その日の夜、海崎がシャワーを浴びて部屋に戻ると、「おかえり」と伊野が返事をしてくれた。
 伊野は海崎のベッドに転がりながらスマホをいじっている。
 最近の伊野は海崎に遠慮がなくなったのか、二段ベッドの上に行くのを面倒くさがり、下の海崎のベッドで寝転ぶことが増えた。
 まぁ、海崎としては全然嫌じゃないから、それについては伊野に何も言わない。
 不意に机に置いていたスマホが鳴って、海崎は肩にかけたバスタオルで髪を拭きながら、スマホを手に取る。それは父親からの着信だった。
「もしもし父さん?」
『晴真。さっきお前からのメッセージを見たんだがな』
「ああ。見てくれた?」
 実はさっき、海崎は父親にメッセージを送ったのだ。今日、伊野と友人が話していた会話を聞いて違和感を覚えたからだ。
『俺、お前の転校の手続きを忘れた!』
「えっ? 転校手続き忘れたっ?」
 驚きすぎて素っ頓狂な声を上げてしまった。
 ということは、これからどうなる……?
『今から出しても、来月からの転校は無理だ! 晴真、もう少しだけ待ってくれ』
「待ってくれって……転校するのを……?」
 異常事態に気がついて、伊野がベッドから飛び起きて海崎のそばにきて「どういうこと?」と訊ねてきた。
「じゃあ、寮のほうもなんにも手続きしてないの?」
『してない。だから、満室で伊野くんのお友達が入れなかったんだろう』
 実は海崎は、寮が満室だったと聞き、おかしいなと思ったのだ。予定では海崎が退寮するのだから、来月空きが出るはずなのにどうして長嶺は自宅から通うことになったのだろうと、さっき頭に疑問符が浮かんだのだ。
「どうしよう、伊野。父さんがなんにも手続きしてないって……うわぁっ!」
 伊野が突然、海崎のことを抱きしめてきた。勢いがよすぎて危うくスマホを落としそうになったが、なんとか持ちこたえた。
「海崎。行くな。転校するのをやめろ」
 伊野は海崎の耳元で小声で囁く。
 でも、気がついたら海崎が転校しなくてはいけない理由がなくなってしまったかもしれない。
 長嶺は帰ってくるし、寮がなくても長嶺は自宅から高校に通える距離に住んでいるらしいと、今日知った。
「卒業までここにいろ。頼む。離れ離れになりたくない……」
 伊野は海崎を抱きしめながら、必死で訴えてくる。
 でも、海崎も伊野と同じ気持ちだ。
 伊野と離れたくない。
「……父さん。手続きはしなくていい。俺、このままこっちに残るよ」
 海崎がそう言い切ると、伊野がさらにぎゅっと抱きしめてきた。
『晴真、いいのか?』
「うん。決めた。東京には戻らない。卒業までここにいさせてもらうことってできるかな?」
『もちろん。晴真の人生だから、晴真の好きにしなさい』
「ありがとう、父さん」
『誰のために俺がいると思ってるんだ? 俺は晴真が幸せになってくれることだけを考えて、日々過ごしてるんだ』
「そんなことないでしょ」
 父親は大袈裟だ。でも昔から父親は、海崎の一番の理解者で、いつも優しく見守ってくれていた。
 転校の手続きを忘れたのだって……それはさすがに考えすぎかもしれない。
『晴真。また近々、寮に会いに行くよ』
「うん」
『何かあれば遠慮なく俺に話せよ』
「うん。わかった、そうするよ」
『じゃあな』
「またね」
 海崎は通話を終了させた。通話が終了したことを知らせる音が聞こえた途端、伊野が「海崎!」と叫んで思い切り両肩を揺らしてきた。
「今の話って、まさか……」
「父さんが、転校と退寮の手続きを忘れたらしくて、俺、来月になってもここから出て行けない……。それどころか、ここに残るって父さんに言っちゃった」
 来月転校すると告げたのは、今のところ伊野の他、上原と中村だ。ちょっと恥ずかしいが、今度会ったときに転校するのをやめたことを話しておこう。
「最高すぎる! お前の父さんグッジョブ! じゃあ、このまま海崎と一緒にここでいられるの?」
「うん。伊野、あと一年半、よろしくお願いします」
「やばい。涙が出るくらい嬉しい……」
 伊野は目尻を手で拭う。冗談じゃなくて本気で泣いてるみたいだ。
「海崎、これからも俺と楽しいこと、いっぱいしような」
「うん」
「まずは何からかな……」
 伊野はしばし考えたのち、「添い寝からかな」と言い出した。
「添い寝っ?」
「俺、今日は下のベッドで寝てもいい?」
「じゃ、じゃあ俺は上のベッドで寝ようかな……」
「ダメだろ、それじゃ意味ない」
 伊野がぐいぐい迫ってくるから、海崎はズルズルと後ずさる。でも狭い部屋ではあっという間にベッドの柱まで追い詰められてしまう。
「海崎。こんなに俺を好きにさせておいて、今さら逃げるなんて男らしくないぞ」
「い、いいよ、男らしくなくて……」
「お願い海崎、毎日とは言わないから、今日は一緒に寝よ?」
「えっ……」
 伊野は添い寝なんて大したことないと思っているのだろうが、海崎は無理だ。絶対に伊野を意識してしまう。
「ごめん。俺、お前のこと離す気ないから」
 伊野に壁ドンならぬ、ベッドの柱ドンをされ、海崎は完全に追い詰められる。すぐ目の前に伊野の顔があって、視界も伊野に遮られる。
 こんな少し強引な伊野が好きだ。
 伊野だったから心を開くことができた。頭で考えているばかりで何も言えない海崎が、伊野のおかげで一歩踏み出すことができるようになった。気がついたときには、怒ったり泣いたりできるようになった。
 この先どんなことがあっても、伊野がそばにいてくれたら、大丈夫だと思える。伊野のことを心から愛している。
「俺も離れる気はないよ」
 背伸びをした海崎は、目の前にいる愛しい人の頭を抱き寄せ、唇を奪う。
 触れるだけのキスでも、誰かにキスするなんて初めてのことだ。
 でもこれはお返しだ。今朝、伊野がいきなりキスをしてきたから、海崎もいつか突然キスしてやろうと密かに思っていた。
「えっ? う、海崎っ?」
 完全に動揺している伊野に、海崎は抱きつく。
「いいよ伊野。今日は一緒に寝よう」
 恥ずかしいし、ベッドは狭いが、伊野がそうしたいならいい。伊野になら何をされても構わない。
「ありがとな、海崎。あー! 大好きだっ」
 伊野は感極まった様子で、海崎の身体を思い切り抱きしめてきた。
「……もうどこにも行かないで」
 急に真面目なトーンになった伊野の美声が、海崎の耳朶をくすぐる。
「ずっと一緒にいよう、海崎」
 最愛の人から最高の言葉を囁かれる。
 ここにいればいい。
 ここが居場所だと言われたような気がした。
 
 それから伊野と枕を並べて眠ったところまではいい。でも朝、枕を戻し忘れて、それを隣の部屋の同級生に見つかってしまった。
 伊野とふたりで必死で誤魔化したのだが、それでも同級生には訝しげな目を向けられた。
 伊野とのドキドキお付き合い生活は、前途多難かもしれない。


《了》