カラオケからの帰り道、駅まではぞろぞろとみんなで歩いていたが、寮の最寄り駅についたときに、同じ駅で降りたのは伊野と海崎のふたりだけだった。
伊野とふたり、夜のアスファルトの道を歩いていく。伊野は海崎の隣を歩いてはいるが、何も話しかけてこない。海崎は、実はさっきから伊野の様子がおかしいことに気がついていた。
いつもだったら、みんなで帰る帰り道も伊野が隣に来てくれる。伊野が来ないなら海崎のほうから近寄っていくのに、伊野は集団の列の先頭、海崎は後方にいて、なんとなく声をかけられなかった。
電車では伊野は別の車両に乗っていた。八人の集団だったから全員固まっていたら他の乗客の迷惑になるかもしれないし、自然と四人ずつに分かれたのだが、伊野は海崎とは別のグループに行ってしまった。
「い、伊野、今日は月が綺麗だね」
月は別に満月でもなく微妙な月だったが、伊野と会話がない状態が気まずくて、海崎は無理矢理話しかけた。
「……他に俺に言うことあるだろ」
伊野から、海崎を退けるような冷たい言葉を浴びせられる。胸が痛い。他の誰にされるよりも、伊野に拒絶されるのが一番辛い。
「さっきカラオケでさ、上原の様子がおかしかったから聞いたんだ。いつから決まってたんだよ。このまま俺に何も言わずに、いなくなる気だったのかよ」
その言葉を聞いて気がついた。
伊野は、あのことを知ったのだ。
「上原は俺は、とっくに知ってると思ってたらしいぜ? 俺もそうだと思ってた。海崎は、何かあれば一番に俺に話してくれると信じてた」
「それは……!」
海崎は思わず伊野のシャツの袖を掴む。
海崎だってずっと伊野に話したかった。でも、どうしても切り出せず、月日が過ぎてしまった。
「最初に、お前の口から聞きたかったよ」
伊野は怒っている。いや、怒りを通り越して、不誠実な海崎を軽蔑しているのではないだろうか。
「ごめん。言い訳にしか聞こえないと思うけど、いつか話すつもりだったんだ」
胸が苦しい。伊野のことは一番大切に思っているのに、どうして伊野を苦しめるようなことをしてしまったのだろう。
「海崎はいなくならないでって俺、言ったのに」
「ごめん……」
海崎は謝ることしかできない。
でも海崎がいなくなっても伊野はひとりにならない。海崎の代わりに長嶺が帰ってくるだろう。
それこそ伊野が待ち望んでいた結果だ。長嶺さえいれば、短い海崎との思い出など、いつか忘れてしまうだろう。
伊野は寮の入り口を通り過ぎる。どうしたんだろうと思って「伊野っ」と名前を呼んだら伊野に手を掴まれ、引っ張られる。
「……昨日、お前、なんで逃げたんだよ」
伊野は低い抑揚のない声で言った。
海崎の手を掴む、伊野の手は力強くて痛い。もう少し緩めてほしいと言いたいのに、言えなかった。
「昨日? なんのこと?」
「俺が他校の女子高生に話しかけられたときだよ。なんで? 隙を見て俺から離れたかった?」
「そんなことないよ!」
思ってもみないことを言われて、海崎は泣きそうになる。
あれは伊野に彼女ができるのが嫌で、それを阻止できないどころか友人として応援しなきゃならないのが辛くて逃げたのだ。それを、伊野は「海崎に嫌われた」と思っていたなんて想像もしなかった。
「最近、海崎はおかしかった。夏休みまでは俺に話をしてくれたのに、最近は俺が部屋にいてもぼんやりしてるだけ。何考えてるのか聞いても、なんでもないってそればっか。なんかもうわかんねぇ……。海崎のこと、わかんねぇ……」
伊野の手が、離れた。
伊野はひとりで寮から離れて歩いていってしまう。その寂しい背中がたまらなくて、海崎は必死で追いかける。
「ねぇ、伊野。全部ちゃんと話す。話すから、俺のこと嫌いにならないで……」
伊野とケンカ別れなんてしたくない。
伊野を傷つけたまま転校することになったら、一生後悔する。
海崎は伊野に置いていかれないように伊野の隣を懸命に歩く。伊野は海崎と目を合わせようともしないが、隣に海崎がいることを嫌がったりはしなかった。まだ完全に嫌われてはいない。海崎に謝るチャンスをくれるみたいだ。
「あのね。夏休みくらいから、父さんに言われてたんだ。仕事のめどがついたから、十月に東京に帰るって」
伊野からの返事はない。伊野はただ前を向いて歩いていく。
「それで、『晴真はどうする?』って聞かれて。俺は、しばらく悩んでてさ。もともとは父さんの仕事が終われば一緒に帰るつもりで、あっちの学校に籍を残してた。でも俺は寮に入ってるし、父さんが帰っちゃってもこっちで生活することができる。正直、東京の高校は俺には合わなくて。こっちに来てから楽しくて。このまま残ろうかなとも考えた」
海崎が話をしても、伊野は相変わらずで黙々と歩いていく。大きな幹線道路の陸橋の下をくぐり抜けていくと、やがて海の匂いがして浜辺が見えてきた。
「でも俺、長嶺くんに会ったんだ」
「はぁっ? お前マジであいつんち殴り込みに行ったのっ?」
伊野がこっちを向いた。しかもちゃんと返事をくれた。
よかった。ちゃんと話を聞いてくれていたことにも安堵したし、もう二度と口を聞いてもらえないのかと怖かったから、伊野と話せて思わず目に涙がにじむ。
「違うよ、偶然会ったんだよ。伊野が教えてくれた伊野の叔父さんがやってるアクアリウムショップでたまたま会ったの。俺も、長嶺くんに聞きたいことがあったし、長嶺くんも伊野のことを聞きたいって少し話をすることになったんだ」
「……なるほどな」
伊野は砂浜の前にある柵を躊躇なく越えていった。海崎も遠回りをしてしまっては伊野に置いていかれてしまうので、柵を乗り越えた。
「でね、長嶺くんは寮は辞めちゃったけど、学校は休学扱いになってるんだって。だから、戻ってくるかもしれないよ? 伊野が長嶺くんが戻ってくるの待ってるって、言っちゃった。そしたら考えてみるって……」
もし長嶺に本当に戻る気がなければ、休学のままでいないと思う。長嶺も高校を卒業したいという気持ちはあるのではないだろうか。本心はわからないが、あのとき話した感じでは、長嶺は葛藤している様子だった。
伊野はローファーのまま砂浜を進んでいく。靴に砂が入ってしまうなと戸惑ったが、伊野のそばにいたいから、海崎は砂浜に足を踏み入れた。
「あいつ、戻ってくるよ」
「えっ!」
「あいつ、文化祭に来てた。久しぶりに長嶺と話したよ。来月から復学するって言ってた」
「そっか、そうなんだ……。よかったね、伊野」
本当によかった。長嶺が本当に戻ってくるかどうかはわからなかったから、それが叶うと知って、心から嬉しい。ずっと長嶺の帰りを待っていた伊野にとっては、特別なものに違いない。
これで、海崎がいなくなっても伊野がひとりになることはない。
「学校に戻れってすげぇ説得されたんだと。誰に言われたのか、俺が聞いても長嶺ははっきり言わなくてさ。『猫パンチ』って返された。海崎、意味わかる?」
その単語を聞いて、海崎は目をハッと大きく開く。
それは間違いなく、海崎のことだ。
「……やっとわかった。長嶺に決心させたのは、お前だったのか。海崎」
伊野は海崎に微笑みかけてきた。
砂浜には少し離れた場所にある街灯しかない。薄暗くて伊野の表情が見えにくいが、それでもその笑顔を必死で目に焼きつけた。
「何? まさか長嶺のこと殴ったの?」
「そうだよ、殴った」
「え、マジっ?」
伊野はありえないといった表情で目をしばたかせている。
「あいつにケンカ売る奴なんて初めて聞いたよ……海崎すげぇ」
「ケンカっていうか、そんなつもりはなくて、あの、猫パンチって言われちゃったけど……」
あのときほど、男としての非力さを感じたときはない。長嶺とは同級生とは思えない。海崎と体格が違いすぎる。
「そっか、あいつが戻ってくるのは、海崎のおかげだったのか」
「違うよ、伊野のおかげだよ。ずっと長嶺くんの帰りを待っていた伊野の気持ちが届いたんだよ」
伊野の想いを長嶺は知らなかった。海崎はそれを全身で長嶺にぶつけただけだ。伊野の気持ちを知った長嶺は、高校に戻ることを決めたに違いない。
「ありがとう、海崎」
伊野の優しい声が心地よい。いつものように笑顔を向けてもらえてよかった。まだ伊野に嫌われてなかったと安心して泣きそうになる。
伊野は背負っていたリュックを下ろした。海崎もつられて伊野のリュックの隣に寄り添うようにリュックを置いた。
優しい海風が吹いて、制服のシャツがふわっと舞い上がる。素肌を撫でるようなひんやりとした風が、ふたりのあいだを吹き抜けていく。
「……海崎のことだから、めっちゃ考えて、考えて、出した結論なんだろうけどさ」
「うん……」
「東京に帰らないでさ、このままこっちに残るってのはダメなの?」
「そうだね……来月だから、もう手続き済んじゃってるかな……」
「そっか。そうなんだ。マジか。マジでいなくなるのか……」
伊野が引き留めてくれたことが嬉しい。伊野とケンカ別れしなくて済むのが嬉しい。
今日のことをきちんと記憶しておこう。東京に帰って辛い思いをしたときに、伊野のことを思い出して元気を取り戻すために。
「東京に帰っても、伊野に時々連絡していいかな?」
「いいよ。俺も海崎に連絡する」
よかった。東京に戻っても伊野との縁は切れない。さみしくなったら伊野に連絡すればいい。声が聴きたくなったら伊野に電話をすればいい。そう思うと勇気が湧いてきた。
「海崎のこと抱きしめてもいい?」
伊野は愛おしそうな目で海崎を見つめている。海崎の大好きな双眼が、真っ直ぐ海崎だけを映している。
海崎が静かに頷くと、伊野がそっと抱きしめてきた。海崎も伊野の腰に両腕を回して、伊野に身を委ねる。
少しひんやりとしていた海風も、伊野の腕の中にいると守られているようで寒いと感じない。
「海崎は、俺が怖い?」
「え……」
どういう意味だろうと、海崎は伊野に視線を向ける。凛々しくて優しい伊野の顔がすぐ目の前にあった。
「海崎は俺が触れるといつもビクビクしてる。殻の中に逃げる貝みたいに身体を固くして怖がってる」
伊野にそんなふうに思われているとは知らなかった。海崎は、伊野のスキンシップは友情からくるじゃれ合いなんだと、なんでもないふりをしてた。でも、実は意識しまくっていて、ガチガチに緊張していたことが伊野に見透かされていたのだ。
「あ、あのっ、俺、そういうの慣れてなくて。伊野はいつも友達に無自覚に触れるんだろうけど、俺は人との距離感がよくわからなくて……」
「俺もただの友達にはこんなことしない。無自覚でこんなふうに誰かを抱きしめたりできないだろ」
「それって、どういう意味……?」
友達にしないなら、どうして海崎には触れてくるのだろう。伊野の話は矛盾している。
「俺に触れられるのは嫌?」
伊野の大きな手が、海崎の頬に触れる。伊野の手はあったかくて気持ちがよかった。
「嫌じゃ、ないよ」
嫌だなんて一度も思ったことがない。むしろ、もっと伊野に触れてほしい。このまま伊野の特別になりたい。
伊野と見つめ合う視線を逸らすことができない。
伊野は今、どんな気持ちでいるのだろう。伊野から微かに感じるこの想いが、気のせいであってほしくない。
「伊野は、伊野は、すごく距離が近いから、俺は勘違いしそうになる。いつも胸がドキドキして、その……伊野のことを……」
好きになる。その最後のひと言が怖くて言えない。
もし、伊野が同じ想いでいてくれたら。越えてはいけない一線を、踏み出す勇気が持てたなら。
「海崎。俺と距離感、間違えてみる?」
伊野がゆっくりと唇を近づけてくる。
ああ。
ずっと、ずっと伊野とこうしたかった。
海崎はそっと目を閉じる。すると伊野が海崎の唇に唇を重ねてきた。
初めてのキスは優しいキスだった。
静かな波の音を聴きながら、大好きな人とする、泣きたくなるくらいに幸せなファーストキスだった。
「好きになってごめん。友達でいなきゃダメだ、海崎のことそういう目で見ちゃいけないってわかってた。でも好きなんだ。海崎じゃなきゃダメなんだ」
切実な伊野の気持ちが伝わってくる。真っ直ぐに迷いなく言葉をぶつけてくる、伊野の強さを感じる。
伊野も海崎も男で、多分これは普通の恋愛じゃない。海崎なんて、何度も自分の気持ちを『気のせい』だと誤魔化そうとした。それでも伊野と一緒にいると好きは加速するばかりで、途中から爆発しそうになる気持ちを抑えるのに必死だった。
「誰かをこんなに好きになったのも初めてだ。海崎は俺のことどう思ってるのか知りたくて、ちょっかい出すけど全然意識してもらえなくて、あぁ、やっぱ俺じゃ無理だって落ち込んで、それでも海崎と一緒にいたくて……」
「意識してたよ。めちゃくちゃ気にしてた。でも、伊野にそんな気はないんだって、ずっとずっと我慢してた」
伊野に触れられるたびに、これはなんでもない、友達としての行動だと、勘違いしないように自分を制していた。でも伊野も、特別な意味を持って海崎に触れていた……?
「俺も、俺もこんな気持ちになったの初めてだよ。伊野のこと好きになっちゃダメだって思っても、どんどん好きになるんだ。文化祭のときも、伊野が女の子と仲良くするのが嫌で、伊野に彼女なんてできたら耐えられないって思って、嫌で嫌で……。我が儘だってわかってるのに、逃げてごめんなさい」
「そうだったんだ……わかんなかった。ずっとわからなかったよ、海崎の気持ち」
伊野はぎゅっと海崎の制服のシャツを握りしめる。
「俺、海崎のことが好きだ」
伊野の真剣な眼差しに、心が震えた。
好きな人に好きだと思ってもらえることが、気持ちを通わせることが、こんなに胸が痛くなるものだと初めて知った。
「海崎がそばにいてくれると、いつも優しく励ましてくれると、俺は強くなるんだ。俺はどれだけ海崎に救われたのかわからない」
「俺もだよ。俺も、たくさん伊野に助けてもらった。伊野が好き。ずっと、ずっと伊野と一緒にいたい……」
伊野に求めるようにすがると、伊野は海崎の身体を抱き寄せ、もう一度唇を重ねてきた。
今度のキスは、さっきよりも少しだけ長かった。
一度目のキスは夢じゃないかと思うくらいにふわふわしていたが、二度目のキスは伊野と気持ちを確かめ合うようなキスだった。
「海崎……」
伊野が海崎の身体を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
強く求めるような伊野の腕の力強さにたまらなくなり、海崎も伊野の両肩にしがみつく。
伊野と離れたくない。このまま伊野とずっと寄り添っていたい。
街灯の薄明かりの中、しばらくのあいだ伊野とふたり抱き合っていた。
伊野とふたり、夜のアスファルトの道を歩いていく。伊野は海崎の隣を歩いてはいるが、何も話しかけてこない。海崎は、実はさっきから伊野の様子がおかしいことに気がついていた。
いつもだったら、みんなで帰る帰り道も伊野が隣に来てくれる。伊野が来ないなら海崎のほうから近寄っていくのに、伊野は集団の列の先頭、海崎は後方にいて、なんとなく声をかけられなかった。
電車では伊野は別の車両に乗っていた。八人の集団だったから全員固まっていたら他の乗客の迷惑になるかもしれないし、自然と四人ずつに分かれたのだが、伊野は海崎とは別のグループに行ってしまった。
「い、伊野、今日は月が綺麗だね」
月は別に満月でもなく微妙な月だったが、伊野と会話がない状態が気まずくて、海崎は無理矢理話しかけた。
「……他に俺に言うことあるだろ」
伊野から、海崎を退けるような冷たい言葉を浴びせられる。胸が痛い。他の誰にされるよりも、伊野に拒絶されるのが一番辛い。
「さっきカラオケでさ、上原の様子がおかしかったから聞いたんだ。いつから決まってたんだよ。このまま俺に何も言わずに、いなくなる気だったのかよ」
その言葉を聞いて気がついた。
伊野は、あのことを知ったのだ。
「上原は俺は、とっくに知ってると思ってたらしいぜ? 俺もそうだと思ってた。海崎は、何かあれば一番に俺に話してくれると信じてた」
「それは……!」
海崎は思わず伊野のシャツの袖を掴む。
海崎だってずっと伊野に話したかった。でも、どうしても切り出せず、月日が過ぎてしまった。
「最初に、お前の口から聞きたかったよ」
伊野は怒っている。いや、怒りを通り越して、不誠実な海崎を軽蔑しているのではないだろうか。
「ごめん。言い訳にしか聞こえないと思うけど、いつか話すつもりだったんだ」
胸が苦しい。伊野のことは一番大切に思っているのに、どうして伊野を苦しめるようなことをしてしまったのだろう。
「海崎はいなくならないでって俺、言ったのに」
「ごめん……」
海崎は謝ることしかできない。
でも海崎がいなくなっても伊野はひとりにならない。海崎の代わりに長嶺が帰ってくるだろう。
それこそ伊野が待ち望んでいた結果だ。長嶺さえいれば、短い海崎との思い出など、いつか忘れてしまうだろう。
伊野は寮の入り口を通り過ぎる。どうしたんだろうと思って「伊野っ」と名前を呼んだら伊野に手を掴まれ、引っ張られる。
「……昨日、お前、なんで逃げたんだよ」
伊野は低い抑揚のない声で言った。
海崎の手を掴む、伊野の手は力強くて痛い。もう少し緩めてほしいと言いたいのに、言えなかった。
「昨日? なんのこと?」
「俺が他校の女子高生に話しかけられたときだよ。なんで? 隙を見て俺から離れたかった?」
「そんなことないよ!」
思ってもみないことを言われて、海崎は泣きそうになる。
あれは伊野に彼女ができるのが嫌で、それを阻止できないどころか友人として応援しなきゃならないのが辛くて逃げたのだ。それを、伊野は「海崎に嫌われた」と思っていたなんて想像もしなかった。
「最近、海崎はおかしかった。夏休みまでは俺に話をしてくれたのに、最近は俺が部屋にいてもぼんやりしてるだけ。何考えてるのか聞いても、なんでもないってそればっか。なんかもうわかんねぇ……。海崎のこと、わかんねぇ……」
伊野の手が、離れた。
伊野はひとりで寮から離れて歩いていってしまう。その寂しい背中がたまらなくて、海崎は必死で追いかける。
「ねぇ、伊野。全部ちゃんと話す。話すから、俺のこと嫌いにならないで……」
伊野とケンカ別れなんてしたくない。
伊野を傷つけたまま転校することになったら、一生後悔する。
海崎は伊野に置いていかれないように伊野の隣を懸命に歩く。伊野は海崎と目を合わせようともしないが、隣に海崎がいることを嫌がったりはしなかった。まだ完全に嫌われてはいない。海崎に謝るチャンスをくれるみたいだ。
「あのね。夏休みくらいから、父さんに言われてたんだ。仕事のめどがついたから、十月に東京に帰るって」
伊野からの返事はない。伊野はただ前を向いて歩いていく。
「それで、『晴真はどうする?』って聞かれて。俺は、しばらく悩んでてさ。もともとは父さんの仕事が終われば一緒に帰るつもりで、あっちの学校に籍を残してた。でも俺は寮に入ってるし、父さんが帰っちゃってもこっちで生活することができる。正直、東京の高校は俺には合わなくて。こっちに来てから楽しくて。このまま残ろうかなとも考えた」
海崎が話をしても、伊野は相変わらずで黙々と歩いていく。大きな幹線道路の陸橋の下をくぐり抜けていくと、やがて海の匂いがして浜辺が見えてきた。
「でも俺、長嶺くんに会ったんだ」
「はぁっ? お前マジであいつんち殴り込みに行ったのっ?」
伊野がこっちを向いた。しかもちゃんと返事をくれた。
よかった。ちゃんと話を聞いてくれていたことにも安堵したし、もう二度と口を聞いてもらえないのかと怖かったから、伊野と話せて思わず目に涙がにじむ。
「違うよ、偶然会ったんだよ。伊野が教えてくれた伊野の叔父さんがやってるアクアリウムショップでたまたま会ったの。俺も、長嶺くんに聞きたいことがあったし、長嶺くんも伊野のことを聞きたいって少し話をすることになったんだ」
「……なるほどな」
伊野は砂浜の前にある柵を躊躇なく越えていった。海崎も遠回りをしてしまっては伊野に置いていかれてしまうので、柵を乗り越えた。
「でね、長嶺くんは寮は辞めちゃったけど、学校は休学扱いになってるんだって。だから、戻ってくるかもしれないよ? 伊野が長嶺くんが戻ってくるの待ってるって、言っちゃった。そしたら考えてみるって……」
もし長嶺に本当に戻る気がなければ、休学のままでいないと思う。長嶺も高校を卒業したいという気持ちはあるのではないだろうか。本心はわからないが、あのとき話した感じでは、長嶺は葛藤している様子だった。
伊野はローファーのまま砂浜を進んでいく。靴に砂が入ってしまうなと戸惑ったが、伊野のそばにいたいから、海崎は砂浜に足を踏み入れた。
「あいつ、戻ってくるよ」
「えっ!」
「あいつ、文化祭に来てた。久しぶりに長嶺と話したよ。来月から復学するって言ってた」
「そっか、そうなんだ……。よかったね、伊野」
本当によかった。長嶺が本当に戻ってくるかどうかはわからなかったから、それが叶うと知って、心から嬉しい。ずっと長嶺の帰りを待っていた伊野にとっては、特別なものに違いない。
これで、海崎がいなくなっても伊野がひとりになることはない。
「学校に戻れってすげぇ説得されたんだと。誰に言われたのか、俺が聞いても長嶺ははっきり言わなくてさ。『猫パンチ』って返された。海崎、意味わかる?」
その単語を聞いて、海崎は目をハッと大きく開く。
それは間違いなく、海崎のことだ。
「……やっとわかった。長嶺に決心させたのは、お前だったのか。海崎」
伊野は海崎に微笑みかけてきた。
砂浜には少し離れた場所にある街灯しかない。薄暗くて伊野の表情が見えにくいが、それでもその笑顔を必死で目に焼きつけた。
「何? まさか長嶺のこと殴ったの?」
「そうだよ、殴った」
「え、マジっ?」
伊野はありえないといった表情で目をしばたかせている。
「あいつにケンカ売る奴なんて初めて聞いたよ……海崎すげぇ」
「ケンカっていうか、そんなつもりはなくて、あの、猫パンチって言われちゃったけど……」
あのときほど、男としての非力さを感じたときはない。長嶺とは同級生とは思えない。海崎と体格が違いすぎる。
「そっか、あいつが戻ってくるのは、海崎のおかげだったのか」
「違うよ、伊野のおかげだよ。ずっと長嶺くんの帰りを待っていた伊野の気持ちが届いたんだよ」
伊野の想いを長嶺は知らなかった。海崎はそれを全身で長嶺にぶつけただけだ。伊野の気持ちを知った長嶺は、高校に戻ることを決めたに違いない。
「ありがとう、海崎」
伊野の優しい声が心地よい。いつものように笑顔を向けてもらえてよかった。まだ伊野に嫌われてなかったと安心して泣きそうになる。
伊野は背負っていたリュックを下ろした。海崎もつられて伊野のリュックの隣に寄り添うようにリュックを置いた。
優しい海風が吹いて、制服のシャツがふわっと舞い上がる。素肌を撫でるようなひんやりとした風が、ふたりのあいだを吹き抜けていく。
「……海崎のことだから、めっちゃ考えて、考えて、出した結論なんだろうけどさ」
「うん……」
「東京に帰らないでさ、このままこっちに残るってのはダメなの?」
「そうだね……来月だから、もう手続き済んじゃってるかな……」
「そっか。そうなんだ。マジか。マジでいなくなるのか……」
伊野が引き留めてくれたことが嬉しい。伊野とケンカ別れしなくて済むのが嬉しい。
今日のことをきちんと記憶しておこう。東京に帰って辛い思いをしたときに、伊野のことを思い出して元気を取り戻すために。
「東京に帰っても、伊野に時々連絡していいかな?」
「いいよ。俺も海崎に連絡する」
よかった。東京に戻っても伊野との縁は切れない。さみしくなったら伊野に連絡すればいい。声が聴きたくなったら伊野に電話をすればいい。そう思うと勇気が湧いてきた。
「海崎のこと抱きしめてもいい?」
伊野は愛おしそうな目で海崎を見つめている。海崎の大好きな双眼が、真っ直ぐ海崎だけを映している。
海崎が静かに頷くと、伊野がそっと抱きしめてきた。海崎も伊野の腰に両腕を回して、伊野に身を委ねる。
少しひんやりとしていた海風も、伊野の腕の中にいると守られているようで寒いと感じない。
「海崎は、俺が怖い?」
「え……」
どういう意味だろうと、海崎は伊野に視線を向ける。凛々しくて優しい伊野の顔がすぐ目の前にあった。
「海崎は俺が触れるといつもビクビクしてる。殻の中に逃げる貝みたいに身体を固くして怖がってる」
伊野にそんなふうに思われているとは知らなかった。海崎は、伊野のスキンシップは友情からくるじゃれ合いなんだと、なんでもないふりをしてた。でも、実は意識しまくっていて、ガチガチに緊張していたことが伊野に見透かされていたのだ。
「あ、あのっ、俺、そういうの慣れてなくて。伊野はいつも友達に無自覚に触れるんだろうけど、俺は人との距離感がよくわからなくて……」
「俺もただの友達にはこんなことしない。無自覚でこんなふうに誰かを抱きしめたりできないだろ」
「それって、どういう意味……?」
友達にしないなら、どうして海崎には触れてくるのだろう。伊野の話は矛盾している。
「俺に触れられるのは嫌?」
伊野の大きな手が、海崎の頬に触れる。伊野の手はあったかくて気持ちがよかった。
「嫌じゃ、ないよ」
嫌だなんて一度も思ったことがない。むしろ、もっと伊野に触れてほしい。このまま伊野の特別になりたい。
伊野と見つめ合う視線を逸らすことができない。
伊野は今、どんな気持ちでいるのだろう。伊野から微かに感じるこの想いが、気のせいであってほしくない。
「伊野は、伊野は、すごく距離が近いから、俺は勘違いしそうになる。いつも胸がドキドキして、その……伊野のことを……」
好きになる。その最後のひと言が怖くて言えない。
もし、伊野が同じ想いでいてくれたら。越えてはいけない一線を、踏み出す勇気が持てたなら。
「海崎。俺と距離感、間違えてみる?」
伊野がゆっくりと唇を近づけてくる。
ああ。
ずっと、ずっと伊野とこうしたかった。
海崎はそっと目を閉じる。すると伊野が海崎の唇に唇を重ねてきた。
初めてのキスは優しいキスだった。
静かな波の音を聴きながら、大好きな人とする、泣きたくなるくらいに幸せなファーストキスだった。
「好きになってごめん。友達でいなきゃダメだ、海崎のことそういう目で見ちゃいけないってわかってた。でも好きなんだ。海崎じゃなきゃダメなんだ」
切実な伊野の気持ちが伝わってくる。真っ直ぐに迷いなく言葉をぶつけてくる、伊野の強さを感じる。
伊野も海崎も男で、多分これは普通の恋愛じゃない。海崎なんて、何度も自分の気持ちを『気のせい』だと誤魔化そうとした。それでも伊野と一緒にいると好きは加速するばかりで、途中から爆発しそうになる気持ちを抑えるのに必死だった。
「誰かをこんなに好きになったのも初めてだ。海崎は俺のことどう思ってるのか知りたくて、ちょっかい出すけど全然意識してもらえなくて、あぁ、やっぱ俺じゃ無理だって落ち込んで、それでも海崎と一緒にいたくて……」
「意識してたよ。めちゃくちゃ気にしてた。でも、伊野にそんな気はないんだって、ずっとずっと我慢してた」
伊野に触れられるたびに、これはなんでもない、友達としての行動だと、勘違いしないように自分を制していた。でも伊野も、特別な意味を持って海崎に触れていた……?
「俺も、俺もこんな気持ちになったの初めてだよ。伊野のこと好きになっちゃダメだって思っても、どんどん好きになるんだ。文化祭のときも、伊野が女の子と仲良くするのが嫌で、伊野に彼女なんてできたら耐えられないって思って、嫌で嫌で……。我が儘だってわかってるのに、逃げてごめんなさい」
「そうだったんだ……わかんなかった。ずっとわからなかったよ、海崎の気持ち」
伊野はぎゅっと海崎の制服のシャツを握りしめる。
「俺、海崎のことが好きだ」
伊野の真剣な眼差しに、心が震えた。
好きな人に好きだと思ってもらえることが、気持ちを通わせることが、こんなに胸が痛くなるものだと初めて知った。
「海崎がそばにいてくれると、いつも優しく励ましてくれると、俺は強くなるんだ。俺はどれだけ海崎に救われたのかわからない」
「俺もだよ。俺も、たくさん伊野に助けてもらった。伊野が好き。ずっと、ずっと伊野と一緒にいたい……」
伊野に求めるようにすがると、伊野は海崎の身体を抱き寄せ、もう一度唇を重ねてきた。
今度のキスは、さっきよりも少しだけ長かった。
一度目のキスは夢じゃないかと思うくらいにふわふわしていたが、二度目のキスは伊野と気持ちを確かめ合うようなキスだった。
「海崎……」
伊野が海崎の身体を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
強く求めるような伊野の腕の力強さにたまらなくなり、海崎も伊野の両肩にしがみつく。
伊野と離れたくない。このまま伊野とずっと寄り添っていたい。
街灯の薄明かりの中、しばらくのあいだ伊野とふたり抱き合っていた。