翌日の昼休み、宗介は迎えにこなかった。当たり前だ。あんな酷い態度を取ったのだから。こんな俺のことなんて、きっと嫌いになってしまっただろう。
俺は机に突っ伏した。何も考えなくて済むように寝てしまおうと思っても、他の人のお弁当からいい匂いがするし、寝不足ってわけでもないから全然眠れない。そればかりか、心の底に閉じ込めていたはずの記憶が勝手によみがえって、鮮明に再生された。
――七海のトスって、上手いけど機械みたいで気持ち悪い。
母さんの死から立ち直れず、慣れない土地で周囲は知らない人ばかり。俺は上手く周りに馴染めなかった。小学生の頃は誇らしかった精度の高いトスも、口数の少なさと相まって機械のようだと不気味がられた。中一で先輩からポジションを奪ってしまって、チームメイト全員から無視をされた。
物を隠されたり捨てられたりという悪質なものではなく、コートの外では存在しない者として扱われた。実害がなくたって、心はじりじりとすり減っていく。でも、誰にも言えなかった。父さんはとても忙しそうで、余計な心配をかけられない。監督はとても怖い人だったから、相談したら「お前が弱いからだ」と怒られる気がして何も言えなかった。
嫌な記憶だ。大好きだったはずのバレーボールまで嫌いになってしまいそうで、俺は無理を言って母方の祖父母の家からこっちの高校に通わせてもらうことにした。スポーツ推薦の誘いをすべて断って、一般受験で。
祖父母の家から近いから。それが高校を選んだ理由だった。でも、諦めきれていない自分が、心の隅に居座っている。だって、俺は知った上で受験した。星崎学園が、全国常連の強豪校だってことを。
宗介は、俺とバレーをしたがっていた。その確固たる感情から目をそむけた俺に対して怒っていた。こんな弱虫と友だちになった覚えはないと、背中を向けられてしまうだろうか。想像しただけで、鼻の奥がツンと痛くなる。
バレーボールは好きだ。だからこそ嫌いになりたくない。バレー部に入って宗介とプレーできたら、俺はきっと嬉しい。また嫌われたらどうしよう。恐怖と思慕が一緒くたになって、俺の心を蹂躙する。
よく分からない。自分自身の気持ちが。
午後の授業が終わり、ホームルームが終わって学校を出る。一度家に帰って予習復習をして、六時半を目安に家を出た。向かう先は自転車で十分の所にある市民体育館。俺が引っ越す前から既に古かった、少しホコリくさいけれど懐かしい場所。地域の社会人バレーボールチームの長谷川さんという女性がばあちゃんと昔からの知り合いで、練習に混ぜてもらえるよう話をしてくれたのだ。
「颯ちゃん、いらっしゃい!」
「こんばんは、よろしくお願いします」
ぺこりと一礼して中に入り、隅っこでシューズの靴ひもを結ぶ。中学時代に使っていた物ではサイズが合わなくなってしまって、入学式の帰りにじいちゃんに新しいのを買ってもらった。部活に入る予定もないのに、それでもバレーがしたいだなんて、随分とワガママで勝手な孫だと思う。
男女混合チームなので、性別問わず十一人が所属している。俺が入ると、ちょうど六対六の試合形式ができると歓迎してくれた。とはいえ、飛び入りでお邪魔させてもらっている立場だ。支柱を率先して運び、急いでネットを張る。週二回の練習で、今日が三度目の参加だ。
念入りにストレッチをして、サーブ練習が始まる。市民体育館はあまり広くなくて助走が満足に取れないので、エンドラインぎりぎりから無心でサーブを打っていると、ガラゴロと入り口の鉄扉が開く音がした。
仕事で遅れてくる人もいるから、途中参加は珍しくない。でも、今日は全員そろっている。誰だろうと意識をそちらへ向けて、驚きでボールを手からこぼしてしまった。
「失礼します!」
「宗介くん、いらっしゃい」
呆気にとられる俺をよそに、みんな歓迎ムードだった。
「急にお邪魔してすみません。あ、コレばあちゃんからっす」
「あら、ありがとう」
長谷川さんに果物っぽい何かが入ったビニール袋を渡した宗介は、迷いなく俺を見た。昨日の今日で立ち直るメンタルなんて装備していなくて、顔ごと視線をそらす。逃げ場がなかった。
「颯太」
不思議なほどによく通る声は、昔から変わらない。体育館が、静寂に包まれた。
「……何しにきたの」
「お前と話しにきた。ここ通ってるって聞いたから」
「悪い?」
「悪くない。颯太がまだバレーを諦めてなくて、俺、すげー嬉しいんだ」
関係ないと突き放したのに、宗介は心の底から嬉しそうに破顔した。嫌われてなかった。安堵で腰が抜けそうになるのを、気合いで耐える。
「練習終わるまで待ってるから。ごめんな、邪魔して」
「……ほんとにね」
「見学しながら待ってっから」
「えー、いいよ、見なくて」
「颯太のトス、久々に見たいんだよ」
そう言った宗介は、舞台裏から勝手に持ってきたパイプ椅子を広げて座った。
サーブとスパイクの練習が終わり、メインの試合形式が始まった。俺は控えチームのセッターとしてトスを上げる。味方が必死に拾ったレシーブを、アタッカーへつなぐのが主な役割だ。
「颯ちゃん、持ってこい~!」
「渡辺さん!」
ボールの落下点へ素早く移動して、弾き出す。ボールに書かれた文字が読めるくらい静かで柔らかなトスを上げられると、それだけでワクワクする。アタッカーが気持ちよさそうにスパイクを打ってくれる瞬間が、セッターをやっていて一番楽しい。やっぱり俺はバレーボールが好きなんだって、トスを上げる度に再認識する。
約二時間の練習を終えるまで、宗介が声をかけてくることはなかった。クールダウンもそこそこに片付けを始める。体育館を借りているから、部活動よりも終了時間に厳しい。赤白のアンテナをクルクルと回していた俺に、長谷川さんが耳打ちした。
「颯ちゃん。今日は早く上がんなさいな」
「え、でも片付けが」
「いいのいいの。いつも率先してやってくれてるでしょ? それに、宗介くんが待ってるから」
「それは、あいつが勝手に……」
待っているだけで、と続けようとした俺の横っ面に、意思の強い眼差しが刺さる。見すぎだと眉を下げた俺に、長谷川さんが苦笑した。
「ごめんねぇ、おばちゃんの所為なんだ」
「……え?」
「宗介くんのおばあちゃんに、颯ちゃんがここでバレーしてるよって話しちゃったから」
「そう、なんですね」
「辛い思いをしてここへ来たのに……ごめん。おばちゃん、勝手なことしたね」
肩をしゅんと落として謝る長谷川さんに、俺は慌ててかぶりを振った。
「いえ、ここでバレーさせてもらって、感謝してます。俺も、あいつとちゃんと話さなきゃって思ってたし」
このまま終わってしまうのは嫌だ。宗介とずっと友だちでいたいって気持ちは、本物だから。
「すみません、お言葉に甘えさせてもらいます」
「うん。気をつけてね」
「はい、失礼します!」
シューズを脱ぎ、超特急で着替えて、椅子を元の位置に返却して戻ってきた宗介の腕をつかんで体育館を出る。お疲れさまでした。ここへきた時の宗介に負けないくらい、声を張り上げた。
まだ冷たい春の夜風が、汗ばんだ額を冷やしてくれた。見上げた空で輝く星は、都会で見たよりもずっと綺麗だ。
「……なあ、颯太」
体育館を出てからずっと黙っていた宗介が、ようやく俺の名前を呼んだ。足は止めずに、何? と聞き返す。向かう先が近くの公園だと分かったのだろう。宗介は静かに、着いたら話すとつぶやいた。
夜の公園は暗かった。公園灯は一つしかなく、しかも死にかけで、古びたベンチを不気味に照らしている。朽ち果てそうなピンク色が二人分の体重を支え切れるだろうかと心配になったが、それは杞憂に終わった。並んで座ると、宗介が口火を切る。
「ごめん。急に押しかけて」
「うん。びっくりしてボール落としちゃった」
「バレー、続けてたんだな」
「宗介からしたら、あれは続けてるうちに入らないかもしれないけど」
「それでも、嬉しかったよ。俺は」
慎重に言葉を選んでいるのだろう。膝の上で組まれた手が、そわそわと落ち着きなく動いている。
「話って、何? バレー部入れって?」
「っ、それもそう、だけど……謝りたかったんだ。悪かった。ちゃんと話も聞かずに、怒ったりなんかして」
「もしかして、中学の時の話、長谷川さんに聞いた?」
「ん。俺、すげー無神経だったよな」
「宗介は昔から、割りと無神経なところあるよ」
「マジか」
「うん……っふふ、昔っから、全然変わってない」
「そうか?」
「そうだよ。すごく、安心した」
お互いに、もう怒ってなんかなかった。顔を見合せて笑う。俺は久しぶりに、心の底から笑えた。
「つーか、今日のお前見て思ったんだよ。やっぱり、颯太のトスは綺麗だなーって」
「……うん」
――颯ちゃんのトスは綺麗ねえ。
何気なく放ったであろう宗介の言葉に、母さんの笑顔が重なった。じわじわと景色が歪んで、唇が震える。堪えきれる気がしなかった。
「でさ、お前のトス、また打ちたいなって本気で思って……って、颯太? え、俺なんか変なこと言ったか……?」
「言ってない」
「じゃあ、なんで泣くんだよ」
「分かんない。勝手に出てきた、だけ」
三年間、一度たりも言われなかった言葉だ。必要とされていなかった。でも、俺は必要とされたかった。だって、セッターだから。
慌てる様子がおかしくて、俺は泣きながら笑った。ジャージの袖で涙を拭われると、頬がひりひりして痛い。
「颯太」
「っ、ん」
「俺はお前に、バレー部に入ってほしいんだ」
涙の向こうに映る顔は、いつになく真剣な顔だ。
「ねえ、宗介。俺……怖かったんだ。全員から無視されたり、機械みたいで気持ち悪いって言われたり。ひとりぼっちは怖いよ。それなら、最初から諦めて、関わらないほうがいい。そう思わない?」
暗い雰囲気にはしたくなくて、わざと明るく言った。俺は今、笑えているだろうか。
宗介は肯定も否定もしなかった。できなかったのだと思う。多少無神経なところはあれど、やさしくて、愛されるべき存在で、俺とは真逆の立ち位置にいるから。昔から、宗介は俺の太陽だった。
自分で選んで口にした言葉は、少なからず心に傷をつけた。できれば永遠に封印しておきたい過去。でも、宗介と向き合う為には必要な痛みだ。
震えているのを隠したくてギュッと強く握った手を、宗介の大きな手のひらが包み込んだ。ハッとして顔を上げる。温かな手のひらも、小さく震えていた。
「それでも俺は、颯太とバレーがしたい」
「……宗介だって泣きそうじゃん」
「だって、俺、すげーワガママ……颯太が苦しいって分かってるのに、俺は、お前とのバレーを諦めきれない」
涙を湛える双眸が、まっすぐに俺を見ていた。
星崎学園のバレーボール部には、五島宗介がいる。俺を必要としてくれる、頼もしいエースが。一歩踏み出すのはとても怖い。それでも。
俺は、どうしたい? 自分に問いかける。
宗介ともう一度、大好きなバレーがしたい。
「……ほんとに、ワガママだよね」
「ごめん」
「でも、そのワガママなところ、嫌いじゃないし」
「うん」
「バレー部って、一般受験組でも入部できるの?」
「……っ!」
自分から誘ってきたくせに、宗介は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で俺を見た。大きな手のひらが、じわりと汗ばむ。
「ふふ。宗介、アホづらだ」
「颯太、っ、ほんとにいいのか……?」
「うん。もう少し、頑張ってみる」
「よっしゃあー! ありがとう、颯太ぁ!」
「っ、苦しいよ、宗介」
勢いよく抱きしめられて、うぐっと変な声が出た。
「監督にも、昨日の時点で話はしてあったんだ。JOCの東京代表のセッターがいるんだって」
「えー……気が早くない? みんなの期待に応えられるか分からないよ、俺」
「大丈夫だよ。颯太なら……違うな。颯太と、俺ならさ」
温もりが離れていく。改めて見た宗介の顔は涙でぐしゃぐしゃで、せっかくのカッコよさが台無しだった。ぶさいく、とつぶやきながら、今度は俺が袖で拭う。
「あはは、いてーよ颯太」
宗介が涙声で言った。バレーボール以外の力加減は昔から苦手だ。
「我慢して。拭いてあげてるんだから。あ、そうだ。そういえば宗介、部活は?」
「終わってからダッシュできた」
「え、じゃあご飯は?」
「まだ。めちゃくちゃ腹減った」
「バカじゃん! 早く帰らなきゃ」
「ん。じゃあ、また明日な。部活の準備、してこいよ」
「うん」
帰ったら、じいちゃんたちに話そう。バレーボール部に入るって。驚かれるだろう。最初はとても心配されるかもしれない。でも今は、怖さよりもワクワクする気持ちのほうが強かった。俺は一人じゃないって、久しぶりに思えたから。