ここに来てから残りの春休みは終わり、新学期が始まった。学校生活も寮生活もそこそこ慣れてきた。
だが同室の伊野との仲は相変わらずで、海崎も気を遣って、伊野が部屋にいるときはなるべく部屋にいないようにしている。
それでも勉強机を使いたいときや、夜は部屋に行かなければならない。そこは仕方がないので、なるべく伊野の機嫌を損ねないように静かに過ごしていた。
海崎が、机に向かって宿題を片付けていたときだった。
同じく机で勉強をしていた伊野の、小さな歌声が聴こえてきたのだ。
それが、とてつもなくいい。
この曲はよく知っている。海崎が一時期、鬼リピして聴いていたボカロPの曲だ。音程とリズムが難しいボーカロイド用の曲を綺麗に歌いこなしている。伸びやかな声の透明感、耳触りのいい音質。鼻歌でこのレベルだ。もし伊野が本気で歌ったら……。
海崎は思わずガタッと椅子から立ち上がり、伊野のほうに引き寄せられるように近づいていく。
気配に気がついたのか、伊野がキャスター付きの椅子を回して振り返った。
「あぁ、悪い。うるさかった?」
「ううん。うるさくない。すごくよかった」
海崎は真面目な顔で言ったのに、「よかったっ?」と素っ頓狂な返事が返ってきた。
「何が……。ぶはっ」
伊野は笑いをこらえきれないといった様子で吹き出した。なぜ笑われたのか海崎にはわからない。
「だって、よかったんだ。びっくりするくらいによかった」
「ただの鼻歌だぜ? それを、そんな真面目に……」
伊野はまだ笑っている。
「伊野はすごくいい声をしてるよ。よく人から言われない?」
そういえば伊野は話す声もいい声だ。発音もはっきりしていて、どこか優しくて、少しあどけない。とても好感がもてる声だ。
「言われたことねぇよ。割と普通だもん」
「自覚がないだけだ。めっちゃいいよ! 音程もバッチリだし、ブレスのタイミングが神がかってるし、すごくいい!」
たくさんの音楽を聴いてきたし、耳は悪くないと思う。東京にいたときは楽器も演奏していた。ほんの少しでも音楽に携わってきたという小さなプライドだってある。勘違いなんかじゃない。
「は……?」
笑っていたのに、伊野の動きが止まった。海崎の言葉は冗談ではないと少しは伝わったのかもしれない。
「なんか恥ず……」
伊野が視線を逸らした。うつむき加減でも、耳まで赤くなっているのがわかる。照れている伊野を見て、やっと気がついた。
やばい。これはやらかした。
完全に言い過ぎだ。
「ご、ごめん……」
海崎は伊野から目を逸らす。なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。音楽のことになると、キモいくらいに熱くなってしまうのは海崎の悪い癖だ。
「い、いいよ別に」
ふたりのあいだに急に変な空気が流れ出して、海崎は早々に後悔する。多分これは距離感を間違えたってことだ。
仲良くもないのに、いきなりぐいぐい来られたら、気持ち悪がられるに決まっている。こうやって失敗してきたのに、また同じ間違いをする。
どうして懲りないんだろう。人と仲良くしたいのに、いつもうまくいかない。
「アハハッ! 海崎って変な奴だな」
伊野は突然、豪快に笑いだした。強い風が吹いたみたいに淀んだ雰囲気が一気に吹き飛んだ。
伊野は椅子に座ったまま、海崎の足を軽く蹴っ飛ばしてきた。
「痛って!」
海崎が痛がると、伊野はその反応を見て笑う。
伊野に蹴られた足は本当は全然痛くなんてない。これはちょっかいを出してくれる、伊野の優しさだ。
「でも、歌は好きだ」
伊野は微笑みかけてきた。その屈託のない笑顔を向けられてハッとする。
こんなふうに返されたのは初めてだ。
伊野は、急に暑苦しく音楽を語ってきた海崎のことを否定しなかった。
「俺の母さんさ、ピアノの先生やってんだ。それで、兄弟みんななぜか歌が好きでさ」
「俺も。俺のお母さんもそうだよ、ピアノの先生だった。俺が六歳のときに、死んじゃったけど」
それから伊野と椅子を寄せ合い、身の上を話した。
海崎が五歳のとき、母親は闘病生活となった。
当時、ホテルのマネジャー業務の仕事をしていた父親は多忙だった。そんな中、家事に育児、母親の励ましと看病に明け暮れる父親は、倒れそうなくらいの生活を送っていた。
一年間の闘病生活ののち、母親はこの世を去った。葬式のときに、男手ひとつでは子どもは育てられないだろうと、海崎を親戚の家で預かる案が出たが、父親は「晴真は俺の子です。俺が立派に育ててみせます」と断固拒絶した。
「父さん、すごいだろ? 俺はすごく嬉しかった。母さんだけじゃなく、父さんまでいなくなるんじゃないかって怖かったから」
「うん。いいお父さんだな」
伊野はこんな暗い話を、相槌を打ちながら静かに聞いてくれている。
父親はその後、相変わらずの多忙を極めた。
親戚に「俺が育てる」と啖呵を切ってしまった父親には頼る先がなかった。できると言った以上、意地のようなものがあったのだろう。だが、ひとりだけで仕事も育児も家事もこなすには限界がある。息子である海崎も窮屈な生活を強いられた。
「父さんは事あるごとに俺に『ごめんな』って謝るんだ。俺はそれがすごく嫌で。俺はいつも『大丈夫だよ』って言うんだけどさ」
海崎は文句ひとつ言わなかった。
学校帰りに転んでも、自分で手当てをした。学校で具合が悪くなっても、父親が職場から呼び出されないように黙って耐えた。ひとりきりの時間がどんなにさみしくても、父親の負担にならないように我慢した。そんな苦労話までは伊野には黙っているけれども。
「ひとりきりでいるとき、家の中が静かだと怖くて。だからピアノを弾いてわざと音を立ててた」
家にアップライトピアノが形見のように残されていたのだ。母親に習ったのは僅か二年間。そのあとは独学で弾いていた。音が鳴っていると、メロディーラインを奏でていると、さみしさを忘れることができた。
「そっか……。海崎、実は頑張り屋じゃん」
伊野は労うように海崎の肩をぽんと叩いた。そういえば、こんなに自分のことを人に明け透けに話したのは初めてかもしれない。伊野が聞いてくれるから、なんとなく話せてしまった。
「うちと全然違うんだな。俺は男四人兄弟の長男だから。じいちゃんたちも隣に住んでるし、すげぇうるさいの。マジでひとりになったことなんてないな」
「男四人っ?」
「うん。中三の弟と、小学生がふたり。部屋が足りないから俺は寮に入ったようなもんだよ」
きっとそんな理由でこの高校に入学したはずはないのに、伊野は冗談っぽく笑う。
「これ、弟たち」
伊野はスマホを手にして写真をみせてくれた。伊野のミニサイズみたいな弟たちが、いい笑顔で写っている。
「伊野に似てるな」
「似てねぇよ!」
「似てるよ。ほら、鼻の形とか、唇も……」
海崎は伊野の顔と写真の中の弟たちとをじっくり見比べる。やっぱり似ている。伊野家は美形兄弟だ。
「目の下の涙袋の感じも一緒だよ」
「海崎、近いって。なんか、変な気持ちになる……」
兄弟おんなじところ探しに夢中になって、伊野の顔をじっと覗き込んでいたら怒られた。
「あっ、ごめんっ」
海崎は我に返り、サッと目をそらし距離を取る。いくらなんでも馴れ馴れしすぎた。顔をジロジロ見られたら嫌に決まっている。
「あ、やば! そろそろ寝ようぜ」
伊野がスマホの時計を見て声を上げる。すっかり話し込んでしまい、気がつけば深夜一時を過ぎている。
「本当だ、やばい」
海崎も頷き、伊野とふたり、慌てて寝る準備を整える。
電気を消して、各々ベッドに入ろうとしたとき、伊野がハシゴを上る手を止めた。
「……あのさ海崎」
「ん?」
海崎は振り返るが、暗くてあまり伊野の表情は見えない。
「転校生なんて来なきゃよかったのに、なんて言ってごめん」
「あ……」
それはきっと、初めて伊野と会ったときのことだ。あれから二週間が過ぎたのに、未だに伊野は覚えていたのだ。
「いいよ、気にしてない」
丁寧に言うならば、言われてショックだったけど、こうして伊野が謝ってくれたから気にならなくなった、という意味だ。
「あんなこと言ったから、海崎に避けられたと思ってた」
「伊野だって、俺がよろしくって言ってもすごい無愛想でさ……」
忘れもしない。初対面のとき、伊野に「よろしく」と言ったのに塩対応されたのはショックだった。
「あれは、あんなこと言われたあとで、よく果敢に話しかけてくるなってびっくりしたんだよ。ひっどい作り笑いだったし」
「え、そんなひどかった?」
海崎渾身の笑顔は偽物だと、伊野にあっさり見抜かれていたらしい。無理してることがバレていたなんて、そっちのほうが余計に恥ずかしい。
「ひどかった。笑いそうになった」
「えっ? 笑いそうになったっ?」
あのとき、伊野に嫌われても仲良くしたいと、海崎はめちゃくちゃ頑張って笑顔を作った。その姿を見て笑いそうになったとは、よく言ったものだ。
「俺は伊野のこと避けてなんかないよ。……ただ、ちょっと、気まずくて」
海崎は視線を落とす。
そう言われて思い返してみると、がっつり避けていたなと思った。伊野が部屋に戻ったら、そそくさといなくなるようにしていたし、ろくに会話もしなかった。でもそれは伊野を思いやっての行動だったのに。
「正直、こたえてたんだ。海崎に嫌われたって」
伊野は寄りかかるようにして、海崎を抱きしめてきた。
ふわっと伊野のTシャツからいい匂いがする。伊野のほのかな温もりを感じる。
突然、伊野に抱きしめられて、海崎はどうしたらいいのかわからず動けない。
なぜだろう。海崎の顔が急激に熱を持つ。耳の先まで熱くてたまらない。
「はぁ。よかった」
伊野の安堵のため息が、海崎の首元をくすぐる。
伊野がそんなふうに思っているとは思いもしなかった。
どうせ伊野に嫌われていると、関係を構築する前から逃げていたのは海崎だったのだ。
「おやすみ」
伊野は海崎から身体を離し、二段ベッドのハシゴを慣れた動作で上っていく。
「お、おやすみ」
海崎も自分のベッドに潜り込んだが、伊野に抱きしめられた余韻で頭がいっぱいだ。
妙に心臓が高鳴る。熱があるときみたいに頭がぼうっとする。
海崎は人から抱きしめられることに耐性がない。
父親はスキンシップをするようなタイプではなかったし、友人関係もいつもあっさりしていた。あんまり人と触れ合うことがなかったから、きっとこんな気持ちになるのだろう。
部屋が暗くてよかった。あれくらいで顔を真っ赤にしていることがバレたら、伊野に笑われるに決まっている。最悪、キモい奴って思われるかもしれない。
海崎は目を閉じ、眠ろうとするのに、さっきまでの高揚した気持ちのせいで頭が冴えてしまっている。
伊野に抱きしめられてドキドキしたけど、嫌じゃなかった。
どういうつもりで伊野があんなことをしたのかわからないが、誰だって嫌いな奴を抱きしめたりはしないはずだ。
このまま伊野とうまくやっていけるかもしれない。深海に届く僅かな光のようなものを感じて、海崎はぎゅっと布団を抱きしめた。
だが同室の伊野との仲は相変わらずで、海崎も気を遣って、伊野が部屋にいるときはなるべく部屋にいないようにしている。
それでも勉強机を使いたいときや、夜は部屋に行かなければならない。そこは仕方がないので、なるべく伊野の機嫌を損ねないように静かに過ごしていた。
海崎が、机に向かって宿題を片付けていたときだった。
同じく机で勉強をしていた伊野の、小さな歌声が聴こえてきたのだ。
それが、とてつもなくいい。
この曲はよく知っている。海崎が一時期、鬼リピして聴いていたボカロPの曲だ。音程とリズムが難しいボーカロイド用の曲を綺麗に歌いこなしている。伸びやかな声の透明感、耳触りのいい音質。鼻歌でこのレベルだ。もし伊野が本気で歌ったら……。
海崎は思わずガタッと椅子から立ち上がり、伊野のほうに引き寄せられるように近づいていく。
気配に気がついたのか、伊野がキャスター付きの椅子を回して振り返った。
「あぁ、悪い。うるさかった?」
「ううん。うるさくない。すごくよかった」
海崎は真面目な顔で言ったのに、「よかったっ?」と素っ頓狂な返事が返ってきた。
「何が……。ぶはっ」
伊野は笑いをこらえきれないといった様子で吹き出した。なぜ笑われたのか海崎にはわからない。
「だって、よかったんだ。びっくりするくらいによかった」
「ただの鼻歌だぜ? それを、そんな真面目に……」
伊野はまだ笑っている。
「伊野はすごくいい声をしてるよ。よく人から言われない?」
そういえば伊野は話す声もいい声だ。発音もはっきりしていて、どこか優しくて、少しあどけない。とても好感がもてる声だ。
「言われたことねぇよ。割と普通だもん」
「自覚がないだけだ。めっちゃいいよ! 音程もバッチリだし、ブレスのタイミングが神がかってるし、すごくいい!」
たくさんの音楽を聴いてきたし、耳は悪くないと思う。東京にいたときは楽器も演奏していた。ほんの少しでも音楽に携わってきたという小さなプライドだってある。勘違いなんかじゃない。
「は……?」
笑っていたのに、伊野の動きが止まった。海崎の言葉は冗談ではないと少しは伝わったのかもしれない。
「なんか恥ず……」
伊野が視線を逸らした。うつむき加減でも、耳まで赤くなっているのがわかる。照れている伊野を見て、やっと気がついた。
やばい。これはやらかした。
完全に言い過ぎだ。
「ご、ごめん……」
海崎は伊野から目を逸らす。なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。音楽のことになると、キモいくらいに熱くなってしまうのは海崎の悪い癖だ。
「い、いいよ別に」
ふたりのあいだに急に変な空気が流れ出して、海崎は早々に後悔する。多分これは距離感を間違えたってことだ。
仲良くもないのに、いきなりぐいぐい来られたら、気持ち悪がられるに決まっている。こうやって失敗してきたのに、また同じ間違いをする。
どうして懲りないんだろう。人と仲良くしたいのに、いつもうまくいかない。
「アハハッ! 海崎って変な奴だな」
伊野は突然、豪快に笑いだした。強い風が吹いたみたいに淀んだ雰囲気が一気に吹き飛んだ。
伊野は椅子に座ったまま、海崎の足を軽く蹴っ飛ばしてきた。
「痛って!」
海崎が痛がると、伊野はその反応を見て笑う。
伊野に蹴られた足は本当は全然痛くなんてない。これはちょっかいを出してくれる、伊野の優しさだ。
「でも、歌は好きだ」
伊野は微笑みかけてきた。その屈託のない笑顔を向けられてハッとする。
こんなふうに返されたのは初めてだ。
伊野は、急に暑苦しく音楽を語ってきた海崎のことを否定しなかった。
「俺の母さんさ、ピアノの先生やってんだ。それで、兄弟みんななぜか歌が好きでさ」
「俺も。俺のお母さんもそうだよ、ピアノの先生だった。俺が六歳のときに、死んじゃったけど」
それから伊野と椅子を寄せ合い、身の上を話した。
海崎が五歳のとき、母親は闘病生活となった。
当時、ホテルのマネジャー業務の仕事をしていた父親は多忙だった。そんな中、家事に育児、母親の励ましと看病に明け暮れる父親は、倒れそうなくらいの生活を送っていた。
一年間の闘病生活ののち、母親はこの世を去った。葬式のときに、男手ひとつでは子どもは育てられないだろうと、海崎を親戚の家で預かる案が出たが、父親は「晴真は俺の子です。俺が立派に育ててみせます」と断固拒絶した。
「父さん、すごいだろ? 俺はすごく嬉しかった。母さんだけじゃなく、父さんまでいなくなるんじゃないかって怖かったから」
「うん。いいお父さんだな」
伊野はこんな暗い話を、相槌を打ちながら静かに聞いてくれている。
父親はその後、相変わらずの多忙を極めた。
親戚に「俺が育てる」と啖呵を切ってしまった父親には頼る先がなかった。できると言った以上、意地のようなものがあったのだろう。だが、ひとりだけで仕事も育児も家事もこなすには限界がある。息子である海崎も窮屈な生活を強いられた。
「父さんは事あるごとに俺に『ごめんな』って謝るんだ。俺はそれがすごく嫌で。俺はいつも『大丈夫だよ』って言うんだけどさ」
海崎は文句ひとつ言わなかった。
学校帰りに転んでも、自分で手当てをした。学校で具合が悪くなっても、父親が職場から呼び出されないように黙って耐えた。ひとりきりの時間がどんなにさみしくても、父親の負担にならないように我慢した。そんな苦労話までは伊野には黙っているけれども。
「ひとりきりでいるとき、家の中が静かだと怖くて。だからピアノを弾いてわざと音を立ててた」
家にアップライトピアノが形見のように残されていたのだ。母親に習ったのは僅か二年間。そのあとは独学で弾いていた。音が鳴っていると、メロディーラインを奏でていると、さみしさを忘れることができた。
「そっか……。海崎、実は頑張り屋じゃん」
伊野は労うように海崎の肩をぽんと叩いた。そういえば、こんなに自分のことを人に明け透けに話したのは初めてかもしれない。伊野が聞いてくれるから、なんとなく話せてしまった。
「うちと全然違うんだな。俺は男四人兄弟の長男だから。じいちゃんたちも隣に住んでるし、すげぇうるさいの。マジでひとりになったことなんてないな」
「男四人っ?」
「うん。中三の弟と、小学生がふたり。部屋が足りないから俺は寮に入ったようなもんだよ」
きっとそんな理由でこの高校に入学したはずはないのに、伊野は冗談っぽく笑う。
「これ、弟たち」
伊野はスマホを手にして写真をみせてくれた。伊野のミニサイズみたいな弟たちが、いい笑顔で写っている。
「伊野に似てるな」
「似てねぇよ!」
「似てるよ。ほら、鼻の形とか、唇も……」
海崎は伊野の顔と写真の中の弟たちとをじっくり見比べる。やっぱり似ている。伊野家は美形兄弟だ。
「目の下の涙袋の感じも一緒だよ」
「海崎、近いって。なんか、変な気持ちになる……」
兄弟おんなじところ探しに夢中になって、伊野の顔をじっと覗き込んでいたら怒られた。
「あっ、ごめんっ」
海崎は我に返り、サッと目をそらし距離を取る。いくらなんでも馴れ馴れしすぎた。顔をジロジロ見られたら嫌に決まっている。
「あ、やば! そろそろ寝ようぜ」
伊野がスマホの時計を見て声を上げる。すっかり話し込んでしまい、気がつけば深夜一時を過ぎている。
「本当だ、やばい」
海崎も頷き、伊野とふたり、慌てて寝る準備を整える。
電気を消して、各々ベッドに入ろうとしたとき、伊野がハシゴを上る手を止めた。
「……あのさ海崎」
「ん?」
海崎は振り返るが、暗くてあまり伊野の表情は見えない。
「転校生なんて来なきゃよかったのに、なんて言ってごめん」
「あ……」
それはきっと、初めて伊野と会ったときのことだ。あれから二週間が過ぎたのに、未だに伊野は覚えていたのだ。
「いいよ、気にしてない」
丁寧に言うならば、言われてショックだったけど、こうして伊野が謝ってくれたから気にならなくなった、という意味だ。
「あんなこと言ったから、海崎に避けられたと思ってた」
「伊野だって、俺がよろしくって言ってもすごい無愛想でさ……」
忘れもしない。初対面のとき、伊野に「よろしく」と言ったのに塩対応されたのはショックだった。
「あれは、あんなこと言われたあとで、よく果敢に話しかけてくるなってびっくりしたんだよ。ひっどい作り笑いだったし」
「え、そんなひどかった?」
海崎渾身の笑顔は偽物だと、伊野にあっさり見抜かれていたらしい。無理してることがバレていたなんて、そっちのほうが余計に恥ずかしい。
「ひどかった。笑いそうになった」
「えっ? 笑いそうになったっ?」
あのとき、伊野に嫌われても仲良くしたいと、海崎はめちゃくちゃ頑張って笑顔を作った。その姿を見て笑いそうになったとは、よく言ったものだ。
「俺は伊野のこと避けてなんかないよ。……ただ、ちょっと、気まずくて」
海崎は視線を落とす。
そう言われて思い返してみると、がっつり避けていたなと思った。伊野が部屋に戻ったら、そそくさといなくなるようにしていたし、ろくに会話もしなかった。でもそれは伊野を思いやっての行動だったのに。
「正直、こたえてたんだ。海崎に嫌われたって」
伊野は寄りかかるようにして、海崎を抱きしめてきた。
ふわっと伊野のTシャツからいい匂いがする。伊野のほのかな温もりを感じる。
突然、伊野に抱きしめられて、海崎はどうしたらいいのかわからず動けない。
なぜだろう。海崎の顔が急激に熱を持つ。耳の先まで熱くてたまらない。
「はぁ。よかった」
伊野の安堵のため息が、海崎の首元をくすぐる。
伊野がそんなふうに思っているとは思いもしなかった。
どうせ伊野に嫌われていると、関係を構築する前から逃げていたのは海崎だったのだ。
「おやすみ」
伊野は海崎から身体を離し、二段ベッドのハシゴを慣れた動作で上っていく。
「お、おやすみ」
海崎も自分のベッドに潜り込んだが、伊野に抱きしめられた余韻で頭がいっぱいだ。
妙に心臓が高鳴る。熱があるときみたいに頭がぼうっとする。
海崎は人から抱きしめられることに耐性がない。
父親はスキンシップをするようなタイプではなかったし、友人関係もいつもあっさりしていた。あんまり人と触れ合うことがなかったから、きっとこんな気持ちになるのだろう。
部屋が暗くてよかった。あれくらいで顔を真っ赤にしていることがバレたら、伊野に笑われるに決まっている。最悪、キモい奴って思われるかもしれない。
海崎は目を閉じ、眠ろうとするのに、さっきまでの高揚した気持ちのせいで頭が冴えてしまっている。
伊野に抱きしめられてドキドキしたけど、嫌じゃなかった。
どういうつもりで伊野があんなことをしたのかわからないが、誰だって嫌いな奴を抱きしめたりはしないはずだ。
このまま伊野とうまくやっていけるかもしれない。深海に届く僅かな光のようなものを感じて、海崎はぎゅっと布団を抱きしめた。