いつもの授業を終えたあと、今日は絶対に行きたいところがあった。海崎はいつもの黒リュックに荷物を詰めて、そそくさと準備を整える。 
 向かうのは体育館の地下だ。実は体育館の地下には一度も行ったことがなかった。今まで縁がなかったからだ。
 地下には主にふたつの広い道場がある。あとはシャワールームやロッカールーム、倉庫や多目的ルームもある。
 部活の準備でたくさんの生徒が行き交う中、海崎は居場所がなくて時々道場を覗いたり、無駄にフラフラしている。若干、不審者になりかけていたとき、背後から聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
「海崎、こんなとこで何してんの?」
 振り返った先に、空手着姿の伊野が立っていた。白の道着に黒い帯をきっちり締め、左胸には学校名の刺しゅうが入っている。
 やばいぞ、やばい。
 伊野の凛々しい空手着姿に目が釘付けになる。
 今日から部活に復帰すると聞いて、その姿をひと目見たいと思ったのは確かだ。でも伊野のかっこよさは、海崎の想像以上だった。
 まだ知らない伊野の姿を見て、伊野のことをもっと好きになる。今だって十分、伊野のことが好きなのに、これから先どれだけ好きになるんだろう。 
「あ、あのっ、伊野に会いに来たんだ。今日から部活復帰するって言ってたから」
「おう。久しぶりすぎて忘れてんだろうけど、こっから勘を取り戻すしかないからな!」
「うん。頑張って。伊野ならできるよ」
 伊野をずっと見てきて思う。伊野は言い訳をしたり、途中で投げ出したりしない。身長があって手足も長いから、体格面でも絶対的に有利だし、全国レベルの選手になる素質は十分に持ち合わせている。
「目指すは武道館だな。な、海崎」
 意味深な目を向けられて気がついた。
 伊野は、試合という名目で東京に来ようとしているのだ。
「うん。本当に頑張って」
 伊野が東京武道館で組み手をする姿を見てみたい。きっとめちゃくちゃかっこいいんだと思う。それから試合のあと、少しだけでも伊野に会いたい。
「あ、そうだ伊野。今日、部活終わるまで、待っててもいいかな」
「えっ、結構遅くなるかも……」
「いいんだ。図書室で自習して待ってるから。だから、あの。一緒に帰らない……?」
 言いながら恥ずかしくなってきた。伊野とは寮に戻れば会えるのに、わざわざ待ってまで一緒に帰ろうとするのは、さすがにやり過ぎだろうか。
「いいよ。嬉しい」
 伊野は、ぽんと軽く海崎の頭に触れた。
「終わったら図書室に行くよ」
「えっ、いいよ、連絡くれれば俺が行くから」
「いいや、俺が行く。海崎を迎えに行く」
 伊野は「じゃあまたあとでな!」と笑顔で道場に入っていった。
 伊野が道場に入っていくと、歓声と拍手が上がった。きっと空手部の人たちは伊野が戻ってくることを心待ちにしていたのだろう。
 伊野が空手部に復帰してくれて本当によかった。伊野の話によると、長嶺も復学したら空手部に戻ってくるらしい。
 伊野と長嶺、ふたりが元通りになる日もきっとすぐに訪れる。親友であるふたりの仲睦まじい姿を、海崎が見ることはないだろうけど。
「俺も頑張らなくちゃ」
 海崎には目標がある。正確には漠然と大学を目指していたところに目標ができたのだ。
 海洋生物系の学部に行って勉強してみたいと思い始めた。そのあたりの学部がある大学を探して吟味してみようと思った。
 具体的な目標ができると、勉強もやる気が湧いてくる。
 伊野に負けてなどいられない。自分にも何かコレと言えるような何かがほしい。なにもかも完璧な伊野に、少しでも釣り合うような人になりたい。
「やるぞっ」
 海崎は黒リュックの肩紐を背負い直して、軽やかな足取りで体育館の階段を駆け上がった。


「海崎、お待たせしました」
 図書室で勉強していると、部活を終え、制服に着替えた伊野が目の前に立っていた。
「どうだった? 久しぶりの部活」
「いけるいける、身体が覚えてた。これならすぐに前のレベルまで戻れそうだよ」
「そっか。安心した」
 海崎は机に広げていた教科書やノートたちを閉じ、リュックの中に放り込んでいく。
「海崎はどう? 勉強進んだ?」
「うん。寝てないよ。ちゃんと全部起きてた」
「へぇ。偉いじゃん」
「まぁね。ちょっと頑張りたくなったから」
 黒リュックを背負って「行こ」と伊野の背中を押して促す。
 図書室のある棟から校舎へと繋がる渡り廊下を、伊野と歩く。
 不思議だ。伊野と一緒というだけで、ただの帰り道なのにワクワクする。
 ふとお互いの手が触れた。ハッとして海崎が避けようとしたとき、伊野の手が海崎の手を絡めとる。
「待っ……」
「誰か来たら離す。それまでいい?」
「……うん」
 海崎は小さく頷く。
 学校で伊野と手を繋いでるなんてドキドキする。でも、伊野は誰かが来たら離すと言っているし、ほんの少しのあいだだけなら。
 伊野の手は温かい。ただ並んで歩くだけじゃわからない、伊野の微かな動きが繋いだ手から伝わってくる。
「あ、そうだ。さっきからいい忘れてたんだけど」
 伊野は海崎の手をぎゅっと握る。
「俺のこと、待っててくれてありがとう」
 伊野は一瞬足を止め、海崎の横顔にキスをした。
「えぇっ!」
 こめかみとはいえ、これはさすがに学校でやっちゃいけないやつだ。
 その直後、伊野がパッと手を離した。目の前にある角を曲がって三人組の男子生徒が歩いてきたからだ。
「あ、伊野。お前聞いたぞ! 部活戻ったんだって?」
 三人組は、伊野の知り合いの生徒だったようで、伊野を見て気さくに話しかけてきた。
「そうそう、今日から。今の俺のやる気半端ないから」
「よかったじゃん、長嶺も戻ってくるんだろ?」
「あ、お前も知ってんの?」
「ああ、文化祭のとき長嶺から聞いた。でも寮は満室で入れなかったから、家から直接通うんだと」
「長嶺なら、通えなくはないしな」
 伊野はいつもどおりに友達と軽く会話を交わしたあと、「じゃあなー」とすれ違って別れた。
「あっぶなかったーっ」
 友達の姿が見えなくなったあと、伊野が海崎に耳打ちしてきた。
 伊野の言うとおりだ。あと一歩タイミングが悪かったら、伊野にキスされる瞬間を目撃されてたかもしれない。
「危ないって思うならやめろよ……」
「だって可愛い。俺のこと待ってる海崎なんて可愛すぎて我慢できなかった」
「もう、伊野は……」
 ふたりの関係が学校で知られてしまったら、大変なことになるんじゃないだろうか。学年一、いや、学校一かっこいい伊野の相手が、男の海崎だなんてみんなに知られたら大騒ぎになりそうだ。
「ごめん。許して。海崎大好き」
 そんなことを言って、伊野は早速、海崎に抱きついてくる。
 困った伊野だと思いながら、学校で伊野からされるのは全然嫌じゃない。
 むしろ、本音を言ってしまうと、そんなに俺のこと好きなのかな、と嬉しく思うくらいだ。
 本当に困るのは、伊野が好きすぎて、結局なんでも許してしまう自分のことかもしれない、と海崎は心の中でひとり反省会をした。