「晴真。ちょっと話があるんだけど」
 高校一年生の冬、なんでもない夜だった。神妙な顔つきでダイニングの椅子に座る父親に呼ばれた。
 海崎は六歳のころ母親を病気で亡くし、ずっと父親とふたり暮らしをしてきた。
「何?」
「あのさ、俺、転勤の話が出てるんだ。半年から一年間くらいかな。リゾートホテル再建の案件があって」
 海崎の父親はリゾート経営コンサルティング会社に勤めており、転勤や出張が多い職種だ。父親は子どもがいるからと長期的なものは断り続けていたようだが、ついに断りきれなくなったのかもしれない。
 海崎は高校生だ。ひとり暮らしだってできないことはない。朝、父親が作ってくれている弁当を、自分で作るかコンビニで買うようにすればなんとかなる。
 だが、唯一の家族である父親がいなくなるということは、今の生活がさらに辛くなるということだ。
 最悪な今の状況から、さらに悪くなる。容赦のない事実に、海崎の心は暗い闇の中に沈んでいく。
「いいよ、わかった。父さんは仕事を頑張って。俺は大丈夫だよ。弁当を作ったこともあるし、ひとりでも暮らせるから」
 父親に余計な心配はかけたくないと、海崎は笑顔を作る。それなのに父親は「違う」と話を遮ってきた。
「一緒に行かないか?」
「一緒にっ?」
「あのな、俺はいつもどおり転勤話を断ろうと思ったんだ。でも晴真に聞いてからにしようと思って返事をしなかった」
「なんで……?」
 海崎には父親が言わんとすることがわからない。
「海の近くにある、綺麗な高校なんだ。男女共学の進学校で勉強には力を入れているらしい。テストはあるが、晴真なら転入できると言っていたよ」
「転入……」
 現在、海崎の通っている学校は、中高一貫教育を行う都内有数の男子校だ。
 海崎は小学生のころ、やたらと成績がよかった。物覚えがいいのと、一と習ったことを十に応用するのが得意だったのだ。
 そのため父親は海崎を中学受験のための進学塾に通わせた。夜のあいだ息子を家にひとりきりにするよりは安全だと考えたのもあるらしい。
 海崎は父親を喜ばせたい一心で、必死になって勉強した。息子の海崎がわかりやすい成果を挙げることが、親戚の反対を押し切っても子どもを手放さず、男手ひとつで育ててくれた父親のメンツを守ることに繋がるからだ。
 そうしてギリギリ入った学校で、海崎は中学校デビューに失敗した。
 うだつの上がらない成績に、クラスでは影のような存在。
 希薄な友人関係にしがみついて、ひとりぼっちになりたくないからヘラヘラ愛想笑いをする。頑張っているのに、うまく人間関係を構築できない。人といるのに疲れて学校に行かない日もあった。
 海崎は窒息寸前だった。
 それでも受験戦争を乗り越え、必死で入った誰もが羨む学校だ。今の生活から逃げ出すことなど、許されないと思い込んでいた。
 でも今、目の前に転校という逃げ道が開かれた。それは思ってもみないことだった。
「大丈夫だ。父親の仕事の都合ならば、転校しても、東京に戻ったら今の高校に戻れるらしい。学生寮もある高校なんだよ」
 父親はたくさんの資料をダイニングテーブルに並べた。現地の高校のこと、寮のこと、今通っている学校の規則までこんなに用意周到に調べてくれていたことに驚いた。
「晴真がついてくるなら、俺はこの仕事を受ける。ここに残りたいなら転勤はしない。俺も晴真と東京にいるよ」
 父親は優しく、そして真っ直ぐに見つめてきた。
 父親は、転校という逃げ道を用意してくれたのだ。それも自身の仕事を理由にした、海崎がもっとも逃げやすい形で。
 そして、逃げるかこのまま食い下がるか、その選択肢を海崎に与えてくれた。
「海の近くの高校かぁ……」
 父親の見せてくれた資料には、ドローンで空から撮影したような、広大な景色の写真が載っていた。
 リゾート地のような澄んだ青空とそれを反射する碧翠色の海。それを背景に、白い高校の建物が写っている。周囲は灰色のビルばかりの海崎の通う高校とは大違いだ。
 それに学生寮での暮らしにも興味を持った。勝手なイメージだが、学生寮というのは大勢の家族で暮らしているような、寂しさも感じない、賑やかなものなのではないか。
 海崎は少しの逡巡のあと、父親の出張についていく道を選んだ。
 特別なことは望まない。
 登校したら普通におはようと挨拶を交わし、たわいもない話をしながら昼食を一緒に食べる。学校帰りに寄り道したり、一緒に勉強したり、今度こそ友達だと胸を張って言える関係性を築きたい。
 みんなと同じように、ごく当たり前に呼吸をして生きてみたいと思ったのだ。