進路を決めかねていると漏らしたら、「その気があるのなら、ここでバイトを続けて正社員を目指す道もある」と椎名から助言があった。それを聞いて以来、いっそうバイトに励むようになった。

 アクセサリーショップでの仕事は性に合っている。気がかりだった接客も、思いのほか楽しくできている。相手の話を聞いて、本人やそこにはいない誰かが身につけるアクセサリーを真剣に考える。愛想こそ褒められたものではないが、椎名や他のスタッフ曰く、忌憚のないアドバイスだとなかなかに好評らしい。

 高校を卒業した後、どうするのか。受験勉強に励む千歳の姿に実は焦りがあったのだと、どうにか道が見えた今安堵と共に感じている。千歳と共に生きる未来で、胸を張って立っている自分でありたい。しっかり生きていきたいと思えていることそのものが、尊には新しい心だ。

 その千歳とは、ゆっくり過ごす時間は全くない状態が続いている。一学期はまだ、昼休みという希望があったが。夏休みに入ると、どちらかのオフにはもう片方は一日中予定があるという、見事なすれ違い様だ。それでも尊のバイト前にカフェで一緒に過ごしたりと、極たまに時間を共有することはできたが。ろくに会えない、触れることももちろん叶わない。夏なのに寂しさに身を縮こめた。

 それでも、メッセージだけは欠かさなかった。今日はなにを食べただとか、苦手な科目でひとつ克服できたとか、新作のアクセサリーが入荷されただとか。それから、お互いの写真をよくねだり合った。尊もあまり得意ではないのだが、千歳は自撮りを恥ずかしがり、画面の半分以上がコッペの写真もよくある。もちろんそれも微笑ましくて好きで、そのやり取りそのものを楽しんだ。

 なかなか一緒にいられなくてもやり取りの途切れない日々は、千歳が始めたゲームを思い起こさせた。最初の内はメモを数回捨てたことも思い出しては、千歳が挫けないでいてくれたことを何度だって噛みしめた。


 九月になり再び登校が始まった。土日は朝からバイトに入り、夕方に終える。それが尊のルーティンだ。

 今日の勤務を終え、スタッフルームの椅子に腰を下ろす。ここでのバイトを初めて数ヶ月が経ち、もう体もこのサイクルに慣れている。とは言え、充実感と共に疲労もやはり襲ってくる。

 ふう、と息を吐き、スマートフォンを取り出す。待ち受けにしている千歳とみたらしのツーショットは、起動する度につい眺めてしまう。これを見ると会いたくなってしまう。いや、いつだってそうか。昼休みをまた一緒に過ごせるようになったが、すれ違いは秋になっても続いている。寂しくないわけがない。バイト終わりに自分は融通が利いても、千歳にそれを強要したくはなかった。学校以外でも勉強をするなんて尊からしてみれば考えられないことだが、そうしてまで千歳は夢を追っている。邪魔などできるはずがない。

 なぜスマートフォンを開いたんだっけ。待ち受けを眺めて満足してしまい、さて帰ろうかと腰を上げかけた時だった。自分しかいないと思っていた室内で、突然人の声が耳元で響いた。

「すげーイケメン。それ尊の彼氏?」
「びっ! くりしたー……」
「どした。おばけでも見た?」
「おばけより怖かったっす」

 バクバクと大きな音を立て、心臓が警笛を鳴らしている。怖かった、本当におばけより怖かった。おばけを見たことはないけれど。いや、それよりも。上司である椎名の口から、いとも簡単に“彼氏”と出てきたことに驚いている。

 千歳に好きだと言われた時、自分も千歳を好きだと実感した時。男同士だという事実に、動揺はなかった。誰にどう見られるかなど気にならない。だが、謂れのない蔑みがもしも千歳に向けられるのなら、それすらどうでもいいと思えるほど鈍感でもない。

「いつからいたんすか」
「尊が待ち受け眺め始めた時?」
「大分前っすね」
「だなー。なに、会えてねえの?」
「学校では会ってますけど」
「寂しいんだ?」
「…………」
「ふは、かーわいい」

 男と付き合ってんだ? と冷やかすことも、頼んでもいないのに「同性同士でもいいじゃん」と変に寛容さを表してくることもない。フラットな椎名の態度に、尊は好感を覚える。変わらずに仲が良く、それでいて昼休みに一足先に屋上を出ていくケンスケとナベのようだ。

 そんな風に感じたからだろうか。反射的に身構えていた体から力が抜ける。かわいい、なんて茶化されたのに、一緒にいる時間がなくて寂しいのだとぽろぽろと零してしまう。たばこの煙を燻らせ頷きながら聞いてくれる、椎名の落ち着いた空気は心地よかった。

「会えばいいじゃん」
「あいつ、勉強すげー頑張ってるんで。邪魔したくない」
「邪魔ねえ。ちょっとぐらい平気だろ。ちゃちゃっと会って、ちゃちゃっとやることやれば寂しいのも紛れるんじゃね?」
「っ、はあ? ちゃちゃっとするとか意味分かんねえ」
「わお、顔あっか。え、もしかしてまだしてねえの?」
「…………」

 しまった、と思った時にはもう遅かった。まだなのかとの問いに、したと嘘をつく意味も見いだせず顔を逸らすしかできない。逃がした視界にそれでも映りこむ、ぽかんと口を開けた椎名が鼻につく。

「尊が奥手とか意外だけど、急ぐもんでもねえか」
「椎名さんっていい人っすね」
「はは、今更。まあ、そんなん人それぞれだしな。俺だったら耐えらんねえけど」
「…………」

 それを言うなら、尊だってもう随分前からしたいと思っている。だが千歳はそうじゃない。ふたりの気持ちが合致した時でないと意味がない。千歳を好きだからこそ、会えないことも触れられないことも、どんなに辛くても耐えるべきだとそう思う。

 決心を再確認することで、今日の寂しさを越えられた気がする。そろそろ帰ろうと立ち上がる。

「俺はしたいんすけどね」
「待ってやるしかねえな」
「そっすね」
「ネコの方は初めてだと覚悟もいるしな」
「それならとっくなんすけど」
「え?」
「え?」

 先ほどのぽかん顔なんて比にならないくらい、椎名は今度は目まで見開いた。なにかまずいことでも言っただろうか。疑問を抱いたのも一瞬で、自分はそっちがいいのだと不要な宣言をしてしまったことに気づく。

「尊お前……」
「あー、今のはその……」

 どう切り抜けようか。これもやはり、強く否定するのもなんだか違う気がする。困っていると、椎名が尋ねてくる。

「それ、彼氏に言った?」
「え?」
「尊の彼氏はどっちのつもりなんだろうな。なーんかそこ食い違ってそう。じゃなかったら、男子高校生がふたりも揃ってそんな我慢できるか? 知らんけど」
「…………」
「あ、時間だからそろそろ店戻るわ。またな」
「お疲れっす」

 ぽん、と肩を叩いて椎名は去ってゆく。見送ることも叶わないまま、どうにか口だけは動かして唖然と立ち尽くす。

 いつも待つばかりで、はぐらかす千歳の気持ちを汲むばかりで、確かにそんな踏み入った話をしたことはなかった。いや、そんな話も千歳がその気になってからでいいと思っていた。それでは駄目なのだろうか。椎名の言っている意味を全てきちんと理解できない。

 初めての恋を千歳に捧げられてよかったと心底思うのに、初めては酷く難しい。


 あっという間に秋も深まって、冬の気配に体を竦める。千歳とクラスが離れている今年は、寒さは死活問題だ。屋上で過ごすのはもう厳しい。もちろん昼食は一緒に食べられる、現に尊が毎日A組に通っている。問題は、ふたりきりになれない点だ。キスができない、千歳にくっつけない。さすがに干からびそうだ。

 土曜日、十八時。バイトを終え、店舗裏の出入り口から外へ出た。今日は以前接客をした客が、また相談に乗ってほしいと来店してきた。しばらく会話をしたその人は二点購入してくれて、店長にも褒めてもらえた。気分がよく、すぐに千歳に報告したくなる。

《今日はピアスふたつ売れた》

 短い文章を送る。今日は塾だと言っていたから、終わった後に気づいてくれるだろうか。だがすぐに既読マークはついた。珍しい、と思っていると、間髪入れずに電話がかかってきた。出入口すぐで立ち止まっていた尊は、急いで画面をタップし通りへと出る。

「もしもし」
『花村。今電話平気?』
「平気」
『よかった。えっと、声聞きたくなってかけちゃった』
「ちー……そっか。塾は?」
『今終わったところだよ』

 嬉しい、嬉しい、嬉しい。連絡を取る時はもっぱらメッセージだった。千歳の選ぶ言葉と声が、寒空の下で体中に沁み渡る。歩きながらなんてもったいない。千歳との会話をじっくり味わいたくて、アクセサリーショップのすぐ傍で立ち止まった。通行人の邪魔にならないようにと端に立ち、目を閉じる。

 今日はどうだった。昼にはなにを食べた。他愛ない会話を噛みしめていると、空いたほうの耳に尊を呼ぶ誰かの声が聞こえてきた。

「あ、いたいた尊ー」
「ん? あ、椎名さん」
「あ、悪い。電話中?」
「ちーごめん、待ってて。大丈夫っす。なんすか?」

 どうやら椎名は、ピアスをふたつ売り上げた労いとして、夕飯に誘ってくれるところだったようだ。ここは先輩の誘いに乗るべきだろうか。

「どうする? 用があるならまた今度でもいいけど」
「えっと、じゃあ……」
『花村!』

 行きます、と言いかけた時だった。胸元まで下げていたスマートフォンから、千歳が尊を呼んだ。切羽詰まったような声に胸騒ぎを覚える。椎名に断りを入れて、千歳に返事をする。

「ちー? どうし……」
『っ、花村、椎名さんとご飯行っちゃうの?』
「え……」

 尊の返答に被せて、絞り出すような声が届いた。どうしてそんなに苦しそうなのだろう。思わず言葉に詰まると、千歳の息を飲む音と鼻を啜った切ない声が続く。

『オレも、花村に会いたい』
「っ、ちー……椎名さんすいません! ご飯また今度でお願いします!」
「おー、了解」

 お疲れっした! と頭を下げる。ひらひらと手を振る椎名は、なるほど彼氏ね、と笑いながら送り出してくれた。申し訳ないとは思うが、なりふり構っていられなかった。千歳にこんな風に懇願されたのは初めてのことだった。

 陽が落ちて外灯が照らす街は、土曜日なこともあってか賑わっている。人々の間を小走りに進んでも、一歩一歩がもどかしい。

「ちーどこにいんの?」
『塾の前。そっちに行く』
「待ってらんねえ、俺も行く」

 アクセサリーショップと千歳が通う塾は、電車で五駅ほど離れている。同じ市内ではあるが、一秒が惜しい今は舌打ちが出る。改札を走り抜け、ホームへの階段を上がりながら中間の駅で会う約束を取りつけた。

 先に目的の駅に到着し、改札内で千歳を待つ。塾のある方面から電車が入ってきた音がして、階段が大勢の人を吐き出す。その中に、急ぐ千歳をすぐに見つけられた。人波に逆らえず、待つことしかできない。

「花村!」
「ちー!」

 駆け寄ってきた千歳に抱きついてしまいたい。それをぐっと堪える尊の腕を、一瞬も立ち止まらず千歳が引っ張る。

「ちー?」
「まだ時間ある?」
「俺は全然平気」
「じゃあこっち」

 改札を出て、腕を引いたまま千歳は歩き出す。どこかを目指す確かな足取りと、千歳には珍しく有無を言わせない雰囲気。白い息を細切れにしながら歩いていると、小さな公園が現れた。千歳は迷わずそこに入り、振り返ったかと思うと尊を強く抱きしめる。

「うお」
「花村、花村っ」

 必死な様子に、尊も胸をいっぱいにしながら抱きしめ返す。

「ちー」
「オレ、オレ……」
「うん」
「どうしても会いたくなって。急にごめん」
「全然ごめんじゃねえよ、すげー嬉しかった。俺も会いたかった」
「花村……好き、大好き」
「ん、俺も」

 電話の向こうで聞いた、切ない声で千歳はそう言う。リュックと背の間に手を入れてさすると、うう、と呻いて肩に擦り寄ってきた。

 久しぶりに触れることができて嬉しい。会いたいと言ってくれて嬉しい。こんなに必死に好きだと言ってくれて、死にそうなくらいに嬉しい。許容量を超えた幸福に鼻の奥がツンと痛む。

 コートを着こんでいても体温を感じたくて、千歳の髪を撫でながら頬を重ねると、あまりに冷たい。この体で温められたらいいのに。そのまま擦りつけると、千歳は更に強く腕に力を込めた後、少し離れて額をくっつける。

「キスしたい」
「ん、俺も」

 くちびるを合わせるだけでいられたのは、ほんの数秒だけだった。熱い舌にくちびるを割られ吸いつくと、両手で頭を鷲掴みにされる。地肌をくすぐるように指が這いまわる。

「あっ、ちー……」
「花村……」

 背中に甘い痺れが走る。立っていられなくなりそうで、千歳の腰にしがみつく。堪らなかった。もうずっと、ずっと我慢していたのだ。昼休みの教室でこっそり手に触れたりはしたけれど、キスは先月の昼休み以来だ。最後の深いキスは最早いつだったか。たくさん我慢した、千歳の邪魔をしたくなかったから。でも千歳のほうから必死に求めてくれている。頭がどうにかなりそうだ。

「ちー、ちょ、待って」
「やだ」
「あっ、ちー、耳……」

 ちょっと息継ぎをしたかっただけなのに。千歳は拗ねた顔をして、耳に口づけてきた。なんだこれ、やばい。耳の中に熱い舌が伸びてきて、思わず逃げようとすると「だめ」と言ってやんわり歯を立てられる。

 強引な千歳も、そんな風に触れられるのも初めてだ。

「ちー、やばいって……」
「うん、でもどうしよ、やめたくない」
「ん……っ」

 誰もいないとは言え、ここは外だ。どうしようもない。くっついていると辛いと分かっているのに、抱きしめ合うのをやめられない。冷めることも急速に滾ることもない、とろ火にかけられているようで頭がぼーっとする。

 千歳のこの様子だと、ここがもし家だったら、最後までしただろうか。そんなことを考えれば、椎名に言われた言葉がふと蘇る。

『それ、彼氏に言った?』

 言ってみようか。抱かれたい、と。たった五文字を浮かべるだけで息が上がるが、久々の体温に甘えたくなる。

「ちー、あのさ」
「ん? ……花村顔赤い、かわいい」

 かわいいわけあるか、かわいいのはお前だろ。そう言いたいのに。今日の千歳はやはり強引で、押しが強くて、ぞくぞくする。

「ちー、俺、俺」
「うん」
「俺な」
「うん」

 途端に恥ずかしくなって、千歳の首にぎゅっとしがみつく。人の気配なんて変わらずどこにもない、ふたりきりの真っ暗な公園だ。それでも秘めた気持ちを、内緒話のように千歳に渡したい。

「ちーに抱かれたい、って思ってる」
「……っ! は、花村……?」
「ちーはどっちがいい?」

 今はどうか顔を見ないでほしい。離れそうな体に、そうはさせまいと腕を強く巻きつける。呼吸が小刻みになってきた千歳が、首にくちびるを押し当ててくる。

「っ、オレ、花村はその、抱くほうがいいんだろうなって、思ってて」
「ちがう」
「だからオレ、その、覚悟しなきゃって思って、でもなかなかできなくて」
「いい、要らない。もう俺がしてる」

 そういう雰囲気になった時、いつも慌てるようにはぐらかしていた千歳を思い出す。そうか、そんな風に考えていたからだったのか。そりゃあそうだ、言わなければ分からない。千歳の本音を欲しがるくせに、自分だって伝えられていなかった。

「花村、いいの? 本当に?」
「ああ。ちーのこと好きになって、そしたら俺、ちーにされたくなった」
「オレ、本当は、花村のこと抱きたい、って思ってた」
「んっ、やば……」

 伝えられたことが、抱きたいと言ってもらえたことが、夢のように嬉しくて体中に満ち満ちる。椎名のおかげだと思うと不本意な気もするが、あの一言がなければ今日の機会にもきっと言えなかった。

 重なった想いに、またひとつ千歳に近づけた気がする。額を合わせて、笑い合ってキスをして。「でも今日はできないね」とふたりして鼻を啜った。

 確かめ合えた喜びは最高でも、昂った体はどうしたものか。離れてしまうのが手っ取り早いと分かってはいるが、そんなの今はいちばん酷だ。

 自動販売機であたたかいココアを二本買って、冷たいベンチでどうにか体を鎮めた。修行僧にでもなったような気分を覚えながら、帰る時間をなるべく伸ばしたくてちびちびと飲んだ。

「そろそろ帰らなきゃな」
「……うん」
「風邪ひくし」
「……うん」
「なあ、この公園知ってたのか?」
「ううん。ゆっくり話せるところ、電車で調べた」
「ああ、それで。でもファミレスとかもあったろ」
「それは……ファミレスじゃキスできないし」
「へえ。ちーのえっち」
「だって!」
「ありがと。俺もしたかった」
「……じゃあ花村もえっちだね」
「だな」
「はは」

 口では聞き分けのいいことを言って、やっぱり名残惜しくてじゃれ合って、手を繋いでくちびるをもう一度重ねる。絡めた指も、甘い舌もあたたかくて。ふたりして鼻を啜ってしまうから、泣き虫になったなと笑い合う。

 今日みたいな時間をしょっちゅう取れはしないだろう。むしろ、受験本番に向けて千歳はラストスパートをかける時期だ。支えになりたい、応援したい。千歳が一心に前を向くから。なかなか埋まらない寂しさに切なくなっても、千歳とだからできるこの恋だから。負けじと自分も頑張れると、改めて心を強くする。