そういえば、あの日もこんな雨の日だった。
まだ肌寒さの残る春雨の日。
桜井 伊代は雨雲を見上げて、そう思った。
“あの日”とは一年前、大学卒業を控えた時のことだ。
音楽サークルで四年間を共に過ごしてきた四人で、卒業式の前夜祭と称して居酒屋に集まった。
どんよりした天候とは裏腹に、四人は卒業後の進路の話に華を咲かせた。
音楽サークルの中で飛び抜けて歌が上手かった蜂谷 歌織は、音楽で食べていくと決意を語った。
彼女は歌だけでなく、数種類の楽器演奏やダンスも得手としていた。
音楽系の事務所から声が掛かっているという話もしており、目を輝かせていた。
国際学部生である芹井 京平は、四月から海外留学をすることが決まっていた。
彼は向上心が人一番強く、海外でこんな仕事がしたい、と熱意を持って語っていた。
打ち上げで留学先を話していたと思ったが、伊代はすっかり忘れていた。
たしか、発展途上国かどこかでは無かったか、と薄い記憶を遡る。
人懐っこくムードメーカーだった川水流 太市は、卒業後に企業就職の内定が決まっていた。
彼は友達の話ばかり聞きたがり、自分の話はあまりしようとしなかったが、就職に意気揚々としていた。
伊代は、大学院に進学し日本史を専攻している。
子供の頃から歴史に興味を持ち、歴史をモチーフにしたアニメやゲームで遊んでばかりいた彼女は、
謂わゆる “歴女”だった。
好きなことを極め、将来の仕事にすることが彼女の目標である。
大学院の合格を皆に知らせた時は、自分のことのように盛大に祝ってくれた。
将来は学芸員や歴史の研究家になりたいと話すと、それも同じように祝い喜んでくれた。
皆が期待してくれているのだから、将来の夢を絶対に叶えるんだ、と強く思った。
そして今現在、雨雲を見ながら過去を振り返る伊代は、途方に暮れていた。
目標だった院進学を果たしたものの、成績は伸び悩んでいる。
まだ修士課程の一年でありながら、無事に博士課程を終えることが出来るのかという不安と闘っていた。
就職を願っていた親を説得して選んだ道だ、まだ全てを投げ出すには早すぎる。奨学金だって受けている。
つい昼頃、研究室を訪問し、教授から研究内容に対する助言を受けた。
しかし研究内容は二の次に、教授は将来の進路について語り出した。
「就職先をよく見極めた方がいい」
だとか、
「院生として勉強できていることは、周りと比べて幸せなことだ」
とか、終いには
「女性の院卒として働ける環境は限られている」
と語った。
この時代に学歴のある女性が働きづらいことがあるだろうか。
あろうと無かろうと、教授の言葉は男尊女卑と受け止めかねない。
「今のは決して、女性を差別している訳ではないのだけれどね」
と、教授は付け加えた。
いや、差別でしょ、と伊代は心の中で思った。
伊代は驚きで言葉も出ず、そのまま助言は終了し研究室を出た。
回想から戻った伊代は、カバンの中から折り畳み傘を探す。
常備しておいて良かった、と気を紛らわせるように呟き、傘を開いた。
伊代の心は雨で湿った空気のようにどんよりと重かった。
歩き出そうとしたその時、スマートフォンがメッセージを受信する。
画面を開くと、懐かしい名前が表示される。
川水流太市からのメッセージだった。
あの人懐っこくてムードメーカーの、太市である。
太市は大学卒業後、就職のために離れた町に一人暮らしをしているらしい。
最近実家に帰ってきた為、夜ご飯でも一緒に食べないか、という誘いのメッセージだった。
伊代の心は浮き立ち、
「行きたい!今晩はどう?」
と返事をした。
すぐに連絡が返ってきて、場所と時間の約束をする。
雨の中を跳ねるように、伊代は店へ向かった。