正直なところ、抱かれたいと宣言したことで、近いうちにするかもしれないと淡い期待があった。寂しさと興奮とにあんなに千歳も高揚していたから、時間を縫って会える日が一日くらいあるかも、と思ったのだ。

 だが千歳は拍車がかかったように、より一層勉強に励むようになった。会わないと寂しいし不安だし、もっと一緒にいたい。だけど、だからこそ尊をご褒美に頑張れる――とのことらしい。普通人を褒美にするか? と口にはしつつ、その実千歳にとっての褒美になれるのは満更でもない。決めたことはやり通す、千歳の意志の強さは並々ならぬものがある。だから尊が何度メモを捨てようと引かなかったし、絶対に諦めたくないと強い瞳で言われた。そんなところに絆されたんだよなと、見守ることに徹している。

 そうは言ったって、やはり寂しいものは寂しい。さすがに受験の日を終えたら会える、と思っていたのだが。大詰めも切り抜けた二月下旬、試験を終えた千歳は、それでもまだだと会おうとはしなかった。合格発表までは気が抜けないから、とのことだ。結果が分かるまで落ち着かないだろうと理解はできても、早く会いたいと思わずにはいられない。

 だが、もう数日の辛抱だ。ここまで耐えたのだからなんてことはない。むしろ、待てば待っただけ幸福感は上がるかもしれない。そう言って見せると、最早ドMだな、と椎名には笑われてしまった。返す言葉もない。


 卒業式。絶対これからも遊ぼうな! と泣きながら抱きついてきたのはケンスケとナベ。山田や真野にはすっかり仲のいい友人認定されていて、気安く肩を組まれため息を吐きつつ写真を撮った。

 千歳は人気者の実力をこれでもかと発揮していて、同級生のみならず下級生にもひっきりなしに囲まれ、忙しそうに過ごしていた。その人波がやっとのことで過ぎた後、屋上や例の階段下と、ふたりの思い出の場所を巡った。尊にとっての高校生活は、やはり千歳の存在が多くを占める。ありがとうと言うと千歳は泣いて、しょっぱいキスで三年間を締めくくった。

 ちなみにこの日も千歳はまだだめだと放課後を一緒に過ごそうとせず、あまりの頑固さに尊は吹き出して笑った。
 

 そうして迎えた合格発表の当日。尊は今日も今日とてアクセサリーショップに出勤している。発表は十四時だと聞いているが、朝からそわそわと落ち着かない。

 昼の休憩を終え、店頭に立ってついに迎えた十四時。平日の昼間で、客がほぼいないのはラッキーだ。だが、ポケットに忍ばせているスマートフォンは、一向に震えはしない。まあ、まずは親に連絡するところだろう。電話で話しこんでいるのかもしれない。そんな風に自分を納得させたまま、十五時を過ぎてしまった。

「尊、彼氏から連絡来た?」
「それが、まだっす」

 待ち受け画面を見られた日から、椎名にはよく話を聞いてもらうようになっていて、今日が千歳の合格発表だということも知っている。こっそりと尋ねてくれた先輩に、尊は青ざめた顔で首を振った。

 信じている、千歳は絶対に合格すると信じている。それでもこの空白の時間は地獄のようだ。尊ですらこうなのだから、当の本人は今日この日までどれだけ苦しかったか。だが大丈夫だ、あんなに頑張っていたのだから。

 冷静になるため、ショーケースの中の指輪を取り出し、磨きながら深呼吸をする。そんな尊の腕を、椎名が肘で突っついてきた。

「おい、尊」
「なんすか? これ終わったらちゃんとそっちもやりますよ」
「そうじゃなくて。あそこ、あれ」
「はあ。分かりました、向こうもっすね」
「違えよ。なあ尊、あれお前の彼氏じゃねえ?」
「え?」
「あそこ。あのイケメン」

 お前の彼氏、の言葉に弾かれたように顔を上げる。椎名が指で示しているのは店の外で、そこには確かに千歳の姿があった。息を切らしてこちらを窺っている。

「っ、ちー! あ、あの椎名さん!」
「おうおう、行ってやれ。こっちは平気だから」
「あざす!」

 頭を下げ、上げきる前に尊は走り出す。たった数メートルが歯痒い。店の外に大急ぎで飛び出る。

「ちー!」
「花村! 仕事中にごめん! 連絡しようと思ったんだけど、じっとしてられなくて」
「おう……えっと、それで」

 結果はどうだった? そう聞きたいのに、喉に引っかかって出てきてくれない。心臓がドコドコとうるさくなってきた。走ってきたのか苦しそうな千歳も胸を上下させていて、だが次の瞬間、その顔には笑顔が花開いた。

「受かった! 受かったよ花村!」
「……っ!」

 感極まり、千歳の首にしがみつく。興奮のままに髪をかき混ぜると、背を強く抱きしめられた。

「すげえよちー、おめでとう!」
「うん、ありがとう!」
「頑張ったもんな、すげー頑張ってた」
「っ、ありがとう~」

 涙声の千歳に引きずられるように、尊も鼻を啜る。千歳を讃えるためなら人目も気にならない。良かった良かった、と腕を解けずにいると、千歳がどこか絞り出すように囁き始める。

「あのさ、花村」
「ん?」
「バイト終わるの、待ってていい?」
「いいけど。今日は十八時までだからまだかかるぞ」
「うん、大丈夫。それでさ、明日は休みだよね?」
「うん」
「えっと」

 途切れた言葉に瞳を覗く。なにかを言い淀む様子に、両頬を包んで促す。千歳の気持ちはいつだってちゃんと聞きたい、こんな日は特に。待っていると、こくんと喉を鳴らした千歳が意を決したように口を開いた。

「今日、から明日まで。花村の時間をオレにください」


 その後の勤務時間をほぼ上の空で過ごしてしまい、記憶が定かではない。ただ不思議と平日にしては売上げがよかった。帰り際、そんな顔できんなら毎日彼氏に会え、と椎名に言われた。意味は分からなかったが、言われなくともできるものならそうしたい。

「ちーって行動力あるよな」
「そうかな」
「うん。マジビビった」
「困った?」
「すげー嬉しかった」

 すっかり暮れた街を走る、大勢の人々を乗せた電車。扉の側に立って、小さな声で交わす会話はどこか浮足立っている。

 勤務時間を終えて店を飛び出したら、千歳は店の前に立っていた。手には買い物袋をいくつか持っていて、ふたり分の下着も買ってきたと言うから驚いた。そして今は、手を引かれ飛び乗った電車に揺られ続けているところだ。尊の勤務中、近くのカフェでお茶をしながら千歳が押さえたという宿は、隣県の海の側にあるらしい。

 人当たりがよくて、クラスの人気者。笑顔でなんでも引き受け首を縦に振りながら、その実本音は違うところにあったりする。それでいて大胆な行動、こうと決めたらやり通す意志の強さ。それから、自分にだけ見せてくれる怒った顔や照れた顔。色々な千歳を知っているつもりだったが、急きょ泊りがけで出かけることになるなんて、今日は本当に驚いた。これから先も何度だって、新しい千歳に出逢いたい。

 何度か乗り換えた電車は、海沿いへとふたりを運んだ。一緒に検索して見つけた、ファミリーレストランで夕食。そして千歳に連れられるまま着いたのは、こじんまりとしたペンションだった。予約した三上です、と告げた千歳に鍵が渡され、二階へと上がる。入室するとそこは、ダブルベッドがひとつの小さな部屋。思わず立ち止まると、扉が閉まった音の後、後ろからそっと抱きしめられた。

 明日までの時間をくれと言われた時、外泊すると分かった時。いよいよだろうと予感はしたけれど。急に実感が湧いてきて、声が上擦る。

「花村」
「っ、ちー……あ、ここの代金いくらだ? 俺出す」
「いらない、オレが誘ったんだし。お年玉とか貯めるタイプだったから平気」
「いやでも」
「花村」

 甘い声で遮って、うなじにそっと歯を立てられる。それだけでもう、崩れ落ちそうになったのに。千歳はどうやら手加減する気はないようだ。

「今日、したい」
「っ、あ」
「いい?」
「ちー、なあ待て」
「やだ、もうたくさん待った」
「……っ!」

 それは俺の台詞だ! そう叫びたいのに、確かにそのはずなのに。千歳も待ち望んでいたという事実を改めて差し出されれば堪らなかった。振り返って齧りつくようにキスをして、ふたりでベッドへなだれこむ。見上げた先の瞳は潤んでいる。

「ふ、泣き虫」
「だって……」
「うん。俺も泣きそう」
「花村、好き、大好き」
「ちー……」
「いっぱい触りたい」
「ん、俺も」

 何度も何度もキスをした。初めて見る肌も、千歳の言葉ひとつひとつすらも刺激的で、頭がくらくらする。

 たくさん涙を呼びあって、ふたりして涙を流して。そうして抱き合う時間は、ただただ幸福に満ちていた。


「花村……」
「ん……」
「大好き、だいすき」
「俺も、すげー好き」

 啄むようなキスをして、千歳はゆったりと起き上がろうとした。気怠い足を引っかけてそれを食い止める。

「花村……?」

 離れるなんて許すものか。やっとこうして愛されて、千歳を愛せたというのに。

「そんなすぐ離れんなよ」
「っ、無理だよ」
「なんで」
「またしたくなっちゃうじゃん」
「うん」
「花村ぁ、反則だって」

 観念したようにぼすんと落ちてくる愛しい体を受け止める。つい今まで瞳の奥に欲を宿す男だったのに、首にすり寄ってくる仕草は甘えたな猫のようだ。

 耳の下にキスをされ、首筋に齧りついて返す。くすくすと笑いながら、繋いだ手の中では指輪が音を立てる。この夜のすべてが、とろけそうに甘美だ。

「ちー」
「んー?」
「ご褒美になったか?」
「ご褒美……うん、すごく」
「じゃあもっとやる」
「っ、だから反則だよ」
「いいじゃん。ほら」

 抱きしめると千歳のくちびるが悔しそうに尖ったので、そっと舐めてみる。途端に眇められた熱っぽい目が、尊を映す。

「花村に一個お願いがある」
「んー?」
「尊」
「っ、あ……? お、まえ……ちーこそ反則」
「うん。でもずっと呼びたかった。尊、大好きだよ」
「ん……」

 むせかえるような甘い空気にこっそりと涙を啜る。手放したくない夜、仰々しく誓わなくとも光り続ける希望が見える。

 ずっと夢中でいられる恋が、体を熱く巡っている。