「ゲームのことやけどな、アタシが一ヶ月でシナリオ上げて、そしたら次の一ヶ月で二人に絵と曲作ってもろて、ほんでその次の一ヶ月でスクリプト入力して、ラストの一ヶ月でテストプレイって感じにすれば、夏のコンテスト間に合うよな?」
休日のブランチ時、ちはやがざっくりと発表したスケージュールに、二人は頷いた。
「でも、ちはやさんは大丈夫ですか?」
杏が心配そうに首をかしげる。
「今、大型の執筆のお仕事入ってますよね? それと並行して書けます?」
「いけるやろ。もうちょいで終わりそうやし」
杏の作ってくれたクロワッサンサンドに齧りつきながら、ちはやは笑う。
「仕事しとんのは、みんな同じやん? アタシは家でやっとるだけで、会社行っとる二人と変わらんで。それに、今までやって同じように仕事やりつつ、個人製作で企画からリリースまでやって来たんやし。今回は分担しとる分、むしろ楽勝やわ」
「ですよね」
レモンティーを飲んだ真緒が頷く。
「ちはやさん、これまで期限を決めて破ったことないですし」
ちはや・杏・真緒はそれぞれ、仕事や学業の間を縫って同人ゲームを制作し、リリースをしてきた。三人とも、雑誌やゲーム情報サイトに紹介されたこともある。
同人ゲームは、企画が立てられても完成させられるのはたったの1%だと言われている。その1%を成し遂げた人間が互いに親しみを覚え親交を深めていったのは、自然の流れだった。
事情が変わったのは、それから一週間のこと。
杏と真緒の帰宅時刻がたまたま重なり、一緒に帰宅した時だった。
「ただい……」
その言葉を遮るように、玄関入ってすぐ左の部屋の扉が勢いよく開く。
「大変や!!」
ちはやは満面の笑みで、二人を出迎えた。
「どうかしたんですか?」
困惑する杏に、ちはやは喜びを抑えきれぬと言った風情でまくしたてる。
「来てん! 仕事! スカウト! 前から仕事したいと思てた会社から、お願いしたいて!」
「わぁ、良かったじゃないですか」
靴を脱ぎ、真緒は玄関を上がる。
「どんな仕事ですか?」
「そこは契約上言われへんけど。でも、めっちゃ仕事したかったとこ!」
大人げなく小躍りするちはやを、杏は微笑ましく見守る。
「良かったですね。これから忙しくなっちゃいます?」
「んー、まぁ、そう」
「じゃあ、その仕事が終わるまで同人の企画の方は一旦ストップしましょうか」
「それはアカン!」
ちはやが足を止める。
「コンテストは八月末が締め切りやもん。仕事と並行してやらな間に合えへん」
「でも……」
「大丈夫や! お仕事は主食、同人はおやつ! どっちもいける!」
そんなことがあってから三日後。
「嘘やん!?」
ちはやはPC前で頭を抱えた。
メールボックスに届いていたのは漫画原作の執筆依頼。
「これ、1年前にアタシが登録しといたところ……」
依頼主はそれなりの有名どころ、条件もかなり良かった。
「ゲームシナリオが二本に、漫画原作一本……」
受けるか断るか三十分ほど悩んだ末に、ちはやは承諾することにした。
「あぁああ~っ、やるって返事してもた!! もう引き返されへん!」
頭を抱えて床に突っ伏す。そして勢いよく顔を上げた。
「いや、いける! 前の依頼はもうすぐ上がるし!」
ちはやは髪をきつく縛り、ヘアバンドで前髪を上げる。そして、勢いよくキーボードを叩き始めた。
「あれ?」
仕事から帰宅した杏がリビングで目にしたのは、一人でスマホをいじる真緒の姿だった。
「ちはやさんは?」
「それが……」
真緒が一枚のメモを見せる。
『ご飯食べといて。アタシは部屋で食べる』
「夕飯はいつも通り作ってくれてるんですよ」
真緒は鍋に入ったスープと、ラップのかかった料理の皿を杏に示す。
「何か怒ってるのかと思って、トイレに出てきた時に声を掛けたんですが、単純に仕事が忙しいらしいです。新しい仕事がもう一件入ったらしくて。ゆっくり食べてる暇はないってことでした」
「そうなんだ……」
杏は気遣わし気にちはやの部屋へ目をやる。だが仕事に追われている最中に、声を掛けられたくないだろう。
「じゃあ、わたしたちだけで食べようか」
「ですね」
二人は、中華スープと棒棒鶏、ニラ玉炒めの夕食を取る。
「忙しいなら、こんな凝った夕飯作らなくていいのに」
「ですよね」
真緒が頷いてスープを飲んだ。
「あ、ちはやさん食べる時間も惜しいようで。さっき丼にご飯とスープぶち込んで、上に鶏肉とニラ玉乗せて部屋に持って行きましたよ」
「えぇ……」
そんな日々が続いた。
「おはよう、真緒ちゃん。……どう?」
「杏さん。それが……」
真緒の部屋とちはやの部屋は廊下を挟んで向かい合っている。
「私が寝る時、ちはやさんの部屋の電気が点いていたんですよ。それで、さっき起きた時に見たら、やっぱりドアのすき間から光が漏れてて」
「ちゃんと寝てるのかなぁ」
「電気点けたまま寝てるのならいいんですけど。起きてる気配がするんですよね」
「ちはやさんの部屋だけ不夜城になっちゃってる」
「セキュリティ的には心強いですけど、本人が心配ですよね」
二人はキッチンに入り、いつも通りに杏は朝食を、真緒は弁当を作る。
「帰宅した時に朝食のお皿が片付いているのを見ると、ほっとするよね。ちゃんと食事はとってるんだ、って」
「それが途絶えた時が怖いんですが」
「ちょっとやめてよ、真緒ちゃん」
二人は同時にちはやの部屋の閉じた扉に目をやり、ため息をつく。
「忙しいなら夕飯作らなくていいって、何度も言ったのに」
「昨日は豚汁にオクラの和え物、サバ味噌にきんぴらごぼうでしたね」
「料理をすることが、運動や気晴らしになっているのならいいんだけど……」
「帰ってきた時、ちはやさんの倒れた姿は見たくないですね」
「真緒ちゃん、怖いって」
さらに数日が経過した。
時たま、風呂やトイレに行くとき以外、ちはやは部屋から出てこない。
杏や真緒と目が合うと、力ない笑顔を浮かべ手を振って去っていく。
そしていくら杏と真緒が訴えても、夕飯作りを休もうとしなかった。
(かなり無理しているように見えるんだけど……)
そろそろ寝ようと、杏が照明のスイッチに手を伸ばした時だった。
スマホから着信音が聞こえて来た。
「? これはパソコンの方のアドレス?」
見れば送信者はちはやになっている。添付ファイルがあるようだった。
「『お待たせしました』? なんだろう」
杏はノートPCを立ち上げる。添付ファイルを開いた瞬間、思わず息を飲んだ。
「ちょ……!」
杏は部屋を飛び出す。ほぼ同時に自室から出て来た真緒と目が合った。
「見ました?」
「見た!」
二人はちはやの部屋の扉をノックする。
「ちはやさん! ちょっといいですか? 開けますよ!」
「んぁ? どうぞぉ……」
疲れ切った承認の声を受け、杏と真緒はドアを開ける。ベッドに力なくうつぶせに倒れていたちはやは、顔を上げると血走らせた目でへらりと笑った。
「あ? もう読んでくれたん? 感想言いに来た?」
「何やってるんですか!」
普段穏やかな杏が、語気を荒くした。
「さっき届いたデータ、『同人ゲーム・メインシナリオ』ってなんですか?」
「あー、コンテストに出す作品の根幹になるシナリオ書きあがってん。キャラ別ルートはもうちょい待ってな」
「そうじゃないでしょう? どうして、まともに食事の席に着けないほど忙しい人が、同人ゲームのシナリオ書いてるんですか!?」
とろんとした目つきをしていたちはやが、普段とは違う杏の様子にようやく気付く。
「せやって……」
ちはやは目を逸らし、ぼそぼそと答える。
「アタシが今月中に書き上げな、コンテストに間に合えへんやん」
「こんな自分を大切にしない人のシナリオなんて、わたし、ゲームにしませんからね!」
ちはやは、はっと息を飲む。
「杏コ……」
目を上げれば、そこには双眸に涙をため唇を噛む杏がいた。
「えっと……」
「コンテストは、今年にこだわらなくてもいいじゃないですか」
杏が声を震わせる。
「せやけど、この八月を逃したら、次は来年で……」
「来年でいいじゃないですか。わたしたちは来年も一緒なんですから。それより今無理をして、ちはやさんに何かあったら、二度と合作出来なくなっちゃいますよ。そっちの方が嫌です」
「杏コ……」
「ちはやさん」
真緒の声も厳しい。
「私たち、忙しいなら夕飯は作らないで、って言いましたよね? どうしてそれも無視するんですか?」
「せやって……、二人とも外で働いててしんどいやん? 疲れて家に帰った時に、あったかいご飯が出来てたら嬉しいやろなぁ、って思って……」
「嬉しいですよ、普段なら。でも今は、事情が違いますよね?」
「朝と昼は二人が作ってくれとるし、アタシだけサボったら悪いやん」
真緒がちはやの手を掴む。
「いいですか、禁止です! サボリじゃありません。今の仕事が一区切りつくまで、夕飯づくりは禁止です!」
「でも……」
「私と杏さんで、レトルトやレンチン食でも買っておきますから。それをしばらくは夕飯にしましょう。今は結構、美味しいのがあるんですよ。料理をする時間があるなら、その時間は睡眠を取ったり休んだりしてください! お願いですから!」
ちはやが目を閉じる。
「……アタシ、ご飯作らんでえぇん?」
つぅ……と涙が伝い、ベッドに染みた。
「休んでもえぇんや……」
「当たり前じゃないですか!」
杏は手を伸ばし、ちはやに布団をかけた。
「わたしたち、一緒に楽しく過ごしたくてこのルームシェアを始めたんですよ。ちはやさんに負担をかけるためではありません。このままだと、わたしたちの望んだ生活じゃなくなっちゃいます。せっかく一緒にいるんですから、こんな時は頼ってください」
「杏コ……」
真緒が照明のスイッチに手を掛ける。
「今日はもう休めますか? 同人ゲームのシナリオ書いていたくらいですから、休めますよね?」
「……うん」
「じゃあ」
真緒は容赦なく部屋の明かりを消す。
「今日は閉店です、おやすみなさい」
「……おやすみ」
暗闇の中ごそごそと布団を引き上げるちはやを見届け、二人は部屋を出て扉を閉める。間もなくいびきが聞こえて来た。
「……もう寝た。よっぽど限界だったんですね、ちはやさん」
「うん。明日は、夕飯に良さそうな冷食を買って帰ろうか、真緒ちゃん」
二人はちはやの眠りを妨げないよう、リビングへ移動する。
「今は冷食でも、ワンプレートで色々揃ってるのもありますよね。そんなのを試すのも楽しそうです」
「うん。わたしたちが夕飯を手作りすると、ちはやさんが気に病むかもしれないから、あえてのレンチンでしばらくは過ごそう」
「おけでーす。それから、この機会にお弁当屋さんやお総菜屋さんを開拓するのはどうですか?」
「それいい! あと、どこかで物産展やってたら、そこで買うのもちはやさんの気分転換になりそう」
「ちょっと楽しくなってきましたね」
三週間が過ぎた。
日曜の午後、音が漏れぬようヘッドホンを付けてドラマを楽しんでいた杏の背後に、ゆらりとちはやが現れた。
「び、びっくりした!」
気配に気づいた杏は心臓を押さえながら、片手でヘッドホンをはずした。
「どうしました? 何か必要なものがあれば買ってきますが」
ちはやはヘアバンドをはずし、ぐっと親指を立てて見せる。
「脱稿」
「え、だっこう……?」
音で受け止めると咄嗟に理解できなかった言葉が、一呼吸の後に頭の中で漢字に変わる。
「あ、脱稿! お仕事片付いたんですね、おめでとうございます」
杏が小さくぱちぱちと手を叩く。その音に誘われるように、真緒の部屋の扉が開いた。
「終わったんですか、ちはやさん」
「おん、チェック待ちやけど。リテイク来るまではひとまずは解放」
「お疲れ様です!」
真緒もぱちぱちと手を叩いた。
「つっかれたぁ~」
ちはやはソファにどっと倒れ込む。
「温泉行きたい」
「温泉ですか?」
杏と真緒が顔を見合わせる。
「今から日帰り温泉できるとこなんて、この辺にありましたっけ?」
「スーパー銭湯があんねん」
ちはやはスマホで検索し、地図を開いて見せる。
「ほら、ここ」
「あ、結構豪華な造り」
「駅と逆方向にこんなとこあったんですね」
「よっしゃ、行こか!」
ちはやは勢いよく部屋に戻るとリュックを掴み、玄関へ真っすぐ向かおうとする。
「駄目ですよ!」
杏が慌ててちはやを引き留める。
「徹夜明けの温泉は命にかかわりまず。今日は一旦寝てから、自宅のお風呂で我慢してください」
「えー……」
真緒は部屋に戻ると、何やら丸いものを持ち出してくる。
「ほら、とっておきのバスボム使いましょう。温泉は次の機会に」
「バスボムは嬉しいけど、せっかくやから非日常感を味わいたいんよなぁ」
「じゃあ、こんなのはどうです?」
真緒は脱衣所にアロマキャンドルを置く。そして浴室の明かりを消した。
「こうすると、間接照明みたいでおしゃれだと思いません?」
「さすが……」
「真緒ちゃん、センスいい」
「真緒ちゃん、今夜はデリバリーで何か頼んじゃおうか」
「いいですね、それ」
杏と真緒はスマホで検索しながら、あっちがいいこっちがいいと話し合う。
その時、二人の背後で浴室の扉の閉まる音がした。続けて水音が耳に届く。
「あれっ、ちはやさん、お風呂に入っちゃいました?」
「もう……、一度寝てからって言ったのに」
「今更出ろとも言いづらいですよねぇ」
二人はやれやれと肩をすくめ、再びスマホに目を落とす。数分の後、寿司をとることが決定した。
「杏さん、届くの45分後だそうです」
「ちょうどいいタイミングかも」
その時、ふと真緒が真顔になる。
「どうしたの、真緒ちゃん」
「あの、今気づいたんですけど」
真緒が肩ごしに浴室の方向を見る。
「お風呂、明かりを消したから暗いですよね? それに静かだし」
「アロマキャンドルで、リラックスした香りもさせてるよね」
「……睡眠不足のちはやさん、大丈夫でしょうか」
ごくりと杏が唾を飲んだ。
「大丈夫じゃないかも!」
「ですよね!」
二人は弾かれたように脱衣所に飛び込む。案の定、浴室からは寝息のようなものが聞こえてきた。
「ちはやさん、起きてください! ちはやさん!」
「すみません、開けていいですか? ちはやさん!」
強引に扉を破れば、目をひん剥いたちはやが慌てて湯船の中で体を縮める。
「えっちょ、何なん!? 急に二人して!」
「よかった、起きてた……」
杏が胸を押さえて、へなへなと頽れる。
「もうっ、びっくりさせないでくださいよ」
「びっくりしたんはこっちや!」
「だって寝息みたいなのが聞こえたから」
「鼻息でかいだけや! えぇから扉閉めぇ!」
真緒に言い返すちはやの声が、浴室に反響した。
――終――
休日のブランチ時、ちはやがざっくりと発表したスケージュールに、二人は頷いた。
「でも、ちはやさんは大丈夫ですか?」
杏が心配そうに首をかしげる。
「今、大型の執筆のお仕事入ってますよね? それと並行して書けます?」
「いけるやろ。もうちょいで終わりそうやし」
杏の作ってくれたクロワッサンサンドに齧りつきながら、ちはやは笑う。
「仕事しとんのは、みんな同じやん? アタシは家でやっとるだけで、会社行っとる二人と変わらんで。それに、今までやって同じように仕事やりつつ、個人製作で企画からリリースまでやって来たんやし。今回は分担しとる分、むしろ楽勝やわ」
「ですよね」
レモンティーを飲んだ真緒が頷く。
「ちはやさん、これまで期限を決めて破ったことないですし」
ちはや・杏・真緒はそれぞれ、仕事や学業の間を縫って同人ゲームを制作し、リリースをしてきた。三人とも、雑誌やゲーム情報サイトに紹介されたこともある。
同人ゲームは、企画が立てられても完成させられるのはたったの1%だと言われている。その1%を成し遂げた人間が互いに親しみを覚え親交を深めていったのは、自然の流れだった。
事情が変わったのは、それから一週間のこと。
杏と真緒の帰宅時刻がたまたま重なり、一緒に帰宅した時だった。
「ただい……」
その言葉を遮るように、玄関入ってすぐ左の部屋の扉が勢いよく開く。
「大変や!!」
ちはやは満面の笑みで、二人を出迎えた。
「どうかしたんですか?」
困惑する杏に、ちはやは喜びを抑えきれぬと言った風情でまくしたてる。
「来てん! 仕事! スカウト! 前から仕事したいと思てた会社から、お願いしたいて!」
「わぁ、良かったじゃないですか」
靴を脱ぎ、真緒は玄関を上がる。
「どんな仕事ですか?」
「そこは契約上言われへんけど。でも、めっちゃ仕事したかったとこ!」
大人げなく小躍りするちはやを、杏は微笑ましく見守る。
「良かったですね。これから忙しくなっちゃいます?」
「んー、まぁ、そう」
「じゃあ、その仕事が終わるまで同人の企画の方は一旦ストップしましょうか」
「それはアカン!」
ちはやが足を止める。
「コンテストは八月末が締め切りやもん。仕事と並行してやらな間に合えへん」
「でも……」
「大丈夫や! お仕事は主食、同人はおやつ! どっちもいける!」
そんなことがあってから三日後。
「嘘やん!?」
ちはやはPC前で頭を抱えた。
メールボックスに届いていたのは漫画原作の執筆依頼。
「これ、1年前にアタシが登録しといたところ……」
依頼主はそれなりの有名どころ、条件もかなり良かった。
「ゲームシナリオが二本に、漫画原作一本……」
受けるか断るか三十分ほど悩んだ末に、ちはやは承諾することにした。
「あぁああ~っ、やるって返事してもた!! もう引き返されへん!」
頭を抱えて床に突っ伏す。そして勢いよく顔を上げた。
「いや、いける! 前の依頼はもうすぐ上がるし!」
ちはやは髪をきつく縛り、ヘアバンドで前髪を上げる。そして、勢いよくキーボードを叩き始めた。
「あれ?」
仕事から帰宅した杏がリビングで目にしたのは、一人でスマホをいじる真緒の姿だった。
「ちはやさんは?」
「それが……」
真緒が一枚のメモを見せる。
『ご飯食べといて。アタシは部屋で食べる』
「夕飯はいつも通り作ってくれてるんですよ」
真緒は鍋に入ったスープと、ラップのかかった料理の皿を杏に示す。
「何か怒ってるのかと思って、トイレに出てきた時に声を掛けたんですが、単純に仕事が忙しいらしいです。新しい仕事がもう一件入ったらしくて。ゆっくり食べてる暇はないってことでした」
「そうなんだ……」
杏は気遣わし気にちはやの部屋へ目をやる。だが仕事に追われている最中に、声を掛けられたくないだろう。
「じゃあ、わたしたちだけで食べようか」
「ですね」
二人は、中華スープと棒棒鶏、ニラ玉炒めの夕食を取る。
「忙しいなら、こんな凝った夕飯作らなくていいのに」
「ですよね」
真緒が頷いてスープを飲んだ。
「あ、ちはやさん食べる時間も惜しいようで。さっき丼にご飯とスープぶち込んで、上に鶏肉とニラ玉乗せて部屋に持って行きましたよ」
「えぇ……」
そんな日々が続いた。
「おはよう、真緒ちゃん。……どう?」
「杏さん。それが……」
真緒の部屋とちはやの部屋は廊下を挟んで向かい合っている。
「私が寝る時、ちはやさんの部屋の電気が点いていたんですよ。それで、さっき起きた時に見たら、やっぱりドアのすき間から光が漏れてて」
「ちゃんと寝てるのかなぁ」
「電気点けたまま寝てるのならいいんですけど。起きてる気配がするんですよね」
「ちはやさんの部屋だけ不夜城になっちゃってる」
「セキュリティ的には心強いですけど、本人が心配ですよね」
二人はキッチンに入り、いつも通りに杏は朝食を、真緒は弁当を作る。
「帰宅した時に朝食のお皿が片付いているのを見ると、ほっとするよね。ちゃんと食事はとってるんだ、って」
「それが途絶えた時が怖いんですが」
「ちょっとやめてよ、真緒ちゃん」
二人は同時にちはやの部屋の閉じた扉に目をやり、ため息をつく。
「忙しいなら夕飯作らなくていいって、何度も言ったのに」
「昨日は豚汁にオクラの和え物、サバ味噌にきんぴらごぼうでしたね」
「料理をすることが、運動や気晴らしになっているのならいいんだけど……」
「帰ってきた時、ちはやさんの倒れた姿は見たくないですね」
「真緒ちゃん、怖いって」
さらに数日が経過した。
時たま、風呂やトイレに行くとき以外、ちはやは部屋から出てこない。
杏や真緒と目が合うと、力ない笑顔を浮かべ手を振って去っていく。
そしていくら杏と真緒が訴えても、夕飯作りを休もうとしなかった。
(かなり無理しているように見えるんだけど……)
そろそろ寝ようと、杏が照明のスイッチに手を伸ばした時だった。
スマホから着信音が聞こえて来た。
「? これはパソコンの方のアドレス?」
見れば送信者はちはやになっている。添付ファイルがあるようだった。
「『お待たせしました』? なんだろう」
杏はノートPCを立ち上げる。添付ファイルを開いた瞬間、思わず息を飲んだ。
「ちょ……!」
杏は部屋を飛び出す。ほぼ同時に自室から出て来た真緒と目が合った。
「見ました?」
「見た!」
二人はちはやの部屋の扉をノックする。
「ちはやさん! ちょっといいですか? 開けますよ!」
「んぁ? どうぞぉ……」
疲れ切った承認の声を受け、杏と真緒はドアを開ける。ベッドに力なくうつぶせに倒れていたちはやは、顔を上げると血走らせた目でへらりと笑った。
「あ? もう読んでくれたん? 感想言いに来た?」
「何やってるんですか!」
普段穏やかな杏が、語気を荒くした。
「さっき届いたデータ、『同人ゲーム・メインシナリオ』ってなんですか?」
「あー、コンテストに出す作品の根幹になるシナリオ書きあがってん。キャラ別ルートはもうちょい待ってな」
「そうじゃないでしょう? どうして、まともに食事の席に着けないほど忙しい人が、同人ゲームのシナリオ書いてるんですか!?」
とろんとした目つきをしていたちはやが、普段とは違う杏の様子にようやく気付く。
「せやって……」
ちはやは目を逸らし、ぼそぼそと答える。
「アタシが今月中に書き上げな、コンテストに間に合えへんやん」
「こんな自分を大切にしない人のシナリオなんて、わたし、ゲームにしませんからね!」
ちはやは、はっと息を飲む。
「杏コ……」
目を上げれば、そこには双眸に涙をため唇を噛む杏がいた。
「えっと……」
「コンテストは、今年にこだわらなくてもいいじゃないですか」
杏が声を震わせる。
「せやけど、この八月を逃したら、次は来年で……」
「来年でいいじゃないですか。わたしたちは来年も一緒なんですから。それより今無理をして、ちはやさんに何かあったら、二度と合作出来なくなっちゃいますよ。そっちの方が嫌です」
「杏コ……」
「ちはやさん」
真緒の声も厳しい。
「私たち、忙しいなら夕飯は作らないで、って言いましたよね? どうしてそれも無視するんですか?」
「せやって……、二人とも外で働いててしんどいやん? 疲れて家に帰った時に、あったかいご飯が出来てたら嬉しいやろなぁ、って思って……」
「嬉しいですよ、普段なら。でも今は、事情が違いますよね?」
「朝と昼は二人が作ってくれとるし、アタシだけサボったら悪いやん」
真緒がちはやの手を掴む。
「いいですか、禁止です! サボリじゃありません。今の仕事が一区切りつくまで、夕飯づくりは禁止です!」
「でも……」
「私と杏さんで、レトルトやレンチン食でも買っておきますから。それをしばらくは夕飯にしましょう。今は結構、美味しいのがあるんですよ。料理をする時間があるなら、その時間は睡眠を取ったり休んだりしてください! お願いですから!」
ちはやが目を閉じる。
「……アタシ、ご飯作らんでえぇん?」
つぅ……と涙が伝い、ベッドに染みた。
「休んでもえぇんや……」
「当たり前じゃないですか!」
杏は手を伸ばし、ちはやに布団をかけた。
「わたしたち、一緒に楽しく過ごしたくてこのルームシェアを始めたんですよ。ちはやさんに負担をかけるためではありません。このままだと、わたしたちの望んだ生活じゃなくなっちゃいます。せっかく一緒にいるんですから、こんな時は頼ってください」
「杏コ……」
真緒が照明のスイッチに手を掛ける。
「今日はもう休めますか? 同人ゲームのシナリオ書いていたくらいですから、休めますよね?」
「……うん」
「じゃあ」
真緒は容赦なく部屋の明かりを消す。
「今日は閉店です、おやすみなさい」
「……おやすみ」
暗闇の中ごそごそと布団を引き上げるちはやを見届け、二人は部屋を出て扉を閉める。間もなくいびきが聞こえて来た。
「……もう寝た。よっぽど限界だったんですね、ちはやさん」
「うん。明日は、夕飯に良さそうな冷食を買って帰ろうか、真緒ちゃん」
二人はちはやの眠りを妨げないよう、リビングへ移動する。
「今は冷食でも、ワンプレートで色々揃ってるのもありますよね。そんなのを試すのも楽しそうです」
「うん。わたしたちが夕飯を手作りすると、ちはやさんが気に病むかもしれないから、あえてのレンチンでしばらくは過ごそう」
「おけでーす。それから、この機会にお弁当屋さんやお総菜屋さんを開拓するのはどうですか?」
「それいい! あと、どこかで物産展やってたら、そこで買うのもちはやさんの気分転換になりそう」
「ちょっと楽しくなってきましたね」
三週間が過ぎた。
日曜の午後、音が漏れぬようヘッドホンを付けてドラマを楽しんでいた杏の背後に、ゆらりとちはやが現れた。
「び、びっくりした!」
気配に気づいた杏は心臓を押さえながら、片手でヘッドホンをはずした。
「どうしました? 何か必要なものがあれば買ってきますが」
ちはやはヘアバンドをはずし、ぐっと親指を立てて見せる。
「脱稿」
「え、だっこう……?」
音で受け止めると咄嗟に理解できなかった言葉が、一呼吸の後に頭の中で漢字に変わる。
「あ、脱稿! お仕事片付いたんですね、おめでとうございます」
杏が小さくぱちぱちと手を叩く。その音に誘われるように、真緒の部屋の扉が開いた。
「終わったんですか、ちはやさん」
「おん、チェック待ちやけど。リテイク来るまではひとまずは解放」
「お疲れ様です!」
真緒もぱちぱちと手を叩いた。
「つっかれたぁ~」
ちはやはソファにどっと倒れ込む。
「温泉行きたい」
「温泉ですか?」
杏と真緒が顔を見合わせる。
「今から日帰り温泉できるとこなんて、この辺にありましたっけ?」
「スーパー銭湯があんねん」
ちはやはスマホで検索し、地図を開いて見せる。
「ほら、ここ」
「あ、結構豪華な造り」
「駅と逆方向にこんなとこあったんですね」
「よっしゃ、行こか!」
ちはやは勢いよく部屋に戻るとリュックを掴み、玄関へ真っすぐ向かおうとする。
「駄目ですよ!」
杏が慌ててちはやを引き留める。
「徹夜明けの温泉は命にかかわりまず。今日は一旦寝てから、自宅のお風呂で我慢してください」
「えー……」
真緒は部屋に戻ると、何やら丸いものを持ち出してくる。
「ほら、とっておきのバスボム使いましょう。温泉は次の機会に」
「バスボムは嬉しいけど、せっかくやから非日常感を味わいたいんよなぁ」
「じゃあ、こんなのはどうです?」
真緒は脱衣所にアロマキャンドルを置く。そして浴室の明かりを消した。
「こうすると、間接照明みたいでおしゃれだと思いません?」
「さすが……」
「真緒ちゃん、センスいい」
「真緒ちゃん、今夜はデリバリーで何か頼んじゃおうか」
「いいですね、それ」
杏と真緒はスマホで検索しながら、あっちがいいこっちがいいと話し合う。
その時、二人の背後で浴室の扉の閉まる音がした。続けて水音が耳に届く。
「あれっ、ちはやさん、お風呂に入っちゃいました?」
「もう……、一度寝てからって言ったのに」
「今更出ろとも言いづらいですよねぇ」
二人はやれやれと肩をすくめ、再びスマホに目を落とす。数分の後、寿司をとることが決定した。
「杏さん、届くの45分後だそうです」
「ちょうどいいタイミングかも」
その時、ふと真緒が真顔になる。
「どうしたの、真緒ちゃん」
「あの、今気づいたんですけど」
真緒が肩ごしに浴室の方向を見る。
「お風呂、明かりを消したから暗いですよね? それに静かだし」
「アロマキャンドルで、リラックスした香りもさせてるよね」
「……睡眠不足のちはやさん、大丈夫でしょうか」
ごくりと杏が唾を飲んだ。
「大丈夫じゃないかも!」
「ですよね!」
二人は弾かれたように脱衣所に飛び込む。案の定、浴室からは寝息のようなものが聞こえてきた。
「ちはやさん、起きてください! ちはやさん!」
「すみません、開けていいですか? ちはやさん!」
強引に扉を破れば、目をひん剥いたちはやが慌てて湯船の中で体を縮める。
「えっちょ、何なん!? 急に二人して!」
「よかった、起きてた……」
杏が胸を押さえて、へなへなと頽れる。
「もうっ、びっくりさせないでくださいよ」
「びっくりしたんはこっちや!」
「だって寝息みたいなのが聞こえたから」
「鼻息でかいだけや! えぇから扉閉めぇ!」
真緒に言い返すちはやの声が、浴室に反響した。
――終――