【#Introduction】
静寂に包まれた空間。
ステージの中央に立ち、スポットライトを浴びる。
ピアノの音色が優しく響く。
目を閉じて、呼吸を整えて、歌い出す。
歌い出しは、優しく包み込むように。
ピアノとアコースティックギターの柔らかい音に合わせて、そっと囁くように音と言葉を紡ぐ。
サビは、軽やかに弾むように。
バンドの音が加わって、アップテンポになる。
指を鳴らして、足踏みして、リズムに合わせて体を揺らす。
自然と会場から手拍子が起こる。
会場に一体感が生まれる、この瞬間が好き。
「今日はありがとうございました」
そう言って深く一礼すると、場内が大きな拍手で包まれた。
客席に手を振って、ステージ袖でもう一度礼をしてステージを降りる。
これで、今日のコンサートは終了。
無事に終わった安心感と、終わってしまったという寂しさ。
良い歌が歌えたという充実感と、心地よい疲労感。
そんな色んな気持ちが混ざり合う中、まだ鳴りやまない会場の拍手を聞いてもう一度ステージに向かい、アンコールに応えて大切な歌を歌った。
「お疲れ様でした~」
楽屋に戻ると、スタッフのみんなが笑顔で迎えてくれた。
「今日も皆さんのお陰で素晴らしいコンサートが出来ました。ありがとうございました。乾杯!」
「乾杯!」
スタッフが用意してくれた紙コップにそれぞれがお酒やジュースを注いで、乾杯をした。
今日も最高のステージだったな。
お茶を飲んで一息つくと、改めてそんな充実感と喜びが胸いっぱいに溢れた。
歌手になってステージに立つことは、私の幼い頃からの夢だった。
その夢が叶って、こうしてコンサートができることは本当に嬉しいし、幸せなこと。
物心ついた時から、歌うことが大好きだった。
両親も、私の歌声を誉めてくれた。
「結音の歌声は聴いているだけで心が安らぐ。将来はたくさんの人の心を癒す歌手になれる」
そう言われて、小さな頃から歌手を目指してヴォイストレーニングに通っていた。
色々なシンガーオーディションやコンテストを受けてきた。
そして、高校3年生の夏休みに参加したオーディションでは準優勝まで残った。
優勝ではなかったけれど、その時の審査員の方々が私の歌をとても気に入ってくれて、高校卒業後に正式にデビューが決まった。
現在デビュー2年目の20歳だけど、これといったヒット曲はない。
新曲をリリースしても、ヒットチャートの上位にランクインしたことはない。
私自身、メディア出演よりもコンサート活動を大事にしているから、世間的な知名度も低い。
プロとしてデビューした以上は、“売れる”ことを考えなければいけないのはわかっている。
だけど、私は歌うために、歌手になったんだ。
音楽が持つ無限の力を信じて、本当に伝えたいことを歌いたい。
私は歌うために生まれてきた。
そう信じているから、今日も私は歌っている。
【#1】
「今週の音楽ランキング第1位は、琴吹 愛歌『SECRET MOON』!」
事務所へ向かう途中、信号待ちをしていた時に街頭ビジョンに映し出されたのは人気歌姫と言われている琴吹さんの新曲MV。
私と同じように信号待ちしている人も通りすがりの人達も、一瞬顔を上げてビジョンに視線を向けている。
騒がしい雑踏の中でも大音量で響く琴吹さんの歌声は、かつて一世を風靡したアーティストとどことなく声が似ている。
「愛歌の新曲、今回も1位なんだね」
「だって両親が人気アーティストでしょ? 事務所にめちゃ推されてるし、売れて当たり前だよ」
どこからか聴こえてきた会話に、思わず聞き耳を立ててしまう。
やっぱり、世間の人達の反応はそういうものなんだ。
琴吹さんは、私の両親が若かった頃に大人気だったシンガーソングライターの琴吹 響さんと、律歌さんの一人娘らしい。
響さんも律歌さんも今だに現役で活動していて、コンサートを開催すれば満員になる実力派だ。
「超人気アーティストを両親に持つ歌姫が満を持してデビュー!」と大々的に謳われた琴吹さんは、4年前当時16歳のデビュー時からずっとランキング上位を獲得している。
それは親の七光だとか大手事務所の強力プッシュのおかげだと言われているけれど、たとえそうだとしても、これだけ多くの人に知られて楽曲がヒットしていることは同じ歌手として純粋に羨ましいし、凄いことだと思う。
いつか私もランキングトップになりたい。
そう心に強く願って、私は歩き出した。
* * *
「結音ちゃん、大ニュース!」
マネージャーの篠崎さんが、事務所の会議室に入るなり勢いこんでそう言った。
「どうしたんですか?」
「新曲が大手企業のCMに起用されるの!」
あまりの勢いに困惑しながら尋ねると、興奮気味に声を弾ませた答えが返って来た。
「ホントですか!?」
「ホントよ。今日はそのCMについてもミーティングするって……」
篠崎さんがそう言いかけたところでドアをノックする音が聞こえた。
そして、私が所属する音楽事務所・リトル・ウィングスの社長と見知らぬスーツ姿の男性が入ってきた。
「紹介しよう。シャインミュージックの佐伯さんだ」
「初めまして。シャインミュージック 商品宣伝部の佐伯と申します」
社長のあとに続いてそう言いながら、佐伯さんが名刺を差し出した。
名刺には【商品宣伝部 部長】と書かれている。
シャインミュージックと言えば、日本で知らない人はいない超有名大手レコード会社だ。
もしかして、さっき篠崎さんが言っていた大手企業のCMって、シャインミュージックのCMってこと?
「この度、弊社が提供する音楽アプリのCMソングに鈴原さんの曲を起用させて頂くことになりました」
佐伯さんが笑顔でそう言った。
音楽アプリのCMソング? 突然すぎて思考がついていかない。
「実は佐伯さんがこの前のミュージック・オーディションで放送された結音ちゃんの歌を聴いてとても感動したそうなんだ。ぜひもっと多くの人に君の歌を聴いてほしいということで決めてくれたんだよ」
社長が経緯を説明してくれて、やっと少しずつ状況が呑み込めてきた。
「では、まず今回のCMについて、概要をお話します。今回のCMのキャッチフレーズは、“大好きな音楽がいつも一緒なら世界が輝く”。
大好きな音楽をいつでもどこでも聴けることによって、世界が輝くというのがコンセプトです。イメージモデルに今人気急上昇中のモデルの夜咲 凛さんを起用し、今回のCMに出演が決定しています」
「凛ちゃんが出演するCMなんですか?」
「はい。凛さんが出演するということで、話題性も充分あるかと思います」
夜咲 凛ちゃんは、10代に人気のロリータファッション誌『Sweet Girls』でモデルデビューした、女子中高生を中心に圧倒的な人気を誇っているモデルさん。
そんな人気モデルが出演する有名企業のCMソングなんて夢みたい。
「そして鈴原さんについては、【七色の声を持つ実力派シンガーソングライター】というキャッチコピーを考えているのですが、いかがでしょうか?」
「七色の声、ですか」
今まで言われたことのない言葉だ。
「透明感のある綺麗な声」とか「心癒すピュアヴォイス」という表現はよくされてきたけど。
「鈴原さんは低音から高音まで幅広い音域で歌えるだけでなく、歌い方や声のバリエーションに富んでいる。まさに七色の声を持っている、と私は感じたんです」
佐伯さんの言葉はとてもわかりやすく、納得のいくものだった。
確かに、私は曲の雰囲気や曲調によって発声の仕方や声音を変えて、よりその曲が持つ世界観にふさわしくなるように歌っている。
それは、私が歌う上でとても大切にしていることであり、こだわっていること。
それをしっかり理解してもらったうえで考えてくれた言葉なんだ。
「ありがとうございます。とても素敵なキャッチコピーだと思います」
シンプルだけど深い意味があって、私を的確に表現してくれている言葉だと思う。
「CMのオンエア開始日は6月1日なので、それに合せてレコーディングのスケジュールを調整して頂ければと思います」
「わかりました」
「それでは、私はこのあと別件で会議があるので、今日はこれで失礼します。今後とも宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
私も席を立ってそう言いながら深々とお辞儀をした。
慌ただしく会議室を出ていく佐伯さんの背中を見送りながら、小さく息を吐き出す。
なんだか、まだ信じられない……。
突然降って来た大きすぎる話に、まるで現実感がない。
「お疲れ様。改めて、今後のスケジュールについて話そうか」
そんな社長の一言で我に返った私は、もう一度席に着いた。
「そういうわけだから、これから少し忙しくなると覚悟してほしい。タイアップ曲のボーカルレコーディングはゴールデンウィーク中に終わらせる予定だ。それと、レコーディングにはサポートミュージシャンとしてギタリストの遠坂 由弦くんが参加してくれることになった」
「え!? ホントですか?」
「ああ。彼は業界内で実力派のイケメンギタリスとして評判が良くて有名だから、ダメもとでうちの事務所に所属のオファーをしてみたんだけどね。結音ちゃんの歌をとても気に入ってくれて、快諾してくれたよ」
「そうなんですね」
「良かったね、結音ちゃん」
隣で、篠崎さんも嬉しそうにしている。
遠坂 由弦さんは、最近人気急上昇中のサポートギタリスト。
腕前や実力は多くの人気ミュージシャンも認めていて、大物と言われるアーティストのレコーディングやライブのサポートギタリストとして活動している。
そして見た目もいわゆるイケメンで、ギタリストを目指す男子だけではなく、サポートミュージシャンながら女性ファンも多いらしい。
もちろん私もその存在を知っていたけど、まさか一緒に仕事ができるなんて……。
なんだか今日は嬉しい出来事ばかりで怖いくらいだ。
「今回はうちの事務所にとっても初の大型タイアップだから、みんな気合い入れてやっていくよ。結音ちゃんにとっても大チャンスだから、一緒に頑張ろう」
「ありがとうございます!」
社長の一言でやっぱり本当のことだと実感して、嬉しくて満面の笑みで答えた。
* * *
レコーディング当日。
都内にあるレコーディングスタジオに向かい、まずは遠坂さんのマネージャーだという一色さんに挨拶をした。
「初めまして、鈴原 結音です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って微笑んだ一色さんは、いかにも仕事が出来そうなマネージャーという雰囲気の男性だった。
「由弦はすでにレコーディングルームに入っているので案内します。こちらにどうぞ」
一色さんに案内されて階段を下りると、地下にレコーディングルームがあった。
中に入って一色さんがそう言うと、スタッフ数人と話をしていた遠坂さんがこちらに歩いて来た。
「初めまして、遠坂 由弦です。よろしくお願いします」
「鈴原 結音です。よろしくお願いします」
私が挨拶をした時、遠坂さんが私の顔を見て一瞬戸惑ったような表情を浮かべた気がした。
「それでは、始めましょうか」
疑問に思ったけれど、スタッフに声を掛けられて我に返ったらしい遠坂さんはすぐに視線を逸らし、早速アレンジ構想のミーティングが始まった。
先週レコーディングしたというストリングス・アレンジのインストバージョンと私の仮歌が入っているデモバージョンを聴きながら、それぞれイメージを膨らませる。
アレンジの構想が決まると、今度は遠坂さんが実際にギターを演奏してイメージするサウンドと世界観により近づけていく作業に入る。
まずは、事前に思いついたフレーズやメロディーをダビングした音源を聴かせてもらって、気に入ったものがあればそのまま本番のレコーディングで使うし、イメージに合わなければもう一度考えてくれるらしい。
でも、私は事前にダビングした音源で大満足だった。
「最初から私のイメージ通りです! 一度この音源で歌ってみていいですか?」
興奮気味に言って、レコーディングブースの中へ入った。
そして、スタッフに音源をかけてもらいながら歌い始めた。
流れてくる遠坂さんの音を聴きながら歌ってみると、彼の作った音と私の歌はとても合っていると実感した。
「やっぱりこの音源すごく曲に合ってるし、歌いやすいです!あとはイントロとサビでストリングスと同じフレーズ弾いてもらっていいですか?」
「うん、その方が優しくて温かみのある感じになりそうだね」
私の意見に納得して、早速用意してあったアコースティックギターを手に遠坂さんがメロディーを奏でる。
そしてコードやメロディーを打ち合わせしながら決めていき、そのままスムーズにギターダビングが終了した。
「まだ時間あるから仮歌も録ってみる?」
「そうですね、歌ってみます!」
スタッフさんからの提案に頷いた私は、レコーディングブースに入ってマイクの前に立つと、目を閉じて精神を集中させる。
そして「お願いします」という言葉を合図に、歌録りが始まった。
歌詞ひとつひとつに想いを込めて歌っていく。
遠坂さんのギターのおかげで、良い歌が歌えている。
ラストまで歌い終えると、周りから拍手が起こった。
「結音ちゃん、今の歌すごく良かったよ~!」
「歌も今日の一発録りで良いんじゃない?」
ブースから出た途端にスタッフの方達からそんな言葉がもらえた。
「そうですね。社長にも聴いてもらってOK出たら今日のテイクでいいかも」
私も、今の歌はかなり自信のあるテイクになったから。
「今日は遠坂さんのおかげで、本当にいい歌が歌えました。ありがとうございました」
「いや、こちらこそ素晴らしい歌が聴けて本当に感動したよ。ありがとう」
私の言葉に、遠坂さんが笑顔でそう返してくれた。
初めての遠坂さんとのレコーディングはとても順調で、今からリリースが楽しみに思える素晴らしい作品になった。
【#2】
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世界は歌で溢れている
耳を済ませば聴こえる
心を彩る虹色に輝く歌
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6月に入ってすぐ、予定通りCMのオンエアが開始された。
凛ちゃん出演のCMということで話題になり、注目を集めている。
「誰が歌っているのか」「いつ発売されるのか」という問い合わせも急増しているらしい。
CMでは楽曲タイトルしか表記されていないから、みんな誰が歌っているのか気になるみたい。
敢えて歌手名を出さない、というのはシャイン・ミュージックのCMスタッフの提案。
そのアイディアは大成功で、【人気モデルが出演するCMソングに問い合わせ殺到】と芸能ニュースでも取り上げられるほど。
予想以上の大反響に事務所も嬉しい悲鳴だと篠崎さんが言っていた。
タイアップが決まってからは、ジャケット撮影やMV撮影、シングルに同時収録する楽曲のレコーディングをして。
毎日が慌ただしく過ぎて、気がつけばシングルリリースまであと1週間に迫ったある日。
私は今後の活動についてのミーティングのため、事務所に向かった。
2階にある会議室に行くと、まだ誰も来ていなかった。
部屋の壁に掛けてある時計を見ると、開始時間20分前。
早く来すぎちゃったかな…と思ったその時、ドアをノックする音がした。
「失礼します」
そう言って中に入って来たのは遠坂さんだった。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。CMソング、かなり話題になってるし、いい感じだね」
挨拶すると、遠坂さんが笑顔でそう言ってくれた。
「ありがとうございます。遠坂さんに素敵な演奏してもらえたおかげです」
「いやいや、そんなことないよ。鈴原さんの歌は聴く人の耳と心を一瞬で惹きつける力がある。初めて歌を聴いた時、とても感動したよ」
お世辞ではなく、本心でそう思ってくれているのが表情や言い方から伝わって来る。
数多くのアーティストと仕事をしてきた音楽業界の先輩からそんな言葉をもらえると、自分の歌が認めてもらえたような気がしてもっと頑張ろうって思う。
「これからもいい歌が歌えるように頑張ります」
私が笑顔でそう言った時、再びドアをノックする音がしてドアが開いた。
「ふたりとも早いわね」
そう言いながら、篠崎さんが席に着いたところでミーティングが始まった。
「今日はふたりに重大ニュースがあるの」
「重大ニュース?」
「そう。夏休み中に行われるNテレビ局主催の音楽イベント『NTV Music Fes』の出演が決まったの。しかもふたりが出演する日には、今大人気の歌姫、琴吹 愛歌ちゃんも出演するから、メディアからかなり注目されると思うわ」
琴吹 愛歌ちゃんは、今出す曲全てランキング1位を獲得している超人気歌姫だ。
そんな人気アーティストと同じ日にステージに立つなんて。
「……なんか色んなことがありすぎて夢みたい」
「夢じゃないよ。そういうわけで、これからますます忙しくなるから覚悟して」
思わずそうつぶやくと、篠崎さんがマネージャーの表情になった。
* * *
「ランキング初登場5位おめでとう!」
会議室に入ると篠崎さんに開口一番そう言われた。
「え?」
「今日付の週間音楽ランキングで、『虹色の歌』が初登場5位にランクインしてるの」
篠崎さんがそう言いながらスマホでランキングサイトを見せてくれた。
確かに5位に鈴原 結音の名前が出ている。
「まさかいきなりTOP5入りするなんて、さすがCMタイアップね」
7月に入ってすぐ、タイアップシングルの『虹色の歌』がついに発売された。
CM効果のお陰で初日からセールスはとても好調だと言われていたけど、まさか初登場で5位になれるとは思っていなかった。
私にとってランキングTOP10入りは、デビューしてから初めて。
正直なところ、売上が伸びないということは私の歌は世間一般の感性とは合わないからかもしれないという不安な気持ちがあった。
自分の歌や歌に対する想いに自信がないわけではないけど、このままでいいのかなという迷いや不安があったのも事実。
だけど、信じて続けていれば、こうしてちゃんと結果につながるんだ。
やっと自分の音楽を認めてもらえたような気がして、嬉しさで胸の奥がじんと熱くなった。
私が感動に浸っているとドアをノックする音がして、スタッフさん達が入って来て「新曲ランクインおめでとう!」とみんな笑顔で言ってくれた。
「ありがとうございます!」
こうしてみんなに「おめでとう」って言ってもらえるって、こんなに嬉しいことなんだ。
「この勢いで来月のイベントでの初ライブも成功させようね」
「はい!」
篠崎さんの言葉に笑顔で頷いた。
* * *
数日後、いよいよイベントのリハーサルが始まった。
都内にあるスタジオで、遠坂さんと音を合わせながらアレンジや構成を考えていく。
遠坂さんがどんどんアイディアを出してくれているから、リハーサルは順調に進んでいる。
そして一緒に音を合わせていくほど、遠坂さんの演奏する音は私の歌とよく合っているなと感じる。
遠坂さんが私の歌に合わせてくれているっていうのも、もちろんあるんだけど。
それだけじゃなくて、きっとお互い持っている感性がすごく似ているんだ。
それぞれの曲のイメージや世界観を、言葉で説明しなくても音でわかりあえる感じ。
そして、イベント前日。
「よし、じゃあキリがいいから少し休憩しようか」
一通りの演奏を終えて休憩することになり、私は飲み物を買うため自販機へ向かった。
明日が本番だから、喉を痛めないように温かいものにしよう。
ホットココアを買ってリハーサル室に戻ると、遠坂さんはソファに座ったまま眠ってしまっていた。
毎日ハードスケジュールみたいだから、相当疲れているんだろうな。
起こさないようにそっと、部屋に置いてあったブランケットをかける。
キーボードの前に座って、ホットココアを飲みながら譜面を見て音を頭の中で確認していると、
「……カノン……?」
遠坂さんの声が聞こえた。
「あ、目覚めました?」
「ごめん、もしかして俺かなり寝てた?」
「ほんの15分くらいですよ。遠坂さんもハードスケジュールでお疲れですよね」
「いや…ホントごめん。……これ、鈴原さんが持ってきてくれたの?」
「はい」
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして。でも、なんか親近感わいちゃいました」
「え?」
私の言葉に、遠坂さんは意味がわからないというような表情になった。
「遠坂さんって、いつもクールに仕事こなしてる感じだから。眠くなって寝ちゃうこともあるんだなって思って」
「そりゃあ、俺も人間ですから」
「あはは。そうですよね」
ふたりで笑い合いながらも、私はさっき遠坂さんが口にしたカノンという言葉が気になっていた。
曲名じゃなくて誰かの名前なのかな?
もしかして、恋人の名前とか……?
聞きたいけど、プライベートなことだし、失礼かな。
「じゃあ、明日に向けてもうひと頑張りしようか」
何事もなかったように明るく言った遠坂さんの様子を見て、やっぱり聞かない方がいいかもしれないと思った。
そして、最後のリハーサルが再開された。
【#3】
イベント当日は朝から綺麗な青空が広がっていた。
会場はテレビ局の敷地内にある特設野外ステージで、今日は私を含め5組のアーティストが出演する。
中でも一番注目を集めているのが、今大人気の歌姫である琴吹さんだ。
今日集まっているお客さん達は、ほとんどが琴吹さんのファンらしい。
私の出番はトリを務める琴吹さんの前。
「鈴原さん、スタンバイお願いします」
スタッフから声がかかった。
「……はい」
琴吹さん目当てのお客さんに、私は受け入れてもらえるのかな……。
さっきまでの会場の様子を見る限り、かなり厳しい気がする。
そう考えると、途端に緊張とプレッシャーが襲ってきて、足が竦む。
「大丈夫だよ。鈴原さんは鈴原さんらしく歌えばいい」
隣にいた遠坂さんが、私の気持ちを察したようにそんな言葉をかけてくれた。
「そうですよね。ありがとうございます」
こんな風にさりげなく緊張を和らげてくれるところ、さすがだなと思う。
「さぁ、行こう」
「はい」
遠坂さんの言葉に背中を押されて、私はステージへ向かった。
「続いては、CMソングで注目を集めた七色の声を持つ実力派シンガー、鈴原 結音さんの登場です」
司会のNテレビ局アナウンサーの言葉を合図にステージに出ると、会場から拍手が起こった。
「こんにちは、鈴原 結音です。今日は短い時間ですが、私の歌の世界を楽しんで頂ければと思います。よろしくお願いします」
最初のMCのあと、ステージ中央に置かれたキーボードの前に座って準備を始めた。
今回は私が自らキーボードを弾きながら歌う。
客席から、少しだけど手拍子が聞こえてきた。
どう盛り上がったらいいかためらっているようだけど、歌に合わせて乗ってくれるのは嬉しい。
歌いながらふと上を見上げると、雲ひとつない青空が広がっている。
野外のコンサートはこうして自然に触れながら歌えるからいいな。
風も空も、歌の世界を盛り上げてくれる最高の演出になるから。
客席の様子を見ると、みんな真剣な表情で聴き入ってくれていた。
そしてあっというまにラストの曲。
「早いもので、次の曲が最後となります。最後は、皆さんもご存知のあのCM曲です」
というMCのあとに演奏したのは、もちろん『虹色の歌』。
イントロから手拍子が起こり、この曲なら知ってるという安心感が客席から伝わって来た。
最初は少ししか聴こえなかった手拍子も、ラストは綺麗に揃って大きく響いた。
「ありがとうございました」
礼をして、ステージを降りる。
私のファンじゃない人がほとんどだったとは思うけど、最後はみんな笑顔で手拍子してくれて良かったな。
なんて思っていたけど、このあとに厳しい現実を思い知ることになるんだ。
「さぁ、お待たせ致しました! 次が本日のイベント最後の出演者となります。同年代から圧倒的な支持を得ている人気歌姫、琴吹 愛歌さんです!」
司会のアナウンサーがそう言った瞬間、会場にものすごい歓声が響いた。
そして、ステージに琴吹さんが登場すると、
「愛歌ちゃん~!」
「愛歌~!」
ファンの人達が興奮状態で名前を叫び始めた。
「みんな、いくよ~!」
琴吹さんの一言で、また客席から大歓声があがって、1曲目の演奏が始まった。
ノリノリのダンスナンバーに、客席は総立ちでリズムに合わせて手を振ったり、一緒に歌ったりしている。
1曲目から、ものすごい一体感だ。
琴吹さんが曲に合わせて振りを踊りながら歌っている。
客席もサビで綺麗に揃った手振りをしている。
「やっぱり、すごい。琴吹さん」
バックステージでライブの様子を見ながら、思わずそんな言葉をつぶやく。
琴吹さん自身の、華やかなオーラをまとう圧倒的な存在感。
ファンの人達のライブでの一体感とノリの良さ。
これが超人気アーティストのライブなんだ。
こうして今一番売れているアーティストと共演すると、差がはっきりと目に見えてしまう。
たった1曲CMで話題になってランキングに入ったくらいでは、一般の人達の支持を得ることなんてできないんだ。
ただ歌や音楽が好きというだけでは、やっていけないのかもしれない。
改めてこの世界の厳しさを思い知らされた気がした。
「次の曲は、切ないヒミツの恋をテーマに詞を書いた曲です。聴いてください。『SECRET MOON』」
琴吹さんがそう紹介すると、会場から拍手が起こった。
『SECRET MOON』は2週連続でランキング1位を獲得してロングヒットした曲で、琴吹さんの代表曲。
切ないメロディーと歌詞が同世代の間で“泣ける”と大人気のラブ・バラードだ。
「若い子受けする歌だな」
隣で私と同じように遠坂さんの歌を聴いていた遠坂さんが呟いた。
「やっぱり、ラブソングを書いた方がヒットしますよね」
「同世代の共感は得やすいね。……でも、時代の共感を狙った歌は飽きられるのも早いけどな」
「え?」
「爆発的に売れてメディア露出が増えるほど飽きられやすい。時代や流行に乗って作り上げられた歌手よりも、心から伝えたい歌を歌い続ける歌手の方が、俺は好きだよ」
「………」
もしかして遠坂さん、私が落ち込んでいるのに気づいてる?
さりげない優しい言葉に、心が温かくなった。
「祇園精舎って習わなかった?」
「……えっ?」
突然突拍子もないことを言われて、思わず間抜けな返事をしてしまった。
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり―ってやつ」
「習いました。平家物語ですよね?」
「そう。音楽界や芸能界って、まさにあの言葉通りだと思うんだ。どんなに人気があっても、永遠にその人気が続くことはない。いつか必ず人気が落ちる時がくる。ただ売れればいいっていうものでもない。長続きするには、流されない強さや信念が大事なんだ。俺は色んなアーティストと仕事をしてきてつくづくそう思ってる」
遠坂さんの言葉はすごく深くて、心に響いた。
“大事なのは流されない強さや信念”
もう一度遠坂さんの言葉を心の中で繰り返す。
重く沈みかけていた心が少し軽くなった気がした。
「みんな、今日は来てくれてありがとう~!」
遠坂さんと話しているうちに、いつの間にか琴吹さんも全曲を歌い終えていた。
客席は名残惜しそうな表情で琴吹さんに向かって歓声をあげている。
青空は夜空に変わり、綺麗な三日月が出ていた。
こうして約3時間半に渡るイベントは無事に幕を閉じた。
イベント終了後、Nテレビ局近くにあるお店でイベント関係者と出演者の打ち上げが行われた。
大きな窓から夜景が見られる素敵なお店。
運ばれてくる料理も、一流のシェフが作る美味しいものばかりだ。
みんな、お酒や料理を楽しみながら歓談している。
そして、歓談する人達の中でも一際目立っているのは琴吹さん。
たくさんの人に囲まれていて、時々楽しそうな笑い声が聞こえる。
そんな様子を少し離れた席で見ていたら、
「……あの、お隣いいかな?」
誰かに声をかけられた。
声をかけてきたのは、現役大学生シンガーの音羽さん。
ほんわか癒し系の声とメッセージ性の強い詞が魅力のアーティストだ。
篠崎さんに、雰囲気や声が私に似ていると言われたことがある。
年齢も私と近いから親近感もあって、共演出来るのを密かに楽しみにしていた。
「私、『虹色の歌』大好きなの。だから、今日は生で聴けて本当に感動した」
「こちらこそ、そう言ってもらえてすごく嬉しいです。ありがとうございます」
とお礼を返したその時。
「っていうか大物出さないと人集まらないですもんね~」
琴吹さんの言葉が聞こえた。
突然の爆弾発言に、一瞬周りが静かになった。
「あ、愛歌ちゃん」
近くにいたスタッフが慌ててる。
「あ、ごめんなさ~い」
そう言ったものの、琴吹さんはあまり気にしている様子もない。
「色んな意味ですごいね、琴吹さん」
音羽さんが苦笑いしながら言った言葉に、私も無言で頷いた。
イベントスタッフや関係者がたくさんいる打ち上げの席であんなことを堂々と言えるなんて……。
「琴吹さんって、関係者の間ではワガママ歌姫で有名らしいよね」
音羽さんがジンジャーエールを飲みながら声を潜めて言った。
「ワガママ歌姫?」
「とにかく自分が一番じゃないと気が済まないっていうか。常に自分が注目されてないとイヤみたい。まあ、両親も人気アーティストだから、小さな頃からいろんなところでVIP待遇されてきたんだろうけど」
「……そうなんですか」
確かに、女王様体質っぽい雰囲気だけど。
ふと琴吹さんの方に視線を向けると、遠坂さんの隣に座って楽しそうに話している。
その光景を見て、なぜかほんの少しだけ寂しいような悲しいような気持ちになった。
「やっぱり琴吹さん、遠坂さんのところに行ってる。イケメンミュージシャンで有名だから狙ってるってウワサ、本当だったのかも」
「……え?」
そんなウワサが広まってるの?
「琴吹さんって、売れるためには手段を選ばない子らしいから」
その言葉の意味を、この時の私はまだわかっていなかったんだ。
イベント翌日は、予想通り芸能ニュースで取り上げられ、話題になった。
だけどライブの映像はほとんど琴吹さんのもので、私も含め他の出演者の映像はほんの数秒しか流れず、メディアでは完全に琴吹さんメインの扱いだった。
「やっぱり今は愛歌ちゃんの時代だよね」
篠崎さんが、残念そうに呟いていた。
それは実際にイベントに出演してよくわかった。
私は世間一般では人気も知名度もまだまだなんだなって。
私は琴吹さんみたいにはなれないって。
【#4】
イベントから1週間後。
私は今後の活動ミーティングのため事務所の会議室へ向かった。
部屋に入ると、すでにマネージャーの篠崎さんが席に着いて待っていた。
「結音ちゃんの次のシングルの発売が決まったよ」
「え、もう?」
「『虹色の歌』が関係者の間でも評判良くて、新作を期待してる声が多いの。年明けリリース予定だけど、今回は条件があるのよ」
「……条件?」
条件ってなんだろう?
その時、ドアをノックする音が聞こえて、レコーディングスタッフと社長が入って来た。
社長がミーティングに出席するなんて、また何か大きな話?
「篠崎さん、新曲リリースの条件についてはもう話したかな?」
「いえ。今ちょうど話そうとしたところです」
「そうか。じゃあ、私から話そう」
社長は席に着くと、私に視線を向けて言った。
「次のシングルは、ラブソングを書いてほしいんだ」
「ラブソング?」
「そう。ぜひチャレンジしてみてほしい」
いきなりそんなこと言われても……。
「来月末までに候補曲を準備してほしい」
戸惑う私を気にせず、話は続けられる。
「みんな楽しみにしてるからね」
篠崎さんの言葉に、レコーディングスタッフも私に期待の眼差しを向けて頷いている。
「わかりました」
……とは言ったものの。
「……書けない」
あれから数週間が経った、9月のある日。
今年は例年よりが夏の終わりが早くて、窓の外は本降りの雨。
自分の部屋で、作詞をしているところなんだけど。
“ラブソング”ということを考えると、どうしても曲が浮かんでこない。
好きな人や彼氏がいれば、こんなに悩むこともなく実体験で曲が書けるのかもしれないけど、残念ながら現在の私には彼氏どころか好きな人さえいない。
そんな私にラブソングを書けなんて、かなり無理な話だと思うんだけど……。
「はぁ…」
思わずため息をついたその時、近くに置いてあったスマホの着信音が鳴った。
「もしもし?」
「あ、結音ちゃん? 曲作りの方は進んでる?」
電話をかけてきたのは、マネージャーの篠崎さんだった。
「全然ダメです」
「そっか。突然だけど明日事務所に来てくれる?」
「明日、ですか?」
「そう。実はクリスマスコンサートが決まったの。だから、そのミーティングってことで」
「わかりました」
「じゃあ、明日午後1時からでよろしくね」
電話を切ったあと、もう一度ため息をついた。
こんな時に限ってどんどん次のスケジュールが決まっていくんだ。
今月中には詞を完成させないといけないのに…間に合うのかな…。
翌日、事務所の会議室でクリスマスコンサートについてのミーティングが行われた。
公演日は12月24日のクリスマスイブ。
会場は都内にある教会で、テーマは“聖夜に響く天使の歌声”。
衣装は天使をイメージしたものにしようという意見が出た。
どんどんクリスマスコンサートの構想が決まっていく。
「では、また来週もよろしくお願いします。お疲れ様でした」
篠崎さんの言葉を合図にミーティングが終了した。
「結音ちゃん、新曲の作詞もよろしくね」
帰り際、篠崎さんに声をかけられて、今一番やらなければいけない仕事を思い出す。
正直にスランプ中だとは言い出せなくて、
「頑張ります」
苦笑しながら答えた。
それから、次のミーティングまでひたすら作詞を続けた。
いくつか候補はあるけれど、“これ!”と思える言葉が浮かばない。
自分で納得できるものが浮かばずに、書いては消し、書いては消しの繰り返し。
結局、詞が完成しないまま次のミーティングの日を迎えてしまった。
少し早めに会議室に着いた私は、鞄に入れていたノートを取り出して詞を考えていた。
リリースは冬だから、切ない恋の詞がいいかな。
なんてひとりで色々考えていたら、
「何してるの?」
不意に声をかけられた。
ビックリして顔を上げると、遠坂さんが部屋に入ってきていた。
「新曲の詞を考えてるんですけど……」
「ああ、年明けにリリース予定の曲?」
「はい。でも、なかなかいいものが浮かばなくて」
話している途中でドアをノックする音が聞こえて、舞台監督さんなどコンサートスタッフ数名と篠崎さんが入って来た。
そしてそのままミーティングが始まり、ステージセットや衣装、セットリストなどの構想が話し合われた。
ミーティング終了後。
「鈴原さん、このあと少し時間ある?」
遠坂さんに声をかけられた。
「ありますけど…」
今日はミーティング以外の予定はないから、帰って作詞をしようと思っていた。
「じゃあ、ちょっといいかな?」
不思議に思いつつ遠坂さんのあとについていくと、事務所のすぐ裏にある喫茶店に着いた。
中に入ると、店員さんが笑顔で迎えてくれた。
個人でやっているような小さな喫茶店だけど、アットホームな感じで落ち着いてゆっくり話が出来そうなお店だ。
「どうぞ」
奥の窓際の席に案内されて、遠坂さんと向かい合わせの席に着いた。
「何がいい?」
差し出されたメニューを見ながら考える。
コーヒーより紅茶派な私は、こういう時はいつもミルクティーを頼んでいる。
「ミルクティーで……」
「じゃあ、コーヒーとミルクティーひとつずつでお願いします」
遠坂さんが注文してくれた。
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
店員さんがいなくなって、ふたりきりになった。
店内には他にお客さんがいない。
突然声を掛けられてここに来たのはいいけど、考えてみれば遠坂さんとふたりきりでお店に入るなんて初めてで、何を話したらいいかわからない。
というより、そもそも私、男の人とふたりでお店に入ったことなんてないし。
慣れないシチュエーションに緊張して黙り込んでいると、
「急に声かけてごめんね。なんか、悩んでるみたいだったから」
沈黙を破って遠坂さんが言った。
「……え?」
なんで悩んでるってわかったんだろう……。
「ミーティング始まる前、いい詞が浮かばないって言ってただろ?」
「……あ」
その一言で悩んでるって察して、ここに連れて来てくれたの…?
「今、スランプ中ってことなのかな」
「はい」
話していいのかどうか迷いつつも、私はゆっくり話し始めた。
「ラブソングを書いてほしいって言われても、恋愛経験がないからいいものが浮かばなくて……。でも、琴吹さんみたいに同年代に共感してもらえるような売れ線の詞を書かないといけないのかなって思うと、なかなか納得いくものが書けなくて」
こんなことで悩むなんて恥ずかしいことかもしれない。
遠坂さん、呆れてるかな。
“そんなくだらないことで悩んでたのか”って思われたかな。
「……それは、プロとしてデビューしたアーティストが一度は持つ悩みだよね」
……え?
予想外の言葉に驚いて思わず顔を上げると、遠坂さんが穏やかな表情で私を見ていた。
「事務所の方針に従ってヒットを狙った売れ線でいくか、自分のやりたい音楽を貫き通すか。それで関係者と揉めて活動休止という選択をしたアーティストもたくさんいるから」
売れ線で行くか、自分のやりたい音楽を貫き通すか。
それはまさに今私が迷っていることを的確に表現した言葉。
プロとしてデビューした以上、ビジネスとしてヒットするような曲も作らなきゃいけない。
そのことを考えると、私はどうしたらいいのかわからなくなって、曲作りが止まってしまっていたんだ。
「誰かみたいな曲を作らなくちゃいけないって思うことはないよ。鈴原さんはもう自分の世界観や音楽観をしっかり確立できているから、自分なりのラブソングでいいと思う」
「私なりのラブソング?」
「うん。逆にヒットソングと似たような曲はみんな聴いてて飽きてるから、系統の違う曲の方が新鮮でリスナーも興味を持ってくれると思う」
確かにそれも一理あるのかもしれない。
私は私らしい曲でぶつかってみていいのかな。
遠坂さんの言葉を聞いて、少しずつそんな前向きな気持ちが芽生え始めた。
「前作があれだけヒットしたんだから、自信持ちなよ」
そう言って、遠坂さんが微笑んだ。
不思議。遠坂さんの笑顔と言葉は、なぜかとても安心できる。
それに、こんなに親身に話を聞いてもらえるなんて思ってなかった。
「ありがとうございます。遠坂さんにそう言ってもらえて、ちょっと自信戻ったかも」
「それは良かった。あ、そうだ。前から言おうと思ってたんだけど、遠坂さんって呼び方、変えない?」
「え?」
「 みんな由弦って下の名前で呼んでるから、名前で呼んでくれていいよ。僕も、結音って呼ばせてもらうから」
「でも、失礼じゃないですか?」
「全然気にしないから大丈夫」
「じゃあ、由弦さんって呼ばせてもらいます」
まだ呼び慣れなくてぎこちないけど。
「うん。さあ、少しは書けそうな感じかな?」
「はい。ありがとうございます」
それから、私たちは喫茶店を出て別れた。
当然のように私の分まで会計を済ませて、「また何か悩みあったら聞くから」と言ってくれた由弦さんを、改めて大人だと感じた。
家までの帰り道は、心も足取りも軽くなっていた。
今なら、いい詞が書けるかもしれない。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
歌うことは生きること
生きることは歌うこと
これからも歌い続ける
君がいる虹色の世界で
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「いいね、これでいこう」
「ありがとうございます」
あれから、やっと作詞が進んで、なんとか締め切りに間に合った。
かなり難産ではあったけれど。
「レコーディングは遠坂さんも参加してくれるからね」
「はい」
良かった。今回も由弦さんが参加してくれるんだ。
こうして無事に曲が完成したのは、あの時アドバイスしてくれた由弦さんのおかげだからレコーディングの時に改めてお礼を言おう。
【#5】
秋も深まってきた10月のある日。
目覚めて何気なくテレビをつけると、いきなり目に飛び込んできたのは『人気歌姫 ・琴吹 愛歌 熱愛発覚』という新聞記事。
さすが人気絶頂の歌姫だけあって、一面記事になっている。
琴吹さん、恋人いるんだ。
なんて思いながらぼんやりそのままニュースを観ていると、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。
「お相手は、人気サポートミュージシャンの遠坂 由弦さんだそうです」
……え……?
一気に眠気が覚めた私は、ニュースに釘付けになった。
「遠坂さんが琴吹さんのマンションの部屋に入って行く様子が目撃されていて、お泊まり愛発覚ということなんですね~」
……うそ……どういうこと?
『琴吹さんとは一緒に仕事をしたくない』
『個人的に苦手なタイプだ』
そう言っていたのに。
それはウソだったってこと?
それともそのあと気が変わったの?
わからない。
どうしてこんなことになっているのか。
呆然とニュースを見ていると、テーブルに置いてあったスマホが震えた。
「結音ちゃん、ニュース観た!?」
通話ボタンをタップした瞬間、耳に飛び込んできたのは興奮した様子のマネージャーの篠崎さんの声。
「今、観てます」
「そう。まさかこんな騒ぎになるなんてビックリよね。今、遠坂さんはマスコミの対応に追われてるから。とりあえず、騒ぎが落ち着くまで待ってほしいって」
「……はい」
相手があの人気歌姫の琴吹さんだけに、しばらくの間はマスコミの取材が殺到するだろうな……。
ほとぼりが冷めるまでは静かに見守っている方が良さそう。
それから1週間、毎日芸能ニュースで遠坂さんの熱愛報道が続いた。
琴吹さん側も由弦さん側も、「熱愛ではなく、仕事の打ち合わせのため一緒に食事をしていただけ」というコメントを発表した。
でも、そんな双方のコメントを無視して、ワイドショーは騒ぎ立てていた。
私はただこの騒ぎをテレビ越しに見守るだけの毎日だった。
この半年一緒に仕事をするようになってお互いの連絡先は知っているけれど、由弦さんから連絡はなく、私からも連絡はしなかった。
前に相談に乗ってもらったり、名前で呼ぶようになったりして、親しくなれたような気がしていたけれど。
それはただ仕事のパートナーとして。
個人的に親しくなれたわけじゃないんだ。
そのことを思い知らされた気がして、なぜかとても寂しい気持ちになった。
そしてようやくマスコミの騒ぎも落ち着いてきた頃、久しぶりに篠崎さんから連絡が来て、深夜に放送している30分間の音楽番組の収録の仕事が決まったとのことだった。
収録日当日は、朝から雨が降っていた。
テレビ局に入って収録スタジオへ向かう途中、向こう側から見覚えのある人が歩いてきた。
遠くからでもわかる華やかなオーラと甘い香水の匂い。
「お疲れ様です」
笑顔で近づいてきた琴吹さん。
「……お疲れ様です」
声をかけられるとは思っていなくて、戸惑いながら言葉を返した。
「今日って遠坂さんも来てる?」
「え? はい」
「良かった~。あとで会いに行こう!遠坂さんって、やっぱり魅力ある人だよね。年上だと頼りになるし。でも、一晩過ごしただけであんなに騒がれるとは思わなかったけど」
「……え……?」
どういうこと?
仕事の打ち合わせで食事しただけなんじゃないの?
「事務所のコメントでは食事しただけってことになってるけど、ホントは違うの。食事の後いい感じになって、遠坂さんがあたしのマンションに来てくれて……」
いやだ。これ以上聞きたくない。
耳を塞ぎたい衝動を必死に抑えていると、
「あれ、愛歌ちゃん?そろそろ移動しないと間に合わないんじゃない?」
通りかかったスタッフらしき人が琴吹さんに声をかけた。
「は~い、今行きます!」
琴吹さんは笑顔でそう言って、スタジオへ向かっていった。
その後ろ姿をぼんやり見つめていると、
「鈴原さん、Bスタジオにお願いします」
今度は私がスタッフに声を掛けられて、我に返った。
これから仕事なんだから、集中しなくちゃ。
「おはようございます。よろしくお願いします」
収録スタジオに入って挨拶をすると、すでに由弦さんの姿があって、スタッフと打ち合わせをしていた。
私が入って来たことに気づいて、一瞬こちらに視線を向けて、会釈してくれた。
「久しぶりだね」
打ち合わせが終わって、由弦さんが声をかけてくれた。
「……そうですね」
「今回は個人的なことで迷惑かけて本当にごめん」
「……いえ……」
“本当に琴吹さんとつきあってるんですか?”
訊きたいけど、訊けない。
さっきの琴吹さんの言葉が、答えかもしれないから。
「それでは、スタンバイお願いします」
スタッフから声がかかり収録が始まったけれど、収録は最悪だった。
集中しなくちゃと思えば思うほど、琴吹さんの言葉が頭から離れなくて。
由弦さんは、本当は私より琴吹さんと仕事したいのかな……なんて思ってしまって。
声が思う様に出なくて、歌詞も間違えて、歌い直し。
3回撮り直しをしたけど、全然納得できる歌が歌えなかった。
「お疲れ様でした~」
収録終了後。
「結音、どうした? もしかして今日体調悪かった?」
由弦さんが心配そうな表情で私に声をかけてくれた。
でも、その優しさが今は苦しい。
黙ったままの私を見て、
「顔色悪いけど、大丈夫?」
そう言って、由弦さんが私の肩に触れようと手を伸ばした瞬間。
胸の奥で何かが弾けて、私は咄嗟に由弦さんの手を振り払ってしまった。
「……ごめんなさい。大丈夫です」
力なくそう呟いて、私はその場から駆け出していた。
楽屋に戻ると、堪えきれずに涙が溢れた。
琴吹さんを想っているなら…私に優しくしないで。
琴吹さんを抱きしめた手で触れないで。
息が苦しい。息もできないくらいの醜い感情が、今私を支配してる。
私にもこんなに激しい感情があることを初めて知った。
* * *
楽屋でひとしきり泣いたあと、少し気持ちが落ち着いた私は化粧直しをしようとお手洗いへ向かった。
廊下を歩いていると、控室から誰かの話し声が聞こえた。
聞き覚えがある声の様な気がして立ち止まったその時、少し開いていたドアから聞こえてきたのは信じられない言葉だった。
「……あの熱愛騒動、ヤラセだったの」
――!
思い切り動揺した私は手に持っていたポーチを落としてしまって、誰もいない静かな廊下に思っていた以上に音が響いてしまった。
「……結音!?」
ドアを開けて私がいることに驚いた声を上げたのは…由弦さんだった。
「今の話、どういうことですか……?」
かすれた声でそう尋ねた私に、由弦さんは黙ったまま視線を床に落とした。
「あ~あ、鈴原さんに聞かれてたんだ」
由弦さんの後ろから聞こえてきたのは、琴吹さんの声だった。
「とりあえず中で話そう」と言って由弦さんが私を控室に入れてくれた。
ドアを閉めると、
「さっきの話、結音にもちゃんと説明してほしい」
由弦さんがそう言ってくれて、琴吹さんは諦めたような表情で話し始めた。
両親が人気アーティスト同士だから売れて当たり前という声にずっと苦しんでいたこと。
そんな中で私のことを知って、業界内でも人気の高い由弦さんが私のことを気に入っていることを妬ましく感じていたこと。
そして、由弦さんとの熱愛報道は、社長と一緒に仕組んだものだったこと。
突然知った色々なことに衝撃が大きくて何も言えずにいると、
「結音、大丈夫?」
由弦さんがためらいがちに声をかけてくれた。
無言で頷くと、琴吹さんがゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「言っておくけど、鈴原さんの本当のライバルは私じゃないからね」
そして私にだけ聞こえるように耳元でそう囁くと、控室を出て行った。
「……?」
“本当のライバル”ってどういうこと?
「結音、帰ろう」
由弦さんに声をかけられて、お互いそのままテレビ局を出て帰路に着いた。
でも、私は琴吹さんが口にした言葉がずっと頭から離れずにいた。
【#6】
数日後、私はミーティングのため事務所の会議室に向かった。
結局、遠坂さんのあの言葉の意味はわからないまま。
会議室に向かうと、すでに一色さんやコンサートスタッフ、由弦さんがいた。
今日は、クリスマスコンサートのミーティングだ。
「では、今月末からリハ開始ということで、よろしくお願いします」
リハーサルの日程など一通り打ち合わせが終わると、由弦さんはこのあと別の仕事があるということで、一色さんと一緒に会議室を出ていった。
他のスタッフもみんな「お疲れ様でした」と言いながら部屋を出ていく。
部屋を出ようとした時、何気なく足元に視線を向けると、テーブルの下に何かが落ちているのが見えた。
みんな先に部屋を出ていて、残っているのは私ひとり。
さっき部屋にいた誰かが落としたのかな?
気になって拾ってみると、それは1枚の写真だった。
なんでこんなところに落ちてるんだろう?
不思議に思いつつ写真を見ると、そこに写っていたのは穏やかに微笑む可愛い女の子。
制服を着ているから、中学生か高校生かな?
顔立ちや雰囲気が、なんとなく私に似ている。
髪は肩に少しかかるくらいの長さだけど、私がもう少し髪を短くしたら、こんな感じになるかもしれない。
写真の裏を見ると、綺麗な字で筆記体の文字が書かれていた。
“Kanon mizusawa”――カノン・ミズサワ?
もしかして、写真の女の子の名前?
しかも“カノン”ってどこかで聞いたことがあるような気がする。
どこで聞いたんだろう。
少し考えて、ふっと記憶が甦った。
イベントのリハーサルの時、休憩中に眠ってしまった由弦さんが口にしていた名前だ。
ということは、もしかしてこの写真は由弦さんが落としたもの?
でも、由弦さんの口から、カノンさんの話を聞いたことは一度もない。
カノンさんって…一体誰なんだろう?
* * *
翌日、カノンさんのことが頭から離れないまま、私はまた事務所へ向かっていた。
今日もコンサートスタッフとクリスマス・コンサートのミーティングだ。
開始時間より早く事務所に着いて飲み物を買おうと休憩室へ入ると、意外な人が中にいた。
「一色さん?」
一色さんは今日のミーティングには出席しないと聞いていたのに、なんでここにいるんだろう?
「今日は、急遽今後のスケジュール調整で呼び出されたんだ」
私の疑問を察したらしく、一色さんが説明してくれた。
「そうだ、言うのが遅くなったけど、この前は琴吹さんとのことで結音ちゃんまで巻き込んでしまって本当に申し訳なかったね」
「……いえ」
「あいつに、琴吹さんには気をつけろって言ってたんだけどね…」
「…え…?」
「琴吹さんは業界でもダークな噂が多かったから。まさか事務所の社長まで使ってくるとはね……。由弦も色々あったから…心の隙につけこまれたのかもな」
心の隙って、それってカノンさんのことと関係がある?
もしかして一色さんなら何か知ってる……?
カノンさんのことを聞くなら、今かもしれない。
「あの……お聞きしたいことがあるんですけど……」
「聞きたいこと?」
「これって由弦さんが持っていたものですか?」
鞄に入れていた写真を出すと、一色さんは「どうして結音ちゃんがこれを……」と呟いた。
「昨日、ミーティングのあと床に落ちていたのに気づいて拾ったんです。カノンさんって誰なんですか?」
「そっか……。やっぱり由弦は君にカノンちゃんのことは何も話してないんだね。と言うより、話せなかったのかな」
どういうこと?
「その写真の女の子……水沢 夏音ちゃんは、由弦の幼なじみで初恋の女の子だったんだ」
なんとなく予想はしていたけど、改めて事実だと知って、胸の奥が痛んだ。
「ふたりはいつか一緒にプロのアーティストとしてステージに立つことを夢見ていた。でも叶わなかった」
「……どうして……」
「夏音ちゃんは……もういないんだ」
いないってまさか……。
一瞬、嫌な予感が頭をよぎる。
「8年前、17歳の時に持病の心臓病が悪化して病気で亡くなった。本当なら、ふたりで夢を叶えて幸せになるはずだった。それなのに……」
一色さんも、話しながら辛そうだ。
――知らなかった。由弦さんがそんなに深い悲しみを抱えていたなんて……。
「初めて結音ちゃんに会った時、雰囲気が夏音ちゃんに良く似ていて、驚いたんだ。だから、由弦も最初は内心かなり複雑な気持ちだったと思う」
「………」
確かに、写真を見て私も自分に似ていると思ったけど……。
「由弦は、夏音ちゃん以外の人を好きになれないと、頑ななまでに 新しい恋人を作らなかった。8年経った今も、夏音ちゃんのことを忘れられずにいるんだ」
だからこれをいつも持ち歩いているんだ。
由弦さんは、私と会う度に夏音さんのことを想っていたの?
今まで一緒に仕事をしてくれていたのは、私が夏音さんに似ているから?
「………」
そう考えたら、急に胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
「由弦は夏音ちゃんのことを話せば君を傷つけると思って、ずっと話さずにいたんだと思う。これは、俺が拾ったことにして俺から返しておくよ。だから、この話は聞かなかったことにして、由弦には今まで通り接してほしい。気持ちの整理がついたら、由弦もちゃんと君に話すと思うから」
「……わかりました」
本当は、ここまで聞いて、今まで通りに接する自信なんてないけど……。
一色さんに夏音さんの話を聞いてから、私はずっと上の空だった。
ミーティング中にスタッフにも心配されるほど、自分でも驚くくらい動揺してる。
今までプライベートなことを何も聞いていなかっただけに、全てのことがショックで。
私に似ているという夏音さんは、どんな人だったんだろう?
8年経った今も忘れられないくらい、由弦さんが大切に想っている人。
私はずっと夏音さんのかわりとして見られていたのかな……。
そう思うほど、胸が苦しくて、泣きたくなる。
どうしてこんな気持ちになるのかわからなくて。
混乱する気持ちを落ち着けようと、家に帰るとひたすらピアノを弾いた。
ピアノを弾きながら、思いつくままに言葉をメロディ―に乗せる。
歌いながら、涙が頬を伝う。
気づいてしまった。
“本当のライバルは私じゃない”と言った琴吹さんの言葉の意味に。
そして、叶うことのない想いに……。
* * *
12月に入り、クリスマスコンサートのリハーサルが始まった。
でも夏音さんのことを知って、自分の気持ちに気づいてしまった以上、やっぱり今まで通りにはできなくて。
普通に接しなきゃと思うほど、どうしたらいいかわからなくなる。
音楽を通して近づけたと思っていた心の距離が、一気に遠くなった気がして。
この気持ちに気づいたからと言って、私自身、自分がどうしたいのか、まだはっきりわからないんだ。
今まで通りにもできないけど、行動を起こす勇気もない。
そんな中途半端な自分が自分で嫌になる。
「結音ちゃん、ちょっといい?」
リハーサルが終了したあと、篠崎さんに声を掛けられた。
篠崎さんに促されて、会議室に入る。
もしかして、私の様子がおかしいから怒られたりするのかな。
「本当は、まだ結音ちゃんに言わないでほしいって言われてたんだけど……」
篠崎さんが、少し言いづらそうに声のトーンを落として話を続けた。
「遠坂さんが、しばらく音楽活動を休止したいって言っているの」
「――え……?」
音楽活動休止?
うそでしょ? どうして?
「結音ちゃんも悩んでるとは思うけど、大事なのは本当の気持ちよ。過去や周りのことなんて変えたくても変えられるものじゃないし、今、結音ちゃんがどうしたいかを考えれば、きっと答えは見えてくると思う」
「私は……」
大事なのは私の気持ち。
そして、今、私がどうしたいか。
篠崎さんの言葉をもう一度心の中で繰り返して、考える。
私は、これからも由弦さんに音楽活動を続けてほしい。
由弦さんと一緒に音楽活動をしていきたい。
たとえ由弦さんが他の誰かを想っていても、私は由弦さんのそばにいたい。
【#7】
篠崎さんから話を聞いたあと、私の足は自然とある場所へ向かっていた。
目的の場所へ着くと、私は鞄からスマホを取り出した。
画面に表示された名前を見て、一度深呼吸をしてから発信ボタンを押す。
数回のコール音のあと、「……はい?」とためらいがちに電話に出る由弦さんの声が聞こえた。
「突然すみません、鈴原 結音です」
「うん。どうした?」
「話したいことがあって……。今、由弦さんのマンションの前まで来てるんですけど」
「……え?」
由弦さんが、かなり驚いているのが電話越しでもわかった。
今までお互い番号を知っていても電話すらしなかったうえに、マンションの前にいるなんて言われたら、驚くのも無理はないと思う。
「マンションの前ってエントランスの前?」
「はい」
「わかった。今行くから、待ってて」
そう言われて数分後、由弦さんがエントランスに来て、自室まで案内してくれた。
「ごめんなさい。突然マンションに押し掛けて、迷惑ですよね……」
勢いでここまで来てしまったけど、やっぱり迷惑だったかもしれない。
「いや、確かに突然で驚いたけど……」
由弦さんは、怒ってはいないものの、突然の私の訪問に戸惑っているみたいだ。
ここまで来たんだから、ちゃんと聞かなくちゃ。
「由弦さん、音楽活動休止するって本当ですか?」
改めて本人の前で口にしたら、緊張と不安のせいか声がかすかに震えた。
「え?」
まさか私が知っていると思っていなかったのか、由弦さんが“なんで知ってるんだ?”と言いたそうな表情で私を見た。
「篠崎さんから聞いたんです」
私の言葉に、由弦さんは納得したような表情を浮かべて。
「……本当だよ。琴吹さんとの件でたくさんの人達に迷惑をかけてしまったし。結音にも、嫌な思いをさせてしまったし。少し音楽から離れて、自分の人生を見つめ直そうと思ったんだ」
静かにそう言った。
やっぱり、本当なんだ……。
「辞めないでください。由弦さんは本当に才能があるし、憧れの存在なんです。これからも音楽活動を続けてほしいです……」
言いながら、思わず泣きそうになってしまった。
「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
由弦さんが、穏やかな笑顔でそう言った後、
「……結音に聞いてほしい話があるんだ」
真剣な表情で言葉を続けた。
その表情から、聞いてほしい話がなんなのかすぐにわかった。
“音楽活動を休止する”
その言葉を聞いた時、はっきりと自分がどうするべきか見えた。
今の私は、由弦さんと一緒に音楽ができないなんて考えられない。
由弦さんに音楽活動を辞めてほしくない。
それなら、私がしっかり由弦さんの過去を聞いて受け止めなくちゃいけない。
私自身が、前に進むために。
そして、由弦さんに前に進んでもらうために。
これからもふたりで音楽を続けていくために。
「少し長い話になるけど……聞いてほしい」
その言葉に、私は「その時が来たんだ」と覚悟を決めて頷いた。
それから、由弦さんは夏音さんとの出会いから亡くなるまでのことを話してくれた。
愛しそうに夏音さんのことを話す由弦さんの表情から、由弦さんがどれだけ夏音さんのことを愛しているかが伝わってきた。
そして、夏音さんとよく似ている私に出会って、複雑な気持ちだったことも正直に話してくれた。
やっぱり由弦さんの中で夏音さんはずっと生き続けていて、夏音さんのことを忘れて私を見てほしいなんて、そんな残酷なことは絶対に言えないと思った。
手を伸ばせばすぐに触れられる距離。
こんなに近くにいても、由弦さんの心は遠い。
5年という年の差は、やっぱり大きい。
たった5年、されど5年。
その間に、由弦さんは夏音さんとたくさんの思い出を作って生きていたんだ。
その生きてきた時間の差は、私がどんなに願っても埋められない。
だけど、それでも私は、由弦さんのそばにいたい。
一緒に音楽を続けたい。
いつの間にか、自分でも驚くほどこんなにも強く由弦さんに惹かれていたんだ。
だから――
「ひとつ、訊いてもいいですか? 由弦さんは、私のこと……どう思ってますか?」
「……え……?」
私の質問に、由弦さんは動揺したように視線を下に落とした。
突然そんなこと訊かれたって、困るよね。
でも、私はこの気持ちを伝えるって決めたから。
「由弦さんが夏音さんのことを忘れられないなら、夏音さんのかわりでもいいです。それでも私は由弦さんのそばにいたいんです。私は由弦さんのことが……」
“好きです”
突然、最後に言おうとした言葉が遮られた。
一瞬、何が起きたのかわからなくて。
由弦さんに抱きしめられているんだと気づくのに、数秒かかった。
「…由弦さん…?」
驚いて名前を呼ぶと、
「…“かわりでいい”なんて言うな…」
耳元に、低く掠れた声で切なそうにつぶやく由弦さんの言葉が聞こえた。
そして―
「仕事のパートナーとしてじゃなくて、ひとりの女の子として…結音のことが好きなんだ」
今度はそっと優しく囁くように言葉が降ってきて、もう一度、強く抱きしめられた。
温もりを感じながら、私も由弦さんも今、確かに生きていることを感じた。
初めて知った、想いが叶う幸せ。
それは、私にとって何よりも大きな奇跡。
【#8】
「はい、最終リハーサル終了です」
その言葉が聞こえた瞬間、一気に全身の力が抜けたような気がした。
「お疲れ様でした」
スタッフが言ったその言葉に、周りから自然と拍手が起きた。
クリスマス・コンサートの最終リハーサルが無事終了した。
「本番も結音ちゃんの歌楽しみにしてるわね」
リハーサルスタジオから出ると、篠崎さんが笑顔でそう言ってくれた。
「お疲れ様。今日の歌もすごく良かったよ」
そして、篠崎さんのあとに続いてそう言ってくれたのは…由弦さん。
「結音、このあと予定ある?」
「えっと、篠崎さんと軽くお茶しようかなって……」
由弦さんに訊かれて、戸惑いながらそう答えると、
「すみませんけど別の日にしてもらって、このあと結音借りていいですか?」
私の言葉が終わらないうちに、由弦さんが篠崎さんに言った。
「私達の大事な歌姫に手を出さないって約束してくれるならいいわよ」
「わかってますって」
ちょっと、ふたりしてなんて会話をしてるの……!?
わけがわからずにいると、
「結音と一緒に行きたいところがあるんだ」
由弦さんが言った。
私と一緒に行きたいところ?
心当たりがなくて不思議に思いながら由弦さんのあとについていくと、リハーサルスタジオの駐車場に出て、そのまま停めてある車に乗り込んだ。
一体どこに行くつもりなの?
「あの、どこに行くんですか……?」
私が尋ねても、
「着いたらわかるよ」
由弦さんはそう言ってすぐには行き先を教えてくれなかった。
車は郊外へ向かっているらしく、窓の外はオフィス街や高層ビルから緑の多い景色へと変わっていく。
「―ここだよ」
スタジオを出て30分程経った頃、由弦さんがそう言って車を停めた。
目の前には“霊園”の看板。
霊園って、もしかして……。
「夏音が眠っている場所だよ」
由弦さんが静かに言った。
つまり、この霊園に夏音さんのお墓があるということ。
「今日は、夏音の月命日なんだ」
「月命日?」
「そう。だから、結音にも夏音に会ってほしいと思って」
「……わかりました」
ちょっと緊張しながら、夏音さんのお墓へ向かう。
お墓の前に着くと、由弦さんとふたりでお花とお線香を供えた。
冬の澄んだ青空に、白い煙が吸い込まれていく。
17歳という若さで断たれた命。
幸せな毎日を、人生を、ある日突然失ったら…―。
想像するだけで胸が苦しくなる。
「俺、夏音が亡くなってつくづく思うんだ。誰にも明日が来る保証なんてないって。今自分が生きているのは偶然で…奇跡なんだって」
不意に由弦さんが言ったその言葉は、今まさに私も思っていたことだ。
いつか死が訪れることはみんなわかっているけれど、それはずっと遠いことのように錯覚してしまっている。
でも本当は、“死”ってすごく遠いようで、限りなく身近にあるものなんだ。
明日が来ることは、決して当たり前のことなんかじゃない。
私が今ここにいることは、明日を迎えられることは、きっとたくさんの偶然が重なり合った奇跡。
だからこそ、毎日を大切に生きていかなければいけないんだ。
「だから、決めたよ。俺は、生きている限り音楽を続けていく」
「…え…?」
「これからも結音と一緒に音楽活動を続けていきたい」
それはつまり、活動休止しないということだよね。
「私も、ずっと由弦さんと一緒に音楽を続けたいです」
「良かった。これからも、よろしく」
由弦さんが笑顔でそう言って、手を差し出した。
「こちらこそ」
私も、笑顔で差し出された手を握る。
私たちは、夏音さんに見守られながら、“音楽を続ける”という約束の握手を交わした。
夏音さん。どうか、これからも天国で由弦さんを見守っていてください。
あなたの分まで、私も由弦さんも毎日を一生懸命生きていきます。
そして、音楽を心から愛し、これからも音楽活動を続けていきます。
だから、これからは私が由弦さんのそばにいることを許してくれますか?
そう心の中で問いかけた時、優しい風が吹き抜けて……夏音さんが「はい」と答えてくれたような気がした。
* * *
12月24日、クリスマス・イブ。
クリスマス・コンサート当日。
真っ白なドレスを着て、ステージに立つ。
パイプオルガンの荘厳な音色が響く。
―天国にいるお父さん、お母さんと夏音さんにも届きますように―
祈りを込めて歌う。
歌い終わると、大きな拍手が響いた。
「今日はクリスマス・イブということで、クリスマスソングを中心に歌っていきたいと思います」
そんなMCのあとに披露したのは、毎年クリスマス・シーズンになると街中で流れている定番のクリスマスソングたち。
最初の神聖な雰囲気から、会場中が一気にクリスマスムードに染まっていく。
そしてあっという間に時間は過ぎて…気がつけば、次がラスト・ソング。
由弦さんとアイコンタクトをして、由弦さんがギターでイントロを弾き始める。
由弦さんのギターを聴きながら、目を閉じて、意識を集中させる。
そして、呼吸を整えて、歌い始める。
由弦さんと出会うきっかけになった、始まりの曲を。
歌いながら色々なことが甦って、目頭が熱くなる。
胸の奥から熱い想いがこみ上げて、メロディーになって溢れだす。
「ありがとうございました」
心からの感謝の気持ちを込めて、ステージの中央で礼をする。
温かな拍手が教会の中に響いてコンサートは無事に終了した。
「お疲れ様。今日の歌もすごく良かったよ」
楽屋へ戻る途中、由弦さんが笑顔で声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
由弦さんに誉めてもらうのが一番嬉しい。
「それじゃ、またあとで」
そう言って自分の楽屋に戻ると、
「鈴原さん、お疲れ様」
突然そんな言葉と共に目の前に花束が差し出された。
顔を上げると、花束を持っていたのは予想外の人だった。
「……琴吹さん?」
あまりにも意外過ぎて、一瞬見間違いかと思ってしまった。
だって、あんなに私のことを嫌っていた琴吹さんが、花束まで持って私の楽屋に来るなんて信じられない。
「事務所の人に頼んで、関係者席取ってもらったの」
私が動揺しているのを察して、琴吹さんが説明してくれた。
「……そうなんですか」
わざわざ事務所の人に頼んだということは、もしかして敵情視察のつもり……?
「…あの時はごめんなさい」
「え?」
またイヤミのひとつでも言われるのだろうと身構えていたから、まさか謝られるとは思わなかった。
“あの時”というのは、事務所の社長と手を組んでヤラセで由弦さんと熱愛報道を流したあと、私と番組収録で会った時のことを言っているのだろう。
「日本を離れる前に、一度きちんと謝っておきたくて」
真剣な表情で言葉を続けた琴吹さんの言葉の意味がわからなくて、
「どういうことですか?」
思わずそう訊き返した。
「まだ公式発表してないんだけど、私、来年から音楽活動を休止して留学するの」
「留学…?」
予想外の言葉に驚いていると、
「うん。最低一年はいるつもり。それで、いつか世界で通用する歌手になりたい」
琴吹さんはまっすぐに私を見てそう答えた。
その瞳と表情は真剣そのもので、琴吹さんの揺るがない強い決意を感じた。
何があったのかはわからないけれど、3か月前に会った時より確実に琴吹さんは変わっている。
あれからきっと琴吹さんは琴吹さんなりに自分のこれからの道を考えたんだろう。
真剣に悩んで出した答えだということは、今の琴吹さんを見ればわかる。
「琴吹さんならきっと大丈夫です。頑張って下さい」
琴吹さんだって、きっと本当は歌うことが好きなはず。
だから、同じ夢を持つ仲間として、今は琴吹さんの選んだ道を応援したい。
私が差し出した手を、琴吹さんは遠慮がちにそっと握った。
「いつか、また共演出来る日を楽しみにしてます」
琴吹さんが今より更に実力をつけて本当の意味で“歌姫”になった時、私もまた同じステージに立ちたい。
「ありがとう」
一瞬、琴吹さんの瞳が潤んでいるように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「それじゃ、また」
「今日は来てくれてありがとうございました!」
足早に楽屋のドアへ向かった琴吹さんに慌ててそう声をかけると、
「遠坂さんとお幸せに」
琴吹さんが振り向いて笑顔でそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
思いがけない祝福の言葉。
もう気づかれていたんだと思うと恥ずかしいけれど、同時に嬉しくもある。
いつか、琴吹さんにも幸せが訪れますように。
琴吹さんの背中を見送りながら、私は心からそう願った。
琴吹さんが私の楽屋を出てすぐ、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
私が返事をすると、扉を開けて顔を覗かせたのは…
「お疲れ様」
由弦さんだった。
「今、琴吹さんとすれ違ったんだけど…」
「あ、はい。さっきまでここで話してました」
「大丈夫か? 何か嫌なこと言われたりしなかった?」
「大丈夫です。琴吹さん、この前のこときちんと謝ってくれたから」
「え? 」
「来年から、音楽活動休止して留学するらしいですよ」
「そうなんだ。だからさっき俺にあんなこと言ったのか」
「あんなこと?」
琴吹さん、由弦さんにも何か言ったの?
「“鈴原さんのこと、大切にしてあげてください”って。“言われなくてもそのつもりだ”って返しておいたけど」
「……」
今さりげなくすごいことを言われたような気がするんだけど……。
「その衣装で歌ってる姿、地上に舞い降りた天使みたいだったな」
由弦さんが、改めて私の姿を見て言った。
「今回のコンセプトが“聖夜に舞い降りた天使”だから……」
『クリスマスイブの教会で歌うなら天使の衣装で』と、スタイリストさんが用意してくれた白いドレスは、私も気に入っている。
「いや、見た目だけじゃなくて心もって話。結音はいつも綺麗な心で歌ってるから」
「…えっ…」
由弦さん、さっきからどうしちゃったの!?
そんなストレートに優しい言葉ばかり言われたら、どうしたらいいかわからない。
恥ずかしくてうつむいていると、
「結音」
由弦さんが静かに私の名前を呼んだ。
顔を上げると目の前に由弦さんが立っていて。
ためらいがちに伸ばされた手が、私の頬に触れようとしたその時、
――コンコン
再びドアをノックする音が聞こえて、
「結音ちゃん、着替え終わった?」
という言葉と共に、マネージャーの篠崎さんがドアを開けた。
「……って、あら、お邪魔だった?」
「あ、いえ、もう話は終わったので」
篠崎さんの言葉に由弦さんはそう言って、楽屋を出て行った。
閉じられたドアに視線を向けたままでいると、
「…ごめんね、結音ちゃん」
篠崎さんが申し訳なさそうに言った。
「…いえ…」
そう言いながら、さっきのことを思い出して急に鼓動が速くなる。
だって、もしもあの時篠崎さんが入ってこなかったら、由弦さんは―…
「せっかくのクリスマスイブだから、ふたりきりにさせてあげたいけど。このあと関係者参加の打ち上げでお店予約しちゃってるのよ。車出すから、着替えたら駐車場に来てね」
「…はい」
篠崎さんが楽屋を出ると、私は急いで衣装から私服に着替えて駐車場へ向かった。
その後、関係者も含めた打ち上げパーティーではみんな盛り上がって楽しい時間を過ごした。
由弦さんとふたりきりで過ごせなかったのは少しだけ残念だったけれど。
【#9】
「――今週第1位に輝いたのは、鈴原 結音さんの『虹色の世界』です!」
司会の女性アナウンサーが紹介すると、スタジオから拍手が起きた。
現在、生放送の歌番組 “MUSIC PARADISE” に出演中。
年明けに発売された新曲『虹色の世界』がドラマの主題歌に抜擢されて、なんと初めて週間ランキングで1位を獲得することが出来たんだ。
「初の1位獲得と言うことで、おめでとうございます」
「ありがとうございます。応援して下さっている皆さんのおかげです」
緊張して固まっている私の横で、由弦さんは落ち着いて堂々と司会者の質問に答えている。
「初めての生放送番組出演ということですが、鈴原さんいかがですか?」
「とても緊張していますが、心を込めて歌いたいと思います」
震える声を必死に隠してなんとかそう答えると、
「それではスタンバイお願いします」
司会者に案内されて、私は由弦さんと一緒にステージへ移動した。
「大丈夫、落ち着いて、結音らしく歌えばいい」
スタンバイ中、由弦さんがそっと声をかけてくれた。
その一言で、スッと緊張が和らいでいく。
「それでは歌って頂きましょう。鈴原 結音さんで『虹色の世界』」
曲紹介のあと、由弦さんがギターでイントロを弾き始めた。
春風にようにあたたかくて優しいメロディー。
その音にそっと寄り添うように、言葉を紡ぐ。
ひとつひとつ噛みしめるように、大切に音に乗せていく。
どうか、この歌があなたの心に届きますように。
天国にいる夏音さんに届きますように。
これからもこうして由弦さんと一緒に歌を届けられますように。
たくさんの願いと祈りを込めて。
* * *
初のテレビ出演から数週間が経った1月下旬。
たくさんの反響をもらって驚いている中で、なんと4月の下旬と8月下旬にホール規模でのコンサートが正式に決まった。
今日はマネージャーの篠崎さん同席で由弦さんとコンサートについて打ち合わせだ。
「改めてコンサートの日程から確認します。公演日は4月28日の土曜日。会場は東京文化ホールです。コンサート・タイトルは結音ちゃん本人からの提案でスプリング・ガーデンに決定しました。タイトル通り、春の庭園がコンセプトです」
「……ということは、セットリストも春の庭園がテーマということですか?」
そこまでスタッフが説明したところで、由弦さんが尋ねた。
「ステージセットや衣装は春の庭園をイメージしたものになりますが、セットリストは春をイメージした楽曲で統一する予定です」
「私は、春からイメージを広げて、生命の誕生や、始まりがテーマの歌も歌いたいなと思っています」
スタッフの言葉に続いて、私も自分の意見を伝えた。
「じゃあ、まずは今回のテーマに合いそうな曲を全部リストに挙げてもらっていいですか? 今度の打ち合わせまでに全部聴いて、僕なりにセットリストの候補を考えさせてもらいます」
その由弦さんの言葉で、早速私が今までリリースした楽曲資料の中から、今回のコンサートのテーマに合いそうな曲をピックアップする作業が始まった。
この中から、特に今回のコンサートのコンセプトに合いそうなものを絞り込み、セットリストを決める。
「それでは、この中から1週間後のミーティングでセットリストを決めたいと思います。今日のミーティングは以上です。お疲れ様でした」
由弦さんはこのあとも別の仕事があるらしく、「また来週よろしくお願いします」と言って会議室を後にした。
「さすが遠坂さん、長年この仕事してるだけあって慣れてるわよね」
篠崎さんが感心したように言った。
「ホント、頼りになりますね」
一緒にいるスタッフも頷いている。
そして2月に入ってからセットリストを決めるミーティングを行った。
私が考えたもの、由弦さんが考えたもの、スタッフが考えたもの、それぞれを比べて意見を出し合う。
実際に楽曲を流して聴きながら、演出や演奏順も細かく考えていく。
話し合うこと数時間で仮のセットリストが決まった。
あとはリハーサルで実際に演奏してみて、流れが悪かったりイメージに合わなければ、曲を差し替えたり曲順を入れ替えたりして調整していく。
リハーサルと同時進行で、衣装やステージセットの準備も着々と進んでいる。
スプリング・ガーデンというタイトルから、色とりどりの花が咲く春の庭で歌う妖精をイメージした衣装とステージセットにすることが決まった。
ステージ衣装は春らしいふんわりした花柄のワンピース。
ステージセットは、洋館にある庭―イングリッシュ・ガーデンをイメージしたものになった。
コンサートのチケットも、発売日に完売した。
今までで一番大きな会場だから完売するか不安だったけど、ドラマタイアップ曲として初の1位獲得や初のテレビ出演で話題になったことで興味を持ってくれた人も多いみたい。
今まで以上にたくさんの人に私の歌を聴いてもらえると思うと嬉しくて、リハーサルも自然といつも以上に気合いが入る。
みんなに感動してもらえるコンサートにしたい。
それは、私だけじゃなくコンサートに携わる全ての人が思っていること。
みんなが成功を願って心をひとつにして作り上げていくものなんだ。
【#10】
4月。満開の桜が街中を淡い桃色に染めている。
そよぐ風が花の甘い香りを連れてくる。
パステルカラーで彩られた優しい世界。
大好きな春がやってきた。
由弦さんと出会って歌手活動を始めてから、約1年。
これからもきっと、こうして春が来る度にあの始まりの瞬間を思い出すんだろう。
* * *
コンサート当日。
朝から気持ちのいい天気で、春らしい淡い水色の空が広がっている。
最後のリハーサルを終えたあとも、私は楽屋で発声練習を続けていた。
特に今日は、もともとのファン以外に、CMをきっかけに私の歌を聴き始めて初めて私のコンサートに来る人達が多いとスタッフから聞いている。
初めて来てくれた人が、また次のコンサートにも来たいと思ってくれるような最高の歌を歌いたい。
「結音ちゃん、そろそろスタンバイお願いします」
スタッフに呼ばれて、ステージへ向かう。
先にステージ裏にいた由弦さんが、
「今日の会場、満員御礼だよ。頑張ろうね」
笑顔でそう言ってくれた。
「はい、よろしくお願いします」
私がそう返した時、場内から拍手が起こった。
定刻通り客電が落ちて、SEが始まる。
小鳥のさえずりと、川のせせらぎの音が流れる。
スタッフの合図で、まずはサポートミュージシャンのみんながステージの定位置にスタンバイして、会場から拍手が起こった。
続いて私がステージの中央へ歩いていくと、会場から一際大きな拍手が起こった。
会場内を見渡すと、場内は満員。
こんなにたくさんの人達の前で歌うのは初めてだ。
拍手が響く中、由弦さんがアコースティックギターで1曲目のイントロを弾き始める。
春の空気のように柔らかくて爽やかな音色が、静かな会場に響く。
由弦さんのギターに合わせて、ハミングする。
私の声と由弦さんが奏でる音が重なって、綺麗なハーモニーになる。
途中から手拍子をしながら歌うと、客席からも少しずつ手拍子が起きて、だんだん会場中に広がっていく。
私の歌はバラード系が多くて、最初から最後まで総立ちでノリノリというコンサートではなく、座ってじっくり聴いてもらうスタイル。
だから、ポップ系の曲はこうして自分からノリを作って会場の雰囲気を盛り上げていく。
歌の終盤には会場の手拍子が綺麗に揃っていた。
歌い終わると、最初のMC。
「こんにちは、鈴原 結音です。今日はスプリング・ガーデンへようこそ。春の雰囲気をたっぷり感じてもらって、ふんわり心が癒されるような時間にしていきたいと思います。最後まで楽しんでください」
私の言葉に、会場から拍手が起こった。
曲が進むにつれて、私の歌の世界に入り込んでくれているのが表情から伝わってくる。
歌いながら客席を見ると、みんなが笑顔で聴いてくれているのがわかって嬉しくなった。
温かい空気に包まれて、コンサートは進んでいく。
時間はあっという間に流れて、気がつけば次の曲が本編ラストの歌。
感動してくれているのか、涙ぐんでいる人が見えて、思わず胸が熱くなる。
歌い終わると、一瞬の静寂の後に今日一番大きくて長い拍手が響いた。
それは、みんなが感動してくれたことや共感してくれたことの証。
「今日はありがとうございました」
そう言って深く礼をしてステージを去ると、拍手が徐々に手拍子に変わった。
手拍子はあっというまに綺麗に揃って、会場中に響く。
鳴り止まない手拍子はバックステージにいてもよく聞こえる。
これは、客席からのアンコールの手拍子。
「結音ちゃん、アンコール行ける?」
バックステージのスタッフに訊かれて、
「もちろんです」
笑顔で頷く。
まずは、サポートメンバーが再びステージに向かう。
そのあとに続いて、私もステージに立つ。
「アンコールありがとうございます!」
私がそう言うと、会場中から大きな拍手が起きた。
「今日は私にとって今までで一番大きな会場でのコンサートだったので、不安な気持ちもありましたが、こうしてたくさんの方に来て頂けてとても嬉しいです。感謝の気持ちを込めて、最後にこの曲を歌いたいと思います。聴いてください。『虹色の歌』」
曲紹介をすると、大きな拍手と歓声が起きた。
イントロから大きな手拍子が起こる。
ピアノとギターに加えてヴァイオリンとチェロの演奏も入ったスペシャルバージョン。
今日一番の一体感と客席の盛り上がりを感じながら、歌い出す。
この曲がなければ、今日こうしてこんなにたくさんの人の前で歌うことはなかったかもしれない。
「今日は来てくれて本当にありがとうございました!」
もう一度心を込めてそう言って、サポートメンバーと一緒に深く礼をすると、会場に大きな拍手が響いた。
名残惜しい気持ちを感じながら、ステージを降りる。
初めての千人規模のコンサートは大成功だった。
会場の雰囲気も良かったし、自分らしい良い歌が歌えたと思う。
みんなと言葉じゃなく音楽でわかりあえてることにすごく感動した。
きっと、それが音楽の魅力なんだ。
「結音、お疲れ様。最後までよく頑張ったな」
まだ余韻に浸っていたくて楽屋に戻らずにステージ袖にいた私に、由弦さんが声をかけてくれた。
その優しい笑顔と言葉に目頭が熱くなって、涙が溢れる。
「なんで泣いてるんだよ」
「だって、すごく感動して……」
涙が止まらなくなった私を、由弦さんが抱きしめてくれた。
優しい温もりにそれだけで心が安心する。
「俺も結音の歌にすごく感動したよ。これからもずっと結音の歌を聴いていたいって思った」
「これからもずっとそばにいてくれますか?」
「もちろん」
笑顔で即答してくれた由弦さんの顔がゆっくり近づいてきて、目を閉じる。
そっと唇に触れる優しい温もりに、心が虹色に染まった気がした。
【#Introduction】
大歓声の中、ステージの中央でスポットライトを浴びる人気シンガー。
その後ろでギターを弾きながら、会場を見渡す。
1万人以上の観客が曲に合わせて手を振り、歌っている光景は、何度見ても圧巻だ。
眩しいほどの笑顔で歌う人。
泣きながら一生懸命歌う人。
それぞれの想いや人生が今、歌声になって重なっている。
こうして音楽に包まれている瞬間は、まるで夢の中にいるような気がする。
夏音。君はあの日交わした約束を憶えている?
『お互い離れても音楽を続ける』
あの約束を俺は今でも守り続けている。
だから、今日もこうしてステージに立っている。
もう二度と逢えなくても、声が聞けなくても、触れられなくても。
今奏でている音は確かに君に届いていると信じて。
【#1】
「由弦に新しい仕事のオファーが来てるんだけど」
レコーディングスタジオの一角にある休憩室。
缶コーヒーを飲みながら、マネージャーの一色さんが言った。
一色さんは5歳上で、3年前から俺の専属マネージャーとして一緒に仕事をしている。
「新しい仕事?」
「鈴原 結音ってシンガーソングライター知ってるか?」
「いや、知らないけど」
この業界にいれば新人の情報も早く耳にする機会が多いけれど、聞いたことのない名前だ。
「オーディション番組出演がきっかけでデビューが決まったアーティストらしい。その鈴原さんの新曲のレコーディングでギターを弾いてほしいって鈴原さんが所属する事務所から依頼が来たんだ。5月の連休中にレコーディングするらしくてスケジュール的にはかなり急だけどな」
「そうだな」
「うん。なんでも、楽曲の大型タイアップが決まって、急遽レコーディングがすることになったらしい。どうする?急な話だし、断っ
てもいいけど」
「いや、とりあえずレコーディングする曲聴いてから考えるよ」
確かに急な話だけど、せっかく依頼を受けた仕事だし。
それに、知らないアーティストだからこそ、まずはどんな歌を歌うのか聴いてみたい。
「そっか。じゃあ、あとでレコーディングする楽曲のデモバージョンのデータ送るよ」
「ありがとう。今日帰ったら聴いてみます」
今日の仕事を終えて、家に着いたのは夜の11時過ぎだった。
仕事柄、家に帰る時間はいつも不規則だ。
都内にある大きなマンションの1室が俺の暮らしている部屋。
「ただいま、夏音」
リビングに飾ってある写真に向かってそう声をかける。
『おかえり、由弦くん』
写真の中で優しく微笑む彼女が、そう答えてくれたような気がした。
夏音はもうこの世にはいない。
だけど、8年経った今でも、彼女の声も笑顔も温もりもはっきりと覚えている。
きっと、一生忘れることなんてできない。
いまだに過去から踏み出せずにいる自分を変えなければと思いながら、自室にあるPCをつける。
帰ってきてからの日課であるメールをチェックをしていると、新着メールが届いていた。
確認すると、一色さんからのメールだった。
さっき話していた、鈴原さんのデモ音源のデータだ。
早速再生すると、ピアノのイントロが流れた。
そして、歌が始まった瞬間―あまりの感動に、鳥肌が立った。
今まで仕事で色んなアーティストの歌を聴いてきた。
一世を風靡した大物と言われるアーティストと一緒に仕事をしたこともある。
だけど、歌を聴いてこんなに感動したことはもしかしたらなかったかもしれない。
それくらい、彼女の歌は心を惹きつける圧倒的な力を持っていた。
耳に心地よく響く透明感のある声。
澄み渡る青空のような、どこまでも突き抜けていくようなハイトーンボイス。
大地の底から響くような力強い低音。
安定した歌唱力と、豊かな表現力。
歌が上手いというのは、間違いなくこういうことを言うのだろう。
心からそう思った。
その感動と衝撃にいてもたってもいられなくなって、スマホを手にすると一色さんに電話をかけた。
「由弦、どうした?」
「一色さん、見つけた!」
「……は? 何を?」
勢い込んでそう言うと、一色さんに怪訝そうな声で訊き返された。
「本物の歌姫!」
「歌姫? あ、もしかして鈴原さんのことか?」
「そう!彼女、本当に実力ある。感動したよ!」
「わかった、わかったから落ち着けって」
興奮して早口で捲し立てた俺を、苦笑しながら一色さんがなだめた。
「つまり、鈴原さんの件はOKってことでいいんだな?」
「ああ、ぜひ彼女と一緒に仕事したいって伝えて」
「了解」
電話を切った後も、俺は一色さんからもらったデータの楽曲を何度も聴いた。
そう、俺は一目惚れならぬ一聴き惚れをしたんだ。
鈴原 結音の歌声に―。
* * *
レコーディング当日。
「初めまして、鈴原 結音です。よろしくお願いします」
鈴原さんがふんわりした笑顔を浮かべて、礼儀正しくそう挨拶してくれた。
彼女を一目見た瞬間、似ていると思った。
顔立ちや雰囲気や声の感じが……夏音に似ている。
数秒無言で鈴原さんを見ていたせいか、不思議そうな表情になった。
いけない、今は仕事中だ。
「それでは、始めましょうか」
スタッフに声を掛けられて、早速アレンジ構想のミーティングが始まった。
鈴原さんは事前に準備していたした音源に大満足してくれたようで、レコーディングブースに入ってスタッフに音源をかけてもらいながら歌い始めた。
慣らし程度で軽く歌っているはずなのに、すでに完成されたような安定した歌に改めて感心した。
予定よりかなり早く終わったこともあり、スタッフが歌録りを提案すると、鈴原さんは再びレコーディングブースの中へ入った。
歌い出しから、さっきとは全然違う迫力に圧倒された。
「こうして目の前で聴くと、すごい迫力ですね」
「でしょう? 私達も毎回感動してるんです。でも、結音ちゃんの歌は、コンサートで聴くともっと凄いんです。歌い直しが出来ない一発勝負のステージでこそ、本領発揮するんですよ」
確かに、彼女の歌はコンサート向きだ。
聴き手を歌の世界に惹きこむ圧倒的な歌力は、生演奏でこそ活きるものだろう。
機会があれば、彼女のコンサートにも参加してみたい。
ふとそんなことを思った時、周りから拍手が起こった。
もうラストまで歌い終わったらしい。
良い歌が歌えたらしく、鈴原さんは充実感に満ちた笑顔を浮かべてブースから出てきた。
スタッフに絶賛されて、少し照れた様子の鈴原さん。
鈴原さんもスタッフのみんなも、お互い信頼し合っているのが雰囲気で伝わってくる。
微笑ましい気持ちで見ていたら、
「今日は遠坂さんのおかげで、本当にいい歌が歌えました。ありがとうございました」
と鈴原さんがとても嬉しそうな笑顔で言ってくれた。
「いや、こちらこそ素晴らしい歌が聴けて本当に感動したよ。ありがとう」
彼女の素直な言葉が嬉しくて、思わず笑顔でそう返していた。
【#2】
「新曲ヒットおめでとう!」
7月上旬、無事に鈴原さんの新曲『虹色の歌』がリリースされ、翌週には週間ランキング5位を獲得。
そのお祝い会ということで、スタッフや、鈴原さんの所属事務所関係者数十名で会場近くにあるレストランを貸し切って食事会が行われた。
「それにしても、結音ちゃんの歌は相変わらずすごい迫力だね。毎回感動する」
鈴原さんのマネージャーである篠崎さんの言葉に、周りにいるスタッフも頷いている。
「それに、遠坂さんのギターがすごく結音ちゃんの歌に合ってた。ふたりの音の相性の良さがわかりますね」
スタッフのひとりがそう言うと、またみんなが頷いた。
音の相性がいいというのは、サポートミュージシャンにとって何よりの誉め言葉だ。
「私も遠坂さんに素晴らしい演奏をして頂けて、もっといい歌を歌おうって思えてました」
鈴原さんにそう言われて、嬉しくも誉められ過ぎてなんとなく恥ずかしくなっていると、
「由弦は鈴原さんの歌に相当惚れ込んでるんだよ」
突然、俺のマネージャーである一色さんが口を挟んできた。
「初めて鈴原さんの歌を聴いた時、すごい勢いで俺に電話してきてさ~」
「えっ?」
鈴原さんがかなり驚いている。
恥ずかしいから、本人には絶対言わないでほしかったのに。
「ちょっと一色さん、何言い出すんですか!?」
慌てて話を止めようとしたけど、一色さんはかまわず続けた。
「本物の歌姫見つけたって大騒ぎしてたんだよ。そんなわけだから、これからも由弦のことよろしくね」
一色さん、酒が入ってかなり饒舌になってるな。
フォローした方がいいよな、と思って口を開きかけた時、
「大先輩にそんな風に言って頂けるなんて、光栄です。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
鈴原さんが照れたようなはにかんだ笑顔でそう言った。
「うん、うん。鈴原さんはホント素直だし礼儀正しいし、いい子だな~」
一色さんが満足そうに頷いている。
完全に若い女の子に絡む酔っ払いのオヤジと化してるな。
「遠坂さん、夏のイベントもよろしくお願いします」
鈴原さんが、少し戸惑ったようにこちらに視線を向けてそう言った。
「うん、こちらこそ」
俺も苦笑しながら返した。
「鈴原さん、ホントにいい子だな」
帰りのタクシーの中、一色さんがしみじみと呟いた。
今日はふたりとも飲んでいるから、タクシーで自宅まで向かっている。
「それに、彼女の歌はホントにすごいし。あれは、由弦が興奮するのもわかるよ」
「だからって本人にああいうこと言うのはやめて下さいよ。鈴原さんもどう反応していいか困ってたし」
「そうか? 大先輩の由弦に認められて嬉しいって喜んでたじゃないか。鈴原さんもレコーディングの時から由弦のこと絶賛してたし。改めて思ったけど、ふたりの音の相性バッチリだよな。由弦の本当の音が聴けた気がする」
「本当の音?」
「なんていうか……気負ってる感じじゃなくて自然体で演奏してた」
一色さんの言葉は、まさに自分で思っていたことだった。
いつもは、共演するアーティストの歌を聴きこんで、そのアーティストに合った音を時間をかけて作りこんでいく感じだけど、鈴原さんの場合は、深く考え込まなくても歌を聴くと自然にメロディーやフレーズが浮かんできた。
「鈴原さんと由弦は、音楽的センスや価値観が似てるんだろうな。それに……」
そこで一色さんが遠慮がちに言葉を切った。
「鈴原さん、見た目も雰囲気も……夏音ちゃんに似てるよな」
「……!」
やっぱり、そう思ってるのは俺だけじゃないのか。
夏音の存在を知っている一色さんもそう思っているってことは、気のせいじゃなくて本当に似ているっていうことなんだろう。
「だからっていうわけじゃないけど、俺は由弦には鈴原さんが合うと思うな」
「え?」
「もう8年経つんだし、そろそろ由弦も幸せになってもいいんじゃないか?」
「………」
一色さんの言葉に、俺は何も返さず無言で窓の外の景色に視線を向けた。
夏音を忘れて、他の誰かと一緒になることが幸せだとは思えないから。
8年経っても何年経っても、俺は夏音のことが好きだ。
その気持ちはこれからも変わることはないと思っていた。
この時は、まだ。
【#3】
8月に行われる音楽イベントのリハーサルが始まった。
イベント前日、最後のリハーサルは夕方5時から。
全曲を通して演奏し、一段落したところで少し休憩をすることになった。
「私、飲み物買ってきますね」
鈴原さんがそう言って部屋を出た。
ひとりになった俺は、部屋の隅にあるソファに腰を下ろした。
今日は別件の仕事もあって朝からずっと慌ただしかったから、少し疲れたな。
静かになった部屋でひとり目を閉じると、それまで我慢していた眠気が一気に訪れた。
―――………
「……る……由弦…」
誰か俺の名前を呼んでる…?
今も忘れられない愛しい声。
「……夏音……?」
そっと呟いた声。
でも、そこに夏音はいるはずもなく。
ゆっくりと開けた目に映ったのは、楽器や機材だった。
そうだ、今はリハーサル中だったんだ。
慌ててソファから立ち上がると、ブランケットが床に落ちた。
誰かが持ってきてくれたんだろうか。
「あ、目が覚めました?」
不意にそんな言葉が聞こえて慌てて視線を向けると、キーボードの前に鈴原さんが座っていた。
「ごめん、もしかして俺かなり寝てた?」
「ほんの15分くらいですよ。遠坂さんもハードスケジュールでお疲れですよね」
「いや、ホントごめん。……これ、鈴原さんが持ってきてくれたの?」
いくら休憩時間とはいえ、仕事中にうたた寝してしまったうえに、夢まで見てたなんて恥ずかしい。
そんな気恥ずかしさをごまかすように、俺は床に落ちたブランケットを拾って尋ねた。
「あ、はい」
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして。でも、なんか親近感わいちゃいました」
「え?」
「遠坂さんって、いつもクールに仕事こなしてる感じだから。眠くなって寝ちゃうこともあるんだなって思って」
「そりゃあ、俺も人間ですから」
「あはは。そうですよね」
そう言ってふたりで思わず顔を見合わせて笑い合った。
一瞬にして和やかな空気が漂う。
「じゃあ、明日に向けてもうひと頑張りしようか」
「はい!」
俺の言葉に鈴原さんが笑顔で頷いて、リハーサルが再開された。
* * *
イベント当日。
朝から綺麗な青空が広がっている。
会場となるのは、主催のNテレビ局敷地内にある特設野外ステージ。
中でも一番注目されているのは、今大人気の歌姫、琴吹 愛歌だ。
大手事務所とレコード会社に所属し、発売する曲は毎回ランキング首位を獲得している。
メディア出演も多く、音楽番組や芸能ニュースで彼女を見ない日はない。
当然、今日のイベントも撮影カメラが入っている。
明日の芸能ニュースで話題になることは間違いないだろう。
メディアで注目され、芸能ニュースで取り上げられるイベントに出演すれば、鈴原さんの知名度をあげる良い機会にもなる。
だから、鈴原さん本人を始め、事務所やレコード会社のスタッフもみんな張り切っていた。
でも、現実は甘くない。
リハーサル段階から、琴吹さんだけ特別待遇。
ファンが殺到してパニックにならないように、彼女だけは局内のスタジオでリハーサルだった。
イベントが始まってからも、集まった観客はほとんどが琴吹さんのファンらしく、他の出演アーティストのライブの盛り上がりもいまいちだ。
出演を終えたアーティストは、「やっぱりみんな琴吹さん目当てなんだ」と言いながらバックステージに戻ってきている。
そして、次は鈴原さんの出番。
「鈴原さん、スタンバイお願いします」
スタッフから声がかかった。
「はい」
かなり緊張しているのが、そばにいても伝わってくる。
出演時間が短いとはいえ、明らかに琴吹さん目当ての観客の前で歌うのは相当なプレッシャーだろう。
「大丈夫だよ。鈴原さんは鈴原さんらしく歌えばいい」
そう声をかけると、
「そうですよね。ありがとうございます」
鈴原さんは少し安心したような表情になった。
「さぁ、行こう」
「はい!」
ふたりでステージに向かい、ついに本番のステージを迎えた。
* * *
「お疲れ様です~。隣いいですか~?」
少し鼻にかかったトーンの高い声でそう言いながら、グラスを片手に琴吹 愛歌が俺の隣に座った。
ここはNテレビ局の近くにあるバーレストラン。
大きな窓から夜景が見られる有名な店だ。
現在、さっきまで行われていたイベントの打ち上げ中。
イベントスタッフや関係者、イベント出演者約40名が集まっている。
「私、遠坂さんの演奏、前から好きだったんですよ~!今日初めて生演奏聴けて感動しました!」
「そう。ありがとう」
やたらテンションの高い彼女を若いなと思う、そんな自分はオヤジ化してるなと思いながらとりあえずお礼を言うと、
「今度は私のライブにサポートで参加してくれませんか~?」
琴吹さんがさりげなく体を寄せて、上目遣いで甘えたように言ってきた。
甘い香水の匂いが鼻について、思わず一瞬顔をしかめる。
「……スケジュールがあえばね。難しいとは思うけど」
たくさんの関係者がいる手前、曖昧な言い方でごまかした。
正直言って、彼女と仕事をしたいとは思わない。
この業界にいれば、嫌でも色んなウワサが耳に入ってくる。
琴吹さんに関してのウワサは、印象の悪いものばかりだ。
もちろんウワサはあくまでもウワサであって、本当のことはわからない。
だけど今日のライブを見る限りでは、ウワサは本当なんじゃないかと思えた。
確かに、ルックスは可愛いし、歌もそれなりに上手い。
歌詞も、同世代に共感されやすいものを書いている。
でも、彼女の歌からは、本当に歌や音楽が好きだという気持ちが伝わってこない。
注目されるため、売れるため、お金のため。
両親が人気アーティストということで、大手事務所とレコード会社のゴリ押しで明らかに売れ線を狙って作られた歌姫だ。
20歳という若さでこれだけ稼いで世間やメディアからカリスマ歌姫ともてはやされれば、天狗になるのもわからなくはない。
さっきも、自分が人気歌手だから人が集まったと堂々と口にしてしまっていた。
だけど、それがいつまでも通用するわけじゃない。
今は人気絶頂気だから、ワガママを言っても許される。
でも、人気に陰りが見え始めたら…世間も関係者も手のひらを返したように冷たくなる。
この仕事は一生絶頂期でいられるような甘いものじゃない。
とてもシビアな世界だ。
そのことを彼女はわかっているのだろうか。
「……鈴原さんって、どんな人ですか?」
「えっ?」
突然、鈴原さんの話を振られて我に返った。
「私、今回のイベントで初めて鈴原さんのこと知ったから。一緒に仕事しててどうなのかな~って」
どこか探るような言い方だ。
鈴原さんも最近メディアに注目され始めているから、どこか敵対心があるのかもしれない。
「鈴原さんは一瞬で聴く人の心を惹きつける歌が歌える。天性のシンガーだと思うよ」
「へぇ。すごい実力と才能がある人なんですね」
誉め言葉のはずなのに、あまり誉めてるように聞こえない。
棘のある言い方だ。
「私、ちょっと鈴原さんに挨拶してきますね」
そう言って立ち上がると、琴吹さんは鈴原さんがいるテーブルへ向かった。
鈴原さんは、同じソロシンガーの音羽さんと意気投合したようで、すでに仲良さそうに話している。
そんなふたりの間に、
「お邪魔しまぁす」
と言って堂々と入っていく琴吹さん。
物怖じせず初対面の人達の中に入っていける社交性は、芸能界向きかもしれない。
ここからでは何を話しているかわからないけれど、一瞬鈴原さんが戸惑ったような表情をしているのが見えた。
そして数分話したところで、琴吹さんは別の人に声を掛けられて、最初にいたテーブルに戻っていった。
「お疲れ様」
鈴原さんがいるテーブルに行って声をかけると、
「あ、遠坂さん。お疲れ様です」
なんとなくホッとしたような笑顔を浮かべて、鈴原さんが言った。
「さっき、琴吹さんに何か言われた?」
琴吹さんに聞こえないように小声で訊いてみる。
「…あ…“遠坂さんと一緒に仕事ができるなんて羨ましいです”…って」
「…そう…」
「琴吹さんも一度一緒に仕事してみたいって言ってましたよ」
「それ、さっき本人にも言われた。でも琴吹さんとは音楽性違う気がするし、個人的にああいうタイプは苦手だから」
それが俺の本音。
鈴原さんと琴吹さん、ふたりのライブを同時に観て、改めて思った。
音楽性も人としてのタイプも、俺は鈴原さんの方が合うってこと。
「遠坂さんも苦手なタイプってあるんですね」
「そりゃ、俺も人間ですから」
って、前にも言ったな、このセリフ。
ふと思ったら、「それ、前も言ってましたよね」と鈴原さんに突っ込まれた。
さっき琴吹さんと話していた時とは全然違う、穏やかな空気。
肩の力がふっと抜けるような、心が安らぐ感覚。
鈴原さんは、“癒し系”という言葉がピッタリかもしれない。
* * *
「お疲れ。今日のイベントはどうだった?」
打ち上げ終了後、マネージャーの一色さんが車で迎えに来てくれた。
一色さんは、今日は別の仕事があってイベントを観ていない。
「あれは、完全に琴吹さんメインだったな。お客さんもほとんど琴吹さんファンだったし」
「やっぱりそうか。まぁ、琴吹さんは今が旬の人気歌姫だからなぁ」
「でも、今日のライブ観る限りでは歌の実力はイマイチだったな。確実に両親と事務所の力だ」
「ああ、もちろんそうだろうね。関係者の間ではワガママ歌姫で有名だし。由弦、あの子には気をつけろよ」
「気をつけるって何を?」
「売れるために色んな手を使ってるって話だし、おまえのこと狙ってるってウワサもある」
だから、やたら「一緒に仕事したい」って言ってたのか。
「心配しなくても、俺は関わる気ないから大丈夫」
そう言って俺は一色さんの言葉を笑いながら軽く流した。
「……だといいけどな」
でも、一色さんはどこか不安そうにつぶやいた。
【#4】
少しずつ夏から秋へ変わり始めた9月。
早くも鈴原さんの新曲リリースとクリスマス・コンサートが決まり、ミーティングが行われることになった。
開始時刻よりも早めに会議室に向かうと、鈴原さんは既に席について真剣な表情でノートを広げていた。
「何してるの?」と声をかけると、鈴原さんは慌てて顔を上げた。
「新曲の詞を考えてるんですけど……」
「ああ、年明けにリリース予定の曲?」
「はい。でも、なかなかいいものが浮かばなくて……」
話している途中でスタッフさん達も部屋に入ってきて、そのままミーティングが始まった。
さっきの雰囲気からすると、鈴原さんはかなり悩んでいた感じがする。
もしかしたら、一度きちんと話を聞いてあげた方がいいかもしれない。
ミーティング終了後、珍しく悩んでいる様子の結音に声をかけて話を聞いたら、彼女もまだデビュー2年目なんだと改めて感じた。
いつも礼儀正しくしっかりとしていて、自分の世界観をしっかり持った歌を歌っているけれど、自分より売れている同年代の子と比べて落ち込むこともあるんだ。
この世界にも慣れてきて、自分の方向性や音楽性が固まってくる一方で、事務所の意向とのギャップを感じて戸惑ってしまうことも多いだろう。
ある程度続けていれば、キャリアもあるし、自分のやりたい音楽を自由にやれる環境を自分で作るという決断もできるけれど、まだそこまでの経験もない。
一番自分の立ち位置に悩む時だということは、よくわかる。
“私は他人と競うより、私にしか歌えない歌で想いを伝えたいの”
結音の話を聞きながら、ふと夏音がそう言って悩んでいた時のことを思い出して。
あの時の夏音と結音が重なって見えて放っておけなかったんだ。
* * *
それから約1週間後。
「由弦に仕事のことで大事な話がある。今から車で家に迎えに行くから、準備して。あ、服装はスーツで頼むよ」
突然、マネージャーの一色さんからそんな電話が来た。
“仕事のことで大事な話”って一体なんだ?
しかも、わざわざ服装までスーツにしろなんて。
わけがわからないまま、言われた通りスーツに着替えた。
そして電話がきてから1時間後、一色さんの車がマンションに到着した。
「大事な話って何?」
車に乗り込むなり、俺は一色さんに尋ねた。
「由弦に、QUEEN MUSICから正式にオファーが来たんだ」
QUEEN MUSICって、もしかして……。
「琴吹さんが所属してる大手事務所だよ」
やっぱり。
QUEEN MUSICは、人気アーティストが数多く所属している大手事務所だ。
毎年大々的なオーディションも開催していて、新人育成にも力を入れている。
琴吹さんもデビュー当時から所属していて、新人とは思えないほど派手に宣伝されていた。
「今日、急遽QUEEN MUSICの社長が時間とれたから会ってほしいって連絡が来たんだ」
「社長が?」
「ああ。社長が由弦に会って話したいって言ってるらしくてさ。さすがに断れなかったんだよ」
だから、スーツ姿でなんて言ったのか。
やっと状況が理解できた。
「さ、着いたぞ」
家を出てから30分ほどして着いたのは、都内にある高級レストランだった。
完全個室制で、芸能人もよく訪れている有名な場所だ。
「いらっしゃいませ。遠坂様ですね。お待ちしておりました」
事前に予約をしていたらしく、店員がすぐに場所を案内してくれた。
案内された個室に着くと、すでにスーツ姿の男性が待っていた。
「お待たせしてすみませんでした」
一色さんがそう言うと、
「いやいや、こちらこそ急で申し訳ない。どうぞ、座って下さい」
スーツ姿の男性がそう言って穏やかに微笑んだ。
見たところ、40代前半くらいでまだ若い。
この人がQUEEN MUSICの社長なのだろうか。
「申し遅れました。私、QUEEN MUSIC代表取締役の柴田と申します」
疑問に思っていたら、男性がそう言って名刺を差し出した。
名刺にも、【QUEEN MUSIC代表取締役 】という肩書が書いてある。
大手事務所の社長が想像以上に若いことに驚きつつ、
「初めまして。遠坂 由弦です。よろしくお願いします」
まずは自己紹介と挨拶をした。
「さぁ、それじゃ乾杯しましょうか」
柴田社長の一言で、すでにテーブルに用意されていたビールをグラスに注ぎ、乾杯をした。
注がれたビールを飲んで一息ついたところで、柴田社長が口を開いた。
「実は、今日は遠坂さんにぜひお願いしたいことがありまして」
「はい」
「秋から始まる琴吹 愛歌の全国アリーナツアーに、サポートギタリストとして参加してほしいんです。遠坂さんはサポートミュージシャンとしてのキャリアも実力もあるし、愛歌からも、どうしても遠坂さんにお願いしたいという強い希望があったものですから」
「そう、ですか」
相槌を打ちながら一色さんの方を見ると、すでにこの話を知っていたような感じだ。
超人気歌姫が所属する大手事務所からのオファー。
しかも、事務所の社長からこうして直々に言われることは、とても光栄なことだとわかっている。
だけど、やっぱり琴吹さんと一緒に仕事をする気にはなれない。
「あの……「すみません、遅くなりました~」
言いかけたところで、聞き覚えのある声が聞こえて、一人の女性が部屋に入って来た。
「愛歌、お疲れ様」
部屋に入って来たのは、今まさに話題にしていた琴吹さん本人だった。
「今、遠坂さんにライブのことを話していたところだよ」
「ありがとうございます」
琴吹さんはそのまま柴田社長の隣に座った。
「それじゃ、全員揃ったところで改めて乾杯!」
柴田社長がそう言って、今度は4人で乾杯をした。
琴吹さんも一緒に食事するなんて聞いてない、という視線を一瞬隣にいる一色さんに向けると、一色さんはかすかに首を横に振った。
どうやら、一色さんも琴吹さんが来ることを知らなかったらしい。
それから、柴田社長は11月から始まる琴吹さんのツアーの構想や、彼女がいかに俺のファンでサポートを熱望しているかを語り始めた。
琴吹さんは、ハイペースでお酒を飲みながら社長の話に頷いている。
そして、1時間近く経った頃。
「じゃあ、あとはせっかくだからふたりでごゆっくりどうぞ。帰りはタクシーを呼んであるから、遠坂さん、愛歌を頼みます。うちにとって今一番大事な歌姫なので」
柴田社長は笑顔でそう言うと、席を立った。
一色さんも、複雑な表情をしながらも一緒に席を立って、帰り支度を始めた。
本当はきっと、俺と琴吹さんをふたりきりにはしたくないはずだ。
俺だって、琴吹さんとふたりきりで食事なんて、正直言って困る。
でも、社長がいる前で拒否することなんてできるわけもなく…。
「はい、わかりました」
これも仕事だと割り切ることにした。
「ライブ参加の件、考えてくれました?」
さっきからハイペースで飲んでいた琴吹さんは、酔いが回ってきているようだ。
顔は赤く、呂律がまわらなくなってきている。
「悪いけど、きみと一緒に仕事する気はないから」
早く帰りたい一心で、すぐ話を終わらせようときっぱりと断った。
けれど、琴吹さんは諦めの色を見せずに言った。
「え~なんでですか?大手事務所からの仕事受けた方が、今の弱小事務所でサポートミュージシャン続けるより金銭的にも絶対いいと思いますけど」
「金の問題じゃない。それに、弱小なんて言い方は失礼だ。そういう考え方をする時点で、俺はきみとは一緒に仕事をしたくない」
「………」
さすがに諦めがついたのか、琴吹さんは無言でうつむいた。
そして、少しの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「鈴原さんって、そんなに魅力ある子なんですか?」
「え?」
なんでそんな話になるんだ?
「だって、鈴原さんとの仕事はいつも受けてるでしょ? もしかして遠坂さんって鈴原さんのこと好きなんですか?」
「……は?」
いきなり何を言い出すのかと思えば……。
一緒に仕事する=好きという幼稚な発想に、内心呆れてしまった。
「好きは好きだけど、琴吹さんが思っているような好きじゃないよ」
「でも、鈴原さんって水沢 夏音さんに似てますよね?」
……!
「なんで夏音のことを……」
「事務所の人に遠坂さんと同じ高校出身の人がいて、聞いたんです。8年前あんなことがなければ今頃ふたりで音楽活動をしてたはずだって」
不意に甦る。
ふたりで過ごした日々のこと。
これからもずっと一緒にいられると信じて疑わなかったあの頃。
そして、突然訪れた別れ。
一生忘れることのできない記憶。
「亡くなった恋人に似ている人がそばにいたら、好きになるかもしれない」
琴吹さんが、小さな声でそうつぶやいた。
まただ。一色さんも前に同じようなことを言っていた。
なぜ、似ているから好きになると思うんだろう。
必ずしもそうとは限らないのに。
これ以上、この話を続けたくない。
そう思ったその時、ポケットに入れていたスマホが震えた。
確認すると、一色さんからのメールだった。
『まだ琴吹さんと食事中? 社長が23時にタクシー予約してるらしい』
23時ってことは、ちょうどそろそろ来る時間だ。
「そろそろ店にタクシー来るみたいだから、出ようか」
「……はい」
琴吹さんが返事して立ちあがった。
でも、足元がふらついている。
最初から、かなりハイペースで飲んでたからな。
店を出るとすでにタクシーが待っていた。
「琴吹さん、家はどの辺?」
「緑山ヒルズです」
緑山ヒルズは、ここから車で15分ほどのところにある高級マンションだ。
運転手に行き先を告げると、タクシーは夜の街を走りだした。
窓から見える街の景色は、夜でもネオンの光で明るい。
ぼんやりと窓から見える景色を眺めていると、突然肩に重みを感じた。
振り向くと、眠りに落ちてしまったらしい琴吹さんが、俺の肩に寄りかかっていた。
車に乗ってわずか数分で眠れるなんてすごいな…。
「―着いたよ」
タクシーは順調に走って、店を出てからちょうど10分ほどで緑山ヒルズに到着した。
琴吹さんは、結局マンションに着くまでタクシーの中で爆睡していた。
「ん~…眠い~」
起こしてもまだ眠気が抜けないらしく、すぐに降りようとしない。
「もう着いたから、早く自分の部屋で寝なよ」
「は~い…」
まだねぼけているような声で返事をしながらタクシーを降りたものの、眠気と酔いのせいで足元がおぼつかない。
これじゃ、ひとりで部屋まで行けるかどうか心配だ。
“愛歌を頼みます。うちにとって今一番大事な歌姫なので”
社長に言われた言葉を思い出す。
「すみません、少し待っててもらえますか」
タクシーの運転手に声をかけて、車を降りた。
ホントはこんなことまでしたくはないけど、万が一何かあったら俺の責任になるわけで…。
とりあえず、部屋まで送ることにした。
時々ふらつく体を支えながら、なんとか部屋の前まで着いた。
さすがに部屋の中にまで入るのには抵抗があったけど、この様子だときちんと部屋の中に入るまで見届けた方が良いだろうと思い、部屋のドアを開けて中に入った。
時代の歌姫を介抱して部屋の中に入るなんて、ある意味貴重な経験だ。
「ちゃんと鍵かけなよ」
そう言って、すぐに部屋を出ようとしたその時。
「…やだ…帰らないで…」
琴吹さんがそう言って俺の腕をつかんだ。
潤んだ瞳。甘い香水の匂い。甘えた声。
人気歌姫の無防備で甘えた姿に、誘われるままに落ちた男はきっとたくさんいるだろう。
「私が夏音さんを忘れさせてあげる」
耳元で囁かれた言葉が甘く響く。
夏音がいなくなってから、世界はいつも闇に包まれて。
足元の道も行く先も見えない。
そんな毎日を過ごしてきた。
いっそこのまま闇に堕ちてしまいたい―
いつかこの暗闇を照らす光は射すのだろうか。
光となって見えない道を照らしてくれる人は現れるのだろうか。
揺らぐ視界の中、ふと心に浮かんだのは…。
目の前にいる歌姫でもなく、亡くなった恋人でもなかった。
【#5】
『人気歌姫・琴吹 愛歌 熱愛発覚』
そんなニュースがメディアを騒がせてから、事務所はもちろん、自宅のマンションにもマスコミが押しかけ、対応に追われる毎日が続いた。
事務所を通して公式コメントで「熱愛ではない」と発表したものの、芸能ニュースではそんなことは完全に無視して勝手に“カップル誕生”なんて盛り上がっている。
一色さんに“琴吹さんには気をつけろ”と言われていた意味が、今になってわかった。
やっと騒ぎか落ち着いてきた頃、久しぶりに音楽番組の収録の仕事が決まった。
結音に会うのはかなり久しぶりで、収録前に声をかけた時にはどことなくぎこちない雰囲気が漂っていた。
「お疲れ様でした。ありがとうございました」
スタッフに挨拶をして、収録スタジオを出る。
結音のいる控室へ向かうべきか、そのまま帰るべきか。
悩みながら、ひとり廊下を歩く。
今日の結音は、歌う前から少し様子がおかしかった。
いつも歌うことに全神経を集中させてベストコンディションで歌っているのに、今日は明らかに集中できていなかった。
番組スタッフもマネージャーの篠崎さんも「いつもの結音じゃない」と心配していた。
いつも最高の歌を聴かせようとしている結音だけに、今日のことは本人も相当落ち込んでいるようだった。
収録が終わったあとの結音は、まるで魂が抜けたような状態で、今にも泣きそうだった。
このままそっとしておいた方がいいのかもしれない。
だけど、放っておけないと思う自分がいる。
何か悩みがあるなら、力になりたいと思う。
そう思うのは、この数ヶ月一緒に仕事をしてきた仲間だからなのか。
それとも……。
「遠坂さん!」
そんなことを考えていると、不意に後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには笑顔の琴吹さんがいた。
「今日、私もここで仕事あったんですよ。さっき鈴原さんにも会って挨拶したんですけど」
「……え?」
結音と話した?
「あの子、ホントに素直っていうか…まだまだこの世界を知らないですよね」
「は?」
明らかにバカにしたような言い方だ。
もしかして結音の様子がおかしかったのは、琴吹さんに何か言われたから?
「結音に何か余計なこと言ってないよな?」
「別に。私はただ、遠坂さんが私のマンションに泊まったって言っただけですよ?」
「“だけ”って……」
それが今一番言わなくていい“余計なこと”だ。
わざわざ言う必要なんてないのに。
「なんでそんなこと……」
「うざいから」
訊き終らないうちに、今まで見たことのない険しい表情で、彼女は吐き捨てるように答えた。
「なんでそんなに結音のことを嫌ってる?」
結音が琴吹さんに憎まれるようなことをしたとは思えない。
でも、彼女が結音のことをよく思っていないのは、夏のイベントで共演した時からわかっていた。
自分より上にいる人が気に入らないタイプだろうとは思っていたけど、売り上げや知名度という点では圧倒的に琴吹さんの方が上だ。
音楽界のトップの座を奪われそうだからというわけでもなさそうなのに。
「この世界の厳しさを知らずにお気楽に歌っている人は嫌いなの」
そして、続けて発せられたのは憎しみに満ちた言葉だった。
「お気楽?」
そんなわけない。
結音は、心から音楽を愛し、歌を愛し、全身全霊で歌っている。
それは、この数ヶ月一緒に仕事をして、そばで結音の音楽活動を見て来たから、はっきりとわかる。
「それは琴吹さんの方じゃないのか?」
音楽に対する愛情も歌に対する情熱も感じられない。
自分でもわかっているはずだ。
本当に歌が好きで歌っているわけではないと。
それなのに、結音のことばかり貶すような言い方に憤りを感じた。
言い返した一言が図星だったのか、
「遠坂さんには私の気持ちなんてわからない!」
明らかに動揺した様子で琴吹さんが言った。
この状況はまずい。
誰かに見られたら、何を言われるかわからない。
「ちょっと、場所変えよう」
そう言って、すぐそばにある使用していない控室に入った。
控室の窓から、朝から降り続けている雨が激しさを増しているのが見える。
「いいんですか? ふたりきりになって」
不意に琴吹さんがつぶやいた。
「テレビ局の控室でふたりきりなんて、見つかったらまたニュースで騒がれるかも」
さっきの泣きだしそうな表情から一転、今度は笑っている。
ニュースで騒がれたら困るのは彼女も同じはずなのに、なぜ笑っていられるのか。
何を考えているのかまるでわからない。
「その様子だと、遠坂さんもまだ気づいてないんですね?」
「何に?」
「あの熱愛報道、全部ヤラセだったの」
「……!?」
何か言おうと口を開きかけた時、物音が聞こえた。
反射的に音がした方に視線を向けると…
「……今の話、どういうことですか?」
聞き覚えのある、震えた声。
控室のドアの前に、結音が立っていた。
「あ~あ。鈴原さんも聞いてたんだ」
開き直ったように、琴吹さんが言った。
結音にも控室に入ってもらって琴吹さんにきちんと説明するように言うと、
「社長との食事も、遠坂さんを私のマンションの部屋まで入るようにしたのも、全部最初から仕組んでたの」
琴吹さんは衝撃的なことを口にした。
「じゃあ、お酒に酔ってたのも…?」
「わざと、酔ったフリしたんですよ」
つまり、あれは全部演技だったのか。
「どうしてそこまで手の込んだことを……」
しかも、社長まで使って。
なんでそこまでする必要がある?
「私は今の立場を守り続けなくちゃ生きていけないの……」
そう言って、琴吹さんはゆっくり話し始めた。
両親が人気アーティストであるがゆえの葛藤と苦悩。
ただ純粋に歌うことを楽しんでいる結音に対する憧れと嫉妬。
結音は歌うために生きているけれど、琴吹さんは生きるために歌っているんだ。
同じ世界にいながら、ふたりは正反対の生き方をしている。
人気歌姫の本当の姿は―
自分の居場所を探し、本当の自分を見てほしいとを切に願うひとりの女の子だった。
【#6】
「由弦、これ落ちてたぞ」
マネージャーの一色さんからそう言われて差し出されたのは、1枚の写真。
聞かなくても、何かすぐにわかる。
夏音の高校時代の写真だ。
いつのまに落としていたんだろう。
「ありがとうございます」
お礼を言って受け取ると、スケジュール手帳の中に挟んで、鞄の中に入れた。
もしかしたら昨日、ミーティングで手帳を広げた時に落としたのかもしれない。
「なぁ、由弦。今もおまえは、夏音ちゃんのことしか好きになれないか?」
突然の核心をついた質問に思わず顔を上げると、一色さんが真剣な表情で言葉を続けた。
「本当は気づいてるだろ?もう、お前の中で夏音ちゃんの存在は過去になってること。そして、今そばにいたいと思っている人がいること」
「………」
そう、本当は気づいてる。
初めて出会ったあの日から、少しずつ変わり始めた気持ちに。
でも、ずっと気づかないふりをしてた。
踏み出すのが怖くて。
俺は、夏音以外好きになってはいけないと、自分で自分の心を縛り付けていた。
「あの子は繊細そうに見えるけど、芯が強いよ。しっかりとした信念を持って生きてる。だから、きっと由弦の過去もすべて受け止めてくれるはずだ」
一色さんが何を言いたいのか、わかった。
この半年、一緒に音楽活動をして見えた彼女の人柄や生き方。
それは、全てを打ち明けても変わることはないはずだから。
だから、全てを話してきちんと向き合ってほしいと、そう言いたいのだろう。
「それでも、おまえが音楽活動を休止したいって言うなら、俺はもう止めないよ」
そう言って、一色さんは少し寂しそうな表情で笑った。
琴吹さんから、全ての事情を聞いたあと。
俺は、マネージャーである一色さんにも全てを話した。
そして、ある決断をした。
“年内で音楽活動を休止する”。
琴吹さん側のヤラセだったとはいえ、自分の行動で世間を騒がせ、関係者に迷惑をかけてしまった。
そして、結音を巻き込んでしまった。
今までがむしゃらに音楽活動だけは続けてきたけれど、もう一度自分を見つめ直すためにも、少し時間がほしいと思った。
もちろん、社長にも一色さんにも考え直してほしいと言われた。
正直言って、自分自身でもまだ悩んでいる。
だから、とりあえず仕事の依頼は年内のものだけ引き受ける、ということで結音の事務所側ともスケジュールの調整をしてもらった。
そして、12月に入り、クリスマスコンサートのリハーサルが始まった。
演奏候補曲を聴きながらアレンジを考えて演奏しているけれど、歌い方が今までの結音と少し違うような気がした。
歌い方の感情の込め方が違う。
きっと、今、結音は誰かに本気の恋をしている。
そうじゃなきゃ、こんなに切ない歌は歌えない。
誰を想って歌っているのか、こんなにも気になってしまうのは……自分の本当の気持ちを認めたから。
* * *
今日の仕事を終えてスタジオを出ると、もう外は暗くなっていた。
時刻は午後6時半。
まだそれほど遅い時間ではないから、どこかで夕食を食べてもいいけど。
今日はこのあと仕事もないし、このまま帰ろう。
冬を告げる肌寒い風を感じながら、帰路についた。
「ただいま」
部屋に入って、いつも通り写真の中の夏音に声をかける。
今日も彼女は穏やかに微笑んでいる。
「夏音、俺はどうしたらいい?」
そう呟いたその時、ジャケットのポケットに入れていたスマホが震えた。
表示された名前を見て、驚いた。
お互い番号を知ってはいたものの、一度も電話をしたことはなかったのに。
仕事のことで何か急用だろうか?
ためらいながらも電話に出ると、結音が今マンションのエントランスに来ているとのことだった。
半信半疑で電話を切ってエントランスホールに行くと、そこには本当に結音がいた。
「ごめんなさい。突然マンションに押し掛けて、迷惑ですよね……」
とりあえず部屋に案内すると、結音は申し訳なさそうに言った。
「いや。確かに突然で驚いたけど……」
迷惑ではない。
でも、わざわざここまで来て話したいことって何だろう?
「由弦さん、年内で音楽活動休止するって本当ですか?」
「……え……?」
「篠崎さんから聞いたんです」
そうか。一色さんが篠崎さんに話せば、必然的に結音にも伝わるってことだ。
「本当だよ。琴吹さんとの件でたくさんの人達に迷惑をかけてしまって、結音にも嫌な思いをさせてしまったし。しばらく音楽から離れて、自分の人生を見つめ直そうと思ったんだ」
「辞めないでください。由弦さんは本当に才能があるし、憧れの存在なんです。これからも音楽活動を続けてほしいです……」
結音が、今にも泣きそうな表情でそう言った。
「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
結音は、本当に素晴らしい歌声を持つ若き実力派シンガーだ。
同じ音楽を愛する者として、楽曲制作できたこと。
一緒のステージに立てたことを、誇りに思う。
だから本当は、出来ることなら、これからも一緒に音楽活動をしていきたい。
「結音に聞いてほしい話があるんだ」
意を決してそう言うと、
「夏音さんのことですか?」
先に結音が夏音の名前を口にした。
結音には今まで叶音のことを話したことはないのに、どうしてわかったんだろう?
「実は、私がこの前偶然夏音さんの写真を拾って一色さんに聞いたんです」
写真って……この前、一色さんが「落ちてた」と言って渡してくれたもの?
あの時の言い方からして、一色さんが拾ってくれたのだろうと思っていたけど。
「一色さんが、“自分が拾ったことにして渡しておくから、この話は聞かなかったことにしてほしい”って」
……そういうことか。
「少し長い話になるけど、聞いてほしい」
そう言うと、結音は「はい」と頷いてくれた。
夏音は、物心ついた時からの幼なじみだった。
彼女は生まれつき心臓の病気を抱えていて、学校にはあまり登校できず、クラスでいじめられていた。
でも、小さな頃から歌が大好きで、将来はプロの歌手になりたいと歌の練習をしていたんだ。
俺も、小さな頃から父の影響でギターが好きで将来はギタリストになりたいと思っていたから、いつかふたりでプロとして同じステージに立とうと約束した。
だけど幸せは長くは続かなかった。
生まれつきの心臓病が悪化して、夏音は高校に入学した頃から入退院を繰り返すようになった。
そして8年前―17歳の夏、ついにその時が訪れた。
その時のことはあまり覚えていない。
気がついたら、俺は夏音が入院していた病院にいた。
でも、俺が病院に着いた時には……彼女はもう息をしていなかった。
あまりにも突然すぎる出来事に、夢なのか現実なのかまるで区別がつかなかった。
目の前の夏音の姿を見ても、死んだという実感が全くなかった。
だけど、何度朝を迎えても夏音はいない。
もう二度と、笑顔を見ることも、声を聞くことも、温もりを感じることもできない。
高校を卒業して、プロデビューして、いつか…結婚して、ふたりで幸せな日々を過ごしていくはずだった。
それなのに、どうして……!
悔しくて悲しくてどうしようもなかった。
それからは、毎日暗闇の中に生きているような気持ちだった。
それでも、音楽活動は続けてきた。
それは夏音との約束だったから。
時と共に少しずつ夏音を失った痛みは和らいだけれど。
それでも夏音を、夏音と過ごした日々を過去や思い出として受け止めて前に進むことができずにいた。
そんな時に結音に出会った。
初めて会った時、顔立ちや雰囲気、そして名前までも夏音に似ていて驚いた。
だから、自然と夏音の面影を重ねてしまう自分がいた。
結音といると、夏音を忘れたくない気持ちと忘れたいと思う気持ち、両方がせめぎ合ってどうしたらいいかわからなくなった。
「……ひとつ、訊いてもいいですか?」
それまで黙って話を聞いていた結音が、遠慮がちに言った。
「由弦さんは……私のこと、どう思ってますか?」
「……え……?」
「由弦さんが夏音さんのことを忘れられないなら、かわりでもいいです。それでも私は由弦さんのそばにいたいんです。私は由弦さんのことが……っ」
言い終わらないうちに、俺は結音を抱きしめていた。
「……由弦さん?」
結音が、驚いたように俺の名前を呼んだ。
「……かわりでいいなんて言うな」
夏音のことは、きっと一生忘れられない。
初めて好きになった、大切な人。
だけど、もう自分の気持ちに嘘はつけない。
今そばにいたいと思うのは、目の前にいるただひとり。
夏音のかわりなんかじゃない。
初めて歌を聴いた時から。
初めて出会ったあの日から。
俺は、結音に惹かれてた。
【#7】
12月半ばのある日。
俺は、結音と一緒にある所へ行くことにした。
ある所とは、夏音が眠る場所。
今日は、夏音の月命日だ。
毎年ひとりでも必ず墓参りに行っているけれど、今年は一緒に行ってほしい人ができた。
隣で、結音が切なそうな苦しそうな表情で空を見上げている。
夏音がいなくなるまでは、明日が来ることは当たり前だと思ってた。
だから、言い訳をして、本当は今できることを先延ばしにしてきた。
もう8年前と同じ後悔はしたくない。
今できることは、今やる。
今伝えたいことは、今伝える。
「だから、決めたよ。俺は、生きている限り音楽を続けていく」
「……え?」
「これからも、結音と一緒に音楽活動を続けていきたい」
そう。これが、今の俺の正直な気持ちだから。
そして夏音が見守る中、結音と音楽を続けるという約束の握手を交わした。
夏音。俺は、確かにきみのことが心から好きだった。
夏音以上に好きになれる人なんていない。
大切だと思える人なんていない。
ずっとそう思ってきた。
でも、ごめんな。
今、俺には、一緒に音楽活動をして生きていきたいと思ってる人がいる。
これからもそばにいて支えていきたい、大切にしたいと思ってる人がいる。
彼女は、夏音と同じように何よりも歌うことを愛している。
だからこそ、一緒にいたいと思ったんだ。
夏音なら、その気持ちわかってくれるよな?
短い時間だったけど、俺は君を幸せに出来ただろうか?
俺は幸せだったよ。
夏音に出会えて、夏音に恋をして、一緒に音楽を学べて、幸せだった。
今まで本当にありがとう。
そう心の中で想った時、優しい風が吹いて―
“あ り が と う”
夏音がそう言って微笑んでくれたような気がした。
* * *
12月24日―クリスマス・イブ。
今日は都内の教会で結音のクリスマス・コンサートに出演している。
結音の透き通る歌声が、教会という神聖な場所で厳かに響く。
真っ白なドレスを着て歌う結音は、まるで天使のようだ。
今日のコンサートは、クリスマスにピッタリの讃美歌や、クリスマスソングを中心にしたセットリスト。
そして結音のオリジナル・ソングは、結音が今一番歌いたい歌だと言っていた2曲。
その2曲の演奏が終わって、いよいよ次がラスト・ソングだ。
「今日はクリスマス・イブなので、スペシャルバージョンでお届けします」
MCのあと、結音とアイコンタクトをして、ギターを弾き始める。
結音と出会うきっかけになった始まりの曲。
結音がどこまでも透き通るような唯一無二の声で、メロディーを紡いでいく。
伝えたい想いがある。
聴いてほしい歌がある。
だから、俺はここにいる。
これからもずっと音楽を続けていく。
大切な人と一緒に―。
【#8】
年が明けてから結音のセカンド・シングルとなる『虹色の世界』が週間ランキングで1位を獲得し、初めて生放送の音楽番組にも出演した。
本番中、最初はかなり緊張していたけれど、歌が始まったとたんに素晴らしい歌を披露した結音はさすがだと思う。
2月からは4月に開催が決まったコンサートに向けて本格的に動き出した。
結音が提案したスプリング・ガーデンをもとにセットリストや衣装、演出など準備に追われ、あっというまに時が過ぎていった。
飛ぶように過ぎていく日々の中、ついに迎えたコンサート当日。
会場は満員御礼で、関係者席には心音のご両親もいる。
結音にとっては、初めての千人規模のソロステージだ。
最初は最後までしっかり歌いきれるか少し心配だったけど、オープニングから結音のコンディションは絶好調だった。
客席も温かい空気に包まれていて、音楽で心が繋がっているのがステージからもよくわかる。
鳴りやまない手拍子に応えてアンコールの楽曲『虹色の世界』を演奏した時は、今日一番の一体感だった。
「結音、お疲れ様。最後までよく頑張ったな」
ステージ袖に残っていた結音に声をかけると、ずっと我慢していたのか泣き出してしまった。
「なんで泣いてるんだよ」
「だって、すごく感動して……」
結音の純粋な心と涙がたまらなく愛しくなって、思わず抱きしめる。
「俺も結音の歌にすごく感動したよ。これからもずっと心音の歌を聴いていたいって思った」
「これからもずっとそばにいてくれますか?」
「もちろん」
結音の言葉に笑顔で即答して、ゆっくり顔を近づける。
一瞬戸惑いながらも目を閉じてくれた結音に、同じ気持ちでいてくれて良かったと思った。
そっと唇に触れた温もりはとても優しくて、幸せな気持ちで満たされていく。
これからもきっと、君がいれば、世界は虹色に輝く。
【#秘月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
綺麗な満月の光が
秘密の始まりを告げる
今日も夜空を照らす秘め月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
深夜1時、真っ暗な部屋の中。
月が綺麗に輝くこの時間は、私と彼の秘密の時間。
誰にも言えない秘密の時間。
窓から射し込む月明かりが、彼の顔を淡く照らす。
聞こえるのは、お互いの鼓動と甘い吐息。
求め合う度、彼の熱が体中に刻まれていく。
そして今日も私は甘い痛みに溺れていく。
浅い眠りから目覚めた時、隣に彼の姿はなかった。
まだ熱の残る体をそっと起こして、ベッドサイドの時計を見る。
AM3:30。夜が明ける前に部屋を出なくちゃいけない。
でも、もう少し甘い余韻に浸っていたい。
まるで、恋する乙女みたい。
そんな甘い感情が許される関係じゃないのに―
名残惜しい気持ちで部屋を出ると、帽子とサングラスで顔を隠すようにしてタクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げた。
まだ真っ暗な冬の夜明け。
窓から、綺麗に輝く満月が見える。
ぼんやりと月を見ながら、さっきの彼との時間を思い出す。
今頃彼もこの月を見ているだろうか。
「着きましたよ」
運転手さんの声で我に返って、会計を済ませて車を降りた。
目の前には、“緑山ヒルズ”と呼ばれる都内の一等地にある高級マンション。
そのマンションの最上階にあるのが、私の部屋。
一人暮らしには広すぎるくらい広い部屋。
ガラス張りの窓から東京の景色が一望できるのが自慢だ。
小さな頃から当たり前に与えられた裕福な生活。
ソファに腰を下ろしてテレビをつけると、早朝の音楽番組が始まるところだった。
人気アーティストの最新ミュージックビデオを流す番組。
ソファに腰を下ろしてテレビをつけると、早朝の音楽番組が始まるところだった。
旬なアーティストの最新ミュージックビデオを流す番組。
「今日の1曲目は、今大人気の歌姫、 琴吹 愛歌さんの『SECRET MOON』です」
流れてきたナレーションのあとに映し出されたのは、私。
琴吹 愛歌―それが私の名前。
「人気歌姫」と言われ、今や音楽業界でその名前を知らない人はいない。
大手事務所とレコード会社に所属し、出す曲は全てランキング1位。
若い世代から圧倒的な支持を得て、今の音楽界を牽引する歌姫だと言われている。
今流れているこの『SECRET MOON』は、先月発売されたばかりの新曲だ。
2週連続で1位を獲得していて、“恋する女の子の泣き歌”として話題になっている。
ファンの間では、早くも「愛歌の代表曲」なんて声もあがっている。
詞は自分で書いているから、「実体験ですか?」なんて質問も多いけど、私はその度に「ご想像にお任せします」と答えている。
この歌は…誰にも言えない彼との秘密の関係を詞にしているから。
「続いては、Neo Moonの『月虹華』です」
私の曲が終わると同時に流れてきたナレーションの声と映像。
満月をバックに黒を基調とした衣装で演奏をするバンド。
『Neo Moon』は、10代の女の子達を中心に数年前から人気のバンドだ。
ボーカルの涼夜を中心とした4人組で、イケメン揃いのメンバーと、ロックだけど和風テイストという独特の音楽性が魅力。
ボーカルの甘く艶やかな歌声は、一度聴けば誰もが惚れるセクシーヴォイスと言われている。
最近では、日本国内のみならず海外でも注目を集めていて、海外公演も行っている。
流れる映像を食い入るように見つめ、聴こえてくる歌に耳を澄ます。
こうしてテレビで彼を観ると、さっきまでの時間が夢みたいだ。
この人の声で名前を呼ばれ、この人の腕に抱かれていたなんて。
ふと窓の外に視線を移すと、明るくなり始めた空にうっすらと残る満月が見えた。
始まりの日も、満月だったことを思い出す。
Neo Moon全国ツアー最終日の東京公演。
事務所からもらった関係者席のチケットで、私は初めて彼らのライブを観た。
ステージ上で眩しいオーラを放ち演奏するメンバー。
観客を歌の世界に惹きこむ演出。
完成度の高いパフォーマンスに圧倒された。
その中でも私は、涼夜の歌声と佇まいに強く惹きつけられた。
ライブ終了後、会場近くのお店で関係者も招いて打ち上げがあるということで、私も参加させてもらうことになった。
たくさんの関係者が出席する大きな打ち上げ。
こうして音楽の仕事をしていなければ会うことのできないような顔ぶれ。
今、華やかな場所にいる私は、彼に近づくのも簡単だ。
私は今や日本を代表する歌姫なんだから。
「お疲れ様です~」
わざと大きな声でそう言って、周りの人達と談笑している彼の隣に向かう。
「え!? もしかして琴吹 愛歌ちゃん?」
「はい。そうです。今日のライブ、すごく良かったです」
私が関係者席で観ていたことを知らなかったらしい彼…涼夜さんは、私が声をかけてきたことにかなり驚いている。
「私、前から涼夜さんのファンだったんですよ。 お会いできて嬉しいです」
「いやいや、こちらこそ日本を代表する歌姫にそう言ってもらえて光栄だよ」
私の言葉に涼夜さんが嬉しそうに笑顔で答えてくれた。
その笑顔は、さっきまでステージで観ていたクールな表情とは違って優しくて、思わず見惚れてしまった。
間近で見ると、本当に綺麗な顔立ち。
それに地声は柔らかいハスキーボイスで、聞いていると安心するような声だ。
歌っている時の艶やかなハイトーンボイスもいいけど、地声も素敵だな。
お酒が入っているせいか、冗談を交えながら饒舌に話す涼夜さん。
どんどんお酒のペースも速くなっていく。
メディアやライブではあまり見せない笑顔は柔らかくて、優しくて、そのギャップに、キュンとしてしまう。
この人はどんな風に愛の言葉を囁くんだろう。
どんな風に愛してくれるんだろう。
もっと彼のことを知りたくなった。
そう思ったら、即行動が私のモットー。
「すみません。ちょっと気分が悪くなったみたいなので、外出てきますね」
そう言って席を立った。
「え?大丈夫?」
「すぐ戻りますから」
心配そうに尋ねる涼夜さんに笑顔でそう告げて、そのままお店の裏口へと向かう。
裏口の扉から外に出て石段に座ると、深夜の冷たい風を感じた。
真っ暗な空には、満月が輝いている。
うまくいくかな…と思ったその時、扉の開く音がした。
ハッとして振り返ると、そこにいたのは―
「琴吹さん、ホントに大丈夫?」
本気で心配そうな表情を浮かべている涼夜さんだった。
「ちょっと外の空気を吸ったら落ち着きました。もう中に戻りますね」
そう言いながら慌てて立ちあがったその時、
「……! 危ない」
よろめいて転びそうになったところを、涼夜さんが支えてくれた。
「やっぱ大丈夫じゃねぇだろ? 今日はもう帰ったら?」
その涼夜さんの言葉に、成功を確信した。
「…私…今日はこのまま涼夜さんと一緒にいたいです…」
甘いトーンで涼夜さんの顔を見上げるようにしてつぶやく。
一瞬、彼の瞳が揺れた。
「それって、どういう意味?」
そう尋ねた彼に「そういう意味です」と真顔で答える。
人気歌姫からの誘惑。
さぁ、どうする?
人気アーティストとしての立場を守るのか、誘われるままひとりの男になるのか。
その答えは…今の関係。
最初は軽い気持ちで始まったこの関係。
それは…甘く危険な秘密の始まりだった。
【#誘月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
求めるほどに堕ちていく
背徳の快楽に溺れていく
空には赤く光る誘い月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
「お疲れ様でした。本番もよろしくお願いします」
テレビ局のスタジオに、ディレクターの声が響く。
その言葉を合図に、出演者たちがそれぞれスタジオを出て、自分達の楽屋へと戻っていく。
「琴吹さん、今日はよろしくね」
後ろから声をかけられて振り向くと、そこにいたのはNeo Moonの4人。
声をかけてきたのは、ギタリスト兼リーダーの銀河さんだった。
「はい、よろしくお願いします」
笑顔でそう答えて、さりげなく涼夜の方へ視線を向ける。
一瞬だけ目が合ったけれど、彼はすぐに視線を逸らした。
ここでは私達は人気アーティスト同士。
誰にも私達の関係を悟られてはいけない。
たとえそれがNeo Moonのメンバーであっても。
親しい素振りを見せれば、気づかれるかもしれない。
だから私もそのまま自分の楽屋へと向かった。
楽屋に戻って、備え付けのテレビをつけて一息つく。
本番まであと約1時間半。
何気なくテレビを観ていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「琴吹さん、メイク入ります」
その言葉と同時に、担当ヘアメイクさんが楽屋に入ってきた。
化粧台の椅子に座ってメイクをしてもらっていると、テレビからある歌が聴こえてきた。
透明感のある綺麗な声が、耳に心地よく響く。
最近よく流れている音楽アプリのCMだ。
「このCM、最近よく流れてるよね」
ヘアメイクさんも私と同じことを思っていたらしい。
「アーティスト名が出てないけど、誰が歌ってるんだろう」
私が疑問を口にすると、
「確か、鈴原 結音さんっていう子よ」
ヘアメイクさんがあっさりと答えた。
「鈴原 結音?」
聞いたことのない名前に、思わず聞き返してしまった。
「業界の中では実力派新人歌手として注目されているらしいわ」
「そうなんだ」
確かに、たった数十秒のCMで聴いただけでも耳に残る声だし、歌が上手いっていうのもわかる。
「でも、ずいぶん詳しいですね?」
「この前、偶然仕事の時に聞いたのよ。人気サポートギタリストの遠坂 由弦さんがレコーディングに参加してるって」
「え!? そうなの?」
遠坂さんと言えば、有名な人気サポートミュージシャンだ。
数々の大物アーティストと共演をしている実力派。
そしてかなりのイケメンということもあって、多くの女性アーティストが彼との共演を夢見ている。
もちろん私もその中のひとりだ。
「なんでも遠坂さんが歌声をとても気に入って、ぜひ参加したいって話になったんだって」
「へぇ…」
人気ミュージシャンがそこまで気に入った歌声の人って…どんな人なんだろう?
「はい、終わり。本番頑張ってね」
そんなことを考えていたらいつの間にかメイクは終わっていて、鏡に映る私は人気歌姫・琴吹 愛歌の顔をしていた。
本番まであと約30分。
ヴォイトレルームで発声練習をしようと席を立った時、スマホに新着メッセージが届いていることに気づいた。
【番組終了後、LUNAの駐車場で待ってる】
確認すると、涼夜からのメッセージだった。
LUNAはここから少し離れた裏通りにあるバーだ。
雑居ビルの地下でひっそりと営業しているから、お店だと気づく人はほとんどいない。
だから、最近涼夜と会う時の待ち合わせ場所に使っている。
お互いのマンションだとマスコミに気づかれてしまう可能性が高いから。
私は『了解』と返信して、ヴォイトレルームへ向かった。
声出しのために発声練習をしていたら、あっという間に本番の時間。
マネージャーに声をかけられてスタジオへ移動する。
午後8時、生放送の歌番組ミュージック・パラダイスの本番がスタートした。
「続いてはNeo Moonの皆さんです」
司会役のアナウンサーが紹介し、Neo Moonのメンバーが一番前のひな壇に座る。
「今回の新曲の聴きどころを教えてください」
「今回はズバリ涼夜のセクシーボイスと歌詞です」
アナウンサーからの質問に、リーダーの銀河さんが答える。
「今日も思い切りセクシーに歌いますので、ご期待下さい」
涼夜が笑顔でそう言うと、観客からキャーという黄色い歓声があがった。
「それでは、歌って頂きましょう。Neo Moonで『花蝶誘月』です」
曲紹介のあとにピアノとギターのイントロが流れ、演奏が始まる。
和風なアレンジとメロディーは、桜吹雪を連想させる。
そして涼夜が目を閉じて歌い始めた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
白い肌に咲く赤い薔薇
甘い花の香りに誘われた
蝶のように夢中に舞う
月の光に照らされて
今夜も君に溺れていく
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
宣言通りいつも以上に色気のある歌い方。
甘く囁くような歌声にきっとスタジオにいる女性、テレビを観ているファンの人達、誰もが酔いしれている。
この曲は誰とのことを歌っているの?
私?それとも……
「続いては琴吹 愛歌さんです」
そんなことを考えていたら、いつの間にか私の出番になっていた。
「今日歌って頂くのは、大ヒット中の『SECRET MOON』です。この曲は琴吹さんにとって自身最高のヒット曲になっているんですよね」
「はい。たくさんの方に聴いて頂けて私も嬉しいです」
「特に同世代の女の子達から“歌詞がいい”と評判のようですけど、どうですか?」
「…そうですね。やっぱり自分で詞を書いているので、共感したっていう感想は一番嬉しいです」
「それでは、歌って頂きましょう。琴吹 愛歌さんで、『SECRET MOON』」
曲紹介の後、イントロが流れて歌い始める。
今目の前にいる人のことを歌っているなんて―言えるわけない。
知られてはいけない人との関係を歌った歌が一番ヒットするなんて、皮肉なものだ。
歌い終えた後そっと涼夜の方を見てみたけれど、相変わらずクールな表情のまま。
気づいているのか、いないのか。
その表情からはわからなかった。
そしてあっという間に1時間の番組は終了し、それぞれが楽屋へと戻って行った。
「愛歌ちゃん、このあと出演者と番組スタッフで打ち上げあるらしいけど、どうする?」
楽屋に戻ると、マネージャーの古賀さんに訊かれた。
「ごめんなさい、今日はパスします」
このあと涼夜と会う約束があるとは絶対に言えないけど。
「そう? じゃあ、車で送るわ」
「あ、大丈夫です。今日は寄りたいところがあるから、タクシーで帰ります」
「寄りたいところ? それなら言ってくれれば私もつきあうわよ?」
「あ、あの。友達が今日スタジオに来てくれてて。このあと、久しぶりにその子の家で女子会やろうって話になってて……」
送っていくと言って引かない古賀さんに、私はとっさにウソをついた。
「そっか。じゃあ、それなら私がいない方がいいよね。でも、愛歌ちゃんは今や日本を代表する歌姫なんだからね。どこでマスコミが見ているかわからないから、充分気をつけて」
古賀さんの言葉が、小さな棘のように胸の奥にチクリと刺さる。
「……はい。わかりました」
平静を装って、私は頷いた。
「本当に気をつけてね」
古賀さんに見送られて、私はタクシーに乗り込んだ。
もちろん琴吹 愛歌だと気づかれないようサングラスとマスクで顔がわからないようにして。
涼夜との待ち合わせ場所であるLUNAの駐車場へ向かう。
15分ほど待っていたところで、車の音が近づいてきた。
もしかして…と思っていると、1台の車が駐車場に入ってきて、私の前に停まった。
ドアを開けて、そのまま助手席に座る。
「遅かったね」
「悪い。打ち上げ参加断るのに時間かかった」
「そっか」
やっぱり涼夜も引き留められてたんだ。
シートベルトをすると、車は駐車場を出て夜の街を走り出す。
カーステレオから、さっき聴いたばかりのNeo Moonの新曲『花蝶誘月』が流れている。
「運転中も自分の歌聴くとか、どんだけ自分大好きなわけ?」
からかうように言うと、
「違うって。最近テレビとかで歌う機会多いから、覚えるために聴いてるんだよ」
涼夜が少し照れたようにそう言ってカーステレオのボリュームを下げようとした。
「別にイヤって意味じゃないから。私、この歌好きだし」
そう言いながら慌てて涼夜の手を止めると、
「やっぱりこっちの方がいいか」
涼夜がそう言って、選曲ボタンを押した。
聴こえてきたのは、私の声。
さっき歌ったばかりの『SECRET MOON』だ。
「ちょっ、恥ずかしいからやめてよ~」
慌てて選曲ボタンを押そうとしたけど、涼夜に手を掴まれる。
「なんで? 俺、この曲好きだし」
今度は涼夜がからかうように言う。
……形勢逆転。
「しょうがないな。聴かせてあげてもいいよ」
「なんだよ、その上から目線」
私の言葉に、涼夜が笑った。
その笑顔は、歌番組で見せていたクールなNeo Moonの涼夜じゃない。
今はもう、ひとりの男性だ。
「ねぇ、どこまで行くの?」
「さぁ。どこだろうな」
私の質問に、言葉を濁して意地悪な笑みを浮かべる涼夜。
どこへ行くつもりなのかわからないけど。
いっそこのままどこでもいいからどこか遠くへ連れ去ってほしいと思ってしまう。
車はいつの間にか高速を走っていた。
涼夜がアクセルを全開にして一気にスピードを上げていく。
どんどん流れて行く景色。
カーステレオからは、Neo Moonの疾走感あるロックナンバー。
ボリュームを上げて、涼夜が口ずさむ。
その歌にハモるように、私も口ずさむ。
私は、こうして涼夜が運転する車で夜のドライブをする時間が好きだ。
まるで世界に二人だけしかいないような感じがするから。
そして…この瞬間は、彼は私だけのものだから。
高速を降りて、市街地へと向かう途中。
信号待ちの間に、曲が途切れた瞬間。
「愛歌」
数秒の沈黙を消すように涼夜が私の名前を呼んだ。
甘く囁くような声に胸の奥がくすぐったくなる。
ふと顔を上げた時には、もう視界が遮られていて。
唇に熱を感じて、そのまま目を閉じた。
一瞬で離れた温もりに物足りなさを感じていると、
「続きはまたあとでのお楽しみ」
私の気持ちを見透かしたように涼夜が妖しげな笑み浮かべて言った。
その表情があまりにも艶やかで、それだけで熱くなっていく体。
早く触れて欲しい。
こんなにも求めてしまうのは、深みに嵌っている証拠。
一度堕ちたら、もう抜け出せない。
「この辺がいいかな」
不意に、涼夜がそう言って車を停めた。
市街地を抜けた、静かな場所。
周りは木々に囲まれていて、街灯も車の通りもほとんどない。
「どうしたの?」
シートベルトを外しながら尋ねると、
「さっきの続き」
耳元で囁かれた。
「…え…?」
戸惑う私の顔を覗きこんで、
「早く愛歌を感じたい」
華奢な指で私の髪を梳きながら囁く。
その声に囁かれたら、
その瞳に見つめられたら、
その指に触れられたら、
もう逃げられない。抗えない。
甘く、深く、溶けるようなキス。
体中に感じる熱に、眩暈がする。
ぼんやりと霞んでいく意識の中。
フロントガラスから、赤く光る朧月が見えた。
【#迷月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
欠けていく月はまるで
満たされない心模様
不安定に揺れる迷い月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
夏の暑さを感じ始めた7月の初め、私はミーティングのためにQUEEN MUSIC事務所本社ビルへと向かった。
「今週の注目曲は、七色の声を持つ新世代の歌姫、鈴原 結音さんで『虹色の歌』です」
そんなナレーションと共に会議室のテレビから流れてきたのは、最近CMでよく耳にしている透明感のある声。
「鈴原さんって、最近色んな音楽番組で紹介されてますね」
やっぱり、人気モデルの夜咲凜ちゃんが出演した大手企業のCMタイアップで話題になったからかな。
「そうね。実は愛歌ちゃん、今度鈴原さんと共演することになったのよ」
「え!?」
そんなこと一言も聞いてないんだけど…!?
「それ、初耳なんですけど…」
「うん。今初めて言ったから」
笑顔であっさりと頷くマネージャーの古賀さん。
「来月行われるテレビ局主催のイベントで、主催者から愛歌ちゃんに出演オファーがあったのよ。そのイベントに鈴原さんも出演するの」
「……テレビ局主催のイベント?」
「要するに夏休みを盛り上げるテレビ局主催の音楽イベントだから。愛歌ちゃんは出演者の目玉とトリってことで、一番出演時間も長いのよ。今日は、早速そのイベントの演奏曲や衣装について打ち合わせするから」
「わかりました」
それから、コンサートスタッフも同席して来月のイベントについてのミーティングが行われた。
翌週からリハーサルが始まり、あっというまにイベント当日。
会場となるNテレビ局へ向かうと、すぐにイベントスタッフとの打ち合わせが行われた。
「これからリハーサルに入ります。琴吹 愛歌さんはこちらへお願いします」
そう言って案内されたのは、局内にあるスタジオ。
「今日のイベントは琴吹さんファンの方が圧倒的に多いんです。ステージでリハーサルをするとパニックになる可能性もあるので、安全を考慮しました」
というスタッフの説明を受けて納得した。
確かに今日の出演アーティストの中では私が一番人気も知名度もあると思う。
社長にも、「今日は愛歌メインのイベントだから」と言われていた。
その言葉通り、リハーサルを終えて本番が始まっても、会場に集まった観客のノリはいまひとつ盛り上がりに欠けていた。
「続いては、CMソングで注目を集めた鈴原 結音さんの登場です」
司会の紹介と共に、4組目の出演者、鈴原さんがステージに登場した。
「こんにちは、鈴原 結音です。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします」
鈴原さんは、春らしい花柄のワンピースの衣装で外見だけじゃなく話し方もふんわりおっとりしている癒し系だ。
MCのあと、隣にいる遠坂さんとアイコンタクトをしてキーボードを弾いて歌い始めた。
鈴原さんの歌を生で聴くのは初めてだけど、一瞬でその歌声に圧倒された。
繊細な透き通る声の中にある凛々しさと芯の強さ。
言葉ひとつひとつに魂を込めた歌い方。
“歌が上手い”って、こういうことなんだ。
歌い直しがきくテレビ収録では、声が出なくてもピッチが外れてもある程度誤魔化せるけど。
コンサートではそれができないから、本当の実力が試される。
さすが遠坂さんが惚れ込んだと言われているだけあって、生歌の迫力がすごい。
それに、遠坂さんの包み込むような音がすごく鈴原さんの歌に合っている。
まるでずっと前から一緒に演奏してきているかのような、息の合った音。
そして何より、ふたりの音楽に対するまっすぐな想いが伝わってきて。
綺麗すぎて、眩しすぎて、私とは生きている世界が違うような気がして。
心の奥深くに閉じ込めていた気持ちまで思い出させるような。
隠し続けている深い傷跡にまで沁み込んで来るようなそんな歌に、なんとも言えない気持ちが胸の奥に広がっていくのを感じた。
「さぁ、お待たせ致しました!次が本日のイベント最後の出演者となります。同年代から圧倒的な支持を得ているカリスマ歌姫、琴吹 愛歌さんです!」
その言葉を合図にステージに出ると、待ってましたという様に会場中から大歓声が上がった。
ファンの子達に興奮状態で名前を呼ばれながら、1曲目の演奏が始まった。
さっきまでの鈴原さんの歌とは打って変わってノリノリのダンスナンバー。
今まで遠慮がちに観ていたのがウソのように、みんな曲に合わせて歌っている。
この会場にいるお客さんはほとんどが私のファンだ。
社長の言葉通り、私のために開催されたイベントも同然。
この世界は、実力だけじゃやっていけない。
どれだけ素晴らしい才能を持っていても、綺麗事で活動していたら埋もれていく。
親の力だろうと事務所の力だろうと使えるものはどんどん使わなきゃ、この世界では生きていけない。
「次の曲は、切ないヒミツの恋をテーマに詞を書いた曲です。聴いてください。『SECRET MOON』」
最近、何度となく歌っているこの曲。
この曲を歌う度、涼夜のことを想う。
先月のテレビ出演以来、お互い忙しくて会っていない。
次はいつ会えるんだろう……。
会いたい時にすぐ会えるわけじゃないから、尚更会いたいと思ってしまう。
いつの間にか日が落ちて夜色に染まった空に、三日月が輝いていた。
* * *
「お疲れ様でした~!」
イベント終了後、テレビ局の近くにあるレストランを貸し切って打ち上げが行われた。
窓から見える夜景が幻想的に見えるお洒落なレストランだ。
一流のシェフが作る料理に舌鼓を打ちながら、スタッフのみんなと歓談中。
無事にイベントが終わった安心感と、お酒が入っているからか、みんなハイテンションで笑い声が絶えない。
「愛歌ちゃん、今日のライブも良かったよ~。会場の盛り上がりも愛歌ちゃんの出番の時が一番すごかったね」
「今回、夏休み中ってことでブレイク前の新人が多く出演してるんだけど、正直人が集まるか心配だったんだよね」
「あ、そうなんですか。っていうか、大物出さないと人集まらないですもんね~」
思わずそう口にした途端、一瞬周りが静かになった。
あれ、私何か変なこと言った?
「あ、愛歌ちゃん」
苦笑いしているスタッフを見て、
「あ、ごめんなさ~い」
とりあえず謝っておく。
でも、本当のことだし、社長にも私がメインのイベントだって言われてたし。
それに、私が出たことであれだけの人が集まったんだから、問題ないと思う。
それより、今日は遠坂さんも参加してるから、挨拶しに行きたいんだけど。
と思って遠坂さんの席の方を見ると、ちょうど隣の席が空いていた。
話しかけるなら、今がチャンスだ。
「お疲れ様です~。隣いいですか?」
早速自分のグラスを持って遠坂さんの隣の席に座る。
「私、遠坂さんの演奏、前から好きだったんですよ。今日初めて生演奏聴けて感動しました」
ウワサで聞いていた通り実力のある人だし。
それにやっぱりこうして近くで見ると、サポートミュージシャンにはもったいないくらい整った顔立ち。
ソロミュージシャンとしてステージに立てるくらい存在感がある人だ。
遠坂さんがサポートミュージシャンとして参加することになれば、絶対マスコミが注目して話題になる。
今のうちに繋がりを作っておいた方がいい。
「今度は私のライブにサポートで参加してくれませんか?」
さりげなく体を寄せて、上目遣いで甘えたように言ってみる。
大抵の男性はこの“人気歌姫からのお願い”に弱い。
だからきっと彼も…と思ったら、
「……スケジュールが合えばね。難しいと思うけど」
あっさりかわされてしまった。
それはつまり、遠まわしに私とは仕事をしたくないって言ってる?
“遠坂さんが歌声をとても気に入って、ぜひ一緒に音楽活動したいって話になったそうよ”
不意に、古賀さんが言っていた言葉を思い出した。
「……鈴原さんって、どんな子ですか?」
「……えっ?」
予想外の質問に驚いたのか、遠坂さんは一瞬戸惑ったような表情になった。
「鈴原さんって今回初めて知ったから、どんな子なのかなって」
デビューしたばかりでいきなり人気モデルの夜咲 凜が出演する大型CMソングのタイアップで話題になるなんて、大手事務所じゃなければ難しいことなのに。
「鈴原さんは一瞬で聴く人の心を惹きつける歌が歌える。天性のシンガーだと思うよ」
「……へぇ。すごい実力と才能がある子なんですね」
数々の人気アーティストと共演してきた遠坂さんがそこまで言うなんて、相当鈴原さんの歌に惚れ込んでるってこと。
遠坂さんは、日本を代表する歌姫と言われている私より、鈴原さんの方がいいんだ。
「私、ちょっと挨拶してきますね」
立ちあがって鈴原さんがいるテーブルへ向かう。
鈴原さんは、他に共演したアーティストと意気投合したらしく、楽しそうに話していた。
そんなふたりの間に入って、「お邪魔しまぁす」と言って空いている鈴原さんの隣の席に座る。
「初めまして、琴吹 愛歌です。今日は鈴原さんの歌が聴けるのを楽しみにしてたの」
「え、ホントですか?」
私の言葉を聞いて、鈴原さんがかなり驚いている。
「だって、人気サポートミュージシャンの遠坂さんが絶賛してるシンガーってことで今すごくウワサになってるし。日向さんと一緒に仕事ができるなんて羨ましい。私も、一度でいいから共演したいなぁ」
「………」
ハイテンションで話す私に困惑気味の鈴原さん。
「あの…」
彼女が何か言いかけた、その時。
「愛歌ちゃん、ちょっといい?」
最初にいたテーブルのスタッフに声をかけられて、
「ごめんね、お邪魔しました~」
私は最初の席へ戻った。
さりげなく鈴原さんの方を見ると、遠坂さんと親しげに話している。
さっきの戸惑ったような表情とは違って、どこか安心したような表情。
遠坂さんも穏やかな笑顔を浮かべていて、すでに二人の世界が出来ているのが見ているだけでわかった。
* * *
「……そんなに気になる? 鈴原 結音のこと」
ベッドサイドに置いてある煙草を取りながら涼夜が尋ねた。
最近お互い忙しくて会えていなかったけど、2カ月ぶりにやっとお互い会える時間が作れた。
恒例の深夜ドライブをして、今はひっそりと佇んでいたホテルの1室にいる。
「気になるっていうか、あの遠坂さんがそんなに気に入るなんてどんな人なんだろうって興味あるっていうか……」
「つまり気になるってことだろ? でも、最近確かによくテレビとかで彼女を見るけど、癒し系歌姫って感じで可愛いよな」
「なに? 涼夜って鈴原さんみたいな女が好みなの?」
「好みってわけじゃないけど。もしかして妬いてる?」
「なっ……違うから!」
慌てて否定したけど、涼夜は私の慌てぶりを見て不敵な笑みを浮かべている。
「遠坂さんは、前にNeo Moonでもサポート頼んだことあるけど、スケジュール合わなくて断られてるんだよな」
「そうなの?」
「ああ。さすが超人気ミュージシャンだなと思ったよ」
「だよね。私も、この前直接会ってホントに凄い人だなと思った。しかもウワサ通り超イケメンだしね」
「…へぇ。そんなにイイ男なんだ?」
「うん。優しそうな頼れるお兄さんって感じ」
「あっそ」
冷たく返されたその言葉に、
「もしかして妬いてる?」
さっきの仕返しにそう訊いてみたけど、
「別に」
涼夜は平然とそう答えた。
「だけど、遠坂さんってあれだけ人気あるのに女絡みの浮いた話が一切ねぇんだよな」
「へぇ?」
「もしかしたらずっと忘れられない女がいるんじゃないかってウワサもある」
忘れられない女、か。
いずれにせよ、遠坂さんに近づくのは難しそうだな……。
「なんだよ、急に黙り込んで」
「…ちょっと、考えごと」
「じゃあ、何も考えられなくしてやる」
「え……っ」
その言葉と同時に塞がれた唇。
深く絡む熱に、思考が奪われていく。
いつもより熱く激しく求められているのは私を愛しているからじゃない。
わかってる。
私達は、恋人同士じゃない。
恋人同士にはなれない。
ただ、互いの寂しさを埋めたくて抱き合っているだけ。
初めから、そんなことわかっていたけど。
この関係はいつまで続くの?
どこかで終わりにしなきゃいけない。
頭ではそうわかっているのに、会えばいつも心地よさに溺れてしまうんだ。
【#憂月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
太陽の光がなければ輝けない月は
誰よりも光に憧れ光を憎む
心の光と影を映す憂い月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
静かな部屋に響く、やさしい歌声。
何度も何度も聴いているから、歌詞を見なくても自然と口ずさめる。
「またパパの歌聴いてたの?」
不意に聴こえてきた声。
視線を向けると、ドアを開けてママが顔を覗かせていた。
「うん。だってパパの歌大好きだもん!」
笑顔でそう答えると、
「たまにはママの歌も聴いてよ」
ちょっと拗ねたように言うママ。
「ママの歌も大好きだよ!」
「ホントに?じゃあママの歌も歌える?」
「歌えるよ!」
そう言って歌い出すと、ママも一緒に歌い始めて。
「あいかちゃん、上手!さすがママの子!」
歌い終えると、優しく頭を撫でて嬉しそうな笑顔で誉めてくれたママ。
「あいか、大きくなったらパパとママみたいな歌手になりたい!」
「そう? じゃあ今からいっぱいお歌練習しないとダメよ」
「だいじょうぶだよ!歌うの大好きだもん!」
「―――……」
目を開けると、そこはいつも通りの私の部屋。
……夢だったんだ。
でも、あれは夢であって夢じゃない。
幼い日の―私の記憶。
何も知らずただ歌うことが大好きだった頃の記憶。
ただ純粋に無邪気に両親に憧れて歌っていた私。
でも今は―…あんなにまっすぐな気持ちでなんて歌えない…。
ベッドから起き上がり、汗ばんだ体を引きずるようにして窓を開けると、夏の朝独特の少しひんやりしたが入り込んできた。
新鮮な空気を吸おうと深呼吸を繰り返す。
どこからか、ひぐらしの鳴き声が聞こえる。
さっき見た夢があまりにも優しすぎて、なんだか泣きたくなった。
無性に切なくなって、枕元のスマホに手を伸ばす。
画面には“涼夜”の文字。
耳元で何度も響くコール音。
だけど何度鳴っても涼夜が出ることはなくて。
【留守番電話サービスに接続します】というアナウンスの声が聞こえた。
通話終了のボタンを押して、ため息をつく。
今、声だけでも聞きたい―そう思ったのに。
いつから私はこんなに弱くなったんだろう?
ひとりで生きていくって決めたのに。
こうして誰かに助けを求めてる。
沈んだ気持ちを振り払う様に、バスルームへ向かってシャワーを浴びた。
今日はお昼から今後のスケジュールのミーティングがある。
しっかりしなきゃ。
お風呂から上がって、メイクをして、お気に入りのブランドの洋服に着替えて。
鏡に映った私は、人気歌姫の顔に戻っている。
「よし!」
気合いを入れて、事務所へ向かうために家を出た。
「来月は新曲のレコーディング、9月は新曲リリースとプロモーションでテレビ、ラジオ出演、11月からは全国アリーナツアーの予定だから、よろしくね」
事務所の会議室でのミーティング。
マネージャーの古賀さんからスケジュールを聞きながら、当分まとまったオフは取れないと覚悟した。
「それから新曲のレコーディングなんだけど、残念ながら遠坂さんはスケジュールが合わなくてお断りされたわ」
「…え、ダメだったんですか?」
「ええ。ちょうど鈴原さんのコンサートのリハと重なるからって」
古賀さんが申し訳なさそうに言った。
「…そう、ですか…」
結局今回もダメだったんだ。
「……そんなに鈴原さんの方がいいの?」
思わずそうつぶやいたその時、会議室に置いてある電話が鳴った。
「はい、会議室の古賀です。はい、わかりました」
「愛歌ちゃん、今から社長室に行ける?」
突然私に向かって尋ねた。
「社長室?」
なんで社長室?
思わず訊き返した私に、
「柴田社長がね、大事な話があるから社長室に来てほしいって」
古賀さんが真剣な表情で答えた。
大事な話ってなに?
不安に思いながら社長室へ向かう。
扉の前で一度深呼吸をしてノックすると、中から社長の返事が聞こえた。
「失礼します」
一言挨拶してから中に入ると、
「いきなり呼んで悪かったね。そこに座って」
そう言って社長がソファに座るように促した。
いかにも高そうな座り心地のいい黒い革張りのソファだ。
「愛歌。突然こんなことを訊いて悪いが、最近誰か男と会ってるか?」
「……え……?」
会ってる……けど、相手は絶対言えない。
会ってることを知られてはいけない人だ。
「実は、一部の記者が、愛歌が某人気ミュージシャンと密会しているんじゃないかって探り始めてるらしい。大ごとになる前に手を打たないといけない」
「………」
……うそ。
絶対バレないようにしてきたつもりだったのに。
「今の相手はうちにとっても、向こうにとってもマイナスイメージになる。当然、愛歌のご両親の仕事にも大きな影響が出る。大物アーティスト夫婦の娘のスキャンダルなんてメディアで大騒ぎになることは目に見えてるからね」
その言葉に、初めて自分がしてきたことの重さを感じた。
社長は敢えて名前を出さないけれど、相手が誰なのかまでもうわかっているんだ。
「愛歌は、最近遠坂さんと共演したがっていたね」
「…え?…はい」
突然遠坂さんの名前を出されて戸惑ったけど、共演したいのは事実だからとりあえず頷く。
「でも、遠坂さんは鈴原さんの……」
さっき古賀さんに言われたことを思い出して、思わずつぶやいた。
「愛歌、彼が鈴原さんにこだわる本当の理由を知りたいか?」
「本当の理由?」
って、どういうこと?
遠坂さんが鈴原さんを気に入っているのには、何か特別な理由があるってこと?
ひとりで考え込んでいると、社長が机に置いてあった本を私に差し出した。
表紙を見ると、卒業アルバムらしいことがわかった。
だけど、これがなんだって言うんだろう?
「中を見てごらん」
不思議に思いながらも社長に言われた通りページを
めくってみると…
「水沢 夏音?」
卒業アルバムの写真らしく、どこか緊張した面持ちで微笑んでいる水沢さんは、顔立ちや雰囲気がどことなく鈴原さんに似ている。
「…実は、その水沢さんは…」
そのあと社長から聞いた話は、衝撃の事実だった。
「今の話を上手く利用すれば、彼はきっと愛歌に落ちる。あとは愛歌次第だ。本気でやるつもりなら、舞台は整えるよ。どうする?やってみるか?」
社長の言葉が、まるで悪魔の囁きのように聞こえた。
遠坂さんを手に入れるためには、そしてこれからもこの世界で生きていくためには…やるしかない。
迷ってなんかいられない。
「やります」
「よし。じゃあ計画実行だ」
私の言葉に、社長が満足そうに頷いた。
それから、新曲のレコーディングやミーティングなどで慌ただしく涼夜と会うこともなく毎日が過ぎていったある日。
雑誌の撮影を終えて事務所に戻った私は社長室へ呼び出された。
「今から、遠坂くんと食事することになったから」
「…え…?」
「社長直々に話したいことがあると言ってマネージャーを通して会うことになってる。私は先に行くよ。愛歌は支度してあとからおいで」
それは、つまり “その時が来た” ということね。
支度を終えて、タクシーで向かった先は都内にある高級レストラン。
完全個室制で芸能人御用達のお店だ。
お店に着くと、すぐに部屋に案内された。
事前に柴田社長が予約をしてあった部屋。
「すみません、遅くなりました~」
急いで来た風を装って部屋の中に入ると、
「愛歌、お疲れ様。今、遠坂さんにライブのことを話していたところだよ」
社長が声をかけてくれた。
予定通り、先に社長から話をしておいてくれていたんだ。
「ありがとうございます~」
お礼を言いながら、社長の隣に座る。
「それじゃ、全員揃ったところで改めて乾杯!」
社長の言葉を合図にみんなで乾杯をして、早速注がれているカクテルを飲む。
遠坂さんは、私が来ることを聞いていなかったのか、かなり戸惑っているようだった。
でも、そんなことは気にせずに、社長が熱く語り始めた。
さすが社長だけあって、いかに私が遠坂さんのファンで共演を熱望しているかが伝わるような話し方だ。
隣で聞いていた私も思わず真剣に耳を傾けてしまうほどだった。
「じゃあ、あとはせっかくだからふたりでごゆっくりどうぞ。帰りはタクシーを呼んであるから、遠坂さん、愛歌を頼みます。うちにとって今一番大事な歌姫なので」
話が落ち着いたところで、そう言いながら社長が席を立った。
一瞬、私に向けられた視線。
“あとは任せた”と言われているような気がして、軽く頷く。
そう、本番はここからだ。
「改めてお疲れ様です~。乾杯」
ふたりきりになったところで、もう一度乾杯をした。
さっきからハイペースで飲んでいるせいか、少し酔いが回ってきたみたい。
だけど、これも計画のうちだ。
「ライブ参加の件、考えてくれました?」
「悪いけど、君と一緒に仕事する気はないから」
即答できっぱりと返されて、思わず一瞬言葉に詰まる。
だけど、ここであっさり引き下がるわけにはいかない。
「え~なんでですか?大手事務所からの仕事受けた方が、今の弱小事務所でサポートミュージシャン続けるより金銭的にも絶対いいと思いますけど」
遠坂さんが所属している事務所は業界の中でもかなり規模が小さいところだ。
正直、ギャラだってかなり低いはず。
ビジネスとして考えても、超大手であるうちの事務所と契約した方が賢明だと思う。
だけど、遠坂さんは動じる様子もなく淡々と答えた。
「金の問題じゃない。それに、弱小なんて言い方は失礼だ。そういう考え方をする時点で、俺は君とは一緒に仕事をしたくない」
明らかな拒絶の言葉。
どうして?
そんなに私と一緒に仕事したくないの?
それとも、やっぱり鈴原さんと離れるのが嫌なの?
もしそうだとしたら……
「鈴原さんって、そんなに魅力ある子なんですか?」
「え?」
「だって、鈴原さんとの活動の方がいいんでしょ?もしかして遠坂さんって鈴原さんのこと好きなんですか?」
「……は!?」
私の質問に、遠坂さんは心底呆れたような表情になった。
「好きは好きだけど、琴吹さんが思っているような好きじゃないよ」
相変わらず冷静に大人な答えを返す遠坂さん。
それはつまり鈴原さんに対して恋愛感情はない、っていう意味だよね。
だけど、この話をしても「違う」って言い切れる?
「……でも、鈴原さんって、水沢 夏音さんに似てますよね?」
「……!?」
水沢さんの名前を出したとたん、遠坂さんの表情が変わった。
やっぱり、社長の言っていた通りだ。
あの日社長から聞いた、遠坂さんが鈴原さんにこだわる理由。
それは―
「亡くなった恋人に似ている人がそばにいたら、好きになるかもしれない」
水沢さんは、遠坂さんの恋人だった。
そして鈴原さんは、水沢さんに見た目も雰囲気も名前まで似ているから。
今も忘れられずにいる水沢さんの面影を重ねているんでしょう?
「――……」
私の言葉に、遠坂さんは無言のまま考え込むようにうつむいた。
まさか私が水沢さんのことを知っているとは思わなかったのだろう。
初めてこんなに動揺している遠坂さんを見た気がする。
少しの沈黙のあと、遠坂さんはスマホをポケットから出して何かを確認すると、
「そろそろ店にタクシー来るみたいだから、出ようか」
何事もなかったようにそう言って席を立った。
まるで今の話はなかったことにしてほしいと言っているようだ。
少しふらつく足取りでお店の外に出ると、すでにタクシーが待っていた。
行き先を告げると、タクシーが夜の街を走りだす。
緑山ヒルズまでは車で約15分。
着いてからが計画の中で一番大事なところだ。
ここまで全て予定通りにきているんだから、大丈夫。
眠ったふりをしてさりげなく遠坂さんの肩に寄りかかりながら、自分に言い聞かせた。
「琴吹さん、着いたよ」
遠坂さんに声をかけられて、目を覚ます。
途中でいつのまにか本当に眠ってしまったみたい。
眠気と闘いながらタクシーを降りたけど、酔いのせいもあって、足元がふらつく。
そんな私の様子を見て、泉堂さんはタクシーの運転手に声をかけて私と一緒に部屋まで来てくれた。
さぁ、ここまで来たら、最後の仕上げだ。
「ちゃんと鍵かけなよ」
そう言って遠坂さんが部屋を出ようとした時。
「やだ…帰らないで」
わざと甘えた声でそう言って、遠坂さんの腕を掴んだ。
「私が、夏音さんを忘れさせてあげる」
人は弱い生き物だ。
どんなに強く見えても、本当は……
誰にも知られたくない傷や過去に囚われて生きてる。
私も、いまだに消えない傷を必死に隠して生きてる。
遠坂さんもそうでしょう?
過去を利用して誘うなんて卑怯?
だけど、こうでもしなきゃ手に入らないならやるしかないんだ。
私はなんとしてでも、ひとりでもこの世界で生きていくって決めたから。
私は鈴原さんみたいに綺麗な世界では生きられない。
闇に堕ちた人間は、光にはなれない。
今もまだ闇の中抜け出せずにいるなら……
一緒に堕ちてあげる―
【#涙月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
壊れそうな心で見上げた空に
脆く消えそうな三日月
ゆらゆらと滲んで光る涙月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
『人気歌姫・琴吹 愛歌、 イケメンサポートミュージシャンと熱愛発覚!!』
そんなニュースが大々的に報道されたのは、秋も深まってきた10月。
スポーツ新聞の一面に大きく取り上げられ、写真週刊誌にもスクープとして掲載され、テレビの芸能ニュースではトップニュースとして取り上げられている。
事務所には問い合わせが殺到し、私が住むマンションにもマスコミの取材が来てパニック状態になっている。
でも、これは全て最初から予想していたこと。
騒がれれば騒がれるほど、私にとっては好都合だ。
本当は交際宣言したいくらいだけど、さすがにそれは遠坂さん側が黙ってないだろう。
今回の報道に関して、遠坂さんが所属する事務所は「事務所の社長同席で仕事の打ち合わせのため食事をしていただけで、熱愛ではない」というコメントを発表した。
そして遠坂さん側のコメントを受けて、私が所属する事務所も、「熱愛ではない」という公式コメントを発表した。
事実はどうであれ、マスコミに私と遠坂さんのことを恋人同士として報道させることが目的だ。
思惑通り、芸能ニュースやワイドショーでは公式コメントを無視して私と遠坂さんを完全にカップル扱いして盛り上がっていた。
これでマスコミの目は完全に涼夜から遠坂さんに向いたはず。
涼夜は現在全国ツアー中で東京を離れていて、すぐに会うことはできない。
“しばらくは対応に追われて忙しいから、落ち着いたら連絡する”と私の方から事前に連絡しておいたこともあって、涼夜から連絡がくることはなかった。
それから1週間以上が過ぎて、騒ぎが落ち着いてきた頃。
歌番組の収録のため、私はテレビ局へ向かった。
楽屋でメイクを終えて、スタジオへ向かう途中。
見覚えのある人の姿が見えて、私は仕事用の笑顔で声をかけた。
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
一瞬戸惑ったような表情を浮かべて、鈴原さんが言葉を返した。
私に対して警戒心を抱いているみたいだ。
「今日って遠坂さんも来てるよね?」
「え? はい」
やっぱりあれだけ騒がれても鈴原さんの仕事は受けるんだ。
そうよね。だってあの夜も―…
思い出しかけた記憶を途中で消して、
「良かった~。あとで会いに行こう!遠坂さんって、やっぱり魅力ある人だよね。年上だと頼りになるし。でも、一晩過ごしただけであんなに騒がれるとは思わなかったけど」
わざと明るい口調でそう言うと、
「……え……?」
私の言葉に、鈴原さんが思い切り動揺したのがわかった。
「事務所のコメントでは食事しただけってことになってるけど、ホントは違うの。食事の後いい感じになって…遠坂さんがあたしのマンションに来てくれて…」
そのまま話を続けたら、鈴原さんの表情がどんどん曇っていった。
こんなにあっさり人の話を信じるなんて、どこまで純粋なんだろう。
「あれ、愛歌ちゃん?そろそろ移動しないと間に合わないんじゃない?」
偶然通りかかったスタッフに声をかけられて、
「はい、今行きます~」
今にも泣きそうな表情の鈴原さんとは対照的に、笑顔で答えてスタジオへ向かう。
今頃、鈴原さんは私と遠坂さんが本当につきあっていると思ってショックを受けてるだろう。
どうせなら苦しめばいい。傷つけばいい。
歌手を夢見るごく普通の高校生として生きてきたあの子には、きっと私の気持ちなんてわからない。
だから、思い知らせてあげる。
この世界は鈴原さんが思っているような綺麗なものじゃないってこと―。
「琴吹さん入ります、よろしくお願いします」
「お願いしま~す」
私がスタジオに入った瞬間、空気が変わった気がした。
熱愛報道の件があったからか、みんなどう接したらいいか戸惑っているみたいだ。
腫れものに触るような態度の人もいれば、好奇の目で見てくる人もいる。
あれだけ大々的に騒がれた以上、こうなることも覚悟はしていた。
だけど。
「遠坂さんも見る目ないよね。琴吹さんって親の七光と事務所の力だけで売れてるだけなのに」
「どうせ琴吹さんが強引に迫ったんじゃないの?」
……!
聞こえてきた悪意を含んだ会話に、胸の奥が焼けるような怒りを感じた。
――ムカつく。
だけど、言われていることが本当のことだけに、心の中でさえ反論できない。
人気歌姫と持て囃(もてはや)される一方で、私が関係者の中で良く思われていないことは知っている。
陰で、“ワガママ歌姫”と言われていることも知っている。
だけど、それでも歌い続けているのは。
もう歌いたくない、と思っても結局辞められないのは……。
* * *
「お疲れ様でした」
収録を終えてスタジオを出た時、偶然にも出入り口の方へ向かって歩いていく遠坂さんの姿を見かけて、私は迷わず声をかけた。
「今日、私もここで仕事あったんですよ。さっき鈴原さんにも会って挨拶したんですけどあの子、ホントに素直っていうか…まだまだこの世界を知らないですよね」
さっきのスタジオでの出来事と、私の話を聞いた時の鈴原さんの動揺ぶりを思い出したら苛立ちが込み上げてきて、思わずそう口にしていた。
「…は…?」
私の言葉を聞いた瞬間、遠坂さんの表情が変わった。
「結音に何か余計なこと言ってないよな?」
明らかに鈴原さんのことを気にしている。
「別に。私はただ、遠坂さんが私のマンションに泊まったって言っただけですよ?」
「“だけ”って…」
平然とそう答えた私に、遠坂さんは呆れたようにつぶやいた。
そんなに私との関係を鈴原さんに誤解されるのがイヤ?
鈴原さんのこと、恋愛対象として好きなわけじゃないって言っていたのに。
「なんでそんなこと……」
「うざいから」
遠坂さんが言い終わらないうちに、私はそう吐き捨てるように口にした。
「なんでそんなに結音のことを嫌ってる?」
「この世界の厳しさを知らずにお気楽に歌っている人は嫌いなの」
一度口にした醜い感情は、どんどん膨れ上がっていく。
だけど遠坂さんは、軽蔑したような眼差しで私を見た。
いつも冷静で穏やかな遠坂さんだけど、今は明らかに怒っているのがわかる。
「それは琴吹さんの方じゃないのか?」
……!
その一言で、心の中の何かが弾けた気がした。
「遠坂さんには私の気持ちなんてわからない!」
気がついたら、大きな声で思わずそう口にしていた。
言いながら、泣きそうになっている自分に自分で腹が立った。
こんなことで動揺するなんて、私らしくない。
私は、そんなに弱くなんかない。
「ちょっと、場所変えよう」
取り乱した私を見て、遠坂さんが慌ててすぐ近くにある控室に入った。
「いいんですか? 私とふたりきりになって」
すぐに落ち着きを取り戻した私は、わざと挑戦的な口調で言った。
「テレビ局の控室でふたりきりなんて、見つかったらまたニュースで騒がれるかも」
笑いながら言った私を、遠坂さんは不思議そうな表情で見つめている。
何を考えているかわからない、と言いたそうな顔だ。
あの日…全て社長との計画通りに進んでいたはずだった。
ただひとつを除いては―
“鈴原さんのこと、好きなんですか?”
“好きは好きだけど、琴吹さんが思っているような好きじゃないよ”
……ウソつき。
だって、あの時、遠坂さんがかすかにつぶやいたのは……。
私の名前でも、水沢さんの名前でもなかった。
ためらいがちに、だけど優しく愛しそうに。
確かに、鈴原さんの名前を呼んでいた。
囁く声が、触れる指が、あまりにも優しくて。
あのまま鈴原さんのかわりになるなんて耐えられなかった。
あの計画にもう意味なんてない。
「その様子だと、遠坂さんもまだ気づいてないんですね?」
「……何に?」
怪訝そうに訊き返した彼に、私は衝撃の一言を告げた。
「あの熱愛報道、全部ヤラセだったの」
――カタン!
その時突然ドアの方から物音がして思わず視線を向けると、
「……今の、どういうことですか?」
ドアの前に、鈴原さんが立っていた。
「あ~あ。鈴原さんに聞かれてたんだ」
結局、遠坂さんに「結音にもきちんと説明してほしい」と言われた私は諦めて全てを話すことにした。
「ヤラセってことは、最初から全部計画してたってことだよな?」
「そう。社長との食事も、遠坂さんを私のマンションの部屋まで入るようにしたのも、全部最初から仕組んでたの」
「じゃあ、お酒に酔ってたのも……」
「わざと、酔ったフリしたんですよ」
「どうしてそこまで手の込んだことを……」
なんでそこまでする必要があるのか?
そんなこと、遠坂さんにも鈴原さんにもわかるはずがない。
「私は……今の立場を守り続けなくちゃ生きていけないの」
今まで必死に隠してきた気持ちを誰かに話すつもりなんてなかった。
だけど、計画通りにいかなかったという悔しさが、私の心のバランスを大きく崩していた。
どうして鈴原さんなの?
どうして私じゃダメなの?
どうして“私”を見てもらえないの?
どうして “私の歌” を聴いてもらえないの?
その理由を、本当はわかっているのに。
いつも目を逸らして、逃げて、私は悪くないって言い聞かせてた。
* * *
小さい頃から、私の周りは音楽で溢れていた。
それは、私の両親が日本の音楽界を代表するアーティストだから。
母は、人気歌手の律歌 。
父は人気シンガーソングライターの琴吹 響。
常に音楽ランキングで上位を獲得し、ドームやスタジアムなど大きな会場でのライブも超満員の人気アーティスト同士であるふたり。
そんなふたりの結婚はニュースでも大きな話題となった。
結婚を発表した時、すでに律歌は新しい命を授かっていて。
そして生まれたのが、私だ。
物心ついた時から、私は当たり前のように音楽に興味を持って、両親の歌を歌うようになって。
大きなステージでスポットをライトを浴びて、たくさんの人達の歓声と拍手に包まれて歌う両親の姿はとても眩しくて。
ふたりは私にとって憧れの存在で。
私もふたりみたいに日本を代表する歌手になりたいと思っていた。
だけど、大きくなるにつれて憧れの気持は少しずつプレッシャーへと変わっていった。
“愛歌ちゃんって律歌と琴吹 響の娘なんだって”
“じゃあ、歌上手くて当たり前だよね。音楽一家の娘なんだから”
“超豪邸に住んでるし、たくさん習いごともしてるんでしょ”
“いいよね、大物アーティスト夫婦の子供って。あたしたちとは住む世界が違うよね”
そんな言葉を周りから聞くたびに、両親の存在が憧れから疎ましいものへと変わっていった。
最初は好きで始めたはずの歌さえ、嫌いだと思うようになって。
心から楽しんで歌えなくなっていった。
だけど、高校3年の夏、両親が所属する超大手事務所“QUEEN MUSIC”のスタッフに声をかけられて。
小さな頃から歌手になることを夢見て今もそれは変わらないと思っている両親は大喜びで、あっという間にデビューが決まった。
“あの超人気アーティスト夫婦の娘が満を持してデビュー!”
そう謳われて大々的に宣伝された私は、デビュー曲からランキング入りをしてすぐにメディアに注目された。
自分でも信じられないくらいの早さで、私は人気歌姫の立場を手に入れた。
だけどその一方で、陰で酷いこともたくさん言われてきた。
両親が人気アーティストというだけで出て来た実力のないニセ歌姫、ワガママ歌姫。
華やかなステージに立って大歓声を浴びても、それは私の実力じゃない。
それは私が人気アーティストの娘だから。
そう思われるのは当然だとわかっていても、私は“琴吹 愛歌”として、私を見てほしかった。
だけどいつもそんな気持ちとは裏腹に、“人気アーティスト夫婦の娘”の立場を利用し続けて来た。
そうすることでしか、自分を見てもらえない。
それが、余計に私の心を虚しくさせた。
それでも歌手を辞めて人気歌姫の座を手放すことはできずにいた。
そんな時、鈴原さんと共演して彼女の歌を聴いて。
私が本当に望んでいた歌手としての姿に、衝撃を受けた。
ただ純粋に歌うことが好きで、まっすぐに自分の想いを歌にしている。
周りに流されず、自分の音楽性を貫いている。
あんな風にステージに立って歌えたら、どんなに幸せだろうって思った。
私も鈴原さんみたいに歌いたい。
そんな憧れはいつしか妬みになって、どんどん私の心を黒く染めていった。
そして何よりも、人気サポートミュージシャンである遠坂さんが、人気歌姫である私より鈴原さんを選んだ、その事実が悔しくて。
遠坂さんが鈴原さんにこだわるのは、水沢さんに似ているからという理由だけじゃない。
聴く人の心を一瞬で惹きつける歌が歌える、その才能に惚れ込んでいるから。
そして、誰にも流されず揺るがず自分の道を進む芯の強さを持っているから。
鈴原さんは、自分の力で光り輝ける人だから。
そんなこと、最初からわかっていた。
自分がどれだけ酷いことをしていたかなんて充分わかっている。
こんな醜い感情でしか動けないから、遠坂さんは私を嫌っているんだ。
私だって本当はこんな自分が大嫌いだ。
「私だって、両親のことは関係なく私自身の……“琴吹 愛歌”の歌を聴いてほしいのに」
それでもどうしたって両親と比べられてしまうのがイヤだ。
人気アーティストの娘としてじゃなくて、ひとりの歌手として私の歌を聴いてほしい。
誰か“私”を見て。
いつだって弱くて臆病な本当の私が泣きながらそう叫んでいた。
両親と比べられたくないと思いながら、誰よりも“人気アーティストの娘”という立場にとらわれていたのは私自身なんだ。
遠坂さんも鈴原さんもただ黙って私を見つめていた。
何て言ったらいいかわからない、そんな表情だ。
私は別に同情してほしいわけじゃない。
“かわいそう”だなんて思われたくなかったから、今まで誰にも言わなかったんだ。
だから、せめて最後に強がらせて。
「鈴原さんの本当のライバルは…私じゃないよ」
一言だけそう告げて私は控室をあとにした。
鈴原さんが水沢さんのことを知るのも、きっと時間の問題だ。
* * *
「愛歌ちゃん、ずいぶん遅かったわね。何度か連絡してたのよ」
テレビ局の駐車場で待ってくれていたマネージャーの古賀さんの車に乗り込むと、心配そうな表情で言われた。
慌ててスマホを見ると、確かに収録を終えたあとの時間に何件か古賀さんから着信が入っていた。
「ごめんなさい」
「何かあった?」
「なんでもないです。局内で帰り際に偶然知り合いに会ってつい話しこんじゃって」
「そう?それならいいけど」
古賀さんはそれ以上深く突っ込むことなく、車を出してくれた。
ぼんやりと窓から流れる景色を眺める。
いつの間にか朝から降り続いていた雨は上がっていて、雲の切れ間から細い三日月が見えた。
今にも消えそうな、触れたらすぐ壊れてしまいそうな三日月。
まるで今の私みたいだ。
そう思ったら、またじわりと瞳に涙が溢れて、窓の外に浮かぶ三日月が滲んで見えた。
【#儚月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
月のない夜空が
終わりの時を告げる
満ちては欠けて
消えゆく儚い月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
数日後、私は涼夜に「話したいことがあるから会ってほしい」と連絡をした。
いつもなら自分が運転する車で迎えに来てくれる涼夜だけど、珍しくタクシーで来てほしいという返事が来た。
しかも、ホテルの場所と部屋番号まで指定されている。
いつもと違う何かに、かすかに嫌な予感がした。
深夜0時。
指定されたホテルの部屋の前で深呼吸をしてノックすると、すぐにドアが開けられた。
「久しぶり、だね」
「……そうだな」
お互い仕事が忙しかったうえに、私の熱愛報道の騒ぎもあって、会うのは2カ月ぶりくらいかもしれない。
「突っ立ってないで、座れば?」
「…うん…」
涼夜に促されて、私はベッドに腰掛けた。
「あの日、本当に遠坂さんと過ごしたのか?」
私の隣に座りながら、涼夜が言った。
「……え……?」
「事務所のコメントでは食事しただけって言ってたけど。本当は違うんだろ? おまえは前から遠坂さんのこと気に入ってたもんな」
何かを試すような、挑戦的な言い方。
どうしてそんな意地悪な言い方するんだろう。
「だったら何?別に私が誰といたって涼夜に関係ないでしょ?だって涼夜には…!」
そこまで言いかけて、ハッとして思わず言葉を止めた瞬間、私の体をふわりと包み込むような温かさと、涼夜がいつもつけている香水の香りを感じた。
「そんな強がるな」
「……え?」
「泣きたい時は泣けよ。おまえは自分が思ってるほど強くない」
「……!」
どうして?
どうして今になってこんな風に優しく抱きしめるの?
どうして今になってそんな優しい言葉かけるの?
そんなこと言われたら、今まで抑えてた想いが一気に溢れてしまう。
一度溢れた涙は止まらなくて、嗚咽も止まらなくなった。
いつから私はこんなに弱くなったんだろう。
子供のように泣きじゃくる私を、涼夜は何も言わずに抱きしめてくれた。
私はずっと、誰かに“泣いていいよ”って言ってほしかったのかもしれない。
こうして素直に泣いて甘えられる存在が欲しかったのかもしれない。
だけど、その相手に涼夜を選んではいけなかったんだ。
愛されたいなんて、絶対に願ってはいけない。
願うことすら許されない相手だから。
そう思えば思うほど、想いは強くなっていた。
気まぐれでも、会えた時の一瞬でもいいから。
私のものになってほしいと思ってしまった。
そんな小さな独占欲の積み重ねが、いつか大きな罪になるかもしれないとわかっていても。
それでもこの関係を切れなかった。
もう、全て終わりにしよう。
「……涼夜、私たち今日で会うの最後にしよう」
「…え…?」
「私、本当は全部知ってたの。だから、私達の関係がバレたらもっと大変なことになると思って…社長に協力してもらってヤラセで熱愛報道流したの」
「……そういうことか……」
涙声で話した私に、涼夜は納得したように頷いた。
初めから終わりが来ると知っていた。
ふたりの未来には別れしかないとわかっていた。
「…もう、これで最後にするから…」
今はただ、全て忘れて涼夜だけ感じていたい―。
―――……
目覚めた時、もう隣に涼夜の姿はなかった。
最後くらい、私が目覚めるまでいてほしかったけど……。
でも、顔を見たら決心が揺らぐかもしれないから。
これで良かったのかもしれない。
なんだか全てが夢だったみたい。
着替えようとして、ベッドから起きて鏡に映る自分の姿を見てハッとした。
首筋から体中に散っている赤い花びらのような痕。
今までこんな風に痕をつけられたことなんてなかったのに。
ふと枕元のスマホを見ると、メッセージが届いていた。
画面を確認すると、涼夜からのメールだった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
白い肌に咲く赤い薔薇
甘い花の香りに誘われた
蝶のように夢中に舞う
月の光に照らされて
今夜も君に溺れていく
最後に君に枯れない薔薇を贈る
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『花蝶誘月』の詞と、最後に添えられた一言。
涼夜らしい別れの言葉に、思わず目頭が熱くなる。
溢れそうになる涙をこらえて、支度をしてタクシーに乗るため外に出た。
ふと見上げた空に、月は見えない。
少しずつ欠けては消えゆく月。
だけど、時が経てばまた満ちていく。
きっと私は月を見るたび、思い出す。
彼と過ごした甘く儚い秘密の時を―。
【#願月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
凍える真冬の空
聖なる夜に輝く
淡く光る願い月
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12月24日、クリスマス・イブ。
神聖な教会の中に、どこまでも透き通るような天使の歌声が響く。
そしてその隣には、優しい眼差しで天使のような白いドレス姿で歌う鈴原さんを見つめながらアコースティックギターを奏でる遠坂さんの姿。
ふたりの関係が今までと少し変わったことは、関係者席から見てもすぐにわかった。
ライブ終了後、私は鈴原さんの楽屋を訪ねた。
「鈴原さん、お疲れ様」
そう言って花束を差し出すと、
「……琴吹さん?」
鈴原さんが信じられないという表情で私を見た。
「事務所に頼んで、関係者席取ってもらったの」
「…そう、なんですか…」
どこか戸惑っている鈴原さん。
あんなことがあったんだから、無理もない。
本当は私の顔なんて見たくないかもしれない。
「あの時はごめんなさい」
「え?」
「日本を離れる前に、一度きちんと謝っておきたくて」
「…日本を離れる…?」
「まだ公式発表してないんだけど。私、来年の春から音楽活動を休止して留学するの」
「留学…?」
「うん。最低1年はいるつもり。それで、いつか…世界で通用する歌手になりたいの」
あれから、私なりにもう一度自分のこれからの活動を考えてみて。
両親や事務所の社長と相談して、決めた答え。
世界で通用するくらいの実力をつけるために、海外で本格的に英語やダンス、音楽を学ぶことにしたんだ。
「琴吹さんならきっと大丈夫です。頑張って下さいね」
そう言って優しく微笑みながら差し出された手。
ためらいながらも私はその手をそっと握った。
「いつか、また共演出来る日を楽しみにしてます」
「ありがとう」
あんな酷いことをしたのに、それでもこうして優しい言葉をかけてくれる鈴原さんは、私より大人だ。
「それじゃ、また」
「あ…今日は来てくれてありがとうございました!」
楽屋を出ようとした私に、鈴原さんがそう言ってくれた。
「遠坂さんとお幸せにね」
「…ありがとうございます…」
幸せそうなその笑顔が、今までで一番眩しく輝いて見えた。
外に出ると、真冬の冷たい風が身に沁みた。
気がつけば今年もあと1週間で終わりを迎える。
あの日から、涼夜とは全く会っていない。
今月に入ってすぐ、私がレコーディング期間中の時、
【人気バンド・Neo Moonのヴォーカリスト・涼夜 極秘入籍していた】
というニュースが話題になった。
相手は学生時代から交際していた一般人女性で、奥さんは現在妊娠中。
今までプライベートを公表せずにいたバンドだけに、ファンにとっては衝撃的なニュースだったようだ。
私にとっては、今さらな話だったけど。
「鈴原さんの生歌、本当にすごかったわね」
「そうですね」
「それに、遠坂さんとすごくいい雰囲気だったし」
「あのふたり、つきあってるみたいですよ」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
帰りの車の中で、一緒に今日のコンサートを観ていた古賀さんとそんな話で盛り上がった。
鈴原さんも遠坂さんも、お互い自分の気持ちと向き合って、一緒に音楽を続けていくことを選んだんだ。
私も、いつまでも両親のことに縛られてないで前に進まなくちゃ。
“大物アーティスト夫婦の娘”じゃなくて、本物の歌姫として実力をつけて、いつかまたふたりと同じステージに立ちたい。
窓から、冬の澄んだ夜空に浮かぶ月が見える。
白く淡い綺麗な光で空を照らしている。
その輝きは聖なる夜にふさわしく、神聖な光に見えた。
ねぇ、涼夜。
あなたは今頃、愛する人の隣でこの月を見ている?
愛する人の隣で笑っている?
今はただ、あなたが愛する人と幸せであるように、この月に願っているよ。
【#誓月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
綺麗な満月の夜に
温かな愛の歌が響く
新たな旅立ちを
優しく見守る誓い月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
「続いては本日初登場の鈴原 結音さんです」
司会の女性アナウンサーが紹介すると、スタジオから拍手が起きた。
「よろしくお願いします」
と緊張気味に挨拶をしている鈴原さんは、生放送の歌番組 “MUSIC PARADISE” に出演中。
「初めての生放送番組出演ということですが、いかがですか?」
「とても緊張していますが、心を込めて歌いたいと思います」
そんな言葉のあとに、ステージへスタンバイする鈴原さん。
観ているこちらにも緊張が伝わってくる。
「それでは歌って頂きましょう。鈴原 結音さんで 『虹色の世界』」
曲紹介のあと、遠坂さんがギターでイントロを弾き始めた。
春風にようにあたたかくて優しいメロディー。
その音にそっと寄り添うように、歌い始める鈴原さん。
先ほどとは違って堂々とした歌声に、思わず聴き入ってしまった。
鈴原さんの出番をPCの動画で見終わった時、ふと窓の外を見ると大きくて綺麗な満月が見えた。
「私も頑張らなきゃ!」
アメリカの空でも、月は変わらず輝いている。
その優しい光に見守られながら、新たな始まりを心に誓った。
《Fin.》