久しぶりに行われた席替えで、再び窓側のいちばん後ろの席となった。ケンスケとナベには羨ましがられた。強運だなと確かに思う。位置よりも、ひとつ前の席に千歳がやってきたからだ。

 だが、ミルクティー色の後頭部を眺めるばかりで、視線が交わることはほとんどない。球技大会の帰りに別れた後から、まともな会話はできなくなっている。

 話しかけても当たり障りのない返事で顔を逸らされ、取り付く島もない状態だ。優しくて繊細な千歳のことだ、あの日のことを重く受け止めているのだろう。苛立ったのは確かだが、こんなことになるとは思っていなかった。

 十一月も下旬となればさすがに寒くて、昼休みも教室で過ごすようになった。ケンスケとナベがこちらの席にやってくるから、四人で固まるのは相変わらず。加えて、千歳がいるからと真野たちも近くに寄ってきて今や大所帯だ。ケンスケとナベにはなにがあったんだとさすがに心配されているが、賑やかな声たちに尊と千歳の気まずい空気は上手く紛れている。

「尊~、廊下がうるさい」
「俺に言うな」
「だって全部尊目当てじゃん」
「知らねえよ」

 尊を取り巻く環境の変化は、千歳との関係だけではない。球技大会以降、女子たちがあからさまに好意の目を向けてくるようになった。
 クラスメイトと協力し、バスケットボールで二年C組を学年優勝に導いた。千歳との連係プレーでシンメだなんだと騒がれ、点数が入れば仲間とハイタッチ。それらの影響で、以前のような近寄りがたい印象が薄まってきたらしい、とはナベ談だ。
 それを聞いた時は、馬鹿だろとつい吐き捨てた。人のなにを知っているんだか。それよりも、千歳がいっそうモテ始めていることこそが面白くなかった。告白されたら一体どうやって断っているのだろう、その度に心を痛めているのだろうか。千歳が好きなのは俺だぞとじりじり胸が焼けるが、未だ友達関係のままなのだから、手を出すなと言う権利は持っていない。

「ねえねえ、花村くんのおかずっていつも三上が持ってきてるの?」
「……あ? うん」
「私も作ってこよっかなあ」
「いや要らねえ」

 千歳の“押し”はこんな状況でも続いていて、尊の昼食は今も菓子パンふたつに炭酸水、水色のキャンディと、小ぶりのコンテナに入った千歳お手製のおかずだ。今日はアスパラのベーコン巻きとプチトマトがふたつ。今やこれだけが自分たちを繋いでいて、じっくり味わいたいのに真野が鬱陶しい。だが千歳の友人だと思うと邪険にはできない。適当に相槌を打ち、ごちそうさまと手を合わせる。

「ちー、ありがとう。今日も美味かった」
「うん、よかった」

 笑顔に滲む寂しそうな色が痛々しい。どうにかしてあげたくてもそれは自分のせいだし、かと言ってずっと友達のままでいいともやはり思えない。謝ることはないつもりだ、謝ってもらうことだってない。じゃあどうしたら千歳が笑ってくれるのか。ずっと分からないままだ。


 千歳とギクシャクしたまま、十二月を迎えた。冷たい風に身を縮めて、白い息にうんざりしながら登校した朝のことだ。

「花村、ちょっといい?」
「……おう」

 おはよう、以外の言葉を朝から交わすのはいつぶりだろう。瞬時に高揚する自分に、内心苦笑する。本当に好きだな。そう噛みしめたのに。千歳が声を掛けてきた理由は、なんとも残酷なものだった。

「これ、花村に預かってる」
「なに?」
「真野さんから」
「…………」

 自分の席に腰を下ろしている千歳が、こちらを振り返って机になにかを置いた。ゆっくりと離れていった手の下には、折りたたまれたメモが一枚。開いたそこに書いてあった内容に、尊は絶句する。

“花村くんへ
今日の放課後、教室で待っていてください。真野”

 十中八九、告白をされるのだろう。言葉を失って数秒後、今度は乾いた笑いが腹の底から湧いてきた。千歳が、自分を好きだという男がこれを渡してくるのか。虚しさは簡単に怒りへと変貌し、体が熱くなる。

「……マジかよ。はっ、ちーにこんなもん渡されるとか」
「…………」
「行ってもいいんだ?」
「……いやだよ」
「でも言えねえもんな」
「っ、それは……」

 酷いことを言っている自覚があるのに、止められなかった。だが体の内側では怒りが暴れ狂っている。それをどうにか抑えているのだから、褒められてもいいくらいだ。でもそんなことが千歳に分かるはずもない。自分にだって、千歳がどういうつもりでこんなものを渡してくるのか分からないように。

 涙をいっぱいに溜めて、切れてしまいそうなほどにくちびるを噛みしめて、苦しそうにする千歳の姿が腹立たしい。耐え難いのはこちらだってそうなのに。好きな相手に、他の者との恋路を応援するようなことをされて。そのくせに嫌だと言って。俺をどうしたいのだ、と叫びたい。

 怒りに任せ立ち上がると、激しい音を立てて椅子が倒れた。千歳の肩がびくりと震えるのが見えて、もっと腹が立つ。机の上に広げられたままのメモをぐしゃりと握りこむ。

「くそっ!」

 このままここにいては、千歳を傷つけるばかりだ。静まり返った教室の重苦しい空気にも嫌気がさし、足早に外へ出る。

「おい尊! どうしたんだよ!」
「俺、もう無理だわ」

 ナベが腕を掴んで引き止めようとしてきたが、かろうじて一言だけ返して振りほどいた。
 この日、一度も授業に出ることはなかった。それはもういつぶりかも分からないくらい、久しぶりのことだった。
 

「急に呼び出してごめんね」
「あー、うん」
「今日ずっといなかったし、来てくれないかと思った」
「…………」

 放課後、メモに書かれていた通りに誰もいない教室で真野を待った。

 今日は一日中、屋上前の踊り場で過ごした。ケンスケとナベから何度もメッセージが送られてきたが、全て無視するかたちになってしまった。頭の中は、千歳のことばかりだった。

 ノーと言うのが苦手な千歳は、真野の頼みを断れなかったのだろう。仲介を乞われ笑顔を見せただろうか。上手くいくといいね、と応援したのだろうか。そう想像すると怒りは頂点に達して、近くの壁を殴りつけた。

 だが、体が冷えるのと共に少しずつ冷静になった。真野と話した時、千歳の笑顔にはどんな痛みが伴っただろう。苛立ちをぶつけてしまったことに後悔が募った。

「えっと、私、花村くんのこと好きになっちゃって」

 華のある声が好きだと言う。以前の自分なら、あんなメモを貰ったところで確実にすっぽかしていた。でもこうやって出向いたのは、千歳と出逢い自分も恋を知ったからだ。好意の目たちが鬱陶しくても、その想いに応えられなくても。真摯に伝えられるのなら、きちんと向き合うべきだと考えるようになった。千歳が苦しんでそれでも渡してきたものなら、尚更。

「よかったら私と、付き合ってくれませんか」
「ありがとな。でもごめん、付き合えない」
「もしかして、好きな人いたりする?」
「うん」
「そっか! いいなあその子。幸せ者だね」
「どうだか。泣かしてばっかな気がする」

 それじゃあ、と切り上げ、教室を飛び出る。

 屋上前の踊り場でひとり向き合ったのは、後悔だけではなかった。もう限界だと思った。このままただ、千歳から踏み出してくれるのを待つだけではいられない。そんなことはもう無理なのだ。

 駆けるように階段を下り、昇降口へ到着する。一秒のロスも許せないと靴を床に放って、だがふと振り返る。もしかして、と浮かんだものはどうやら現実のようだった。

 踵を返し、ある場所へと一目散に向かう。予想通り、そこに千歳の姿はあった。C棟へと通じる渡り廊下の手前、階段の下。“chi.”が三上千歳だと気づくことになった、あの場所だ。

「ちー!」
「花村!? え、なんで」
「ちーの家行こうと思ったら、お前の靴まだあったから」
「…………」
「お前ほんとここ好きな」
「え? なんでそれ……」
「なあ、ちょっと詰めて」
「な、なに」
「いいから」

 千歳が酷く動揺しているのは見て取れるが、押し切って体を捻じこんだ。言いたいこと、言わなければならないことがたくさんある。だがそれを阻むかのように呼吸は乱れていて、膝の間に顔を埋める。

「ちー」
「ん?」
「ちー」
「うん」
「手、繋いでいい?」
「っ、うん……すごく冷たいね。ごめんね」
「ふ、なんでだよ。それは俺の台詞。ちー、ごめん。朝は悪かった」
「ううん。オレが悪い、オレが、本当に」
「ちー……」

 言いたいこと、言わなければならないことがたくさんあるのに。また瞳が潤んできた千歳に引きずられるように、尊の鼻もツンと痛み始める。千歳の肩に鼻先を埋めると、久しぶりの千歳の体温にもっと泣きたくなった。

「なんでこんなとこにいんの?」
「それは……花村が」
「俺が?」
「真野さんのとこに行くのかな、って。真野さんが花村のこと好きなのはずっと分かってたから、いつかこうなるとは思ってたけど……どうしても気になっちゃって」
「え、そうなん? てか、もしかしてさっきの聞いてた?」
「うん。ごめん」
「別にいいけど。いや待った、どこまで聞いてた?」
「花村に、好きな人がいるってところ」

 千歳はそう言って、いよいよぐすんと鼻を啜った。どうやら千歳はこの期に及んで、その“花村の好きな人”が自分だとは考えもしないらしい。つい出てしまいそうになったため息を飲みこんで、胸ポケットに指先をつっこむ。これが好きになった男なのだ。特別なのだととことん感じてもらうしかない。

「ちー、口開けて」
「え? なん……」
「早く」
「っ、あ……んん。飴?」
「そ。やる。特別な」
「あ、ありがとう」
「特別。分かる?」
「うん。これ花村のお気に入りだもんね」
「そう。ちーにしかあげたことない。本当に分かってるか?」
「う、うん……?」

 千歳の口の中からカラコロと飴玉の転がる音が聞こえる。キャンディひとつで特別だと知らせるのはさすがに難しかったか。膨らんだ頬を撫でると、千歳はまた泣き出しそうになった。まぶたの下に触れれば、ひと粒の涙が転がり落ちてくる。

「これはなんの涙?」
「この飴、またここで食べてる涙」
「また?」
「入学式の時も、ここでもらったから」
「あー。あれもここなんだ」
「うん」

 風邪をひいた千歳を自宅まで送った時、その思い出を自分も覚えていたかったと悔いた。
 入学式の日、ゲームの分岐点。ふたりのきっかけがこの場にある。今日という日も、それに刻みたい。

「ちー、聞いて」
「…………? うん」
「ちーが真野のこと断れなかったのはさ、そりゃそうだよなって思った。だから本当に、朝はごめん。悪かった」
「ううん、オレが……」
「ちー、聞いてて」
「っ、うん……」

 千歳の口元に人差し指を当て、どうしても自分を悪者にしようとするのを遮る。頷いてくれたのを見届けて、続ける。

「ちーがさ、自分の気持ちを言わないところ。見ててこっちが悔しい時もある。でも、それがちーなんだよな」
「…………」
「ちーがそうしたいんならいいと思う。でも苦しい時は、なるべく気づいてやりたいとも思ってる」
「花、村……」
「でもなちー、俺も一個、気づいてほしいもんがある」

 涙をいっぱいに携えたまま、千歳は首を傾げる。特別だってたくさん教えたい、これから先もたくさんあげたい。それでも譲れないものがひとつある。どうしても千歳から言われたい。待つ間に焦がれに焦がれて、そんな風に愛されたくなってしまった。

「次はいつ告ってくれんの? 俺、もう待てねえわ」
「…………」

 好きだと今すぐに叫びたい。それ以上に、欲しいと千歳に言われたい。本音を言えない千歳にそんな己を飛び越えてでも、欲しがられたいのだ。
 困惑している千歳に構わず、ぐっと顔を近づける。

「っ、花村、近い……」
「ちー。俺のこと、今も好き?」
「っ、好き! 好きに決まってる」
「ん……絶対に俺と付き合いたいんだっけ?」
「っ、そうっ」
「じゃあそれ言って」
「……でも、だって、フラれたくねえもん! 仲良くなれて、そしたら嫌われるのが怖くなって! オレ、結局全然押せてないし、オレが、オレがもっと、好きになるばっかで……!」
「でも頼む、ちー。俺、お前に言われてえの。ちーの気持ち、俺にちょうだい」
「オレの、気持ち?」
「うん。他のヤツには隠しててもいい、でも俺はお前の本当が欲しい」
「あ、花村……」

 繋いでいた手を一度解いて、指を絡める。顔をさらに近づけて、定まらなくなった視界はもうキスの距離だ。けれど、触れるギリギリで動きを止める。
「っ! 花村っ!」
「どうすんのか、ちーが決めろ」

 すると千歳は、ぎゅっと眉間を寄せて瞳を強く光らせた。ああ、これだ。たまに見せてくれたこのまっすぐな千歳の想いを、もっとたくさん注がれたい。

「……っ、花村、好き、好きすぎてもうしんどい」
「うん」
「オレのことも、好きになって欲しい」
「うん」
「っ、花村の彼氏になりたい、誰にもとられたくねえよお」
「うん。俺もちーが好き」

 このチャンスを逃すまいと、すかさずそう告げた。目をまん丸に見開いた千歳は、口をぱくぱくと瞬かせながらぺたんとその場に座りこむ。

「え……」
「どうした」
「待って」
「待たない。もう俺はちーのもんな」
「っ、うそだ」
「ふ、なんでだよ」
「いや、だって……」
「俺、すげー分かりやすかったと思うんだけど。なんとも想ってないヤツと指輪交換とかしないだろ」

 夢を見ているかのようなぼんやりとした瞳で、千歳が一心に見つめてくる。濡れた頬は、先ほどより熱い。

「ほんとに? 花村が、オレのこと」
「うん、好き」
「っ、オレ、こんなんだよ?」
「ちーが言う“こんな”がなにか知らないけど。俺は皆を大事にしてて、だから自分の気持ちあんま言えなくて、でもたまに俺相手だと怒ったり泣いたり好きって言ったりしてくれるちーが好き」
「ひえ、夢かも」
「ふは、だからなんでだよ」

 もう観念して、ちゃんと現実を受け止めろ。お前を好きな俺を受け入れろ。
 告白を引きずり出せたからには、強気になれる。もう好きだと言えるし、どんなに躊躇われてもこっちを向けと引っ掴む権利がある。恋をするとこんなに弱くなるのかと思うけれど、いくらでも強くなれる気もするから不思議だ。

「ちー」
「はい」
「ふ、敬語ウケる。なあちー、ちーがキスしてよ」
「え……え!?」
「ちーにされたい、って、ずっと思ってた」
「――……っ」

 そんなことできないと言いたげな顔は、だがすぐに真剣なものになった。千歳の手が頬へと伸びてきて、ぞくりと背が震える。早く、はやく。

 スローに近づく千歳の気配に呼吸が乱れ、眩みそうで目を瞑る。そして待ちに待ったくちびるは、頬へとやってきた。なんだよ頬かよ、と思うのに、体中の血液が歓喜に駆け巡る。自分から仕掛けてきたキスとは全然違う。うっかり泣きそうになって、千歳の制服の裾をぎゅっと握りこむ。それから震える指で、自分のくちびるをトントンと示す。

「ちー、こっちも」
「っ……」

 大胆なことをしているな、と俯瞰する自分が苦笑いしている。気恥ずかしさに目を逸らすと、千歳がごくりと喉を鳴らした。伝ってくるのは、隠しきれない男の欲だ。それが堪らなくて、再び目を閉じた時。賑やかな笑い声がどこからか届いて、ふたりで肩を跳ね上げた。

「学校なの一瞬忘れてた……」
「俺も。なあ、ちー」
「ん?」
「ちーの家、行っていい?」
「花村……」

 たくさん待った、たくさん我慢した。だからもうこれ以上、耐えられそうになかった。千歳の肩に額を擦りつけ乞う。すると千歳はすっくと立ちあがり、尊の手を取った。

「ちー?」
「行こう。オレんち」
「かっけーじゃん」

 歩き方を忘れたみたいに、一歩一歩がふわふわと浮つく。それでもどうにかふたりで昇降口を目指す。誰かに見られては、と思うのに、繋いだ手はなかなか離せなかった。