得体の知れないものに、今の自分を全て託すような願い事などしなければよかった。無情な結果に途方に暮れる。せっかく進級できたのに、本当に退学への一途を辿ってしまうかもしれない。
「尊~、大丈夫……じゃねぇな?」
「先生たちってちゃんと見てねぇのな!? 尊は三上と一緒にしとかなきゃだめだろ」
「花村……」
「…………」
ケンスケとナベ、それから千歳は三年A組。尊はC組。ケンスケの言う通りだと心の中で激しく頷く。出席率の変化やクラスの様子をよく観察していれば、今の尊が千歳によって形成されていることは明白なはずだ。留年も退学もひとりだって出ないほうが、学校としてもいいだろうに。
友人たちになんと返せばいいか。うっかりすれば弱音が零れてしまいそうで、口を噤むことしかできない。
「尊お前、頼むからサボんなよ!? 絶対一緒に卒業すんぞ!」
「…………」
「尊~!」
半ば千歳に引きずられるようにして、放課後は三上家へと直行した。極端に口数の少ない尊を千歳は抱きしめ、肩の上で頭を撫でてくる。背中に添えられた手は、トントンとリズムを刻んでいる。子ども扱いみたいだと思いはするのに、ただただしがみついた。
「お昼は一緒に食べようね」
「……ん」
「休み時間も会いに行っていい?」
「……ん」
「花村……」
抱擁が解かれたかと思うと、今度は両頬を包まれる。潤んでいる瞳は、まるで代わりに泣いてくれているみたいだ。下まぶたに触れるとくちびるが重なった。慰めるようなキスをくり返して、頬をくっつけて千歳がささやく。
「ねえ花村、オレも寂しいよ」
「ちー……」
「一緒のクラスになりたかった」
朝からずっと、拗ねたような態度を取ってしまっている。こんな風に気遣わせて、恥ずかしい姿を見せてしまっている。分かっている。それでもそれを千歳が汲んで一生懸命心を砕いてくれることが、胸をいっぱいにする。嬉しい、なんて言ったら困らせるだろうか。
「クラス替え決めたヤツは腹立つけど、卒業はちゃんとする」
「うん」
「ちー」
「ん?」
「もっと。キス」
「うん」
ふ、と微笑んだままのくちびるが再び近づいてくる。付き合い始めてからこっち、もう何度もキスをしてきたが、甘やかされるようなのは初めてだ。今まで以上に体が熱くなり、千歳の背に腕を回して後ろに倒れこむ。驚いた千歳が慌ててシーツに手をついて、それを見上げてさらに乞う。
「ちー、もっと」
「っ、うん……」
千歳がきゅっと眉を寄せる。オレも堪らない、と言われているみたいだ。丸い息を吐きながら舌を伸ばすと、答えるように千歳もそうしてくれて、眩んだ目を閉じる。離れないでほしい。千歳の髪に指を忍ばせ、深く絡ませる。ふたり分の短くて荒い息で部屋は満ちて、腹の奥がぐるぐると熱を持つ。千歳もそうなのだと、言われなくたって分かる。
明日からひとりの時間がぐっと増えるのかと思うと、いつも以上に触れられたくなる。けれど、と考えるのはもちろん千歳の気持ちだ。甘い雰囲気になっても、いつもはぐらかされてきた。それが悲しくても、ちゃんと待ちたいと思っている。今もそうだ。
ああ、でも。堪えるように瞳を眇める千歳に、今日は賭けてみたくなる。
「ちー、触りたい」
「っ! 花村……」
「嫌か?」
「っ、嫌なわけ、ない!」
ぎり、とくちびるを噛む様に息を飲む。嫌なわけないのか、嬉しい、嬉しい。
キスをしながら以前みたいに触りあった。忙しなく上下する胸に千歳が崩れ落ちてきて、なんだか泣きそうな想いで抱きしめる。
「ちー、ありがと」
「うん、オレも」
起き上がろうとした千歳の手首を、引き止めるように握る。ここで終わりにしたくない。そう言ってしまおうか。躊躇っていると、傾げた首を戻した千歳が促すように微笑んだ。
「あのさ」
「うん」
「あー……いや、なんでもない」
「そう?」
もっと、という言葉が喉のすぐそこまで上がってきて、だがそれを飲みこんだ。久しぶりに触れ合えただけでも進展したのだ。先を急いで千歳に嫌がられたら、当分立ち直れそうにない。
それでもいつか、と願わずにはいられない。
千歳からの告白を待つ間に、男同士はどんな風に愛し合うのか調べた。二度目の告白を今か今かと待つ間に、以前なら考えもしなかった欲が芽生えた。欲しがられたい、触れられたい、ちーにしてほしい。もうずっとそんな妄想ばかりしている。
「ちー、こっち来て」
「うん。今日は甘えただね」
「嫌か?」
「嫌じゃないよ!」
「マジ?」
「うん。甘えてもらえて嬉しい。大好き」
「ちー……」
シングルのベッドにふたりでぎゅうぎゅうに寝転がって、胸元に抱き寄せられる。あたたかくて、千歳の優しさが心強さになる。大丈夫だ。恋人同士なのだから、その瞬間はいつか必ず訪れる。ふたりの気持ちがちゃんと重なる時が。その瞬間を迎えるのは、きっとそう遠くはないはずだ。そう信じて、千歳の胸にすり寄る。
三年生になって初めての土曜日。大学進学を希望している千歳は、最近塾に通い始めて今日は会えない。付き合いだしてからこっち、休日はほぼ一緒に過ごしていたから寂しさは否めないが、今日に限っては好都合でもあった。アクセサリーショップにひとりで行きたかったからだ。
今日も身につけている千歳の指輪。同じものが陳列されているコーナーを横目に、ピアスが並べられた前で足を止める。千歳の耳に開けたピアスホールがそろそろ安定する頃合いで、プレゼントを見繕いにきたのだ。指輪を交換した日、お互いにここのブランドが好きだと知れたのはラッキーだった。
ブランドとしての統一性はありながら、様々なデザインが施されたピアスをひとつひとつ吟味していく。千歳のミルクティー色の髪から覗くなら、派手なデザインよりシンプルなものが映えそうだ。千歳ならどれを贈っても喜んでくれる気もするが。
これだと思うものを選びたくてうんうんと唸っていると、ひとりの店員が近づいてきた。
「ゆっくり見てってね」
「……っす」
ショッピング中に声をかけられるのは苦手だ。できることなら放っておいてほしい。素っ気ない態度でその意志を示したつもりだが、その男性店員はめげない。
「君の雰囲気とちょっと違うの見てるね」
「俺のじゃないんで」
「プレゼント?」
「ですね」
「彼女?」
「彼女……まあ」
くだけた話し方が、無遠慮に距離を詰めてくるようで居心地が悪い。適当に相槌を打ちつつ、半ば背を向けていたのだが。話題がアクセサリーとなると、つい興味を引かれ話に乗ってしまう。
「あ、その指輪もうちのだよね」
「はい」
「うちの気に入ってくれてるんだ」
「っす。新作いつもチェックしてます」
「それは嬉しいな」
なんだかんだと会話をしながらも、ひとつのピアスに目が留まった。店員も「それ気に入った?」と聞いてくる。頷きかけて、けれど眉を顰める。値札を確認すると、予算を少しオーバーしていたからだ。千歳に贈るのだから惜しみなく、なんて格好をつけたくたって、無いものを出せるはずもない。
仕方ない、別のものにするか。気に入ったそれを手放せないままに他のピアスも改めて見ていると、ずっと傍にいた店員が「ねえ」とまた声をかけてきた。
「うちでバイトしない?」
「え?」
「ちょうど募集してんだよね。アクセサリー好きなら向いてると思うし」
「…………」
「それ、足りない分はバイト代で後払いでいいよ」
そこで初めて店員を目に入れた。指さされたほうには実際に求人の紙が貼られている。
二十代半ばくらいだろうか。男は不敵に笑っている。怪しんでも罰は当たらなさそうな好条件を示され、つい怪訝な顔を覗かせる。とは言え、すぐにプレゼントできるのは魅力だ。他所でアルバイトをしたってそうはいかない。気に入りのアクセサリーショップで働けるという点でも、惹かれずにいられなかった。
「お願いしてもいいんすか?」
「交渉成立な。それ包む」
「あざす」
話はとんとん拍子に進み、千歳へのプレゼントを無事に購入することができた。土日は忙しいから月曜にでもまた顔を出してと言われ、名前と連絡先のみ渡して店を後にした。
五月のあたたかい風が、屋上でくるくると円を描いている。
尊の高校生活は、仲のいい三人とこそ離れてしまったが、二年時に千歳とよくつるんでいた男子の山田と真野が同じクラスにいて、なにかと構われているのが現状だ。
告白をされてすぐこそ真野との間には気まずい空気があったが、今はそんなものどこへやらで。山田とふたりして、半ば無理やり友人の枠に引きこんでくる。千歳に好きだと言われて、自分も好きになったからこそ。受け取れない恋心でもきちんと向き合う、そう決めたけれど。過ぎ去った後にこんな今を齎すこともあるのだと知った教室は、思っていたより悪くない。
「じゃあ俺らお先~」
「尊、次もサボんなよ」
「サボんねぇよ」
ここ最近は決まって早めに教室へ戻ってしまう、ケンスケとナベに手を振る。
自分と千歳の関係を“仲がいい”と称すふたりは、恋人同士であることまで気づいているのだろうと思っている。気づいた上で、ふたりきりにしてくれているのかもしれない、と。
ケンスケとナベをよく知らない者たちは、不良だとかチャラいだとか、そういった言葉でふたりを表現するだろう。それでも友人たちは、男同士で付き合っている自分たちを茶化しもしなければ、距離を置くこともしない。気のいいふたりが好きだ。大人になっても切れない関係を腐れ縁だと笑い合って、酒を酌み交わす日をすでに楽しみにしてしまうくらいに。
齎される時間は有意義に。千歳の隣にもう一歩近づき、耳に光るピアスを指先であそぶ。先日贈ったそれを、千歳は涙を浮かべてまで喜んでくれた。こうしている今も、くすぐったそうに肩を竦める仕草が愛しい。小ぶりでシンプルだがひと味スパイスの効いたデザインが、千歳を上品に彩っている。
「今日もバイトある日?」
「ああ。ちーは塾だよな」
「うん」
「お疲れさん」
「花村もお疲れ様。バイト楽しい?」
「なんだかんだな。椎名さん……バイトに誘ってくれた人だけど、いい人だし」
「そっか」
後払いにしてもらった分のピアス代は、ゴールデンウィークを乗り切った後に無事に払い終えた。あの時声をかけてきた店員、椎名が個人的に立て替えてくれていたと知った時は驚いたものだ。その厚意に報いたい。それになにより、まだまだ教わることばかりと言えどアクセサリーに関われることが楽しくて、今もバイトを続けている。
「なかなか時間合わないね」
「だなあ。しょうがねえけど」
「そうだね」
春を迎えて、一緒に過ごせる時間は格段に減ってしまった。この状態は当分続くだろう。しょうがないと口では言っても、寂しさは体中に巻きついていて、先が思いやられる。いつか泣きついてしまいそうな、すっかり別人のような自分がこわい。だが日々勉強に励んでいる千歳の背中は、まっすぐに押したいとも思っている。
「ちー」
「ん? ……あ」
手を繋いで、千歳の頬にキスをする。はにかんだ千歳が、今度はくちびるに返してくれる。なんだか可笑しくなって、笑いながら「もっかい」とねだれば頷いてくれる。今はこの昼休みのキスだけが、心を交わす貴重なスキンシップだ。
「花村、そろそろ時間」
「あと十秒」
「……うん、十秒」
またゆっくり過ごせる日を希望に、この日々を頑張ろうとキスをする度に決意する。だけど今だけはもう少しと、予鈴が聞こえた後の「あと十秒」を毎日くり返している。
「尊~、大丈夫……じゃねぇな?」
「先生たちってちゃんと見てねぇのな!? 尊は三上と一緒にしとかなきゃだめだろ」
「花村……」
「…………」
ケンスケとナベ、それから千歳は三年A組。尊はC組。ケンスケの言う通りだと心の中で激しく頷く。出席率の変化やクラスの様子をよく観察していれば、今の尊が千歳によって形成されていることは明白なはずだ。留年も退学もひとりだって出ないほうが、学校としてもいいだろうに。
友人たちになんと返せばいいか。うっかりすれば弱音が零れてしまいそうで、口を噤むことしかできない。
「尊お前、頼むからサボんなよ!? 絶対一緒に卒業すんぞ!」
「…………」
「尊~!」
半ば千歳に引きずられるようにして、放課後は三上家へと直行した。極端に口数の少ない尊を千歳は抱きしめ、肩の上で頭を撫でてくる。背中に添えられた手は、トントンとリズムを刻んでいる。子ども扱いみたいだと思いはするのに、ただただしがみついた。
「お昼は一緒に食べようね」
「……ん」
「休み時間も会いに行っていい?」
「……ん」
「花村……」
抱擁が解かれたかと思うと、今度は両頬を包まれる。潤んでいる瞳は、まるで代わりに泣いてくれているみたいだ。下まぶたに触れるとくちびるが重なった。慰めるようなキスをくり返して、頬をくっつけて千歳がささやく。
「ねえ花村、オレも寂しいよ」
「ちー……」
「一緒のクラスになりたかった」
朝からずっと、拗ねたような態度を取ってしまっている。こんな風に気遣わせて、恥ずかしい姿を見せてしまっている。分かっている。それでもそれを千歳が汲んで一生懸命心を砕いてくれることが、胸をいっぱいにする。嬉しい、なんて言ったら困らせるだろうか。
「クラス替え決めたヤツは腹立つけど、卒業はちゃんとする」
「うん」
「ちー」
「ん?」
「もっと。キス」
「うん」
ふ、と微笑んだままのくちびるが再び近づいてくる。付き合い始めてからこっち、もう何度もキスをしてきたが、甘やかされるようなのは初めてだ。今まで以上に体が熱くなり、千歳の背に腕を回して後ろに倒れこむ。驚いた千歳が慌ててシーツに手をついて、それを見上げてさらに乞う。
「ちー、もっと」
「っ、うん……」
千歳がきゅっと眉を寄せる。オレも堪らない、と言われているみたいだ。丸い息を吐きながら舌を伸ばすと、答えるように千歳もそうしてくれて、眩んだ目を閉じる。離れないでほしい。千歳の髪に指を忍ばせ、深く絡ませる。ふたり分の短くて荒い息で部屋は満ちて、腹の奥がぐるぐると熱を持つ。千歳もそうなのだと、言われなくたって分かる。
明日からひとりの時間がぐっと増えるのかと思うと、いつも以上に触れられたくなる。けれど、と考えるのはもちろん千歳の気持ちだ。甘い雰囲気になっても、いつもはぐらかされてきた。それが悲しくても、ちゃんと待ちたいと思っている。今もそうだ。
ああ、でも。堪えるように瞳を眇める千歳に、今日は賭けてみたくなる。
「ちー、触りたい」
「っ! 花村……」
「嫌か?」
「っ、嫌なわけ、ない!」
ぎり、とくちびるを噛む様に息を飲む。嫌なわけないのか、嬉しい、嬉しい。
キスをしながら以前みたいに触りあった。忙しなく上下する胸に千歳が崩れ落ちてきて、なんだか泣きそうな想いで抱きしめる。
「ちー、ありがと」
「うん、オレも」
起き上がろうとした千歳の手首を、引き止めるように握る。ここで終わりにしたくない。そう言ってしまおうか。躊躇っていると、傾げた首を戻した千歳が促すように微笑んだ。
「あのさ」
「うん」
「あー……いや、なんでもない」
「そう?」
もっと、という言葉が喉のすぐそこまで上がってきて、だがそれを飲みこんだ。久しぶりに触れ合えただけでも進展したのだ。先を急いで千歳に嫌がられたら、当分立ち直れそうにない。
それでもいつか、と願わずにはいられない。
千歳からの告白を待つ間に、男同士はどんな風に愛し合うのか調べた。二度目の告白を今か今かと待つ間に、以前なら考えもしなかった欲が芽生えた。欲しがられたい、触れられたい、ちーにしてほしい。もうずっとそんな妄想ばかりしている。
「ちー、こっち来て」
「うん。今日は甘えただね」
「嫌か?」
「嫌じゃないよ!」
「マジ?」
「うん。甘えてもらえて嬉しい。大好き」
「ちー……」
シングルのベッドにふたりでぎゅうぎゅうに寝転がって、胸元に抱き寄せられる。あたたかくて、千歳の優しさが心強さになる。大丈夫だ。恋人同士なのだから、その瞬間はいつか必ず訪れる。ふたりの気持ちがちゃんと重なる時が。その瞬間を迎えるのは、きっとそう遠くはないはずだ。そう信じて、千歳の胸にすり寄る。
三年生になって初めての土曜日。大学進学を希望している千歳は、最近塾に通い始めて今日は会えない。付き合いだしてからこっち、休日はほぼ一緒に過ごしていたから寂しさは否めないが、今日に限っては好都合でもあった。アクセサリーショップにひとりで行きたかったからだ。
今日も身につけている千歳の指輪。同じものが陳列されているコーナーを横目に、ピアスが並べられた前で足を止める。千歳の耳に開けたピアスホールがそろそろ安定する頃合いで、プレゼントを見繕いにきたのだ。指輪を交換した日、お互いにここのブランドが好きだと知れたのはラッキーだった。
ブランドとしての統一性はありながら、様々なデザインが施されたピアスをひとつひとつ吟味していく。千歳のミルクティー色の髪から覗くなら、派手なデザインよりシンプルなものが映えそうだ。千歳ならどれを贈っても喜んでくれる気もするが。
これだと思うものを選びたくてうんうんと唸っていると、ひとりの店員が近づいてきた。
「ゆっくり見てってね」
「……っす」
ショッピング中に声をかけられるのは苦手だ。できることなら放っておいてほしい。素っ気ない態度でその意志を示したつもりだが、その男性店員はめげない。
「君の雰囲気とちょっと違うの見てるね」
「俺のじゃないんで」
「プレゼント?」
「ですね」
「彼女?」
「彼女……まあ」
くだけた話し方が、無遠慮に距離を詰めてくるようで居心地が悪い。適当に相槌を打ちつつ、半ば背を向けていたのだが。話題がアクセサリーとなると、つい興味を引かれ話に乗ってしまう。
「あ、その指輪もうちのだよね」
「はい」
「うちの気に入ってくれてるんだ」
「っす。新作いつもチェックしてます」
「それは嬉しいな」
なんだかんだと会話をしながらも、ひとつのピアスに目が留まった。店員も「それ気に入った?」と聞いてくる。頷きかけて、けれど眉を顰める。値札を確認すると、予算を少しオーバーしていたからだ。千歳に贈るのだから惜しみなく、なんて格好をつけたくたって、無いものを出せるはずもない。
仕方ない、別のものにするか。気に入ったそれを手放せないままに他のピアスも改めて見ていると、ずっと傍にいた店員が「ねえ」とまた声をかけてきた。
「うちでバイトしない?」
「え?」
「ちょうど募集してんだよね。アクセサリー好きなら向いてると思うし」
「…………」
「それ、足りない分はバイト代で後払いでいいよ」
そこで初めて店員を目に入れた。指さされたほうには実際に求人の紙が貼られている。
二十代半ばくらいだろうか。男は不敵に笑っている。怪しんでも罰は当たらなさそうな好条件を示され、つい怪訝な顔を覗かせる。とは言え、すぐにプレゼントできるのは魅力だ。他所でアルバイトをしたってそうはいかない。気に入りのアクセサリーショップで働けるという点でも、惹かれずにいられなかった。
「お願いしてもいいんすか?」
「交渉成立な。それ包む」
「あざす」
話はとんとん拍子に進み、千歳へのプレゼントを無事に購入することができた。土日は忙しいから月曜にでもまた顔を出してと言われ、名前と連絡先のみ渡して店を後にした。
五月のあたたかい風が、屋上でくるくると円を描いている。
尊の高校生活は、仲のいい三人とこそ離れてしまったが、二年時に千歳とよくつるんでいた男子の山田と真野が同じクラスにいて、なにかと構われているのが現状だ。
告白をされてすぐこそ真野との間には気まずい空気があったが、今はそんなものどこへやらで。山田とふたりして、半ば無理やり友人の枠に引きこんでくる。千歳に好きだと言われて、自分も好きになったからこそ。受け取れない恋心でもきちんと向き合う、そう決めたけれど。過ぎ去った後にこんな今を齎すこともあるのだと知った教室は、思っていたより悪くない。
「じゃあ俺らお先~」
「尊、次もサボんなよ」
「サボんねぇよ」
ここ最近は決まって早めに教室へ戻ってしまう、ケンスケとナベに手を振る。
自分と千歳の関係を“仲がいい”と称すふたりは、恋人同士であることまで気づいているのだろうと思っている。気づいた上で、ふたりきりにしてくれているのかもしれない、と。
ケンスケとナベをよく知らない者たちは、不良だとかチャラいだとか、そういった言葉でふたりを表現するだろう。それでも友人たちは、男同士で付き合っている自分たちを茶化しもしなければ、距離を置くこともしない。気のいいふたりが好きだ。大人になっても切れない関係を腐れ縁だと笑い合って、酒を酌み交わす日をすでに楽しみにしてしまうくらいに。
齎される時間は有意義に。千歳の隣にもう一歩近づき、耳に光るピアスを指先であそぶ。先日贈ったそれを、千歳は涙を浮かべてまで喜んでくれた。こうしている今も、くすぐったそうに肩を竦める仕草が愛しい。小ぶりでシンプルだがひと味スパイスの効いたデザインが、千歳を上品に彩っている。
「今日もバイトある日?」
「ああ。ちーは塾だよな」
「うん」
「お疲れさん」
「花村もお疲れ様。バイト楽しい?」
「なんだかんだな。椎名さん……バイトに誘ってくれた人だけど、いい人だし」
「そっか」
後払いにしてもらった分のピアス代は、ゴールデンウィークを乗り切った後に無事に払い終えた。あの時声をかけてきた店員、椎名が個人的に立て替えてくれていたと知った時は驚いたものだ。その厚意に報いたい。それになにより、まだまだ教わることばかりと言えどアクセサリーに関われることが楽しくて、今もバイトを続けている。
「なかなか時間合わないね」
「だなあ。しょうがねえけど」
「そうだね」
春を迎えて、一緒に過ごせる時間は格段に減ってしまった。この状態は当分続くだろう。しょうがないと口では言っても、寂しさは体中に巻きついていて、先が思いやられる。いつか泣きついてしまいそうな、すっかり別人のような自分がこわい。だが日々勉強に励んでいる千歳の背中は、まっすぐに押したいとも思っている。
「ちー」
「ん? ……あ」
手を繋いで、千歳の頬にキスをする。はにかんだ千歳が、今度はくちびるに返してくれる。なんだか可笑しくなって、笑いながら「もっかい」とねだれば頷いてくれる。今はこの昼休みのキスだけが、心を交わす貴重なスキンシップだ。
「花村、そろそろ時間」
「あと十秒」
「……うん、十秒」
またゆっくり過ごせる日を希望に、この日々を頑張ろうとキスをする度に決意する。だけど今だけはもう少しと、予鈴が聞こえた後の「あと十秒」を毎日くり返している。