ルームシェアを始めてから新たに購入したものの一番手はTVだった。
「わたしドラマが好きなので、買ってもいいですか?」
元々SNSで杏はさまざまなドラマの感想を発信していたので、それはちはやと真緒も納得のいくところだった。また、三人で割れば一人当たり三万ちょいで買えると言うので、特に揉めることもなかった。
購入して以降、杏が帰宅後にゆっくりとドラマを楽しむ様子が、たびたびリビングで見られた。
そしてとある日の朝。
「あの、今日は十九時から少しお騒がせすると思います」
珍しく杏と真緒の出勤前に起きて来たちはやを含め、三人で朝食を食べていた時、杏が胸の前で手を合わせ深々と頭を下げた。
「え? 何なん?」
「十九時から、『アロマ幻想曲』のミュージカルの配信がありまして。それをこの大画面で楽しませていただきたいと」
「全然いいですよ」
真緒がトーストを齧る。
「私、その頃は残業でまだ帰宅してないかもです」
「ちはやさんは、その時刻、家でお仕事ですよね?」
「そうやけど、部屋はリビングから少し離れとるし、大丈夫ちゃう?」
「わたし……っ」
普段控えめな杏が、ぐっと拳を固めて眉根にしわを寄せる。
「興奮して、奇声あげるかもしれません」
「おもろいやん」
「近所から苦情出ない程度に収めていただければ」
「それに……」
杏は両手で顔を覆う。
「感極まって。泣いているかもしれません」
「ええやん」
「SNSでもリアルタイムで発信されてますしね」
「それだけじゃなく……」
杏がそっと指の間から目をのぞかせる。
「うちわとペンライト振り回しているかもしれません」
「好きにしたらえぇやん」
「文句言う人、ここにはいませんし」
「良かった……」
杏はほっと息をつくと、急いで朝食を平らげ身支度を終えた。
「じゃあ、行ってきます!」
「え? いつもより早すぎません?」
「今日は残業するわけにはいかないので」
バタバタと慌ただしく、杏は出勤していく。
「気合入ってんなぁ」
「杏さんお好きですもんね、2.5次元舞台。あ、そう言えば」
「何?」
「ちはやさんも『アロマ幻想曲』お好きですよね? 杏さんと一緒に見ないんですか?」
「あー……」
ちはやは申し訳なさそうな顔つきになる。
「アタシ、どうも人物を声で判断しとるところがあるみたいでな」
「はぁ」
「どんなに見た目が似とっても、声が違うと、推しやって認識でけへんのよ」
「そんなことあります?」
「アタシに関してはそうやねん。せやから、2.5次元舞台にはそこまでハマらへんのよね」
ちはやの言葉に真緒は肩をすくめる。
「前から声フェチとは言われてましたけど、それはそれで厄介ですね」
十八時になった。自室のPC前でシナリオ作業をしていたちはやは、ぐっと背伸びをする。そしてデータを保存すると部屋を出てキッチンへと向かった。
杏や真緒と違い自宅仕事のちはやは、平日の夕飯づくりを担当していた。代わりに杏は朝食、真緒は全員分の弁当を担当している。休日の食事はその日の過ごし方によって様々に融通を利かせるようにしていた。
「何しょうかな~」
誰もいないキッチンで呟き、米を研ぎはじめる。杏と真緒に特に好き嫌いが無いのがありがたかった。
夕飯づくりも中盤に差し掛かった頃、鍵の開く音がして杏が帰って来た。
「おかえり~」
「ただいま! 良かった、間に合った!」
杏はいそいそと自室へ着替えに向かう。
「あの、あらかじめ言っておきますが、今日は本当にうるさいかもなので」
引き戸の向こうから衣擦れの音と共に、くぐもった声が聞こえて来た。
「えぇよ。残業なくて良かったな」
「はい、本当に!」
やがて時刻になったのか、TVには開演前の様子が大写しになる。注意の音声が流れた瞬間、杏は押し殺したような悲鳴を上げた。
歌と共にステージが証明に照らされる。キッチンカウンターから、ちはやはその様子をチラ見した。
似てはいるんよなぁ、とちはやは思う。舞台に立つ彼らは、ゲーム『アロマ幻想曲』から抜け出したような美しさだった。現実の男がここまで二次元に近づけるのかと、心の底から感心した。
杏は座ったままぴょこんぴょこんと飛び跳ねたり、「ん゛ッ!」と声を詰まらせたり、「あ~~~っ!」と掠れたような歓声を上げている。大声を上げてはちはやがうるさいだろうと、気遣っているようだった。
自分がここにいては、杏が心の底から楽しめないだろうと考え、調理を終えたちはやが自室へ引っ込もうとした時だった。
~~♪♪♪
聞こえて来た歌声に、ちはやは足を止める。そのままぐるんと180度進行方向を変え、TVに目をやった。そこにはちはやの推しのユーカリが大写しになっていた。
「ユーカリ!?」
「ユーカリですよ!」
ちはやの口をついて出た悲鳴に、杏が満面の笑みで応える。ちはやは飛び込むようにして、ソファの杏の隣に座った。
「え? え? なんで? ゲームと声同じやん? 声優さんが出とるんとちゃうよな?」
「違いますよ、ミュージカルの役者さんです。すごく歌が上手いでしょう?」
「上手いし、それに、声がそっくり!」
「この役者さんは、ゲームに声まで寄せてくれていますね」
ちはやは食い入るように画面を見つめる。
「筋肉の陰影すごい。厚みすごい。肩幅すごい! 何これすごい!」
「そうでしょう?」
杏は満足気に微笑み、うちわで口元を隠す。
「んぁっは!?」
ダァンと重い足音をたて、派手なアクションを決めたユーカリに、ちはやは身を乗り出す。
「今のん、何メートル飛んだ!? 人間の動きちゃうやん! すごっ!」
「本当ですよね! あっ、クラリセージのソロ来た! きゃ~っ!」
「ただいま~」
残業を終えて帰ってきた真緒が目にしたのは、リビングで仲良く2.5次元舞台を楽しむ二人の姿であった。悲鳴を上げたり、顔を覆って倒れたり、座ったまま飛び跳ねたりなかなかに忙しそうだ。
「ちはやさん、声が違うとハマれないって言ってたのに」
しかし考えてみれば、ちはやは元々『アロマ幻想曲』のユーザーだ。やはり、推しが立体になった姿は楽しいのだろう。
(私はプレイしてないから、よく分からないけど)
そんなことを思いながら、ソファの後ろから真緒が何気なく画面に目をやった時だった。
「ん゛ッ!!」
真緒は口を押えてその場に崩れ落ちた。
「真緒ちゃん?」
気配に気づき、杏が振り返る。
「どないしたんや、具合悪いんか?」
「違っ……、今……!」
真緒が口元を抑えたまま、ぶるぶると震える指先を画面に向ける。
「イケオジが……!」
真緒の指差した先では、一人の演者がアップになっていた。長台詞の見せ場のようだ。
「えっ、麝香さん?」
「前に真緒ちが、若者やからイケオジやないって言ったキャラやんな」
「皺……!」
真緒はついに顔全体を両手で覆ってしまう。
「口元の皺が、すごくいい感じで!!」
杏は画面に目を戻す。
確かに照明の加減で口元の皺がやや目立ってしまっていた。それに演者自身はアラフォーだ。
本来ならマイナスになりかねない要素が、逆に真緒のツボに入ったらしい。
「真緒ちゃんもこっちおいで、一緒に見よ」
杏がソファをぽんぽんと叩くと、真緒はそこにとすんと腰を下ろす。
三人はきゃあきゃあとはしゃぎながら、最後まで楽しんだ。
「すみません、杏さん」
興奮の冷めやらぬままの夕食の席で、真緒が頭を下げる。
「杏さんが楽しみにしてたステージ、横でうるさくしてたから、集中できませんでしたよね」
「ほんまや、せっかく楽しみにしてたやろに邪魔してもた。ごめんな」
謝る二人に、杏はパタパタと手を振る。
「そこは大丈夫。期間中は何度でも見られるようになってるから。見たくなったらまた一人で見るね。円盤だって買う予定。それに」
杏は幸せそうに目を細める。
「二人が一緒に楽しんでくれたの嬉しかった。何より御新規さんの新鮮な悲鳴は健康にいい」
ほくほくとした笑みの杏に、二人はほっとする。
「あ、真緒ちゃん! 麝香さんの役者さん気に入ってたよね?」
「は、はい。いい感じに熟成された雰囲気が」
「同じ人が出演してる、別のミュージカルの円盤持ってるよ! 今度見せようか?」
「えっ?」
ここから杏による、怒涛のプレゼンが始まるのであった。
「わたしドラマが好きなので、買ってもいいですか?」
元々SNSで杏はさまざまなドラマの感想を発信していたので、それはちはやと真緒も納得のいくところだった。また、三人で割れば一人当たり三万ちょいで買えると言うので、特に揉めることもなかった。
購入して以降、杏が帰宅後にゆっくりとドラマを楽しむ様子が、たびたびリビングで見られた。
そしてとある日の朝。
「あの、今日は十九時から少しお騒がせすると思います」
珍しく杏と真緒の出勤前に起きて来たちはやを含め、三人で朝食を食べていた時、杏が胸の前で手を合わせ深々と頭を下げた。
「え? 何なん?」
「十九時から、『アロマ幻想曲』のミュージカルの配信がありまして。それをこの大画面で楽しませていただきたいと」
「全然いいですよ」
真緒がトーストを齧る。
「私、その頃は残業でまだ帰宅してないかもです」
「ちはやさんは、その時刻、家でお仕事ですよね?」
「そうやけど、部屋はリビングから少し離れとるし、大丈夫ちゃう?」
「わたし……っ」
普段控えめな杏が、ぐっと拳を固めて眉根にしわを寄せる。
「興奮して、奇声あげるかもしれません」
「おもろいやん」
「近所から苦情出ない程度に収めていただければ」
「それに……」
杏は両手で顔を覆う。
「感極まって。泣いているかもしれません」
「ええやん」
「SNSでもリアルタイムで発信されてますしね」
「それだけじゃなく……」
杏がそっと指の間から目をのぞかせる。
「うちわとペンライト振り回しているかもしれません」
「好きにしたらえぇやん」
「文句言う人、ここにはいませんし」
「良かった……」
杏はほっと息をつくと、急いで朝食を平らげ身支度を終えた。
「じゃあ、行ってきます!」
「え? いつもより早すぎません?」
「今日は残業するわけにはいかないので」
バタバタと慌ただしく、杏は出勤していく。
「気合入ってんなぁ」
「杏さんお好きですもんね、2.5次元舞台。あ、そう言えば」
「何?」
「ちはやさんも『アロマ幻想曲』お好きですよね? 杏さんと一緒に見ないんですか?」
「あー……」
ちはやは申し訳なさそうな顔つきになる。
「アタシ、どうも人物を声で判断しとるところがあるみたいでな」
「はぁ」
「どんなに見た目が似とっても、声が違うと、推しやって認識でけへんのよ」
「そんなことあります?」
「アタシに関してはそうやねん。せやから、2.5次元舞台にはそこまでハマらへんのよね」
ちはやの言葉に真緒は肩をすくめる。
「前から声フェチとは言われてましたけど、それはそれで厄介ですね」
十八時になった。自室のPC前でシナリオ作業をしていたちはやは、ぐっと背伸びをする。そしてデータを保存すると部屋を出てキッチンへと向かった。
杏や真緒と違い自宅仕事のちはやは、平日の夕飯づくりを担当していた。代わりに杏は朝食、真緒は全員分の弁当を担当している。休日の食事はその日の過ごし方によって様々に融通を利かせるようにしていた。
「何しょうかな~」
誰もいないキッチンで呟き、米を研ぎはじめる。杏と真緒に特に好き嫌いが無いのがありがたかった。
夕飯づくりも中盤に差し掛かった頃、鍵の開く音がして杏が帰って来た。
「おかえり~」
「ただいま! 良かった、間に合った!」
杏はいそいそと自室へ着替えに向かう。
「あの、あらかじめ言っておきますが、今日は本当にうるさいかもなので」
引き戸の向こうから衣擦れの音と共に、くぐもった声が聞こえて来た。
「えぇよ。残業なくて良かったな」
「はい、本当に!」
やがて時刻になったのか、TVには開演前の様子が大写しになる。注意の音声が流れた瞬間、杏は押し殺したような悲鳴を上げた。
歌と共にステージが証明に照らされる。キッチンカウンターから、ちはやはその様子をチラ見した。
似てはいるんよなぁ、とちはやは思う。舞台に立つ彼らは、ゲーム『アロマ幻想曲』から抜け出したような美しさだった。現実の男がここまで二次元に近づけるのかと、心の底から感心した。
杏は座ったままぴょこんぴょこんと飛び跳ねたり、「ん゛ッ!」と声を詰まらせたり、「あ~~~っ!」と掠れたような歓声を上げている。大声を上げてはちはやがうるさいだろうと、気遣っているようだった。
自分がここにいては、杏が心の底から楽しめないだろうと考え、調理を終えたちはやが自室へ引っ込もうとした時だった。
~~♪♪♪
聞こえて来た歌声に、ちはやは足を止める。そのままぐるんと180度進行方向を変え、TVに目をやった。そこにはちはやの推しのユーカリが大写しになっていた。
「ユーカリ!?」
「ユーカリですよ!」
ちはやの口をついて出た悲鳴に、杏が満面の笑みで応える。ちはやは飛び込むようにして、ソファの杏の隣に座った。
「え? え? なんで? ゲームと声同じやん? 声優さんが出とるんとちゃうよな?」
「違いますよ、ミュージカルの役者さんです。すごく歌が上手いでしょう?」
「上手いし、それに、声がそっくり!」
「この役者さんは、ゲームに声まで寄せてくれていますね」
ちはやは食い入るように画面を見つめる。
「筋肉の陰影すごい。厚みすごい。肩幅すごい! 何これすごい!」
「そうでしょう?」
杏は満足気に微笑み、うちわで口元を隠す。
「んぁっは!?」
ダァンと重い足音をたて、派手なアクションを決めたユーカリに、ちはやは身を乗り出す。
「今のん、何メートル飛んだ!? 人間の動きちゃうやん! すごっ!」
「本当ですよね! あっ、クラリセージのソロ来た! きゃ~っ!」
「ただいま~」
残業を終えて帰ってきた真緒が目にしたのは、リビングで仲良く2.5次元舞台を楽しむ二人の姿であった。悲鳴を上げたり、顔を覆って倒れたり、座ったまま飛び跳ねたりなかなかに忙しそうだ。
「ちはやさん、声が違うとハマれないって言ってたのに」
しかし考えてみれば、ちはやは元々『アロマ幻想曲』のユーザーだ。やはり、推しが立体になった姿は楽しいのだろう。
(私はプレイしてないから、よく分からないけど)
そんなことを思いながら、ソファの後ろから真緒が何気なく画面に目をやった時だった。
「ん゛ッ!!」
真緒は口を押えてその場に崩れ落ちた。
「真緒ちゃん?」
気配に気づき、杏が振り返る。
「どないしたんや、具合悪いんか?」
「違っ……、今……!」
真緒が口元を抑えたまま、ぶるぶると震える指先を画面に向ける。
「イケオジが……!」
真緒の指差した先では、一人の演者がアップになっていた。長台詞の見せ場のようだ。
「えっ、麝香さん?」
「前に真緒ちが、若者やからイケオジやないって言ったキャラやんな」
「皺……!」
真緒はついに顔全体を両手で覆ってしまう。
「口元の皺が、すごくいい感じで!!」
杏は画面に目を戻す。
確かに照明の加減で口元の皺がやや目立ってしまっていた。それに演者自身はアラフォーだ。
本来ならマイナスになりかねない要素が、逆に真緒のツボに入ったらしい。
「真緒ちゃんもこっちおいで、一緒に見よ」
杏がソファをぽんぽんと叩くと、真緒はそこにとすんと腰を下ろす。
三人はきゃあきゃあとはしゃぎながら、最後まで楽しんだ。
「すみません、杏さん」
興奮の冷めやらぬままの夕食の席で、真緒が頭を下げる。
「杏さんが楽しみにしてたステージ、横でうるさくしてたから、集中できませんでしたよね」
「ほんまや、せっかく楽しみにしてたやろに邪魔してもた。ごめんな」
謝る二人に、杏はパタパタと手を振る。
「そこは大丈夫。期間中は何度でも見られるようになってるから。見たくなったらまた一人で見るね。円盤だって買う予定。それに」
杏は幸せそうに目を細める。
「二人が一緒に楽しんでくれたの嬉しかった。何より御新規さんの新鮮な悲鳴は健康にいい」
ほくほくとした笑みの杏に、二人はほっとする。
「あ、真緒ちゃん! 麝香さんの役者さん気に入ってたよね?」
「は、はい。いい感じに熟成された雰囲気が」
「同じ人が出演してる、別のミュージカルの円盤持ってるよ! 今度見せようか?」
「えっ?」
ここから杏による、怒涛のプレゼンが始まるのであった。