。

 千歳がいれば、明日からもきっと楽しい。そんな予感が尊の胸で弾けている。水色のキャンディからしゅわしゅわと泡が弾ける瞬間のように。

「押しまくられんのか。ふ、楽しみにしてる」