バスに、揺られている。隣の席には祖父が座っていて、窓から差し込む午後の日差しは眩しくて、時田芯(ときだしん)はうきうきと弾んだ気持ちで辺りを見回した。
 幼い芯の目に、世界はずいぶんと輝いて見えた。つり革や手すりの煌めきに目を奪われ、道の凹凸をそのまま伝える振動に体を揺らし、乗り降りする人の顔を見ては、にっこりと笑いながら手を振った。
 あれはなに? あの人は誰?
 芯は初めて見る物や人を端から指差しては、祖父の説明に耳を傾けた。後ろの席からは、在日中国人らしき女性二人組の、賑やかなお喋りが聞こえてくる。その楽し気な響きに気を取られているうちに、バスは緩やかに減速し、運転席のマイクが入る。
「ヒノキバシー、ヒノキバシー」
 ひのきばしー、ひのきばしー。
 芯は車内に流れたアナウンスを真似して口ずさむ。それだけでバスの運転手になったような気がしてくる。おれがうんてんしゅだ、と宣言してハンドルを握る真似をすると、目が合った祖父は優しく微笑んだ。
 その顔が嬉しくて、芯も満面の笑みを返す。直後、窓の外で工事をする作業員を見かけて、芯の職業は運転手から工事現場のおじさんに早変わりする。
 どどどどど、と効果音をつけてドリルの真似をしたら、さすがに「迷惑になるからやめなさい」とたしなめられた。でも芯は諦めなかった。なりたいと思ったものには、自分はなんにでもなれるのだ。
 道端には様々な職業があふれていた――花屋、ケーキ屋、警察官。颯爽と歩くサラリーマンや、私服姿だけれど真剣な表情で電話をしながら歩く人。
 家で観るテレビの中には、もっと色々な大人がいる。憧れのサッカー選手や華やかなアイドル。お笑い芸人にニュースキャスター、歌舞伎役者やピアニスト。
 芯のちっぽけな脳みその中で、夢は無限に広がっていった。芯は世界を愛していたし、世界の方もまた、芯の味方だった。
 昔から、好きなものがたくさんあった。だから、高校二年生に進級していよいよ「その紙」をもらった時、芯は自分の足元がごっそりと失われたような心地になった――三つの空欄が芯に突きつけたのは、これから先も続いていく人生の、その圧倒的な長さだった。
 これから先、何年、何十年と、自分は同じことを続けて生きていかなければならないのか。
 そう気づいたら、さあっと血の気が引いて、どこまでも落ちていくような不安感に襲われた。この先、今までの自分の生き方が通用しないかもしれないと思うことは、少しずつ芯の心を侵食した。

 芯が自分の変化に気がついたのは、九月二日の月曜日、夏休み明け最初の登校日だ。目覚ましを止めてベッドから起き上がろうとすると、思うように上半身が動かなかった。
 何度も頭を持ち上げようと試みるが、体全体がぼんやりと重だるく、どうしても動くことができない。熱中症を疑い、芯は母を呼んで水をもらった。母と相談して、その日は一日、学校を休むことになった。
 学校に行かないと決まると、途端に体が軽くなったような気がした。首をひねりつつ、「大したことなかったな」と内心苦笑し、芯は一日伸びた夏休みをちゃっかり満喫した。
 その時、芯は本当に、翌日の火曜日には何事もなく学校に行けると思っていた。体育があることを夜に思い出し、体操着を持っていかなければと考えながら眠りについた。
 ところが翌朝、芯はベッドから起き上がることができなかった。昨日と同じで、どうしても上半身が持ち上がらないのだ。
 芯は戸惑いながらも母を呼んだ。部屋に入ってきた母は訝しげに眉をひそめ、「仮病じゃないのよね」と小さく口にした。
 芯は少し苛立ちながら、「そんなわけないじゃん」と答えた。明日には行けると思う、とも。

 しかしその後、芯が学校に行けることはなかった。