“chi.”とのゲームが始まって二週間ほどが経った。新たな手掛かりは相変わらず掴めていない。
「飲み物買ってから行く。これ持ってっといて」
「おー、じゃあ後でな」
昼休みになり、ケンスケとナベにそう伝えて席を立った。
教室を出る前に、“chi.”に《今日の昼飯は?》とメッセージを送る。昼食の内容を本当に知りたいわけではない。送ったメッセージにいつ既読マークが付くのかの観察だ。この手法はゲームが始まってからすぐに始めたものだが、“chi.”は徹底的にしっぽを出さない。よほど用心深いのか、尊の目の届くところでメッセージをチェックすることはしていないようだった。
今日も今日とてこの策は失敗に終わると踏み、画面をすぐにオフにして一階の自動販売機の場所へと向かう。いつも飲んでいる炭酸水を一本購入し、その足でケンスケとナベが待つ屋上のほうへと進む。
屋上へ続く階段は、まずは校舎の端まで突っ切るのが一番の近道だ。視界に違和感を覚えたのは、そちらへと歩いている最中のことだった。
この高校には校舎が三棟立っていて、校門から見て手前からA棟、B棟、C棟と呼ばれている。C棟は化学室などの特別教室が配置されており、そこへ向かう渡り廊下の手前には、階段下にちょっとしたスペースが空いている。薄暗いその周辺にはいつも人の気配などなく、普段なら気にも留めないのだが。つい目が引き寄せられたのは、人の背中が見えたからだ。見間違いでなければ、同じクラスの三上千歳の。
何故こんなところに? クラスの中心人物である千歳がこんな場所で背中を丸めているのは、クラスメイトと一定の距離がある尊にとっても物珍しい。もしかすると体調でも悪いのだろうか。嫌われているとは言え、放っておいてもしも倒れられでもしたら、後ろめたさを覚えるだろう。ほぼ関わりのない相手だからこそ、罪悪感を抱えたくなどない。
仕方ないなと小さく息を吐き、千歳へと近づく。なあ、と声をかけようと右手を伸ばし、けれどその手も発しようとした声も慌てて引っこめることとなった。
具合が悪いように見えた千歳は、スマートフォンを操作していた。そこに映し出されていたメッセージのやり取りに、大いに身に覚えがあった。千歳と連絡先の交換なんてしていない、そのはずなのに。いや、まさか。
千歳の指先はなにかを打ちこんでいるようだ。気づかれるわけにはいかないと、咄嗟に身を隠す。ポケットから自分のスマートフォンを取り出して約二秒後、“chi.”からのメッセージ受信を知らせるプッシュ通知が表示された。目の前の光景が示す答えをにわかには信じられず、もう一度千歳の様子を確認すると。満足そうな笑顔で画面を見つめた後、スキップでもしそうな勢いで二年C組の教室のほうへと去ってしまった。
その背中を呆然と見送る。とにかく今は、クエスチョンマークで頭がいっぱいだ。
俺を嫌いなはずの三上が、なぜ。いや、本当に“chi.”は三上なのか?
なにひとつ、それらしい理由を見い出せない。
《今日のお昼はお弁当だよ》
画面に表示されたあっけらかんとしたそのメッセージと、ひたすら混乱している心情。目の奥が痺れそうなほどに強いコントラストが、ずっしりとのしかかった。
呆気にとられたままどうにか屋上へ着くと、ケンスケとナベはすでに昼食を食べ終えていた。おせーぞと手招かれるままに腰を下ろし、ふたりに預けていた菓子パンに齧りつく。ジャムパンの糖分が、思考を停止していた脳に染み渡る。ちいさなため息とともに、頭を振った。
「尊ー、なに怖い顔してんだ?」
「なんかあった?」
「んー……なんでもねえ」
「なんでもねえ、って顔じゃないけど」
こんな時に声をかけてくれる友人は大切にすべきだ、そう思いはする。するのだが、今はそれどころではない。屋上の床の一点を食い入るように睨みつける。ろくな返事を返さないでいると、ケンスケとナベもそれ以上はなにも言わなかった。
情報を整理する。今明らかなのは、“chi.”の正体が三上千歳だということだ。理由はひとつも分からずとも、名前に“ち”が付くのだし、なにより決定的な瞬間を目撃してしまった。
まさか、ゲーム開始からこんなにも早く答えにたどり着けるとは思っていなかった。まだ折り返し地点で、タイムリミットまで残り二週間もあるというのに。お前が誰だか分かったと、三上千歳だろとたったそれだけメッセージを送れば、今日にでもこのゲームは切り上げることができる。文句ひとつつけられないこちらの勝利だ。
だが、本当にそれでいいのか。
ふと考える。三上千歳には嫌われているはずだ。なのに何故、あんな手を使ってまでコンタクトを取りたがったのか。仮に向こうの勝利でこのゲームを終えたとして、自分に叶えさせたい願いとはなんなのか。
相手が千歳だと判明した途端、俄然興味が湧いてきた。このゲームと、三上千歳という人物に。
リミット直前に分かったと言って、勝てばいいだけの話だ。このまま気づいていないフリをして、千歳を観察してみるのはきっと面白い。
「ふっ」
「え、今度は笑ってんだけど。ケンスケ~! 尊こわい!」
「いや俺に言うなし! おーい、尊~?」
「くく」
「うわあ」
不気味そうにしているふたりを気にすることもなく、たまごのサンドイッチを頬張り炭酸水を流しこむ。それからポケットから飴玉をひとつ取り出し、包装の両端を引っ張って水色のそれを口に含んだ。
気に入りのこのキャンディは、中に炭酸の粉が入っている。千歳と対峙するその日を想像すると、飴をじっくり舐めた後にしゅわしゅわと弾けるあの瞬間のように胸が高鳴った。
「尊、その飴俺にもちょうだい」
「やだ」
「あは、やっと返事したと思ったら拒否!」
「一回もくれたことないもんな」
「それな」
だるい、面倒だ。“chi.”とのゲームが始まった時、そう思ったはずなのに。あの時天秤に乗っかってきた高揚感は、どうやら気のせいではなかったらしい。メッセージの回数を増やしてみるのも面白いかもしれない。
今までであればいちばんサボる確率の高かった五時間目が、今日は無性に楽しみに思えた。
「飲み物買ってから行く。これ持ってっといて」
「おー、じゃあ後でな」
昼休みになり、ケンスケとナベにそう伝えて席を立った。
教室を出る前に、“chi.”に《今日の昼飯は?》とメッセージを送る。昼食の内容を本当に知りたいわけではない。送ったメッセージにいつ既読マークが付くのかの観察だ。この手法はゲームが始まってからすぐに始めたものだが、“chi.”は徹底的にしっぽを出さない。よほど用心深いのか、尊の目の届くところでメッセージをチェックすることはしていないようだった。
今日も今日とてこの策は失敗に終わると踏み、画面をすぐにオフにして一階の自動販売機の場所へと向かう。いつも飲んでいる炭酸水を一本購入し、その足でケンスケとナベが待つ屋上のほうへと進む。
屋上へ続く階段は、まずは校舎の端まで突っ切るのが一番の近道だ。視界に違和感を覚えたのは、そちらへと歩いている最中のことだった。
この高校には校舎が三棟立っていて、校門から見て手前からA棟、B棟、C棟と呼ばれている。C棟は化学室などの特別教室が配置されており、そこへ向かう渡り廊下の手前には、階段下にちょっとしたスペースが空いている。薄暗いその周辺にはいつも人の気配などなく、普段なら気にも留めないのだが。つい目が引き寄せられたのは、人の背中が見えたからだ。見間違いでなければ、同じクラスの三上千歳の。
何故こんなところに? クラスの中心人物である千歳がこんな場所で背中を丸めているのは、クラスメイトと一定の距離がある尊にとっても物珍しい。もしかすると体調でも悪いのだろうか。嫌われているとは言え、放っておいてもしも倒れられでもしたら、後ろめたさを覚えるだろう。ほぼ関わりのない相手だからこそ、罪悪感を抱えたくなどない。
仕方ないなと小さく息を吐き、千歳へと近づく。なあ、と声をかけようと右手を伸ばし、けれどその手も発しようとした声も慌てて引っこめることとなった。
具合が悪いように見えた千歳は、スマートフォンを操作していた。そこに映し出されていたメッセージのやり取りに、大いに身に覚えがあった。千歳と連絡先の交換なんてしていない、そのはずなのに。いや、まさか。
千歳の指先はなにかを打ちこんでいるようだ。気づかれるわけにはいかないと、咄嗟に身を隠す。ポケットから自分のスマートフォンを取り出して約二秒後、“chi.”からのメッセージ受信を知らせるプッシュ通知が表示された。目の前の光景が示す答えをにわかには信じられず、もう一度千歳の様子を確認すると。満足そうな笑顔で画面を見つめた後、スキップでもしそうな勢いで二年C組の教室のほうへと去ってしまった。
その背中を呆然と見送る。とにかく今は、クエスチョンマークで頭がいっぱいだ。
俺を嫌いなはずの三上が、なぜ。いや、本当に“chi.”は三上なのか?
なにひとつ、それらしい理由を見い出せない。
《今日のお昼はお弁当だよ》
画面に表示されたあっけらかんとしたそのメッセージと、ひたすら混乱している心情。目の奥が痺れそうなほどに強いコントラストが、ずっしりとのしかかった。
呆気にとられたままどうにか屋上へ着くと、ケンスケとナベはすでに昼食を食べ終えていた。おせーぞと手招かれるままに腰を下ろし、ふたりに預けていた菓子パンに齧りつく。ジャムパンの糖分が、思考を停止していた脳に染み渡る。ちいさなため息とともに、頭を振った。
「尊ー、なに怖い顔してんだ?」
「なんかあった?」
「んー……なんでもねえ」
「なんでもねえ、って顔じゃないけど」
こんな時に声をかけてくれる友人は大切にすべきだ、そう思いはする。するのだが、今はそれどころではない。屋上の床の一点を食い入るように睨みつける。ろくな返事を返さないでいると、ケンスケとナベもそれ以上はなにも言わなかった。
情報を整理する。今明らかなのは、“chi.”の正体が三上千歳だということだ。理由はひとつも分からずとも、名前に“ち”が付くのだし、なにより決定的な瞬間を目撃してしまった。
まさか、ゲーム開始からこんなにも早く答えにたどり着けるとは思っていなかった。まだ折り返し地点で、タイムリミットまで残り二週間もあるというのに。お前が誰だか分かったと、三上千歳だろとたったそれだけメッセージを送れば、今日にでもこのゲームは切り上げることができる。文句ひとつつけられないこちらの勝利だ。
だが、本当にそれでいいのか。
ふと考える。三上千歳には嫌われているはずだ。なのに何故、あんな手を使ってまでコンタクトを取りたがったのか。仮に向こうの勝利でこのゲームを終えたとして、自分に叶えさせたい願いとはなんなのか。
相手が千歳だと判明した途端、俄然興味が湧いてきた。このゲームと、三上千歳という人物に。
リミット直前に分かったと言って、勝てばいいだけの話だ。このまま気づいていないフリをして、千歳を観察してみるのはきっと面白い。
「ふっ」
「え、今度は笑ってんだけど。ケンスケ~! 尊こわい!」
「いや俺に言うなし! おーい、尊~?」
「くく」
「うわあ」
不気味そうにしているふたりを気にすることもなく、たまごのサンドイッチを頬張り炭酸水を流しこむ。それからポケットから飴玉をひとつ取り出し、包装の両端を引っ張って水色のそれを口に含んだ。
気に入りのこのキャンディは、中に炭酸の粉が入っている。千歳と対峙するその日を想像すると、飴をじっくり舐めた後にしゅわしゅわと弾けるあの瞬間のように胸が高鳴った。
「尊、その飴俺にもちょうだい」
「やだ」
「あは、やっと返事したと思ったら拒否!」
「一回もくれたことないもんな」
「それな」
だるい、面倒だ。“chi.”とのゲームが始まった時、そう思ったはずなのに。あの時天秤に乗っかってきた高揚感は、どうやら気のせいではなかったらしい。メッセージの回数を増やしてみるのも面白いかもしれない。
今までであればいちばんサボる確率の高かった五時間目が、今日は無性に楽しみに思えた。