金曜日、球技大会当日。体育館で並ぶ二年C組の列には、すっかり元気になった千歳の姿がある。開会式が終わると、千歳はサッカーを選択したクラスメイトの元へと駆けていく。

「後で応援に行くな」
「サンキュ! 絶対勝つから任せろ」
「期待してる」
「あ、三上ー。無理すんなよ」
「うん、ありがとう。そうする」

 尊が自宅まで送り届けた翌日も、千歳は学校を休んだ。朝電話をかけてみれば、案の定登校しようとしていたので、当日出られなくなるよりいいだろと止めたのだ。夕方には見舞いにプリンを買っていって、そして登校した水曜日。クラスメイトたちにも無理はしないでと言われ、やっとこうして心配の言葉を素直に受け取れるようになったようだ。

「ちー」
「あ、花村」
「バスケ頑張りますか」
「うん。優勝したいな」
「俺も本気出すわ」
「頼りにしてます」

 肩をぶつけてみると、千歳からも同じように返ってくる。ふたりして零れる笑みと共に、仲まで深まった心地がする。

「花村くーん、三上ー、試合始まるよー」
「呼ばれてんな」
「……ん、そうだね」
「ちー? どうかしたか?」
「ううん! 行こっか!」
「おう」

 第一試合目が始まるようで、真野が遠くから呼んでいる。そちらに向かって軽く手を上げ、ふと隣を見た時。たった今笑っていたのに、千歳はどこか影のある顔をしていた。だがすぐに笑顔に戻り、尊の背をポンと叩いて走り出してしまう。

 最近よく見るあの顔を、どうにか晴らしてやりたいのに。未だに術は見つからない。自分を歯がゆく思いながら、整列を始めたクラスメイトの元へと向かう。

 
「マジで惜しかったな」
「ね。でも学年では優勝だし」
「まあなー」

 球技大会を終えた放課後。ふたり並んで歩きながら、悔しさを共有している最中だ。後片付けに千歳が参加してからの下校で、周りには同じ高校の生徒たちはほぼいない。

 二年C組のバスケチームは学年で優勝。その後行われたそれぞれの学年の優勝クラス同士のスペシャルマッチでは、三年生に負け準優勝となった。クラス全体で喜んで、惜しかったねと慰め合って。いい一日だったと思う。心に満ちる達成感は、久しく感じていなかったものだ。

「オレさ、実はリーダーやりたくなかったんだよね」

 帰りつくのがなんだか勿体なくて、歩くスピードを少し落とした時だった。千歳が意を決したようにそう言った。どうしようもないよな、と苦しそうに笑っているが、ちっともそんな風には思わない。

「知ってた」
「……え?」
「リーダー決めの時、乗り気じゃない顔してたもんな」
「えー、うそ。いや、マジ? なんでそんな……」
「あは、すげー驚くじゃん」

 千歳が立ち止まったので、一歩前で同じように足を止める。驚くのも無理はないのかもしれない、あの日の千歳はその本音を上手に隠せたつもりだっただろうから。

「リーダー決めた日って、ちーとのゲームが始まったばっかの頃でさ。名前に“ち”が付くヤツを観察してて。まあ、ちーのことは真っ先に絶対違うって外してたんだけど。あのホームルームの時、推薦されたちーを見たら嫌そうだなって。なのに笑ってるし、周りのヤツらは全然気づかないで盛り上がってるし。なんだあれ、って思ってた」
「うわー、情けないところ見られてたんだな、恥ず……」

 たった二ヶ月ほど前の話だ。懐かしさは愛しさになって緩む顔を抑えられない。だが、千歳にとってはそうではないようだ。苦々しく自分を恥じて、俯いてしまった。
 そんな顔をさせたかったわけじゃない。千歳の目の前へ一歩踏み出す。

「俺は別に、情けなくねーと思うけど」
「そう、かな……」
「嫌なら言えばいいのにって確かに思ったけどな。それでも責任持ってリーダーやって、みんな盛り上がってたじゃん。全体を見れるちーだからできたんだろ。すげーと思う、俺には無理。ちーがリーダーじゃなかったら俺絶対サボってるわ。やったら楽しかったし、ちーのおかげ。ありがとな」
「っ、花村~、泣かそうとしてんだろ」
「あは、バレた?」

 つむじを覗かせる頭を両手で包みかき混ぜると、困ったように顔を上げ千歳は笑った。ぐすんと鳴った鼻とその言葉通り、潤んだ瞳がこちらを見ている。笑い返せばふにゃりと緩んで、ああ好きだな、と思う。だからもっと、差し出したくなった。

「今思えばさ」
「……ん?」
「あの時から俺、優越感があったんだと思う。ちーのほんとの気持ち、俺だけが気づいてんだなって」
「優越感……それって嬉しいってこと?」
「うん」
「…………」
「ふは、なに口むにゅむにゅしてんの」
「だ、って、そんなん言われたら、また花村のこと好きになっちゃうじゃん」
「ちー……」

 久しぶりに千歳の口から好きだと聞けた。たった二文字が体中に沁み渡って、千歳への想いで支配される。もう言ってしまおうか。俺も好きだと。早く、もっとちゃんと、千歳の特別なのだと実感したいから――そう思ったのに。尊が口を開くより、千歳のほうが早かった。両手が伸びてきて、口を塞がれてしまう。

「っ、今の待って、なし! なしって言うか、ほんとのことだけど、その、返事しないでほしい」
「ちー、でも俺……」
「駄目、ほんとに。やめて」
「…………」

 押しまくると千歳は言った。絶対に諦めたくないとも。なのになぜ、なぜこれほどまでに頑ななのか。いつもそばにいるのに、もしかしたら、と少しの期待もしてくれないのか。千歳のそんなところまで大事にしたいと本気で思っていても、腹が立つ。こんなに好きなのに、伝えることすら許されない。

 未だ口を塞いでくる両手を掴み、引き剥がす。解放された口から出てくるのは大きなため息だ。千歳が怯えて肩を震わせる。違う、そんな顔をさせたいんじゃない。違うのに。

 これ以上なにを言っても、なにも言わなくても。今は上手くいかない気がする。ガシガシと頭を掻き、目を眇めて千歳を見つめる。

「ちー」
「なに……、っ、え」

 こちらを見たのを確認してから、その頬にくちびるを押し当てる。キスなんて甘い言葉では到底呼べない、当てつけのようなものだ。本当はもう、恋人になるまでしないつもりだった。でもそんな日は果たして来るのだろうか。こんなに頭の中は千歳だらけで、かき乱されていても、一歩も動けないのに。

「じゃあな、ちー」
「へ……」
「バイバイ」
「……花村?」

 狼狽える千歳の声を背に、その場を立ち去る。いつも別れる場所はもっと先だから、悲しませてしまうかもしれない。それでも、今日はもうこれ以上一緒にいる気にはなれなかった。きっと傷つけてしまうから。腹が立っても、当てつけをしても、そんなことを望んでいるわけじゃなかった。