ふたりで休日に出掛けた日のことを、もう何度反芻したか分からない。会ってすぐに触れた手、一緒に観た映画。同級生からの逃亡の先で指を絡め、恋人のようなキスをして、指輪を交換した。
鼓動に遅れて気づいた恋は、胸を甘く満たしている。だが千歳がまた告白してくれるまで、ちゃんと待つつもりだ。本音を言えば今すぐ恋人になって触れ合いたい。少し前の自分が今の状況を知ったら嫌悪しそうなほど、すっかり生まれ変わったように恋をしている。
それでも待つのだ。まだ返事は聞きたくない、次の告白もまだ。その選択をする千歳が歯痒くもあるが、頑なにそうする理由があるのだろう。待ってやりたい、千歳の気が済むまで。そう思うくらいには絆されているし、なにより千歳から求められたかった。
どんなにもどかしくても、遅かれ早かれ恋人になれるのなら。きっとそんなに難しいことではないだろうから。
十一月、週末に球技大会を控えた月曜日。一時間目を終えたばかりの休み時間、二年C組の生徒たちはそわそわと浮足立っている。次の授業は体育で、球技大会の練習をすることになっているからだ。最初こそ誰も乗り気ではなかったが、リーダーに千歳を据えたことで全体の士気が上がり、なんだかんだと目標は優勝に定められている。
種目はバスケットボール、サッカー、バレーボール。尊にケンスケとナベ、千歳たちのグループはバスケットボールを選択している。クラスメイトたちと同じテンションとまではいかずとも、結果を残そうと練習に励んでいる。
だが、今日のところは遅刻確定だなと千歳を見て思う。リュックからジャージを取り出しているが、着替えさせるわけにはいかなそうだ。
「おい、ちー」
「ん? なに花村」
「お前さ、どっか具合悪いんじゃね?」
「え。いや……」
千歳の元へと歩み寄り、耳打ちをする。すると千歳は絶句してしまった。誤魔化そうとしているのか視線はあちこちへと飛んでいて、やはり思った通りのようだ。
「隠しても無駄。なに? 頭痛とか?」
「……ん」
「いつから」
「……今朝」
朝に顔を合わせた時から、なんだかおかしいなと思っていた。すぐにでも聞き出したくなったが、ひとまずは様子を見ることにした。無理して登校する理由があるのだろうと思ったからだ。大方、球技大会のリーダーだから休めないとでも考えているのだろう。その気持ちは汲んでやりたいが、体調が悪いのなら見過ごすわけにはいかない。
「保健室行くぞ」
「でもオレ、リーダーだから体育出たい」
「うん、だよな。でもだめ。ナベー、俺ちょっと保健室行ってくるわ」
「おー、どしたー?」
「ちょっと腹イタ。ちーに付き添ってもらうから先生に言っといて」
「はいよ」
想像通りの言い分を遮って、千歳の腕を引く。クラス中の注目を集め、居た堪れない様子だ。顔を伏せる様子がかわいそうで、鼻をそっと啜る音にこちらまで胸も痛む。余計なことをしているだろうか。罪悪感が頭を過ぎるが、それでもやはり見過ごすことはできない。
保健室に到着し、千歳をベッドへと座らせる。
「手続きしなきゃ」
「いいって、座ってろ。俺がやるから」
「ん、ありがとう」
「せんせー、ちー……あー、三上くんが頭痛いみたいで。体温計貸してください」
立ち上がろうとする千歳を制し、養護教諭の元へと向かう。貴方は授業に戻りなさいと諭されたが、「俺保健委員だから」と速攻でバレる嘘で逃げる。
「花村、オレ熱はないと思う」
「いーや、ある。いつもより熱い。ほらちー、計ってみ」
「計ってもないよ」
「いいから。あ、自分で挟めねえ? 手伝おうか?」
「っ、平気! 自分でできる!」
「はは。じゃあはい、やって」
静かに待つこと三十秒ほど。体温計を見て押し黙った千歳は、手を差し出すと諦めたように渡してくれた。37度8分。思った通り、平熱とは言えない数値が出ていた。
「平気だと思ってたのに。熱あるって分かると駄目だ、しんどくなってきた」
観念したようで、千歳は崩れ落ちるようにベッドへと横たわる。追うようにその場に腰を屈め、千歳と目を合わせる。
「なんでオレが頭痛いって分かった?」
「朝からしんどそうだと思ってた」
「マジかあ。オレ、上手く隠せてなかった?」
「いや、名俳優だな」
「でもバレてんじゃん」
「俺にはな。でも体調悪い時くらい言えばいいのに」
手を伸ばし、ミルクティー色の髪を梳くように撫でる。そうすると、千歳は鼻を啜りながら両手で顔を覆い隠した。
「うん、そうだよね」
本音を言わない、その場の空気を最優先する。時にはこうして、体調不良を隠してまで。中学の時から、と先日言っていた。同調するほうが楽なのだろうか。
自分だけは全部に気がつけて、逐一手を差し伸べられたらいいのに。だがそんなことはもちろん不可能だ。もっと早く千歳と知り合えていたら、なんて。きっかけを貰った立場なのに、そんな図々しいことを考えたりする。
千歳の体に布団をかけ、また髪を撫でる。熱に潤んだ瞳を見ていると、どうにも離れがたい。だがいつまでもこうしているわけにもいかない。とりあえずは見逃してもらえているが、そろそろ追い出される頃合いだろう。
だけど、もう少しだけ。悪あがきをしたくなって、養護教諭の様子を窺おうと立ち上がる。音が立たないようにカーテンをそっと開け、デスクに座る背中を確認した時。制服の裾を引っ張られた感覚に、すぐに振り返った。
「ちー?」
「あ、いや……」
しまった、という顔をして千歳はすぐに手を引っ込めてしまった。このシグナルを逃すものか。すぐに元いた場所にしゃがみこむ。湿った前髪をそっと払って、あらわになった額にゆっくりと親指を往復させる。
「どうした?」
「ううん。なん……」
「なんでもない以外で」
「そんなあ」
「行ってほしくなかった?」
千歳の意識を自分だけに向けさせようと、ぐっと顔を近づける。それからそんなことを言ってみると、千歳は目を見開いた。
熱があるというのに、いたずらが過ぎたか。寝かせてあげなければ、治るものも治らない。ごめんごめんと言って再び腰を上げると、けれどやはり引き止めるように、今度は手を掴まれる。
「行ってほしく、なかった」
「ちー……」
「ごめん、絶対変なこと言ってる。それに授業……」
「ちーが寝るまでいる」
「花村……」
手を握り返し、シーツの上に顎を預ける。しばらく動かない、との意思表示だ。千歳は安堵した顔を見せ、吸いこまれるように目を瞑った。しっかり眠ったのを確認してから、握った手に頬を摺り寄せる。体中に甘く響く感覚は、癖になりそうだ。
ふう、とひとつ息を吐き、留まりたがる体を無理やり立ち上がらせる。体育の授業が始まって十五分くらい経っただろうか。以前であればこのままサボるところだが、千歳のおかげで授業に出るようになったし、なにより球技大会に向けた練習はきちんとしたかった。苦い顔を押しこめリーダーを引き受けた千歳の決心を、無駄にしないために。
カーテンに手をかけ、もう一度振り返る。腰を屈め、何度もそうしてきたようにくちびるを近づけ――だが触れる直前で踏みとどまり、保健室を後にした。
騒がしくて、それから放課後特有の浮ついた空気。それらに満ちる廊下で、保健室のドアを開けながら振り返る。
「だーから。俺が送ってくっつってんだろ」
「いやでも俺らも心配だし! なあ!」
「そうだよー、三上が保健室で寝てるとか初めてだもん」
突っぱねようにも食い下がってくるのは、千歳の友人たちだ。帰れと言ったのについにはここまで来られて、何度ため息をついたか分からない。
千歳を“ちー”と呼ぶことを許さなかったあの日、気まずい空気が流れたのは事実なのに、尊を敬遠する者はひとりもいなかった。現に今も、これだけ邪険にしているというのに怯まない。なにかと話しかけられるようにはなっていたが、千歳不在の体育の時間、こちらから近づいたのも良くなかったのかもしれない。球技大会において千歳の手伝いを買って出ていた彼らの、つまりは千歳のためにできることがあればと思っただけだったのに。
「はいはい、じゃあなー」
「あ! 花村ー」
もちろん、勝手なことをしていると分かっている。三上を頼むと個人的に担任から言われたわけでもなんでもない。そう分かっていて、それでも譲る気はさらさらなかった。千歳の体調不良に気づいてもいなかったくせにと、いつか覚えた焦燥は今だって消えずに燻っているのだ。
そこまで、とドアの前で身勝手に線を引いて、ひとりで千歳がいるベッドのカーテンを開けた。身を滑りこませると千歳と目が合い、後ろ手にカーテンを閉める。
「起きてた?」
「今起きた」
「熱は……まだありそうだな。食欲は?」
「んー。ちょっと空いた、気もする」
「昼も覗きに来たんだけどな。よく寝てたから起こさなかった。まあ空くわな」
「え、今何時?」
「放課後」
「マジかあ……」
熱の具合を見ようと額に触れると、千歳が手を重ねてくる。「花村の手冷たい……」と呟いて、しっとりと熱い指が絡まった。思わずごくりと唾を飲む。体調が悪い時になにを、と自分で思うが、千歳からこうしてくるのは珍しいことだ。されるがままの手が、ゆるい力で千歳の口元へと運ばれそうになった時。カーテンの向こうから届いた声に、ふたりして肩を跳ね上げた。
「おーい。花村ー?」
「っ!」
「ちっ、アイツらまだいたのかよ……」
「あ……」
「ちー、平気。カーテンで見えねえから」
もう帰ったとばかり思いこんでいた。深くため息をつきながら、離れていきそうな手をそうはさせまいと握り返す。口元に人差し指を添え「シー」と囁くと、千歳の頬が淡く染まった。絶対に誰にも見せたくない。カーテンから顔だけを出し、こちらの様子を窺っている彼らを追い払おうとした、のだが。その内のひとり、女子の真野が近寄ってきた。
「花村くん」
「あ?」
「ジュース買ってきた。三上に渡してくれる?」
「……わかった」
「あ、ひとつは花村くんの分だから! 三上のことよろしく。じゃあまた明日ね」
紙パックのジュースがふたつ、尊の手に乗せられる。強引さについ眉を顰めたが、他の者たちを連れ立って去ってくれたから助かった。よほど千歳のことを気にかけているのだろう。あまりにぞんざいにあしらってしまったことを少し悔いていると、繋いでいるままの手がくんと引かれた。
「ちー?」
「…………」
カーテンの中に戻れば、千歳が難しい顔をしている。くちびるはきゅっと噛みしめられていて、だがなにを考えているのかは分からない。
「どうした? 頭痛え?」
「……うん、ちょっと」
腰を屈めてそう問えば千歳は頷いたが、目を逸らされてしまった。
ここ最近になって、千歳との間に少しずつこういうことが増えている。憂いた顔を見せるのに、理由を教えてはくれない。己をさらけ出せない千歳が、それでも自分には見せてくれる様々な感情は、千歳の特別である現れ――そう思っていたのに。閉ざされる度に歯がゆくて、それでも千歳の意思を尊重したいと踏み込まないでいるのが現状だ。
「担任がちーの親に連絡したらしいんだけど、仕事抜けられそうにねえって。歩ける?」
「うん、歩ける」
「ん、じゃあ一緒に帰んぞ」
「迷惑かけてごめんね」
「全然。アイツら追っ払うほうが大変だった」
背中を支え、千歳が立ち上がるのを手伝う。申し訳なさそうな顔をするから、気にすることはないと髪を撫でた。
鼓動に遅れて気づいた恋は、胸を甘く満たしている。だが千歳がまた告白してくれるまで、ちゃんと待つつもりだ。本音を言えば今すぐ恋人になって触れ合いたい。少し前の自分が今の状況を知ったら嫌悪しそうなほど、すっかり生まれ変わったように恋をしている。
それでも待つのだ。まだ返事は聞きたくない、次の告白もまだ。その選択をする千歳が歯痒くもあるが、頑なにそうする理由があるのだろう。待ってやりたい、千歳の気が済むまで。そう思うくらいには絆されているし、なにより千歳から求められたかった。
どんなにもどかしくても、遅かれ早かれ恋人になれるのなら。きっとそんなに難しいことではないだろうから。
十一月、週末に球技大会を控えた月曜日。一時間目を終えたばかりの休み時間、二年C組の生徒たちはそわそわと浮足立っている。次の授業は体育で、球技大会の練習をすることになっているからだ。最初こそ誰も乗り気ではなかったが、リーダーに千歳を据えたことで全体の士気が上がり、なんだかんだと目標は優勝に定められている。
種目はバスケットボール、サッカー、バレーボール。尊にケンスケとナベ、千歳たちのグループはバスケットボールを選択している。クラスメイトたちと同じテンションとまではいかずとも、結果を残そうと練習に励んでいる。
だが、今日のところは遅刻確定だなと千歳を見て思う。リュックからジャージを取り出しているが、着替えさせるわけにはいかなそうだ。
「おい、ちー」
「ん? なに花村」
「お前さ、どっか具合悪いんじゃね?」
「え。いや……」
千歳の元へと歩み寄り、耳打ちをする。すると千歳は絶句してしまった。誤魔化そうとしているのか視線はあちこちへと飛んでいて、やはり思った通りのようだ。
「隠しても無駄。なに? 頭痛とか?」
「……ん」
「いつから」
「……今朝」
朝に顔を合わせた時から、なんだかおかしいなと思っていた。すぐにでも聞き出したくなったが、ひとまずは様子を見ることにした。無理して登校する理由があるのだろうと思ったからだ。大方、球技大会のリーダーだから休めないとでも考えているのだろう。その気持ちは汲んでやりたいが、体調が悪いのなら見過ごすわけにはいかない。
「保健室行くぞ」
「でもオレ、リーダーだから体育出たい」
「うん、だよな。でもだめ。ナベー、俺ちょっと保健室行ってくるわ」
「おー、どしたー?」
「ちょっと腹イタ。ちーに付き添ってもらうから先生に言っといて」
「はいよ」
想像通りの言い分を遮って、千歳の腕を引く。クラス中の注目を集め、居た堪れない様子だ。顔を伏せる様子がかわいそうで、鼻をそっと啜る音にこちらまで胸も痛む。余計なことをしているだろうか。罪悪感が頭を過ぎるが、それでもやはり見過ごすことはできない。
保健室に到着し、千歳をベッドへと座らせる。
「手続きしなきゃ」
「いいって、座ってろ。俺がやるから」
「ん、ありがとう」
「せんせー、ちー……あー、三上くんが頭痛いみたいで。体温計貸してください」
立ち上がろうとする千歳を制し、養護教諭の元へと向かう。貴方は授業に戻りなさいと諭されたが、「俺保健委員だから」と速攻でバレる嘘で逃げる。
「花村、オレ熱はないと思う」
「いーや、ある。いつもより熱い。ほらちー、計ってみ」
「計ってもないよ」
「いいから。あ、自分で挟めねえ? 手伝おうか?」
「っ、平気! 自分でできる!」
「はは。じゃあはい、やって」
静かに待つこと三十秒ほど。体温計を見て押し黙った千歳は、手を差し出すと諦めたように渡してくれた。37度8分。思った通り、平熱とは言えない数値が出ていた。
「平気だと思ってたのに。熱あるって分かると駄目だ、しんどくなってきた」
観念したようで、千歳は崩れ落ちるようにベッドへと横たわる。追うようにその場に腰を屈め、千歳と目を合わせる。
「なんでオレが頭痛いって分かった?」
「朝からしんどそうだと思ってた」
「マジかあ。オレ、上手く隠せてなかった?」
「いや、名俳優だな」
「でもバレてんじゃん」
「俺にはな。でも体調悪い時くらい言えばいいのに」
手を伸ばし、ミルクティー色の髪を梳くように撫でる。そうすると、千歳は鼻を啜りながら両手で顔を覆い隠した。
「うん、そうだよね」
本音を言わない、その場の空気を最優先する。時にはこうして、体調不良を隠してまで。中学の時から、と先日言っていた。同調するほうが楽なのだろうか。
自分だけは全部に気がつけて、逐一手を差し伸べられたらいいのに。だがそんなことはもちろん不可能だ。もっと早く千歳と知り合えていたら、なんて。きっかけを貰った立場なのに、そんな図々しいことを考えたりする。
千歳の体に布団をかけ、また髪を撫でる。熱に潤んだ瞳を見ていると、どうにも離れがたい。だがいつまでもこうしているわけにもいかない。とりあえずは見逃してもらえているが、そろそろ追い出される頃合いだろう。
だけど、もう少しだけ。悪あがきをしたくなって、養護教諭の様子を窺おうと立ち上がる。音が立たないようにカーテンをそっと開け、デスクに座る背中を確認した時。制服の裾を引っ張られた感覚に、すぐに振り返った。
「ちー?」
「あ、いや……」
しまった、という顔をして千歳はすぐに手を引っ込めてしまった。このシグナルを逃すものか。すぐに元いた場所にしゃがみこむ。湿った前髪をそっと払って、あらわになった額にゆっくりと親指を往復させる。
「どうした?」
「ううん。なん……」
「なんでもない以外で」
「そんなあ」
「行ってほしくなかった?」
千歳の意識を自分だけに向けさせようと、ぐっと顔を近づける。それからそんなことを言ってみると、千歳は目を見開いた。
熱があるというのに、いたずらが過ぎたか。寝かせてあげなければ、治るものも治らない。ごめんごめんと言って再び腰を上げると、けれどやはり引き止めるように、今度は手を掴まれる。
「行ってほしく、なかった」
「ちー……」
「ごめん、絶対変なこと言ってる。それに授業……」
「ちーが寝るまでいる」
「花村……」
手を握り返し、シーツの上に顎を預ける。しばらく動かない、との意思表示だ。千歳は安堵した顔を見せ、吸いこまれるように目を瞑った。しっかり眠ったのを確認してから、握った手に頬を摺り寄せる。体中に甘く響く感覚は、癖になりそうだ。
ふう、とひとつ息を吐き、留まりたがる体を無理やり立ち上がらせる。体育の授業が始まって十五分くらい経っただろうか。以前であればこのままサボるところだが、千歳のおかげで授業に出るようになったし、なにより球技大会に向けた練習はきちんとしたかった。苦い顔を押しこめリーダーを引き受けた千歳の決心を、無駄にしないために。
カーテンに手をかけ、もう一度振り返る。腰を屈め、何度もそうしてきたようにくちびるを近づけ――だが触れる直前で踏みとどまり、保健室を後にした。
騒がしくて、それから放課後特有の浮ついた空気。それらに満ちる廊下で、保健室のドアを開けながら振り返る。
「だーから。俺が送ってくっつってんだろ」
「いやでも俺らも心配だし! なあ!」
「そうだよー、三上が保健室で寝てるとか初めてだもん」
突っぱねようにも食い下がってくるのは、千歳の友人たちだ。帰れと言ったのについにはここまで来られて、何度ため息をついたか分からない。
千歳を“ちー”と呼ぶことを許さなかったあの日、気まずい空気が流れたのは事実なのに、尊を敬遠する者はひとりもいなかった。現に今も、これだけ邪険にしているというのに怯まない。なにかと話しかけられるようにはなっていたが、千歳不在の体育の時間、こちらから近づいたのも良くなかったのかもしれない。球技大会において千歳の手伝いを買って出ていた彼らの、つまりは千歳のためにできることがあればと思っただけだったのに。
「はいはい、じゃあなー」
「あ! 花村ー」
もちろん、勝手なことをしていると分かっている。三上を頼むと個人的に担任から言われたわけでもなんでもない。そう分かっていて、それでも譲る気はさらさらなかった。千歳の体調不良に気づいてもいなかったくせにと、いつか覚えた焦燥は今だって消えずに燻っているのだ。
そこまで、とドアの前で身勝手に線を引いて、ひとりで千歳がいるベッドのカーテンを開けた。身を滑りこませると千歳と目が合い、後ろ手にカーテンを閉める。
「起きてた?」
「今起きた」
「熱は……まだありそうだな。食欲は?」
「んー。ちょっと空いた、気もする」
「昼も覗きに来たんだけどな。よく寝てたから起こさなかった。まあ空くわな」
「え、今何時?」
「放課後」
「マジかあ……」
熱の具合を見ようと額に触れると、千歳が手を重ねてくる。「花村の手冷たい……」と呟いて、しっとりと熱い指が絡まった。思わずごくりと唾を飲む。体調が悪い時になにを、と自分で思うが、千歳からこうしてくるのは珍しいことだ。されるがままの手が、ゆるい力で千歳の口元へと運ばれそうになった時。カーテンの向こうから届いた声に、ふたりして肩を跳ね上げた。
「おーい。花村ー?」
「っ!」
「ちっ、アイツらまだいたのかよ……」
「あ……」
「ちー、平気。カーテンで見えねえから」
もう帰ったとばかり思いこんでいた。深くため息をつきながら、離れていきそうな手をそうはさせまいと握り返す。口元に人差し指を添え「シー」と囁くと、千歳の頬が淡く染まった。絶対に誰にも見せたくない。カーテンから顔だけを出し、こちらの様子を窺っている彼らを追い払おうとした、のだが。その内のひとり、女子の真野が近寄ってきた。
「花村くん」
「あ?」
「ジュース買ってきた。三上に渡してくれる?」
「……わかった」
「あ、ひとつは花村くんの分だから! 三上のことよろしく。じゃあまた明日ね」
紙パックのジュースがふたつ、尊の手に乗せられる。強引さについ眉を顰めたが、他の者たちを連れ立って去ってくれたから助かった。よほど千歳のことを気にかけているのだろう。あまりにぞんざいにあしらってしまったことを少し悔いていると、繋いでいるままの手がくんと引かれた。
「ちー?」
「…………」
カーテンの中に戻れば、千歳が難しい顔をしている。くちびるはきゅっと噛みしめられていて、だがなにを考えているのかは分からない。
「どうした? 頭痛え?」
「……うん、ちょっと」
腰を屈めてそう問えば千歳は頷いたが、目を逸らされてしまった。
ここ最近になって、千歳との間に少しずつこういうことが増えている。憂いた顔を見せるのに、理由を教えてはくれない。己をさらけ出せない千歳が、それでも自分には見せてくれる様々な感情は、千歳の特別である現れ――そう思っていたのに。閉ざされる度に歯がゆくて、それでも千歳の意思を尊重したいと踏み込まないでいるのが現状だ。
「担任がちーの親に連絡したらしいんだけど、仕事抜けられそうにねえって。歩ける?」
「うん、歩ける」
「ん、じゃあ一緒に帰んぞ」
「迷惑かけてごめんね」
「全然。アイツら追っ払うほうが大変だった」
背中を支え、千歳が立ち上がるのを手伝う。申し訳なさそうな顔をするから、気にすることはないと髪を撫でた。