三年ぶりに戻ってきた故郷は、大きく様変わりしていた。駅前はインターロッキングが敷かれてオシャレな雰囲気になっていたし、電車の窓から見えたショッピングモールは、引っ越す前はまだ建築中だった。
 まるで知らない場所にやってきたかのような疎外感。俺は一人ぼっちのロータリーでポツンと立ち尽くしていた。
 じいちゃんと約束していた時間は一時半。現在、一時二十五分。あと五分で車がくるとは思えない静けさだ。田舎だなぁ、と思う。中学へ進学すると同時に引っ越した先は、かなりの都会で息が詰まった。
 たまたま近くを散歩していた黒猫と遊んでいると、遠くからドルル、と低いエンジン音が聞こえてきた。猫はシッポの毛を逆立て、ぴゃっと飛び上がって逃げてしまった。

「颯太ぁ、すまん、遅くなった」

 ミニバンの窓から顔を出したのは、久しぶりに会うじいちゃんだった。申し訳なさそうに眉を下げ、エンジン音に負けない声を出すかんばせは、前より少しだけシワが深くなっている気がする。
 俺はゆっくりと立ち上がり、助手席のドアを開けた。

「迎えありがと。じいちゃん」
「おうよ。久しぶりだなぁ。何年ぶりだ」
「三年、かな」
「父さんは元気か?」
「うん。相変わらず、忙しそうにしてるけど」

 俺がシートベルトを締めたのを確認して、車がゆっくりと動き出した。駅前の交差点を右折し、ミニバンは昔の面影を残した大通りを法定速度で走る。
 十分ほどで、ミニバンは祖父母の家へ到着した。駐車場から臨む昔ながらの平屋は何一つ変わっていなくて、緊張がほんの少しだけほぐれる。ホッと息を吐いた。

「颯ちゃん、おかえりぃ。久しぶりねぇ」
「ばあちゃん、久しぶり。元気だった?」
「もちろん、元気だったよぉ。さぁさ、疲れたでしょう。ゆっくりお茶でもしましょうか」

 玄関で出迎えてくれたエプロン姿のばあちゃんは、記憶の中より少し小さくなっていた。母さんそっくりな柔らかい笑顔に、胸がきゅーっと苦しくなる。悟られないように口をきゅっと結んで、スニーカーを脱いだ。
 その日の夜は、駅前の大通りにある鮨屋から届いたお寿司を三人で囲んで、腹いっぱい食べた。二人とも、俺の食べる量が増えていて驚いていた。俺だって高校生の育ち盛りだ。身長はまだ百七十三センチしかないけれど、まだまだ伸びる予定ではある。父さんがそこそこ大きいから、期待はできるはず。
 食後のお茶が入った湯のみにふうふうと息を吹きかけていると、ばあちゃんが台所から両手いっぱいの柑橘類を持ってきた。ご近所の佐々木さんからいただいたらしい。顔を近づけ鼻を鳴らす。爽やかな香りがした。

「ばあちゃん、何これ」
「デコポンよ。デザートにしましょ」
「甘い?」
「どうかしらね」
「剥いたから食べてごらん」

 じいちゃんが剥いてくれたひと欠片を食べてみる。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。

「颯ちゃん。これ、お母さんのところに持って行ってあげて」
「うん。分かった」

 鮮やかなオレンジ色を二つ手にして、隣の和室の襖を開ける。床の間で静かに存在する仏壇に供え、手を合わせた。
 小学校を卒業する直前、母さんが死んだ。葬式の直後、父さんの転勤が決まった。祖父母宅へきたのは、それ以来のことだった。
 明後日から、俺はこの家から高校へ通う。決まっているのはそれだけ。何が起こるか分からない。できれば何事もなく、平穏な日々が続くことを願っている。






 それは、入学式から一週間が経ったとある休み時間の出来事だった。クラスメイトと会話はするものの、特定の誰かとつるむことなく過ごしていた俺は、次の授業科目である化学の教科書を抱えて教室を出た。大きな窓から見えるのは、雲ひとつない春の空。差し込む日差しが暖かい。こぼれそうになったあくびをくっと噛み締めた刹那。背後から、誰かが俺の名前を呼んだ。

「颯太!」

 廊下の隅から隅まで響きわたる大きな声に、俺だけでなく、目に見える範囲にいた全員が目を丸くする。聞いたことのない声音なのに、ひどく懐かしい響きだった。
 足を止めて振り返る。俺を呼び止めたそいつは、ニコッと人好きのする笑みを浮かべて駆け寄ってきた。肩を組まれ、逃げ場を失う。

「お前、やっぱり七海颯太だよな。え、俺のこと覚えてる?」
「……そ、宗介。五島宗介だろ」
「覚えてんじゃん、うわ、嬉しい」

 覚えているもなにも、たったの三年で忘れるわけがない。同じ小学校に通い、同じバレーボール部で共に戦った、元チームメイトだ。あの頃は余裕がなくて何も告げずに突然引っ越してしまった所為で、連絡先も分からず疎遠になっていた。
 声変わりで随分と甘い低音に変わっていたから、顔を見るまで誰だか分からなかった。成長して多少大人びたけれど、はっきりとした目元や意志の強そうな眉、笑った時に見える八重歯はそのままで懐かしくなる。相変わらずの距離の近さもそのままだ。

「こっち戻ってきてたんか」
「うん。じいちゃん家から通うことになった」
「中学でも一緒だと思ってたから、引っ越したって聞いてすげぇビックリした」
「ごめん。何も言わずにいなくなって」
「ま、事情は色々あるからな。しゃーないだろ」

 宗介はそれ以上追及してこなかった。母さんのことは近所だったから知っているだろうけれど、同情ではなく「しゃーない」と笑ってくれる相手なんて、きっとこの世で宗介しかいない。
 予鈴が鳴った。三年ぶりの再会だったが、もちろん授業が優先だ。たくましい腕からするりと抜け出すと、まだ聞きなれない甘さを帯びた低音が、慌てたように俺を呼ぶ。

「っ、颯太」
「俺、化学室行かなくちゃ」
「昼休み、迎え行くから。一緒にメシ食お」
「ん。いいよ。じゃ、昼休みね」

 声は、震えていなかっただろうか。まぶしくて直視できないまま、俺は逃げるように廊下を駆けた。




 宗介は、本当に教室まで俺を迎えにきた。突然現れた陽キャがぼっちの俺を訪ねてくるのだ。カツアゲでもされるんじゃないかと心配そうなクラスメイトに曖昧に笑って、弁当袋を片手に宗介を追いかける。

「空き教室で食おうぜ」
「天気いいし、外でもいいんじゃない?」
「颯太、すぐ日焼けすんだろ。覚えてんぜ。大会ん時、外で練習してたら真っ赤になって「痛いよ~」ってべそかいてた」
「うわ、何年前だよ」
「四年前」

 そんなこと覚えていなくていい、と広い背中にグーパンチを食らわせる。いて、と宗介は笑ったけれど、体幹が強いのかびくともしなかった。
 自習室が並ぶ特別教室棟三階の一番奥は、現在誰にも使われていない空き教室になっていた。寂しそうに並んだ机と椅子は中央の数台分だけ、動かされた形跡がある。宗介はそのうちの一つに着席し、俺を手招いた。

「たまにバレー部の連中とここでメシ食うんだよ」
「そうなんだ」

 巾着袋の中からタッパーを取り出した。ばあちゃんは料理好きで、いつも何種類ものおかずをぎゅうぎゅうに詰めてくれる。

「すげぇ。自分で作ってんの?」
「違う。ばあちゃんが毎朝作ってくれてる」
「そっか。お前の母ちゃんも料理上手だったもんな。練習試合ん時とか、いつも羨ましくてさ」
「そっちのお弁当だっていいじゃん。ザ・スポーツ男子って感じで」

 鶏の照り焼きにブロッコリーに白米。筋肉が成長しそうなラインナップだ。

「身体作らないと練習ついていけないって、ほぼ毎日これだからなぁ。もちろん作ってくれるのはありがたいけど……あ、でも照り焼きはマジで美味い。颯太も食べてみる?」
「じゃあ、おかず交換しよっか」
「いいの? やった」
「カップごと取っていいよ」

 俺がタッパーを差し出すと、宗介はその中でひじき煮のカップを選んだ。そういえば、昔から和食が好きだったよな、と懐かしくなる。
 照り焼きの大きな一切れをもらって、どちらからともなく手を合わせた。小学生の頃に所属していたバレーボール部の監督が、礼儀作法に厳しい人だったことを思い出す。俺の人生が、最も色鮮やかに輝いていた時代だ。
 俺は真っ先に、ツヤツヤと輝く鶏の照り焼きを頬張った。皮目がパリッとしていて、身の部分はプリプリしていて、美味しい。あまじょっぱい味付けに、白米をかきこんだ。

「おいひい」
「そりゃ良かった。母ちゃんにも言っとくよ。颯太が同じ学校にいて、照り焼き食って喜んでたって」
「びっくりするかな」
「びっくりすんだろ。だって、颯太だし」

 幼い頃はよく家に遊びに行ったし、遊びにもきていた。引っ越す前は、五島家の二軒隣が俺の家だったからだ。

「ところで、颯太はどうして一組なんだ?」
「え、クラス分けで一組だったからだけど」
「スポーツ特進だったら五組か六組だろ。俺は五だから、颯太はてっきり六かと思った」
「ああ、宗介はスポーツ特進か」

 星崎学園は、バレーボール部とサッカー部と陸上部が何度も全国に出場する強豪校だ。小学生の頃から頭ひとつ抜けた絶対的エースだった宗介が進学先として選んでいても、何も不思議ではない。

「お前は、誘われてきたんじゃねぇの?」
「俺は一般受験だよ。推薦じゃない」
「なんで」
「なんでって、何」

 箸を止めて顔を上げると、宗介は真剣な眼差しで俺を見ていた。少なくとも、喜びや歓迎の類いではない。まっすぐすぎる視線から逃れたくて、ふいと目をそらす。

「バレーは? やめたのか」
「高校ではね。部活としてはもういいかなって」
「向こうでも、声はかかったんだろ」
「うん。でも、ぜんぶ断った」
「ふざけんな、なんで」

 低い声が俺を責め立てる。昔からおおらかで温厚な宗介の怒りを浴びて、胸が細い糸で引き絞られるような心地がした。
 流されてはいけない。期待をさせて結局裏切るなら、突き放したほうがいい。上履きの爪先を擦り合わせながら、俺は続ける。

「別に、宗介には関係ないから」
「関係なくない。俺は星崎で全国行って、どこかの高校でバレーしてる颯太と試合すんのが夢だったんだよ」
「……勝手に押し付けないでよ。重いよ」
「だってお前、バレー大好きだったじゃん」

 堪えるような、微かに震えた声をしていた。おそるおそる視線を上げた先で、宗介は厚い唇をぎゅっと噛み締めていた。

「今でも好きだよ。だから、嫌いになる前に辞めようと思った」
「っ、どうして」
「もういいでしょ。これ、ぜんぶあげる。じゃあね」
「颯太」
「タッパーは返しても返さなくてもいいよ」
「颯太、おい」
「ごめんね、宗介」

 これ以上は、俺が耐えられなかった。きっと宗介はみんなに愛されて、エースとしてチームメイトを引っ張って、大好きなバレーボールを続けてきたのだろう。
 俺は違う。誰にも必要とされていなかった。
 苦しかった。これ以上、弱い俺を見られたくなくて、俺は逃げ出した。宗介は追いかけてこなかったけれど、俺は無我夢中で廊下を走った。