翌日、芯が洋館を訪れると、奏太は昨日と同じ『ピアノソナタ第八番』を弾いていた。背筋の伸びた細身の後ろ姿からは、奏太自身の熱意や緊張感がはっきりと伝わってくる。
 隠れる必要はないのに、芯はつい、昨日と同じように壁際でしゃがみ込んでしまった。気迫に満ちたこの演奏を邪魔するなんて、自分には到底、できる気がしない。
 目を閉じて、まぶたの裏に世界を描く。今演奏されている不安定な曲調は、昨日想像した穏やかな湖とは正反対だ。灰色の空が低い音でうなり、鋭い稲光が駆けていく。嵐の予感が、人々を怯えさせる。
 どうして一曲の中で、こんなにも雰囲気が違うのだろうか。
 芯は疑問に思い、より注意深く音を拾った。重々しい和音を重ねたピアノソナタ第八番はしかし、思いの外そっけない曲調に変化したかと思うと、突然流れを止めてしまった。
 唐突に訪れた静寂に、芯は驚いて目を開けた。戸惑っている間にピアノ部屋の窓が大きく開いて、黒い革靴の先がちらりと覗く。
「おはよう、芯」
 白いシャツの眩しさに目を細める。「おはよう」と返すと、奏太は手招きをして、窓から部屋に入るよう芯を促した。
「ここからでいいの?」
「いいよ。玄関まで回る時間がもったいないだろ」
 そこをもったいなく思う発想は、芯にはなかった。マナーにうるさい母が聞いたら卒倒しそうだ。
 靴のまま室内に入るのは、さすがにまだ躊躇われた。鼓動を速める緊張がレッスンへのものなのか、慣れない方法で人様の家にお邪魔することへのものなのか、だんだんと判別がつかなくなっていく。
 部屋に入った芯に、奏太は壁際から背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、グランドピアノのすぐ脇に座らせた。
「お茶持ってくるから待ってて」
 そう言い残して扉へ向かった奏太に、「いや別に、お構いなく」と声をかける。
「あんまり気遣ってもらっても、なんか申し訳ないし」
「別にいいよ。僕も休憩したいから」
 軽くあしらって、奏太は部屋を出ていった。一人残された芯は若干の居心地の悪さを感じながらも、浅く息をつき、ぼんやりと辺りを見回した。
 部屋はほんのりと薄暗い。それがよけいに、大きな窓から差し込む秋晴れの日光を際立たせている。グランドピアノとサイドテーブル、二脚のピアノ椅子以外にはなにもない、シンプルな空間だ。
 でも不思議と、殺風景な印象は抱かなかった。物の少なさは、演奏への真摯さの現れのようだ。そっけなさの中に温かみがあり、どこか穏やかな空気が、部屋全体を包み込んでいる。
 戻ってきた奏太は、トレーに乗せたグラスの他に、カラフルな表紙の冊子を持っていた。芯が興味を持つと、サイドテーブルに飲み物を置いてからピアノの前に座り、身を寄せるようにして中身を見せてくれた。
「僕が昔使ってた、子ども用の楽譜。楽譜の読み方からやろうと思うんだけど、どう思う?」
 目次のすぐ後ろのページに、動物のイラスト入りで音符の解説がある。図が大きく、説明も平仮名が多くて読みやすいが、内容はかなり専門的だ。
 ドやレといった音名だけでなく、四分音符、八分音符といったリズム的な部分まで言及されているのを見て、芯は途端に不安になった。奏太から楽譜を受け取ってページをめくる。後半になるにつれ音符が増えていって、理解できる気が全くしない。
「ごめん、ちょっと……楽譜は難しいかも」
 芯は正直に奏太に伝えた。これを一からやっていたら、挫けてレッスンを続けられなくなる自信がある。一曲も弾けないまま年が明けてしまう。
 呆れられるかと思いきや、奏太は「やっぱり?」と苦笑いで応えた。楽譜に苦手意識をもって挫折する初心者は、ピアノ界隈では多いらしい。
「じゃあ代わりに、好きな曲を覚えて弾く方法にしようか」
 芯はなにか、弾いてみたい曲はある?
 おもむろにそう言って、奏太はサイドテーブルに手を伸ばす。左右の手で一つずつグラスを持ち上げ、慎重な手つきのまま、片方を芯に差し出してくる。
 受け取ったグラスの中で、麦茶らしき液体が揺れていた。その澄んだ煌めきを見つめながら、芯は弾いてみたい曲について、あれこれと思考を巡らせた。
 まず思い浮かんだのは、いつもやっているスマホゲームのテーマ曲だ。動画再生アプリで演奏動画を見たことがあって、格好いいと密かに思っていた。
 もしくは、最近流行っているドラマの主題歌でもいいかもしれない。芯自身はその曲を好きでも嫌いでもないが、学校で弾いたらウケそう、という下心がわいた。
 麦茶に口をつけながら、どっちにしようかな、と悩む。ゲームの曲は捨てがたいけれど、不登校という自分の現状を考えれば、友人に自慢できる特技ができた方がいいのかもしれない。
 主題歌の方にしよう。
 そう決めて、芯は顔を上げて奏太を見た。しかし、奏太の黒い瞳が稲妻の色に光るのを目にした瞬間、言おうとしていた曲名が喉の奥に引っ込んだ。
 そんなんじゃ駄目だ。そんなんじゃなにも、変わらないだろう。
 昨日鼓膜を震わせた、奏太のピアノを思い出す。激しさに心を奪われ、美しさにため息をついた。真剣な横顔を見て、自分もこんな風に、なにかを大切にしてみたいと思った。
 いつもと同じでは、ましてや人目を気にした選択では、きっと自分は変われない。新しいことに挑戦しなければ、新しい未来は見えてこない。
「俺、奏太と同じ曲が弾きたい。ベートーヴェンのやつ弾いてみたい」
 芯の返答に、奏太は目を丸くして驚いた。芯がクラシックを選ぶとは、露ほどにも思っていなかったようだ。
「難しいけど……大丈夫?」
「わかってる。でも弾いてみたいんだ。奏太の演奏を聴いて、すごくいい曲だと思ったから」
 芯は奏太の顔をまっすぐに見つめた。奏太はしばらく、「うーん」と思案気に首を傾げていたが、やがて斜め下に視線を逸らし、長い指で口元を覆いながらつぶやいた。
「そこまで言うなら、まあ。第二楽章ならいけるかも」
「第二楽章?」
「うん。芯が湖に(たと)えた曲」
 いまいちピンときていない芯に向かって、奏太は『ピアノソナタ第八番』について解説した。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第八番は、曲調の異なる三つの楽章から構成される。
 『悲愴』という通り名を体現する、重々しい第一楽章。ベートーヴェンの楽曲の中で指折りの美しさと評される第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
 芯が最初に聴いた轟音は、第一楽章の冒頭らしい。その後に聴いた柔らかく穏やかな部分が第二楽章、その後にもう一曲、これまた雰囲気の違う第三楽章が続く。
 途中で曲調が変わったのではなく、一つひとつの楽章が、それぞれ完成された個性豊かな一曲だったのだ。
「もちろん本当は三つでセットだから、通して聴くことでしか味わえない魅力がある。でもどの楽章も、単体で演奏しても十分に素晴らしい曲たちなんだ。第二楽章ならテンポも速くないし、アレンジ次第で弾けるかも」
 そうと決まれば、と意気込んで、奏太は譜面台に乗っていた楽譜に手を伸ばした。数枚めくって見せてくれたページには、びっしりと黒い音符が並び、奏太のものらしき書き込みもいくつか見受けられた。
「この一番上の音がメロディーになるんだ。ちょっと聴いてて」
 奏太はそう言って、恥ずかしがるでも気取るでもない調子で、第二楽章の旋律を歌った。よく澄んだ、落ち着いた響きは、普段から音楽が身近にある人間の歌声だった。
 奏太は最初の一フレーズを歌い終わると、今度は芯にも、自分の真似をして歌うよう指示を出した。
「え、俺も歌うの?」
「うん。音楽の基本は歌だからね」
 あれこれ文句を垂れる間もなく、奏太は「せーの」と声をかけて、先ほどと同じフレーズを歌い始めた。芯は慌てて、小さな声でつぶやくように奏太の歌をなぞる。
 二人だけの部屋はひどく静かで、重なった歌声が鮮明に聴こえた。奏太の朗々とした響きに比べて、芯の歌声は、掠れ、震えて、とても美しいとは言えないものだ。
 それでも芯は、胸に温かな熱が灯るのを感じていた。部屋に差し込む日差しが、やけに(まばゆ)く輝いて見える。声を出しているせいか、体温も実際に上がったように感じられる。
 奏太の長い指先が、拍に合わせてゆらゆらと揺れていた。それを見ているうちに、だんだんと恥ずかしい気持ちも薄れ、芯は夢中になって旋律を追う。
 息を吐き出した分だけ、新鮮な空気が肺を満たし、酸素が全身にいきわたっていった。自分の本当の声を、久しぶりに聴いた気がした。
 同じフレーズを何回か繰り返した後、奏太はおもむろに立ち上がった。譜面台の近くに身を寄せ、先ほどまで自分が座っていたピアノ椅子を示しながら、「どうぞ」と少しおどけた調子で言う。
 促されるがまま、芯はまだ温もりの残る座面に腰掛けた。ふっくらとした感触に、背筋が伸びる思いがする。緊張感から、胃のあたりが押しつぶされたような痛みを訴える。
「真ん中のドってわかる?」
 尋ねられて、芯は慌てて目の前の鍵盤に視線を落とした。モノクロの鍵盤は見ているだけで気が遠くなりそうだったが、小学生の頃にやった鍵盤ハーモニカの記憶を頼りに、それらしい白鍵を探す。
「これ?」
「すごい。よくわかったね」
 奏太は嬉しそうに答えて、にっこりと優しく微笑んだ。芯の頬は思いがけず熱くなる。「そんな、大したことじゃないから」と謙遜して、奏太の綺麗な顔から目を逸らす。
「ピアノソナタ第八番の第二楽章は、その音から始まるんだ。わからなくなったらウサギで見つけるといいよ」
「ウサギ?」
「うん」
 大真面目な顔で、奏太は右手でピースサインを作った。人差し指と中指の第二関節をぴょこぴょこと折り曲げて、「ウサギ」ともう一度言う。
「この耳のところを、真ん中の二本の黒鍵にあてる。そうすると、親指の場所が真ん中のドになるから」
 ぐっと身を寄せて、奏太は鍵盤にウサギのピースサインを置いた。人差し指と中指を中央の黒鍵にあてがい、折りたたんでいた親指を開く。確かに、その親指のある場所が、芯がさっき言い当てた真ん中の「ド」になっている。
 ウサギ。ウサギかあ。
 ふふ、と笑うと、奏太は不思議そうな目で芯を見た。「どうかした?」と尋ねられたので、芯は正直に口を開く。
「いやなんか、可愛いなあと思って。ウサギ。ウサギね、覚えたから大丈夫」
「ああごめん、子どもっぽかったね」
 奏太は照れくさそうに頬をかいた。「僕は昔、こうやって教わったんだ」とつけ加え、芯に鍵盤をよく見ているよう指示を出す。
「最初の三音はこんな感じ。真似できそう?」
 そう言って、奏太はメロディを歌いながら、白、黒、黒の順番で鍵盤を押した。
「白いのだけじゃないんだ」
「うん。黒鍵も使うから、頑張って覚えて」
 芯は神妙な顔でうなずき、奏太の見本通りに鍵盤を押す。
 音が鳴った。正真正銘、ピアノの音だ。今まではただ聴くだけだった温かみのある音色が、今確かに、自分の指先からこぼれている。
 それが無性に嬉しくて、芯は傍らに立つ奏太を振り仰いだ。黒い瞳とぱっちり目が合う。「すごい、鳴った!」と、はしゃいだ気持ちに任せて歓声を上げる。
 奏太はしばらく、ぽかんと口を半開きにして、まばたきを繰り返していた。やがてその目が、きゅっと細くなる。小さく息をもらして、なぜか少し、照れくさそうな笑みを浮かべる。
「そりゃ鳴るよ。ピアノだからね。でも、気に入ってくれたみたいでよかった」
 うんうんと頷き返しながら、芯は覚えた三音を繰り返し弾いた。始まりの音は、なんだか特別な感じがする。その響きを楽しみながら、芯はこの先のメロディーに思いを馳せる。
 芯が飽きてきた頃合いを見計らって、奏太は三音の続きを教えてくれた。新しい部分を教える時、奏太は指先を動かしながら、必ずドレミを口ずさんだ。
 小さな唇からこぼれる音色が心地いい。滑らかな鍵盤の感触と穏やかな秋の陽光を感じながら、芯は夢中になってピアノを弾いた。
 そんな芯を、奏太は終始、温かい眼差しで見守っていた。