私たちの人生レシピ



「申し訳ないのですが、締め切りを少し伸ばしてもらうことは可能でしょうか?」
 
 おそるおそる言葉を選びながら伝える。
 電話越しの相手は、出版社担当編集の佐伯さん。

 原稿の締め切りに間に合わなそうで、謝罪の電話をかけていた。
  
「四葉さんには、いつも早めの締め切りを守っていただいているので、問題ないですよー」

 "四葉"というのは私の小説家としてのペンネーム。
 怒っている様子はなく、軽やかな声が返ってきて、ひとまずホッとする。
 
「ほんと申し訳ないです」
「なにかありました? もしも、なにかに詰まっていたりしたら。相談いただければ一緒に広げていきましょう」
「いや、えっと。ちょっと先週風邪を引いてしまいまして」

 間髪入れずに答えた。出来ないやつと思われて、これ以上ガッカリさせたくない。


 通話が終わると、「ふう」と深いため息が飛び出す。

 私はウソをついた。
 先週、風邪などひいていない。
 本当のところは、最後の展開に煮詰まって、筆が進まなくなってしまった。

 きっと、正直に言った方が良いのだと思う。
 だけど、小説家というのは個人事業主だ。
 今仕事をもらえているからといって、次の仕事があるとは限らない。

 最近は年齢も若く、才能溢れる作家もたくさん出てきて、私の代わりなんて捨てるほどいると思う。
 筆がとまったなんてバレてしまえば、次の話が来ないかもしれない。
 そう危惧した私は、本当のことを言えなかった。


「まだ時間はあるから、もう少し粘ってみよう……」

 固くなった身体を伸ばすように背伸びをした。

 子供の頃から本が好きで、子供の頃からの夢だった。
 ただ、小説家になるというのはとても狭い道。
 私が辿った道筋も険しくて過酷なものだった。

 小説家になりたいという夢を諦められなかった私は、就職してからも、ずっと公募に出し続けた。
 公募というのは、出版社が企画・主催するコンテスト。作家デビューの登竜門だ。
 10年以上、仕事をしながら小説を書き続けた。
 努力が実って、公募で受賞。そのまま運よく作家デビューすることができた。


 世間のイメージでは、一冊本を出せば暮らしていける。と思う人も多いだろう。
 だけど現実は、専業作家として食べていける人はごくわずかで、限られた人だけ。
 私自身も、専業作家と名乗れるようになったのは、ここ数年のことだ。
 
 専業作家になり、有り難いことに今のところ仕事は安定している。
 しかし、小説家というのは、次も出版させてもらえるという保証はない。つまり、今は安定していても、突然仕事がゼロになる可能性だってあるということだ。
 
 殺伐とした不安を常に感じる中、桜にルームシェアの誘いを受けた。
 冗談なのか軽い口ぶりで言っていたけど。私はすぐに食いついた。
 今はWEBミーティングが主流だし、作家という仕事は、場所を選ぶことなく作業できる。
 引越しすることは、私にとって何も問題がなかった。
 

 なにより、一人の孤独に疲れていたのかもしれない。
 

 流れるように始まったルームシェア。いろいろあって、高校時代のもう一人の友人。根本茜も一緒に暮らすことになった。
 性格はバラバラな私たちだけど、居心地がいいのは、学生時代と変わらなかった。





「はぁ~~」

 あれから、執筆に向き合っているのに、思考がうまく回らない。なんとか進めたい一心で夜通し作業をしていたけど。筆は進まなかった。

 
 ふと時計が目に入ってハッとする。気づけば空は明るくなりはじめ、カーテンの隙間から優しい光が差していた。
 
 どうやら、あっという間に時間が溶けてしまったらしい。
 これは今にはじまったことではなかった。締め切りに追われる月末は、朝まで執筆することも多い。


 今日の朝ごはんの担当は私。慌てて椅子から立ち上がると、腰に鈍い痛みが走る。

「いたたた」

 朝まで同じ体制で作業していたせいだ。身体は正直で、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。

「やっぱり、徹夜はきついかー」

 身体をいたわりながらリビングへと向かう。まだ家中の誰もが眠っているような時刻。
 窓のカーテンを開けると、東の空が明るくなり始めていた。
 この一日が始まる前の、ほんのり明るくなりはじめる空が好きだ。


 肌寒い中、ケトルポットでお湯を沸かす。そして、インスタントコーヒーをコップに入れて、沸騰したお湯を注いだ。

 湯気と共に香ばしいコーヒーの匂いが立ち込める。
 熱いうちにスッとすすると、口いっぱいにほろ苦い味が広がった。

「ふぅ」

 思わず安堵のため息が出る。

「さてと。朝ごはん何を作ろうかな」

 一息ついて、朝食の準備に取り掛かる。
 しかし、ここで問題が発生する。今日朝食担当ということをさっき思い出したばかり。つまり、作るメニューは何も考えていなかった。

 執筆作業に集中していた私は、夜ご飯以降何も食べていない。
 今にもお腹の音がなりそうなほど、空腹だった。
 
「私はガッツリ食べたいくらいだけど……みんなは朝ご飯だからなぁ」

 朝方まで作業していた私にとっては、夜ご飯のようなもの。だけど、桜と茜にとっては朝ごはん。
 起きてすぐに、重めの朝ごはんは食べたくないだろう。
 
 冷蔵庫を開けて、使える食材を確認してみる。健康を考えて、野菜はしっかり取りたい。
 もも肉、しいたけ、しめじ、ニンジン。
 このラインナップで、朝ごはんの2人の胃にも優しいもの……。

 作戦会議が頭の中で繰り広げられる中、ふと思いつく。

「……お腹にたまって、でも、重くなくて、野菜も取れる……!」

 今日の朝食のメニューは決まった。
 独り言をぽつりと吐いて、気合を入れなおした。

「よしっ。今日の朝食は炊き込みご飯にしよう」

 まずはお米を洗って、3人分の量を準備する。
 次は、食材を包丁で切る。
 しいたけ、しめじ、ニンジン。特に不ぞろいでも構わない。野菜を切り終えたまな板で、最後にもも肉を一口大の大きさに切る。

 研いだお米に調味料を入れていく。きっとこのくらい。目分量でサッと入れた。味見をして、足りなければ炊き立てに味を足せばいい。

 豪快にそのまま切った野菜とモモ肉をダイブする。
 後は、炊飯のスイッチを押すだけ。

 付け合わせに簡単なスープを作ろう。炊き込みご飯用に切った野菜を少し拝借。小鍋にお湯を沸騰させて、分量のだしを入れて味付けをする。
 味見が終わったら、ここに野菜を投入。ぶくぶくと沸騰したら、箸で溶いた卵をゆっくりと回しいれる。卵を箸に伝わせて、少しずつ入れるのが、ふんわり仕上がるポイント。これで、即席かきたま汁の完成だ。

 
 簡単な作業しかしていないのに、一仕事終えたような達成感が込みあげる。

「ん~、お腹空いたぁ」

 炊きあがるまでに、少し時間はかかる。なので、しばらく身体を休めようとソファに腰を下ろした。
 
 朝ご飯を食べてちょっと仮眠したら、また執筆しよう。
 頑張れば締め切り伸ばさなくて済む……。

 徹夜は身体にこたえるみたい。頭の中でスケジュールを確認しているうちに、身体がどんどん沈んでいくような感覚。そのまま意識を手放した。




「翠! こんなところで寝てたの?」

 降ってきた声にハッとする。目の前には、不思議そうに首をかしげている桜。
 慌てて体を起こして、状況を把握する。
 どうやら少し寝てしまっていたみたい。

 そのとき、タイミングよく甲高い音が耳に届く。
 それは、炊飯器の炊きあがりの合図の音だった。


「おはよー。あれ、いい匂いする……」

 あくびをしながら、起きてきたのは茜。リビングに来た途端、鼻をひくひくさせて、漂う美味しそうな匂いに反応する。

「なんの匂いだろう……すっごく美味しそうなんだけど」
「ご飯が炊きあがった匂いだよ」
「ご飯? こんなに香ばしい匂いしないよね?」

 茜と桜を引き連れて、キッチンへと向かう。
 匂いの正体は明かさずに、ゆっくり炊飯器の蓋を開けた。すると、立ち上る湯気と共に、和風だしの優しい匂いに食欲がそそられる。
 炊き込みご飯は、底が焦げ目がつきやすい。なので、すぐにしゃもじでかき混ぜた。
 
 すると、鶏肉、ニンジン、シイタケ、具材が混ざり合い、色彩が綺麗になる。

「いい匂い~」
「美味しそう~」

 桜と茜は、炊きあがりの香りを、深呼吸と共に吸い込んだ。そして、ほっこりと笑顔を浮かべる。

 さっそく、茶碗にご飯。お皿にスープをゆっくりよそう。
 今日の朝食、炊き込みご飯とかきたま汁の完成だ。

 野菜と鶏肉がゴロゴロ入った炊き込みご飯。香ばしい匂いが食欲をつついてくる。ふわりと卵が舞うように広がったかきたま汁は、湯気の合間からゆらりと波うっていた。


「「いただきます」」

 両手をパチンと合わせて声を揃えた。

 まずは喉を潤すために、かきたま汁をスッとすすった。
 ゴクリと喉を通って、胃にすとんと落ちる。あたたかさで体が満ちるようだった。
 
 次に口に運ぶのは、炊き込みご飯。一口お箸で持ち上げて、そのまま口に運んだ。和風だしの優しい味が、しっかりお米に浸透している。鶏肉は噛んだ瞬間に、じゅわっと肉汁が飛び出した。

「はあ〜〜美味しい!」

 吐息と共に溢れた幸せな気持ち。

「炊き込みご飯美味しいー!」
「鶏肉も柔らかくて……最高だよ!」

 茜と桜の美味しい言葉が心に浸透する。
 自分が作った料理を、誰かが食べてくれて。そして、美味しい顔が見れるのって、なんだか嬉しい。

 「あ、そうだ!」

 なにか閃いたような桜は、いったん席を外すと、すぐに戻ってきた。
 手に持っていたのは、あらびき胡椒。躊躇することなく、そのまま炊き込みご飯に振りかけた。

「えッ!」

 思わず声が漏れた。
 結構しっかり味がついていると思ったからだ。

「ごめん、味薄かった?」

 心配そうに投げかけると、桜は大袈裟に顔を左右に振った。

「とんでもない! 誤解しないでほしいんだけど、とっても美味しいよ! ただね、こうして仕上がりにあらびき胡椒をかけると、ちょっとピリッとしたアクセントになって美味しいの」

 よかった。味付けが薄いわけではなかったみたい。
 桜は持っていたあらびき胡椒の瓶を、私に向かって差し出した。

 言われるがまま、試しに一振りかけてみる。
 そして、口に運んだ。

「……んッ! なんだろう。美味しい」

 あらびき胡椒をご飯にかけるなんて、初めてだったけど。
 ピリッと少しアクセントになって、また違う美味しさがやってきた。

「ご飯に胡椒を書けるなんて初めてだけど、ありだね」
「江戸時代に、ご飯にだし汁と胡椒をかけた胡椒飯ってあったみたいだよ」
「へぇ~」
 
 それは知らなかった。
 物知りな桜の発言に、私と茜はただただ相槌を打つ。

「私はね、炊き込みご飯を作るときに、オリーブオイルを入れたりするよ」
「オリーブオイル!?」

 驚いて声を上げる私たちに、微笑みながら茜は続ける。

「オリーブオイル未経験? 独特な香りが海鮮系とか、洋風の炊き込みご飯に合うんだよ?」
「知らなかった……」

 一人暮らしをしていたときから、割と自炊をしていた方だと思う。
 だけど、まだ知らない料理の知識があるんだなぁ。

 新しい情報に感心しながらも、次の炊き込みご飯には何を入れるか論争を繰り広げた。


「なんだか、こうして言い合うのもいいね。新しい美味しいが生まれそう」
「自分だけじゃ分からなかったことも知れたしね」

 茜と桜の意見に、大きく頷いた。
 また炊き込みご飯を作るのが楽しみになってきた。なんだか新しくて、美味しい炊き込みご飯になりそうで、今から胸がわくわくと躍っている。

 
「自分だけでは、広がらないこともあるもんだねぇ」
「それは仕事にも言えることだよね。私だってお局だけどさ、若い子の意見は柔軟に聞こうと思ってるよ?」

 茜と桜の何気ない会話。それが妙に心にグッと刺さった。
 自分だけでは広がらない……?

 ふいに、担当編集の佐伯さんの言葉が脳裏をよぎる。
「もしも、なにかに詰まっていたりしたら。相談いただければ一緒に広げていきましょう」
 
 どうしてあの時、正直に相談しなかったのだろう。
 勢いで断ってしまったけど、あの時相談すればよかったのかもしれない。良心がちくっと刺されるように痛む。

「ん? 翠、どうした?」

 後悔の念に駆られた私は、しばらくの間黙り込んでしまっていたみたい。
 心配そうに顔を覗かれた。
 
 普段の私なら、ここで「なんでもないよ」そういって愛想笑いをするだろう。
 だけど、グッと手を強く握った。
 

「……ねぇ、それって小説も同じかなぁ?」

 脈絡のない問いに、桜は不思議そうに目を見開いた。

「自分だけでは、広がらないこともあるってやつ?」
「うん……」
「そうだねぇ、小説のことは分からないけど。小説って一人で作れるものではないでしょ?」

 素直に胸に届いて、昨夜の行動が間違いだったと気づいた。 

「翠はさ、昔から一人で抱え込む癖があるよね」
「そう、かな」

 桜の言うとおりだと思う。昔からあまり人に相談するタイプではなかった。

「この歳になって、ますます一人で抱え込むのも分かるよ?」
「若い頃みたいに、人に聞きにくいところはあるよね」

 桜と茜は話しながら、深い相槌を打つ。

「だけど、そういう殻を抜けれたら、けっこう強いと思うんだよね」

 2人の言葉は心に染みわたっていく。

 もう同じ失敗をしたくない。
 意を決して、執筆が進まないことを正直に話した。担当さんに見切られるのが怖くて、隠していることも。

 全て話し終えたあと、ゆっくり口を開いた。

「……佐伯さんの力を借りたら、炊き込みご飯みたいに、もっと……いいものができるかな?」

 言い終えたあとで、自分でもなにいってんだろ。
 そう思った。だけど……。

「それは、わからない。わからないけど……」

 嘲笑うわけでもなく、桜はじっと私を見つめて、真剣に答えてくれた。
 
「今の状況よりは良くなるんじゃない? きっと」




 話に夢中になりながらも、口を動かすことも忘れない。気づいたころには、綺麗に完食していた。
 口直しに、改めてコーヒーをすすった。すると、ほろ苦さが広がって清々しさを感じる。

 話したおかげか、お腹が満たされたおかげか。どちらかは分からない。だけど、すとんと胸のつかえがとれた気がした。

 


 思い返せば、佐伯さんは「一緒に素敵な作品を作りましょう」そう言って、いつも寄り添ってくれていた。
 私が勝手に自分の殻に閉じこもっていただけだったのかもしれない。


 あとで、電話して全て話そう。
 そう決めた途端に、なぜだか頭の中で物語が動き始めた。
 どんなに足掻いても、動かなかったのに。

 その時、茜と桜の顔が視界にうつる。
 変化をもたらしてくれたのは、きっと2人のおかげだ。


 
 小説家というのは孤独で、ときに息苦しくて、抜け出せない迷路に迷ったような感覚になることがあった。

 真心こもった友人の言葉は、そんな私を救い出してくれた。
 40歳。人生折り返し。世間から見れば私はいい年をした大人だ。

 桜と茜と一緒にいれば……。
 私の人生、まだまだ成長できそうな気がする。
 なんだか、そんな素敵な予感がした。