これが一生に一度きりの恋ならば



 ――放課後、みすずとひまりちゃんとカラオケへ。
 店を出る前にカラオケの出入り口付近に設置されているプリクラを撮って、いまはその帰り道でプリクラを片手に駅に向かっている。

「ひまりちゃんは全曲洋楽だったね。英語がペラペラだからビックリしたよ!」
「かっこよかったぁ! 私たちが普段聞かない曲ばかりだったから新鮮だったよ」
「ありがと。海外生活が長いから日本の文化には触れてこなかったの。でも、日本には楽しいものがいっぱいあるんだね」

 彼女はプリクラを何度も眺めながらくすくすと笑う。
 よほどプリクラが珍しかったのかな。

「オーストラリアでは友達と何して遊んでたの?」
「……友達とは遊ばないよ」
「えっ、遊ばないの?」
「実は人付き合いが苦手だから」

 彼女は長いまつ毛を伏せながらそう言う。
 藍とは幼なじみみたいだけど距離を置かれてるようだし、友達の話題も上がってこない。
 オーストラリアでは一体どんな学生生活を送っていたんだろう。
 
「じゃあ、これからは私たちといっぱい思い出作ろうよ! 仲良くなったんだからさ」

 友達と遊ぶことをこんなに楽しんでくれるなら、素敵な思い出をたくさん作ってあげたいと思った。
 楽しい毎日を送ったほうが、明日も頑張ろうって気持ちになるから。

「えっ」
「それいいね! 三人でいーーっぱい遊ぼうよ!」
「賛成! ひまりちゃんが人付き合い苦手でも私たちと友達になれたんだからさ。もっとたくさん友達を作ってJK生活をエンジョイしようよ」

 そう言った瞬間、ひまりちゃんは不思議そうに首をかしげる。

「JK生活……? なにそれ」
「JKとは女子高生って意味。俗語だよ。……そっか、海外にいたら知らないよね。そこから教え込まなきゃダメか」
「知らないことが多いなら教えがいはあるかもね」
「ギャル語とか?」
「ちょっと~! それを教えてもなんの為にもならないかも!」

 私とみすずが盛り上がりを見せてると、ひまりちゃんはボソッとつぶやく。

「どうしてそんなに優しくしてくれるの? 私なんて元は赤の他人なのに……」

 なぜそんな質問をしてきたかわからないけど、私は彼女の為を思って少しばかし傷口を開いた。

「実は私、小学生の頃に太ってて体型のことで男子から酷いことを言われてたんだ」
「あやかちゃんが……? いまは全然痩せてるのに」
「当時は辛くて必死にダイエットした。でもある運動会の日に赤白帽子をなくした女の子を見かけたから、私の赤白帽子をあげたの。そしたら、その様子を誰かが見ていたみたいで、次第に酷いことを言われなくなった。人に優しくすれば気持ちがいいし、輪が広がっていくことがわかったの。だから、誰に対しても優しくしようって思ってるよ」

 口角を上げて微笑むと、ひまりちゃんは言った。

「トラウマを乗り越えたんだね……。凄いな」
「でもまぁ、あの時男子に『横綱』って言われなければいまの体型にはならなかっただろうから、全てがマイナスじゃなかったのかな」

 あれがダイエットのきっかけになったし、前向きにもなれたから、全てが嫌な思い出にはなっていない。
 むしろ、強くなるきっかけになっていた。

「痩せすぎたせいで胸も消えたしね」
「みすず! ……よけいなことをっ!!」
「きゃははは! ちょっと〜、脇腹をくすぐらないでよ!」

 私とみすずが歩道でふざけあっていると、みすずの目線が急にある一定方向へ。

「あれ、石垣くんじゃない?」

 反応してみすずの目線を辿っていくと、藍が制服姿で高級ホテルのエントランスに入っていく。

「本当だ。藍がホテルになんの用事だろう」
「もしかしてバイトじゃない?」
「本人は先日バイトしてないって言ってたよ」

 たしかに先日はそう言ってたけど、その後にバイトを始めた?
 まさかね……。

「藍はここで暮らしてるんじゃない?」

 ひまりちゃんが真顔のままそう言ってきたが、当然現実味帯びない。

「まさかぁ。うちの学校にホテル暮らしの人なんているわけないよ。平凡な公立高校だしさ」
「そうだよねぇ。それに藍は庶民しか見えないし」
「たしかに言える〜!!」
「……」

 この時は彼女の話をまともに受け止めなかった。
 これが彼が抱えてる秘密の大ヒントだったのに……。



 ――土曜日。
 私たちは電車に乗って水族館へ。
 週に一度は休日デートをすることを約束していたので少し遠出した。
 入口でチケットを購入して中に入ると、薄暗い館内には小さな水槽が並んでいる。

「うわぁ、かわいい。こっちはカクレクマノミ。アニメにでてきたことのある魚だよね」
「有名だよね。昔スキューバーダイビングをしていた時に見たことがあるよ」
「へぇ、スキューバーダイビングをしたことあるんだぁ! この説明書きにはフィリピンやインドネシア西武太平洋や沖縄の海に生息しているって書いてあるけど、旅行かなにかで?」
「あーー……、うん……。家族旅行の時にね」
「すごいねぇ! 多分海外旅行だよね。実は藍の家はお金持ちだったりして」
「……別にフツーだよ。旅行くらい誰でも行くだろ」
「そ?」

 先日ひまりちゃんが、藍がホテルで暮らしてる的な話をしていたからそれに乗っかってみたけど、そうではない様子。
 人の隙間を抜けて次の水槽に移動していると、すれ違ったばかりの女の子の会話が耳に入った。

「いますれ違った人かっこよくない?」
「私も思ったぁ! 超イケメンだったね!!」

 振り返ると、高校生らしき女子二人がちらちらこっちを見ながらキャアキャアと賑っている。
 いますれ違った人……、とは藍のこと?
 私は男として見てないけど、彼はたしかにモテる。
 身長は175センチ超えで顔はイケメンだし。
 で、でもっ!!
 私の中では断然梶くんの方がイケメンだし。

 そのまま後ろ向きで歩いていたら、藍の背中にドンッと衝突した。

「おいおい。よそ見してたら危ないよ」
「ごめーーん……」
「ほら、向こうの巨大水槽を見てみようよ。魚がいっぱい泳いでるよ」

 彼が指をさした先は、照明がてらされてブルーに輝いているダイナミックな世界の巨大水槽。
 エイやサメなど大きな魚から、普段食卓に並んでいるアジやカツオなどの回遊魚がスイスイと泳いでいる。

 私たちは水槽前でブルーの光を浴びたまま魚たちを目で追った。

「こんなに広々としていると泳いでいるだけでも気持ちよさそうだよね」
「羨ましいな。こんな広い世界でのびのびと生きていて……」
「それ、どういう意味?」
「あっ、えーっと……。小さな水槽にいた魚たちは他の魚がのびのびと泳いでることを知らないんだろうなって」

 たしかに小さな水槽の魚たちは、生まれた頃から何百倍何千倍もの大きさの水槽を知らないのかもしれない。

「そうかもしれないね。でも、案外幸せかもよ?」
「どうして?」
「敵に襲われる心配はないし、時間になれば餌はもらえるし」
「でも、孤立しているから他の水槽の存在さえ知らない。どんな魚がいるとか、どんな世界があるんだろうとか興味さえ奪われてしまってるような気がする」

 時より見せる、影を被った表情。
 もしかしたら、なにか深い意味でもあるのかな?

「そんなことないと思うよ」
「えっ」
「きっと、大きな水槽よりも沢山の笑顔を吸収しているはず。小さな水槽だからこそ、一人一人が足を止めてじっくり見るくらいだからね」

 にこりとして言うと、彼はクスッと笑った。

「あやかって優しいね。そーゆーとこ、すげぇ好き」
「ちょ、ちょっと……。所構わずに好きとか言わないでよ! 周りの人に聞かれたらどうするのよ」
「俺は別に気にしないけど?」
「藍っっ!!」
「……あははっ。あやかのお陰で少し元気出たかも」
「どうして?」
「ううん、なんでもない」

 時々、彼がなにを考えてるかわからないことがある。
 ひまりちゃんへの態度が冷たかったり、こうやって小さな水槽の中の魚の心配をしたり。

 すると、目の前に藍の手がすっと差し出された。

「あのさ、せっかくのデートだから手を繋がない?」

 顔を見ると、少し恥ずかしそうな表情。
 急に変なことを言い出したから私まで恥ずかしくなる。

「えぇっ?! 無理!」
「だって、他のカップルがいちゃいちゃしてて悔しいんだもん。俺らだってカップルなのに」
「ダメダメ! 絶対ダメ!! 最初に手を出さないって約束したでしょ?」
「手を出すって、そーゆー意味だったの? ……ってことは、チューはいいってこと?」
「ちちち……ちがーーうぅ!! そんなこと言ってない!!」
「ダメなの?」
「当たり前でしょ!! ……いい? 私に指一本でも触れたら承知しないからね!」
「ちえっ」

 彼はふてくされていると、人混みの向こうの壁際に見覚えのある顔と目が合った。

「あれ、ひまりちゃん?」

 帽子を目深く被っていたから合ってるかどうかわからない。
 ただ、毎日顔を見ている分そっくりに思えた。

「えっ、どこに?」
「人混みに紛れちゃってるから本人かわからないけど、そっくりだったな」
「これだけ人が沢山いれば見間違えるだろ」
「んーーっ、でも本当にひまりちゃんに見えたんだけどなぁ」
「ひまりがこんなところにいるわけないだろ」
「そうだよね。見間違えかもしれないよね」

 転校してきたばかりだから一人で水族館へ来るわけないか。
 でも、本当にそっくりだったなぁ……。



「ねぇ、美坂さん。ちょっと話があるんだけど」

 ――ある日の休み時間。
 私は教室で別のクラスの女子二人に呼び出された。
 顔見知り程度の関係なのに、どうしたのかなと思いながらついていく。
 一階の花壇の前で足を止めると、そのうちの一人が腕組みしながら口を開く。

「この前、美坂さんと同じクラスの子に聞いたんだけど……。美坂さんってさ、石垣くんのことが好きじゃないのに付き合ってるの?」
「えっ」
「石垣くんのことを好きな私たちがフラれて、好きじゃない美坂さんが付き合ってるなんておかしくない?」
「……」

 石垣くんと交際直後にみすずとそのような話をしていたことを思い出す。
 でも、その浅はかな言動が他の人を傷つけていたなんて。

「黙ってないでなにか言ったら?」
「やっぱり噂は本当だったの? 信じられない」
「……」
「言いたいことがあるなら早く言いなよ。反論しないってことは認めてるって意味なの?」
「好きじゃないなら早く別れてよ」
「なんであんたみたいな女が彼女なわけ? 信じられない」

 次第に彼女たちの口調が強くなっていく。
 たしかに反論できない。
 ラブレターを入れ間違えてしまったあの時に運命をこじらせてしまったのだから。
 私は唇をぎゅっと噛み締めながらどう答えるか考えていると……。

「そっちこそ、二対一なんてやり方が卑怯なんじゃない?」

 校舎の方からひまりちゃんがゆっくりと歩いてきて私の隣につく。
 急な参戦者に二人は戸惑いを見せる。

「なによ、あんた美坂さんの友達?」
「そうだよ。あやかちゃんに話があるなら一人で来るのが筋なんじゃないの? それに、あやかちゃんは藍のことが好きだから付き合ってるんだよ。……ね、あやかちゃん」
「あ、……うん」

 救出に来てくれたひまりちゃんの顔にドロを塗りたくなくてそう答えた。
 実は藍と付き合い始めてから一度も本当の気持ちと向き合っていない。

「ね、いまあやかちゃんの口から聞いたでしょ? これで納得した?」
「……」
「それ以前に自分たちがフラれた理由を考えてみたの? まぁ、こんな陰険なことをするくらいだからフラれて当たり前かぁ」
「なによ、ムカつく」
「こんな人たちに構ってないで、もう行こ!!」

 二人は私たちの文句を言いながら場を去って行く。
 少し意外だった。
 ひまりちゃんが知らない人にここまで楯突くなんて。
 私は感謝を伝えようと思ったけど、ひまりちゃんは顔色を変えたまま聞いてきた。

「で、本音はどうなの?」
「えっ」
「私には本当のことを答えられるよね。……あやかちゃんは藍のことが好きじゃないの?」

 ひまりちゃんは藍の幼なじみだから、先ほどの二人とはまた違う圧が襲いかかってくる。
 藍と付き合い始めたのは、彼女が転校してくる前。
 つまり、私たちの秘密を知らない。

「そ、それは……」

 額にびっしりと敷き詰める冷や汗。
 なんと答えればいいのだろうか。
 本音で言うなら、好きか嫌いかと言われたら嫌いではない。
 強引なところはあるけど、大切に思ってくれる気持ちはちゃんと伝わってくるから。
 でも、それが恋かと聞かれると多分違う。
 頭の中が藍で埋め尽くされたり、会いたくなったり、恋しくなったり、体に恋と呼ばれる現象がまだ起きていないから。

 目を一点に向けたまま口を塞いでいると、遠くから聞こえてきた足音がすぐ目の前に止まったと同時に手をガシッと掴まれた。

「なにしてんだよ!」

 顔を横に向けると、そこには藍の姿が。
 彼の鋭い瞳はひまりちゃんを見つめている。

「藍……」
「あやかの気持ちを詮索するのをやめてくれないかな」
「どうして? 藍のことが好きかどうか答えるだけじゃない。幼なじみとして知りたかったから」
「約束してるんだ。俺への気持ちは俺だけに伝えてくれって。……な、あやか?」

 隣で彼が目配せをしてきたので、私はこくんと頷いた。

「ひまりちゃん、ごめんね」
「……そうだったんだ。こっちこそ、無理に聞いてごめん」

 本当はそんな約束なんてしてない。
 彼が私の気持ちを大事にしてくれるのが伝わったからウソをついた。

 ひまりちゃんの背中を見送った後、彼は言う。

「人から自分の気持ちを引き出すような質問をされたらウソをついていいよ」
「でも……」
「答えが出せる段階にないのはわかってるから無理に答えなくていい。その代わり、期限までにはちゃんとした答えを用意していて欲しい」


 ――私はこの時ようやく気付いた。
 彼の気持ちを軽視していたことを。
 彼が毎日どんな気持ちで私と接しているか考えようともしていなかった。



 ――夜21時過ぎ。
 場所は、4月から滞在しているホテル。
 ここは駅から徒歩5分ほどにあり、学校までは15分ほど。
 俺は事情があって毎日ここから通学している。
 最上階からの夜景は宝石が散りばめられているかのように美しい。


 ピーーンポーーン……。
 インターホンが鳴った。
 部屋の扉を開けると、そこには白いワンピース姿のひまりが立っている。

「どうして俺の滞在先がわかったの?」
「やっぱりいまここで暮らしてるんだぁ。このホテルの最上階からの景色最高だよね」
「……まさか、住んでるところまで調べたの?」
「先日たまたまこの近くで見かけたから来たの」
「だからって、部屋まで来るなよ」

 俺は深いため息をついて扉を閉めようとすると、彼女は片手で扉を掴む。

「藍……。日本に来てからどうしてそんなに変わっちゃったの? 口調も、雰囲気も、性格も……」
「考えすぎ。帰って」

 追い払うように扉を閉めようとするが、彼女は部屋の中へ入り込んで扉に背中を叩きつける。

「嫌! 帰らない」
「部屋に入っていいなんて言ってないし」
「らしくないよ……。物静かな性格が別人のように垢抜けたのは全部あやかちゃんのため?」
「だったらなに? 好きな子へ近づくために相手の理想に近づけちゃいけないの?」

 彼女の言う通り、俺は事前に調べた情報を頼りにあやかの理想に近づけた。
 それほどこの恋に本気だということ。

「藍!」
「俺はこの機会を狙っていた。何年もあやかを想い続けて4月にようやく会えて。最初の3か月間は思うようにいかなかったけど、いまは最高に幸せなんだ。だから、誰にも邪魔されたくない」
「なによ、それ……。オーストラリアから追いかけてきた私の気持ちも考えてよ。それに、長い間思い続けてるのにずっと振り向いてもらえないんだよ」
「なにを言われてもお前を好きになることはない」
「ひどい! 藍はいつも自分のことしか考えてない。藍があやかちゃんを思い続けてる間、私がどんなにみじめな想いをしてるかさえ」
「もう、帰って」
「藍!! 突っぱねられるのもいまだけなんだよ。……だって、私たちは」
「その話はもうしたくないから」

 俺は彼女の腕を掴んで扉の外へ追いやった。
 あやかと一緒にいる時は最高に幸せなのに、離れている間は地獄と戦い続けている。
 それが、俺の現実。

 椅子に腰をかけてから、机に置いてある卓上カレンダーを手に取った。
 カレンダーが進む度に思う。
 いまのままでいいのかって。
 後悔しない自信がない。
 俺が本当の幸せを掴むまで、あとどれくらいの日数がかかるのだろう。



 ――放課後の教室内。
 外を見たら雲行きが怪しかったのでスマホで天気予報を検索していたら、向かいに座っているひまりちゃんがなにかに気づいた。

「……あれ、あやかちゃんのスマホカバーの中のプリクラって、先日カラオケへ行った時に撮ったやつ?」
「えへへ。実はお気に入りなんだ」
「藍とのプリクラじゃなくて、私たち三人の?」

 彼女は私の気持ちを疑い続けてるのか、先日と同様に探ってくる。
 でも、私は先日約束通りの対応をとる。

「うん! そうだよ。私には藍と同じくらい友達が大切だから」
「……そっか。あやかちゃんはあの日の思い出を大切にしてくれてるんだ」
「ひまりちゃんと初めて撮った記念のプリクラだから大切にしてる。友達の証だよ!」
「……」

 てっきり喜んでくれるかと思いきや、彼女の目線が左下へ。
 もしかして、オーストラリアではこーゆーのはタブーなのかな……などと考えていると、扉の方から「石垣くん、もう帰っちゃった? 困ったわねぇ……」と担任教師がつぶやいていた。
 私は首をひょいと伸ばして先生に聞く。

「先生、どうしたんですか?」
「これから出張に行かなきゃいけないから石垣くんに学級日誌を3時45分までに出してって言ったんだけど、忘れちゃったみたいね」
「藍の席にリュックが置いてあるからまだ学校のどこかにいると思います。私、探してきますね」
「そう? じゃあ、よろしくね」
「はぁい!」

 席を立ってひまりちゃんにバイバイをして教室を出る。
 だが、すれ違いざまに梶くんから声をかけられた。

「美坂っ!」
「えっ、なに?」
「あのさ、ちょっと話が……」
「ごめん! いま藍を探してて。……あっ、そうだ! 梶くんどこかで藍を見かけなかった?」
「あ、いや……」
「あいつ日直なのにさぼってどこ行ったのよ〜。……じゃあ、梶くん。またね!」
「う、うん……。また……」

 藍を探すことで頭がいっぱいになっていたせいで、梶くんがどうして呼び止めたのか考えもしなかった。
 つい数週間前までは、梶くんのことばかり考えていたのに……。 


 廊下にいる生徒たちの間を通り抜けて、屋上、保健室、校庭、渡り廊下、視聴覚室など、藍が行きそうな場所を見回ってみたけど見つからない。
 連絡した方が早いと思ってスカートのポケットからスマホを取り出すと、すぐ先の美術室の扉が5センチほど空いていた。

 そろりと中を覗いてみると、壁に立てかけてある全長1メートルほどのあじさいの絵の横で藍が腕組みしながら眠っている。
 ようやく発見してホッと一息つく。
 部屋の中に入って彼の目の前へ。

 声をかけようと思ったが、あじさいの絵と平和な寝顔を見ていたら声が喉の奥に押し戻された。
 なぜなら、ラブレターを入れ間違えたことをカミングアウトしたあの日のことを思い出していたから。

『なに言ってんの? 俺は別れないよ』
『えっ』
『無理。お前が好きだから』

『自信なんてないよ。ただ、別れるならもう少し俺のことを知ってからにして欲しい』

 まぶたの裏に色濃く描かれている私への想い。
 藍は毎日全力で想いをぶつけてきてくれているのに、私はまだなにもしていない……。
 ふがいない自分を思い返して拳をぎゅっと握っていると、藍の唇が動き始めた。 

「あやか……」

 声が届いた瞬間目を覚ましたかと思ったが、まだ目をつぶったまま。
 しかし、このタイミングで起こそうと思って彼の肩に手を触れようとするが、

「好きだ」

 その言葉が私の手を引き止めた。

「藍……」
「昔から……ずっと、ずっと……。あやかのことが…………」

 私たちが知り合ったのは高校に入学してから。
 だから、”昔から”と言われても……。
 もしかして、昔どこかで会ったのかな。
 全然記憶にないや。


 彼があまりにも気持ちよさそうに眠っていたので、手を引っ込めて扉の方に向かった。
 だが、そう思ったのもつかの間。
 足元に置いてある絵画につまずく。

 ガタン!!

 し、しまった……。
 大きな音を立ててしまうなんて。
 恐る恐る振り返ると、藍はその音で目を覚ましたようでゴシゴシと目をこすっている。

「……あれ、あやか? こんなところでなにやってんの?」
「あ、えっと……。藍を探しに来たんだよ」

 の割には背中を向けているというなんとも矛盾した返答に。

「じゃあなんで起こさないんだよ。本当は寝込みを襲いに来たんだろ」
「はぁ? そんなわけないでしょ。ほら、教室に戻るよ。私は担任から学級日誌を持ってきてと伝言を頼まれただけだから」
「やっべ! 日直だったことをすっかり忘れてた」

 彼が腰を上げたので一緒に美術室を出ようと思ったが、廊下から「あやかが……」みたいな噂話が聞こえてきた。
 すかさず扉の裏に隠れてしゃがむ。
 彼は正面から「どしたの?」と聞いてきたが、私は人差し指を唇に当てる。

「同じ中学校の子に聞いたんだけどさぁ。あやかって去年までめっちゃ太ってたらしいよ。あだ名が横綱だって」
「うっそ! 面影がないから意外」
「だよね〜。どうやら太り過ぎが原因でフラれたらしいよ」
「石垣がそれを知ったらなんて思うかな」
「くすくすくす……」

 彼女たちの声が段々遠のいていく。
 私はうつむいていると、藍は隣に腰を下ろして心配そうに顔を覗き込んでくる。

「これでわかったでしょ。太ってた過去を隠したかった理由が。でも、同中出身の子が多いからどうしても噂になっちゃうんだよね」

 苦笑いしながら言うと、彼は大きな手のひらで私の頭をなでた。

「辛かったんだよね。……でも、あれは嫌味じゃなくて、あやかが痩せてキレイになって羨ましいから言ったんだと思うよ」
「えっ」
「妬んでいるのはお前の努力。人はさ、羨ましいって思わないと悪口を言わない生き物だから」
「藍……」
「お前が頑張り屋なのはよく知ってるし、すげぇカッコいいと思う。俺はそんなところが好きだから、ネガティブな気持ちは捨てて切り替えていこうぜ」

 彼は最後にニカっと太陽のような笑顔。
 私はそれを見た途端、突っかえてたものがスッと楽になる。

「じゃ、行きますか!」

 彼が立ち上がってから美術室を出ていこうとしていたので、私はすかさず彼のポロシャツの裾を掴んだ。

「あの……さ……」
「ん?」
「ありがとう。いままで私の気持ちを理解してくれた人はいなかったから。そーゆー優しさ救われる」

 さっきの話を一人きりの時に聞いてたらひどく落ち込んでいただろう。
 でも、藍が隣で励ましてくれたから私は前向きな気持ちに。
 すると、藍は顔を真っ赤にしながら目の前に手を差し出してきた。

「じゃあ……、お礼に手ぇつないでくれる?」
「えっ、手??」
「本当はハグしたかったけど、こっちから手ぇ出しちゃいけないんだろ。もちろん、嫌なら無理しなくてもいいけど」

 それがあまりにも小さな催促だったから思わずプッと吹きだす。

「手をつなぐくらいならいいよ」
「よっしゃああああ!!!!」
「あははっ。手をつなぐくらいでそんなに喜ぶ?」
「俺たちの関係が大前進した証拠だろ。今日手をつないだってことは、明日にはチューしてるかもしれないし」
「……それ、絶対にないから」

 心の目を開いてみたら、少しずつ見えてきた彼のいいところ。
 こうやって無理せず少しずつ寄り添ってみよう。
 答えを出すその日まで……。



「ねぇねぇ!! 20日に五十川で花火大会があるらしいよ!」

 ――朝、藍と二人で学校に登校すると、みすずはスマホを持ったまま間に入ってきた。
 すると、藍はいち早く反応する。

「へぇ〜。20日って……土曜日か」
「そそっ。ねぇ、みんなで一緒に花火大会行かない?」
「うわぁ、行きてぇ〜」
「みんなって誰?」

 私は首を傾けながら質問をすると、みすずは藍に両手を合わせた。

「石垣くん。この通り一生のお願い! 坂巻くんを花火大会に誘って欲しいの」

 私と藍は、そこでみすずの目的を知る。

「ははぁ〜ん。みすずは雷斗狙いか」
「えへへ。実はそうなの。だから、坂巻くんと一緒に花火大会へ行けたら隙を見て二人きりになりたいなぁ〜……なんちゃって!!」

 みすずは可愛らしく微笑み頬に両手を添える。
 最近坂巻くんといい感じだったし、私自身もみすずの恋が成就して欲しい。

「おっけー。後で雷斗を誘ってみるよ。みすずたちが二人きりになれるように頑張るよ。な、あやか」
「うん。もちろん!」

 返事をすると、ちょうどその横にひまりちゃんが通りがかったので声をかけた。

「ねぇ、ひまりちゃん!」
「ん?」
「今度の土曜日にみんなで花火大会に行くんだけど、一緒に行かない?」

 自分の中の”みんな”にはひまりちゃんも含まれている。
 藍はあまり仲良くないみたいだから嫌と言うかもしれないけど、この花火大会がきっかけで仲良くなれるかもしれないし。
 それに、みんなも納得してくれるだろうと思ってこの流れのまま誘った。

「……え、私も?」
「うん。日本の花火って個性溢れていてきれいなんだよ。ぜひ一度楽しんでもらいたいなぁ〜と思って」

 頭の中にみんなで打ち上げ花火を見ている姿を思い浮かべながら提案するが、彼女はうつむいてポツリと言う。

「……ごめん。実はその日、大事な用事があるの。……藍もね」
「ひまり! ……ちょっと話がある」

 藍は不機嫌な声を上げると、ひまりちゃんの手を引いて廊下へと向かった。
 私とみすずは状況が把握できず目は点に。

「石垣くん、なんか怒ってた?」
「う、うん……。私にもそう見えたけど……」

 こうやって何度もひまりちゃんを外へ連れ出すことに引っかかっているけど、次第にひまりちゃんが藍の秘密を握っているのではないかと思うようになっていた。
 でも、それは二人だけの問題だから触れないようにしている。



 ――場所は、滞在しているホテルの部屋の机の前。
 俺は夜景に背中を向けたまま卓上カレンダーを手に取った。

 残り半月。
 時は進んでいるのに、あやかとの関係は徐行運転に。
 このまま時が止まることを願ってる自分と、迫りくる現実がつねに葛藤している。

「明日のパーティには必ず来てよね。花火大会へ行ったら絶対に許さないから」

 誰もいないはずの部屋から聞き覚えのある声がしたので目を向けると、扉の前にはひまりが腕組みしている。
 思わず呆れてため息が出た。

「どうやって俺の部屋に侵入したの?」
「このホテルうちが経営してるから鍵を借りてきたの」
「……相変わらず最低だな。俺の気持ちなんてお構いなしかよ」

 俺は苛立ちを抑えた手のまま卓上カレンダーを机に置くと、ひまりは後ろからかけよってきて背中から手を回した。

「ちょっ……、なにするんだよ!」
「藍が好きなの。小さい頃からずっと……。早くあやかちゃんと別れて私だけを見てよ」
「そーゆーの無理だから」

 すかさず彼女の手をほどいて暗闇を映している窓の前に立つ。
 彼女はそれが癪に障ったのか、俺の横にまわって眉を釣りあげる。

「藍を追って来たのに彼女を作ってたなんて……。日本に来なければこの事実を知らなかった」
「俺はこの4年間あやかに会うことだけを考えてきた。相手が誰でさえ俺たちの仲を引き裂くことは許さない」
「なによ、それ……。私たち、婚約者なんだよ! あやかちゃんとうまくいってても最後は別れる運命なの」
「俺はそう思ってない。たった一度きりの恋なら全力を尽くしたいから」
「なに言ってるの……。私たちは大学を卒業したら結婚するのに……」
「そんなの親が勝手に決めた関係だけだろ」
「私は藍と結婚したいの。相手は藍じゃなきゃ嫌!」
「お前がそう思っていても、俺は納得してないし認めてないからな」

 吐き捨てるようにそう言うと、部屋の扉を勢いよく開けて出ていった。

 俺は生まれた頃から自由なんてない。
 だから、1分1秒でも思い残しのないようにしていきたい。


 ――ホテルの中庭に到着すると、等間隔に置かれている籐のベンチに座る。
 荒んでいる気持ちを抑えて、ポケットからスマホを出してあやかに電話をかけた。

『藍。どうしたの? 急に電話なんて』
「あやかの声が聞きたくなったから」
『もぉ〜……。「声が聞きたくなった」なんて本物の彼氏っぽいね』
「本物の彼氏だよ」
『えっ』
「この一瞬だって俺は全力だから。お前に会いたいと言われればすっ飛んでいくし」
『あはは。いつも大げさなんだから……』

 彼女は呆れたようにそう言う。
 たとえ期間限定だとしても、俺はあやかを本物の彼女として接している。
 いま100%じゃなければ後悔する日が必ずやってくるから。


 夜風に当たりながら空を見上げると、月が光り輝いていた。
 俺はその月を見ながらあやかとの日々を思い浮かべている。

「あやか」
『ん、なぁに?』
「俺の気持ち、ちゃんと届いてる?」
『うん……。ちゃんと届いてるよ』
 
 彼女は”期限つき”の意味を知らない。
 いや、もし知っていたとしたら、この関係を築けなかっただろう。
 そして、その期限を迎えた日には彼女からどんな答えが伝えられるか、いまは不安で仕方ない。



 ――ムシムシとした湿気を身にまとっている花火大会当日。
 私とみすずと坂巻くんの三人は、浴衣姿で18時に約束場所の駅に集まった。
 お互いの浴衣姿を褒め合い、場が和む。
 普段制服姿に見慣れてしまっているせいか目新しい浴衣は新鮮に感じている。

 そんな中、一つ気になることが。
 それは、藍が約束場所に現れないこと。

「藍、おっそいなぁ〜……。もーーっ、なにしてるんだろ」

 昼間にLINEした時は「行く」と返事があったのに、いまはメッセージが既読にならない上に電話が繋がらない。
 どうしたんだろう……。
 あんなに乗り気だったのに。

「もしかして、直前に体調不良になっちゃったのかなぁ」
「う〜ん……。どうなんだろう。また後で電話してみるよ」
「あいつ、昨日まで来る気満々だったのにな」

 このまま待っていても仕方ないので、先に川辺で出店している屋台をまわることに。
 本来ならみすずと坂巻くんを二人きりにしてあげるはずが、藍が来れなくなったこともあって予定が狂ってしまった。
 それだけじゃない。
 藍と付き合い始めてから一日中べったりくっついてきていたせいか、いま隣にいないのが少しばかし心細い。

 一方のみすずは、坂巻くんといっぱい喋れることが嬉しそうな様子。
 紺色の浴衣に水色の大きな花の髪飾りはショートカットの髪にとても似合っている。
 きっと、坂巻くんも同じ気持ちになってるはず。
 本当は二人きりにしてあげたかったよ。


 ――18時半になると、一発目の花火が上がった。

 ドオオオォォォォン……。
 心臓を突き抜けそうなくらい勢いのある花火の打ち上げ音に目線が奪われる。
 それと共に会場にいる観客は賑いを見せた。
 瞳に次々と映し出される打ち上げ花火は真っ暗闇な夜空を彩っていく。
 それを見ていたら、先日ひまりちゃんが言ってたことを思い出した。

『日本の花火って個性溢れていてきれいなんだよ。ぜひ一度楽しんでもらいたいなぁ〜と思って』
『……ごめん。実はその日、大事な用事があるの。……藍もね』

 やっぱり大事な用事があったのかな。
 もしそれが本当なら、最初から断ってたよね。
 それに、二人が共通している大事な用事ってなんだろう。


 思い詰めてる間にも花火は次々と上がっていく。
 坂巻くんと幸せそうに喋っているみすずの姿を隣で目にしながら……。

 私はカバンから再びスマホを出して藍に電話をかけた。
 トゥルルルル…… トゥルルルル……
 すると、5コール目でようやく繋がる。

 ガチャ……。
『あやか?』
「藍! ようやく電話に出てくれた。何度も連絡したのにつながらなかったけどなにかあった?」
『なんもないよ。連絡しなくてごめん……』

 と言いつつ元気のない声。
 スピーカーからは多数人の話し声が聞こえてくる。

「いま外なの?」
『……うん。急に花火大会行けなくなっちゃって。しかも、連絡できなくてごめん』
「連絡できなかったんだったら仕方ないよ。でも、残念。あんなに楽しみにしてたのにね」
『みんなと一緒に花火大会へ行きたかった。……あ、もう行かなきゃ』
「わかった。……じゃあ、また月曜日。バイバイ」
『うん、バイバイ』

 ところが、通話を切ろうとして耳からスマホを離した瞬間、ボソッと小さな声が聞こえた。

『……会いたい』

 もし聞き間違いでなければそう言っていたはず。
 私は異変を感じて再びスマホを耳に当てた。

「藍! やっぱりなにかあったんじゃ……」
『なんでもないよ。バイバイ……』

 その後すぐに通話は切れた。
 会いたいという言葉が胸をつきさして純粋に花火を楽しむ気持ちが消えてしまう。
 それからみすずたちに別れを伝えて自宅へ戻った。


 部屋に着いてから浴衣を脱いでベッドにごろんと転がる。

「『会いたい』……かぁ。急にどうしたんだろう。花火大会だってあんなに楽しみにしてたのに……」

 藍のことを考えながらゴロゴロしていると、机の上のオルゴールが視界に入る。
 ベッドから起き上がってオルゴールを取ってゼンマイを巻くと、メロディが流れ始めた。
 私の気持ちとは対照的にゆったりとした曲が部屋の中を包み込む。

 ボーっとしながら聞いてると、ベッドに置いているスマホの着信音がワンコールだけ鳴った。
 スマホを取って着信元を確認すると、相手は藍。
 すかさず折り返し電話をかけたが、なぜか電源が切られている。

 やっぱり変だ。
 さっきは電話の声がおかしかったし、いまは電話をかけてくれたと思ったら繋がらなくなってるし。
 それに、「会いたい」って……。

 その言葉がやけにひっかかってしまったせいか、気付いたときにはスマホをカバンに突っ込んで家を飛び出していた。



 ――自宅から自転車で向かった先。
 そこは、藍と初めてデートをしたあじさい寺。
 なぜここに来たかと言うと、オルゴールを聞いていた時に藍のお気に入りの場所だということを思い出したから。

 現在の時刻は21時20分過ぎ。
 少し茶色がかっているあじさいに挟まれながら道を行く。
 もちろん夜の時間帯ということもあって付近に人影はない。
 でも、ここに来れば藍に会えそうな気がしている。


 自転車を押しながら2〜3分ほど歩くと、藍と一緒にオルゴールを聞いた広場に到着。
 そこでベンチに座って月夜を眺めている男性の姿を発見する。

「藍!」

 遠目から見てもその人が藍だと確信していた。
 すると、彼は少し驚いたように目を見開く。

「電話しても繋がらなかったのに……。まさかここで会えるなんて」
「偶然って、すげぇな」

 彼はそう言って弱々しく微笑む。
 今日花火大会で会うはずだったのに、急遽会えなくなって。
 でも、会いたいと思っていたら、約束もしていない場所で会えた。

 ……なんか不思議だね。

 私は小屋の横にある自転車置き場へ自転車を置いてから彼の隣に座る。

「どうして花火大会に来なかったの? ずっと待ってたのに」
「…………ごめん。理由はちょっと言えない」
「そっ、そうだよね! ごめんね〜。何度も何度も聞いちゃって。私ったらなに言ってるんだろ」

 丸1日藍のことを気にしていたせいか、詰め寄りすぎた自分を反省した。
 自分でもそこまで気にする理由がわからない。

 すると、彼はそのまま横に倒れて私の肩に頭を乗せる。

「ごめん、少しだけこうさせて……」

 少し泣いてるような声が届いた。
 普段の彼では考えられないほど……。

「どうしたの?」
「こう見えても俺、結構ギリギリでさ……。限界迎えてんのに大事なことがなに一つ出来てなくて、そんな自分が情けなくて……」
「それ、どういうこと? 限界って、なんのこと?」

 それが悩みだと気付いたけど、遠回しに伝えられているせいかよくわからない。
 私に伝えたいのか、それともつい本音がこぼれてしまったのかさえ不明なまま。

「……やっぱ、なんでもない」
「私ならなんでも聞くよ? あんまり力になれないかもしれないけど、言いたいことがあったら遠慮なく言ってね」
「いや、知らなくていい」

 彼はそう突っぱねる。 
 こんな時、自分にはなにができるだろうか。
 そう考えていたら、ふとある物の存在を思い出した。
 カバンを開いてからそのある物を取り出して彼の目の前に差し出す。

「じゃあ、これ食べて元気になって!」
「えっ、ラムネ?」 
「藍がついこの前好きだって言ってたでしょ。私もあれから毎日ラムネを食べるようになったんだよ。そしたら元気いっぱいになれたから」

 彼は頭を上げてからラムネの容器を受け取ると、蓋を開けて二粒取り出してから口へと放り込む。
 ボリボリと噛み砕くそしゃく音と、辺りに充満するラムネの香り。
 大好きなお菓子ということもあってかフッと笑う。

「……やっべ。元気出るわ」
「よかったぁ! 元気がないからずっと心配してたんだよ!」
「俺、あやかといる時は唯一心が自由かもしれない」
「えっ」
「安心するんだ。その優しさに……」

 まっすぐに見つめられた穏やかな瞳に、私の目線は吸い込まれていく。
 先ほどの心配がクリアされてしまうくらい。

「藍……」
「ありがとう。……このままお前がずっと彼女でいてくれたらいいのにな」

 私は自分の中の答えがまだ出ていない。
 だから、うんともすんとも言えずに黙りこんでいると……。

 ガッシャァァーーーーン!!

 突然背後から大きな音がした。
 振り返ると、小屋の横に停めておいたはずの自転車が倒れている。

「あれ? スタンドを立てておいたのに倒れちゃったみたい」
「風吹いてないのにな」
「自転車の停め方が悪かったのかなぁ」
「もしかして、幽霊の仕業だったりして……」
「やめてよ~!」

 ――私たちの関係はうまくいっていた。
 むしろ、いままでどうして接点がなかったんだろうと思うほど。
 でも、それが恋かと言われるとわからない。
 あと10日ほどで答えを出さなきゃいけないのに、私は自分に甘えていた。

 彼の秘密が、私の想像をはるかに超えるほどのものだとも知らずに……。