その日は眩しいくらいの四月の晴天だった。授業が終わって、SHR(ショートホームルーム)のあと、海崎はリュックを背負って教室を飛び出した。
今日はまっすぐ寮に帰らずに、寄り道をすると朝から決めていた。
寮の最寄り駅まで着いたあと、改札を出てからいつもは左に行くのだが、今日は右に行く。
東京から移り住んできたばかりでこの街のことはさっぱりわからない。だから街を見て回りたかったのだ。
駅前には東京でも見かけた飲食チェーン店がある。その看板を見ると妙に懐かしい気持ちになった。
今日の目標は本屋だ。そこで文房具を買い、いつもと違う道を歩いて寮に帰る。海崎にとっては少しの冒険だ。
雑居ビルが立ち並ぶ大きな通りを歩いていく。東京よりもビルの高さが低いからか、見上げると空が大きく感じる。
やがて交差点の前にあるショッピングモールの広間に出た。その一角に、派手な柄のストリートピアノが置いてあり、母親に連れられた幼い女の子が聴き覚えのある練習曲をたどたどしく弾いていた。
東京の実家にはピアノがあったが、寮にはない。久しぶりに弾いてみたくなり、海崎はおもむろにピアノに近づいていく。
女の子がいなくなったあと、背負っていた黒リュックをピアノの端に下ろす。
椅子に座り、ピアノの白鍵に触れる。ピアノに触れるのは三週間ぶりだ。久しぶりの鍵盤の感触を懐かしく思う。
ゆっくり息を吐いて、指を動かす。弾くのは、海崎の好きなカプースチンの曲だ。
八つの演奏会用エチュードの六曲目パストラール。クラシックとジャズの融合みたいなリズミカルで軽快なテンポの曲だ。
跳ねるような高音を弾いていると心も明るくなる。
息つく暇もない忙しないタッチを夢中になって追いかけていく。何もかもを忘れて没頭するこの感覚が好きだ。
曲を弾き終えたあと、椅子から立ち上がり、リュックを手にしたとき、パチパチと拍手が聞こえた。
振り返ると、通りかかった人が立ち止まって海崎の演奏を聴いてくれていたらしいことに気がついた。
しかもひとりじゃない。数名の人が聴いてくれていたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
ペコペコ頭を下げて、リュックを背負う。独学で弾いているだけだから、ピアノの発表会のようなものにも参加したことがない。誰かに演奏を聴いてもらうのは、初めてのことだった。
海崎は人から評価されることに慣れていない。注目されるのが恥ずかしくなってきて、もう一度ありがとうの意味を込めて頭を下げたあと、その場から逃げ出した。
「海崎!」
大通りの先を進もうとしたとき、耳触りのいい声で名前を呼ばれた。この声は聞き覚えがある。振り返ると伊野が息を切らして駆けてくるところだった。
「さっきの演奏、すごいな。聴いててびっくりしたよ」
「えっ、聴いてたのっ?」
まさか伊野が聴いているとは思いもしなかった。というより、自分の演奏など誰の耳にも届かないと思って弾いていた。
「カプースチンのパストラールだろ? 俺の好きな曲だ」
「あの曲知ってるのっ?」
正直、驚いた。海崎は好きだが、クラシックに興味がないと聴くことのない曲じゃないかと思っていたから。
「うちのピアノ教室に来てた生徒が弾いてたよ。あ、俺は無理ね。あんな高難度曲は弾けない」
「あぁ、そっか。伊野んちのお母さんもピアノの先生だったね」
伊野は実家がピアノ教室だと言っていた。その暮らしの中で自然といろんな曲に触れてきたのだろう。
「海崎、あれ独学?」
「うん。そうだよ。母さんに習ったのは本当に小さいときだけ」
海崎は頷く。ピアノは誰に教わることもなく、誰に聴かせることもなく、いつもひとりきりで弾いていた。
「お前、まさかのピアノガチ勢じゃん。マジ聴き惚れた。弾いてるときなんか、別人みたいだし……あの、かっこよかったよ」
「えっ、そっ、そんなことないよ……」
海崎にとっては本当に趣味の範囲なのだ。だから自分が上手いとも下手とも考えたことがなかった。それなのに伊野に褒められ、なんだかこそばゆくなる。
「海崎、指長いもんな」
伊野がサッと海崎の手を取り、指を眺める。伊野はなんでもない様子だが、手を握られた海崎はダメだ。伊野に触れられて心拍数が爆上がりする。
「い、伊野は、なんでここにいるんだよ」
手を握られるのが恥ずかしくて、海崎はサッと手を引っ込め話題を変えた。
「だって、海崎が駅降りたあと、寮じゃなくてどっか違う方向に歩いて行くからさ、気になって……」
「寄りたいところがあったんだよ」
「なんだよ、そっか。ビビるわー。海崎ふわふわしてて危なっかしいしさ、どこ行っちゃうんだろうとめっちゃ不安になってさ」
「大丈夫だよ。そんなに頼りない?」
伊野は実は過保護なタイプなのだろうか。どこへ行っても道に迷ったら地図アプリだってあるし、どうとでもなるだろうに。
「ああ。心配だ。お前をひとりにしておけない。俺もついていく」
「大丈夫だって」
「嫌だ。一緒に行く。変な奴に絡まれたらどーすんだよ」
「はぁっ?」
なんだその心配は、と海崎は呆れる。可愛いJKならわかるが、男の海崎はそこまで弱くない。
「とにかく! 俺ならこの辺りはめっちゃ詳しいから。ほら、行くぞ!」
「……わかったよ」
伊野は海崎についてくるつもりのようだ。でも嫌ではない。ひとりきりの散策のつもりが、急遽、相棒ができた。
海崎は伊野と並んで歩く。
「で? どこ行きたいの?」
「本屋。こっちにもシュンク堂があるって知って、行ってみたかったんだ」
「なんだ。すぐそこじゃん。こっちだ」
伊野は一歩先を歩き、本屋の方角を指さしながら笑顔で海崎を振り返った。
日に焼けた健康的な顔で、伊野は爽やかに笑う。
不思議だ。ひとりだと心細かったのに、伊野がいるだけで気持ちが急に軽くなる。
伊野の明るい性格が周りをそうさせるのだろうか。伊野と一緒にいると、誰でもこんな気持ちになるものなのだろうか。
「海崎。本屋のあと、いいとこに連れてってやる」
伊野は海崎に得意げに話しかけてきた。
「いいところ?」
「そう。かき氷屋。店の雰囲気も可愛いし、めっちゃうまいんだよ」
「あ、この前教室で女子と話してた店?」
「違う。俺の好きな店。まだひとりにしか教えたことない。海崎、お前でふたり目だ」
「伊野の好きな店か……」
伊野が人にほとんど教えない、大切にしている店なのかもしれない。食べてみたいな、と思う。季節は春だけど今日は日差しが強い日だ。冷たいかき氷はとてもおいしそうだ。
「そのあともっといいところを案内するよ。いい演奏聴かせてもらったから」
「えっ! あんなの……」
まさかさっきの演奏のことをここにきて掘り返されるとは思わなくて、海崎は焦る。
「楽しみにしてろよ、俺のとっておき」
「どこ?」
「内緒」
子どもみたいに笑う伊野に、海崎は「もったいぶるなよ」と声を出して笑う。
きっと伊野につられたのだと思う。明るい伊野のノリに乗せられて、なんだか自分まで陽キャになった気分になる。
「海崎って実はよく笑うんだな」
伊野は急に真面目な顔になり、海崎の顔を覗き込んでくる。
「えっ……」
海崎も伊野を思わず見返した。伊野と至近距離で目が合う。
そんなことを人から言われるのは初めてだった。
よく笑うのは伊野といるからだ。伊野といると自然と笑顔になれる自分がいることに気がついた。
「海崎はもっと愛想のない奴かと思った」
「なんで……?」
「見た目がさ、都会のいいところの子って雰囲気だったんだよ。こんな綺麗な顔して、肌も白いしさ」
伊野が手を伸ばしてきて、突然、頬に触れてきた。伊野の指の感触が、海崎の素肌を滑り落ちていく。
「なっ……!」
海崎は驚いて目を見開いた。親しい友人がいなかった海崎は、あまり人に顔を触れられたことがない。
「東京の人ってみんなこんなに肌綺麗なの?」
「き、綺麗なわけないだろっ!」
海崎は慌てて伊野から離れる。なぜかわからないが、伊野のほうを直視できずに海崎は逃げるように足早に先を歩く。
なんなんださっきのは。
肌綺麗とか、急に顔を触ってくるとかおかしくないか。あんなことをする伊野は無自覚なんだろうか。
「海崎っ!」
突然、ぐいっと腕を引っ張られた。せっかく伊野から逃げたのに、伊野の力強い手で引き戻されて、海崎は背中を伊野の胸板に打ちつけた。
海崎が寄りかかってもびくともしない。制服の白シャツの上からでも、伊野の身体の逞しさがわかる。細身の海崎なんて、いとも簡単に抱き止めてしまった。
「信号赤だから。何やってんだよ、危ないだろ」
「あ、ごめん……」
伊野の言うとおり、目の前の歩行者信号は赤だ。伊野は海崎の不注意に気がついて、歩道に引っ張り戻してくれたのだ。
「やっぱり危なっかしいよ、お前」
「ほんとごめん。ぼんやりしてた」
まさか伊野に顔を触られて、脳内パニックを起こしていたとは恥ずかしくて言えない。
「アハ、アハハッ。マジかよ。今、ここでぼんやりっ?」
伊野が爆笑し始めた。
「海崎可愛い。可愛すぎるって。小学生の弟でもぼんやりして赤信号は渡らねぇよ」
「そ、そうだよね……」
海崎はそっと伊野から身体を離す。伊野に抱き止められたままでは落ち着かない。
伊野には弟が三人もいる。だからスキンシップが多いのだろう。さっきのだって、海崎のことをまるで弟のように思ってしたことなんじゃないだろうか。
でもずっとひとりぼっちだった海崎にとって、伊野の距離感は近すぎる。恥ずかしいような、特別なもののような、なんとも言えない妙な気持ちになる。
「ほら。青になった。行こうぜ、本屋に」
「わ!」
伊野は海崎の手首を掴んで歩き出す。手は繋いでいない。繋いではいないけど、ちょっと待ってほしい。こんなふうに手を繋ぐようなことをするのも海崎は初めてで、心の準備が整っていない。
「伊野ぉ……」
伊野のスキンシップに耐えられなくなった海崎が情けない声を出したのに、伊野は「え? どした?」となんとも思っていないようだった。
今日はまっすぐ寮に帰らずに、寄り道をすると朝から決めていた。
寮の最寄り駅まで着いたあと、改札を出てからいつもは左に行くのだが、今日は右に行く。
東京から移り住んできたばかりでこの街のことはさっぱりわからない。だから街を見て回りたかったのだ。
駅前には東京でも見かけた飲食チェーン店がある。その看板を見ると妙に懐かしい気持ちになった。
今日の目標は本屋だ。そこで文房具を買い、いつもと違う道を歩いて寮に帰る。海崎にとっては少しの冒険だ。
雑居ビルが立ち並ぶ大きな通りを歩いていく。東京よりもビルの高さが低いからか、見上げると空が大きく感じる。
やがて交差点の前にあるショッピングモールの広間に出た。その一角に、派手な柄のストリートピアノが置いてあり、母親に連れられた幼い女の子が聴き覚えのある練習曲をたどたどしく弾いていた。
東京の実家にはピアノがあったが、寮にはない。久しぶりに弾いてみたくなり、海崎はおもむろにピアノに近づいていく。
女の子がいなくなったあと、背負っていた黒リュックをピアノの端に下ろす。
椅子に座り、ピアノの白鍵に触れる。ピアノに触れるのは三週間ぶりだ。久しぶりの鍵盤の感触を懐かしく思う。
ゆっくり息を吐いて、指を動かす。弾くのは、海崎の好きなカプースチンの曲だ。
八つの演奏会用エチュードの六曲目パストラール。クラシックとジャズの融合みたいなリズミカルで軽快なテンポの曲だ。
跳ねるような高音を弾いていると心も明るくなる。
息つく暇もない忙しないタッチを夢中になって追いかけていく。何もかもを忘れて没頭するこの感覚が好きだ。
曲を弾き終えたあと、椅子から立ち上がり、リュックを手にしたとき、パチパチと拍手が聞こえた。
振り返ると、通りかかった人が立ち止まって海崎の演奏を聴いてくれていたらしいことに気がついた。
しかもひとりじゃない。数名の人が聴いてくれていたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
ペコペコ頭を下げて、リュックを背負う。独学で弾いているだけだから、ピアノの発表会のようなものにも参加したことがない。誰かに演奏を聴いてもらうのは、初めてのことだった。
海崎は人から評価されることに慣れていない。注目されるのが恥ずかしくなってきて、もう一度ありがとうの意味を込めて頭を下げたあと、その場から逃げ出した。
「海崎!」
大通りの先を進もうとしたとき、耳触りのいい声で名前を呼ばれた。この声は聞き覚えがある。振り返ると伊野が息を切らして駆けてくるところだった。
「さっきの演奏、すごいな。聴いててびっくりしたよ」
「えっ、聴いてたのっ?」
まさか伊野が聴いているとは思いもしなかった。というより、自分の演奏など誰の耳にも届かないと思って弾いていた。
「カプースチンのパストラールだろ? 俺の好きな曲だ」
「あの曲知ってるのっ?」
正直、驚いた。海崎は好きだが、クラシックに興味がないと聴くことのない曲じゃないかと思っていたから。
「うちのピアノ教室に来てた生徒が弾いてたよ。あ、俺は無理ね。あんな高難度曲は弾けない」
「あぁ、そっか。伊野んちのお母さんもピアノの先生だったね」
伊野は実家がピアノ教室だと言っていた。その暮らしの中で自然といろんな曲に触れてきたのだろう。
「海崎、あれ独学?」
「うん。そうだよ。母さんに習ったのは本当に小さいときだけ」
海崎は頷く。ピアノは誰に教わることもなく、誰に聴かせることもなく、いつもひとりきりで弾いていた。
「お前、まさかのピアノガチ勢じゃん。マジ聴き惚れた。弾いてるときなんか、別人みたいだし……あの、かっこよかったよ」
「えっ、そっ、そんなことないよ……」
海崎にとっては本当に趣味の範囲なのだ。だから自分が上手いとも下手とも考えたことがなかった。それなのに伊野に褒められ、なんだかこそばゆくなる。
「海崎、指長いもんな」
伊野がサッと海崎の手を取り、指を眺める。伊野はなんでもない様子だが、手を握られた海崎はダメだ。伊野に触れられて心拍数が爆上がりする。
「い、伊野は、なんでここにいるんだよ」
手を握られるのが恥ずかしくて、海崎はサッと手を引っ込め話題を変えた。
「だって、海崎が駅降りたあと、寮じゃなくてどっか違う方向に歩いて行くからさ、気になって……」
「寄りたいところがあったんだよ」
「なんだよ、そっか。ビビるわー。海崎ふわふわしてて危なっかしいしさ、どこ行っちゃうんだろうとめっちゃ不安になってさ」
「大丈夫だよ。そんなに頼りない?」
伊野は実は過保護なタイプなのだろうか。どこへ行っても道に迷ったら地図アプリだってあるし、どうとでもなるだろうに。
「ああ。心配だ。お前をひとりにしておけない。俺もついていく」
「大丈夫だって」
「嫌だ。一緒に行く。変な奴に絡まれたらどーすんだよ」
「はぁっ?」
なんだその心配は、と海崎は呆れる。可愛いJKならわかるが、男の海崎はそこまで弱くない。
「とにかく! 俺ならこの辺りはめっちゃ詳しいから。ほら、行くぞ!」
「……わかったよ」
伊野は海崎についてくるつもりのようだ。でも嫌ではない。ひとりきりの散策のつもりが、急遽、相棒ができた。
海崎は伊野と並んで歩く。
「で? どこ行きたいの?」
「本屋。こっちにもシュンク堂があるって知って、行ってみたかったんだ」
「なんだ。すぐそこじゃん。こっちだ」
伊野は一歩先を歩き、本屋の方角を指さしながら笑顔で海崎を振り返った。
日に焼けた健康的な顔で、伊野は爽やかに笑う。
不思議だ。ひとりだと心細かったのに、伊野がいるだけで気持ちが急に軽くなる。
伊野の明るい性格が周りをそうさせるのだろうか。伊野と一緒にいると、誰でもこんな気持ちになるものなのだろうか。
「海崎。本屋のあと、いいとこに連れてってやる」
伊野は海崎に得意げに話しかけてきた。
「いいところ?」
「そう。かき氷屋。店の雰囲気も可愛いし、めっちゃうまいんだよ」
「あ、この前教室で女子と話してた店?」
「違う。俺の好きな店。まだひとりにしか教えたことない。海崎、お前でふたり目だ」
「伊野の好きな店か……」
伊野が人にほとんど教えない、大切にしている店なのかもしれない。食べてみたいな、と思う。季節は春だけど今日は日差しが強い日だ。冷たいかき氷はとてもおいしそうだ。
「そのあともっといいところを案内するよ。いい演奏聴かせてもらったから」
「えっ! あんなの……」
まさかさっきの演奏のことをここにきて掘り返されるとは思わなくて、海崎は焦る。
「楽しみにしてろよ、俺のとっておき」
「どこ?」
「内緒」
子どもみたいに笑う伊野に、海崎は「もったいぶるなよ」と声を出して笑う。
きっと伊野につられたのだと思う。明るい伊野のノリに乗せられて、なんだか自分まで陽キャになった気分になる。
「海崎って実はよく笑うんだな」
伊野は急に真面目な顔になり、海崎の顔を覗き込んでくる。
「えっ……」
海崎も伊野を思わず見返した。伊野と至近距離で目が合う。
そんなことを人から言われるのは初めてだった。
よく笑うのは伊野といるからだ。伊野といると自然と笑顔になれる自分がいることに気がついた。
「海崎はもっと愛想のない奴かと思った」
「なんで……?」
「見た目がさ、都会のいいところの子って雰囲気だったんだよ。こんな綺麗な顔して、肌も白いしさ」
伊野が手を伸ばしてきて、突然、頬に触れてきた。伊野の指の感触が、海崎の素肌を滑り落ちていく。
「なっ……!」
海崎は驚いて目を見開いた。親しい友人がいなかった海崎は、あまり人に顔を触れられたことがない。
「東京の人ってみんなこんなに肌綺麗なの?」
「き、綺麗なわけないだろっ!」
海崎は慌てて伊野から離れる。なぜかわからないが、伊野のほうを直視できずに海崎は逃げるように足早に先を歩く。
なんなんださっきのは。
肌綺麗とか、急に顔を触ってくるとかおかしくないか。あんなことをする伊野は無自覚なんだろうか。
「海崎っ!」
突然、ぐいっと腕を引っ張られた。せっかく伊野から逃げたのに、伊野の力強い手で引き戻されて、海崎は背中を伊野の胸板に打ちつけた。
海崎が寄りかかってもびくともしない。制服の白シャツの上からでも、伊野の身体の逞しさがわかる。細身の海崎なんて、いとも簡単に抱き止めてしまった。
「信号赤だから。何やってんだよ、危ないだろ」
「あ、ごめん……」
伊野の言うとおり、目の前の歩行者信号は赤だ。伊野は海崎の不注意に気がついて、歩道に引っ張り戻してくれたのだ。
「やっぱり危なっかしいよ、お前」
「ほんとごめん。ぼんやりしてた」
まさか伊野に顔を触られて、脳内パニックを起こしていたとは恥ずかしくて言えない。
「アハ、アハハッ。マジかよ。今、ここでぼんやりっ?」
伊野が爆笑し始めた。
「海崎可愛い。可愛すぎるって。小学生の弟でもぼんやりして赤信号は渡らねぇよ」
「そ、そうだよね……」
海崎はそっと伊野から身体を離す。伊野に抱き止められたままでは落ち着かない。
伊野には弟が三人もいる。だからスキンシップが多いのだろう。さっきのだって、海崎のことをまるで弟のように思ってしたことなんじゃないだろうか。
でもずっとひとりぼっちだった海崎にとって、伊野の距離感は近すぎる。恥ずかしいような、特別なもののような、なんとも言えない妙な気持ちになる。
「ほら。青になった。行こうぜ、本屋に」
「わ!」
伊野は海崎の手首を掴んで歩き出す。手は繋いでいない。繋いではいないけど、ちょっと待ってほしい。こんなふうに手を繋ぐようなことをするのも海崎は初めてで、心の準備が整っていない。
「伊野ぉ……」
伊野のスキンシップに耐えられなくなった海崎が情けない声を出したのに、伊野は「え? どした?」となんとも思っていないようだった。