「はぁ、やっとクソだるい呼び込みが終わったんだよ」
伊野は心底、嫌そうにため息をついた。
「へぇ。ずいぶん楽しそうに見えたけど」
伊野が女子高生に呼び込みをかけている姿を思い出して、ちょっとだけ嫌味を言ってやる。
「楽しくなんかないよ。喜んでんのは周りだけ。伊野は百人斬りするまで呼び込みやれとか言われてさ、最悪だ……」
「百人斬りっ?」
「そうだよ、JK百人連れて来いってマジふざけやがってあいつら……できるわけねぇだろ!」
伊野は理不尽だと怒っているが、海崎はあながちできなくないんじゃないか、なんて思ってしまった。
「とりあえず今日は、知り合いにも声かけて五十人達成したから、やっと開放された。……ったく俺は早く海崎に会いたかったのに」
伊野はそんなことを言って後ろから抱きついてくる。伊野に抱きしめられて、一瞬、脳が誤作動を起こしそうになったが、これはただの戯れ合いの一種だ。「早く海崎に会いたかった」というのも、ただ「早く休憩したかった」というのと同義語だ。
「はいはい、お疲れ様。伊野はよく頑張ったよ」
伊野の顔が後頭部に触れるくらいに近い。首に回された伊野の逞しい腕が、海崎のすぐ口元にあるから、愛おしくなって今すぐ腕にキスをしたい衝動にかられる。伊野に抱きしめられて、感情がパニックを起こしているが、海崎はそれを隠してなんでもないふりをする。
「もっかい言って。俺、海崎にもっと褒められたい」
「はぁっ?」
同級生に褒められたいとはなんだ! でも、今日の伊野は呼び込みのせいで結構疲れているのかもしれない。
海崎は首に回された伊野の腕をぎゅっと抱きしめる。
「伊野は任されたことを、きちんとやって偉いよ。伊野はみんなを幸せな気持ちにさせる天才だ」
この言葉は嘘じゃない。伊野がいるだけでその場の雰囲気が明るくなる。聞き上手な伊野は誰の話も真剣に聞いてくれるし、下手くそな話をしてもそれをうまく盛り立ててくれる。
だからみんな伊野のそばにいたいと思うのだろう。
「……やばい。今の言葉、めっちゃ刺さったわ」
伊野がさらに強く抱きついてくる。
「ありがと海崎」
そう言って伊野は海崎から身体を離したが、その間際、頭の後ろに伊野の唇が触れたような気がしたのは気のせいだろうか。
伊野と文化祭を見て回ることになったのだが、なにせ時間がない。一緒にいられる自由時間は四十分くらいしかなくて、伊野は「見たいとこだけさっさと見て回ろう」と言って足早に廊下を進んでいく。
「あ、高三の一組から三組はメイド喫茶だ」
高校三年生は受験があり忙しいため、三クラス合同で企画ものをやることになっている。偶然通りかかったメイド喫茶を興味本位で教室のドアの陰から覗いてみると、そこに知ってる顔がいた。
「伊野。宮城先輩がいる……」
海崎は伊野のシャツの袖を引っ張る。とてもじゃないが素通りできなかった。結構ごつい感じの体格の宮城が、眼鏡をかけたままフリフリのメイド服を着ているものだから、おかしくて仕方がない。
「うわ、マジだ……全然可愛くねぇ……」
伊野もドン引きしている。可愛い女子がたくさんいるのだから、そっちに着させればいいのにメイド服を着ているのは全員男だ。ミニスカートの下からのぞく足が、もれなく男の足で全然セクシーじゃない。
宮城は飲み物とお菓子をテーブルまで運んだあと、一昔前の「萌え萌えきゅんきゅん」ポーズをしている。
「ちょ……待って。俺たち見ちゃいけないもの見ちゃったよ……」
伊野が口元を手で覆って、必死で笑い声を抑えている。でも伊野にめちゃめちゃ同意だ。海崎も笑ってしまい、伊野と同じく必死で声を抑える。
「おい」
「わっ!」
こっそり立ち去ろうとしていたところに声をかけられて、心臓が飛び出るくらいにびっくりした。
「伊野、海崎、笑いすぎだろ。そんなにメイドが好きなら寄ってくか?」
メイド服姿の宮城が仁王立ちしている。かわいいヒラヒラ服に対して、中身の人が男らしすぎて本当に似合わない。
「い、いえ、遠慮しておきます……俺たち時間ないんで……」
海崎は両手のひらを宮城に向けてきっぱり拒絶する。宮城のメイド服姿を見ただけでお腹いっぱいなのに、これ以上は耐えられそうにない。
「それか、お前らも着てみるか? この服」
「えっ!」
急に恐ろしいことを思いついた宮城が「着てないやつあるから」などと言い出したので海崎は慌てる。
伊野とふたりでメイド服……想像しただけで絶対嫌だ。
「宮城先輩、それやばいですって。海崎が着たら冗談にならない。こいつの足、マジで白くて綺麗だから」
伊野が変なことを言っているのに、宮城も「たしかに海崎が着たら大変なことになりそうだな……」と同意するようなことを言い出した。
「てか、おい伊野。なんでそんなこと知ってるんだ……? 足、見たのか?」
「それは、まぁ、同じ部屋だと見えちゃうこともありますよね」
「ねぇ、ちょっと伊野、なんの話してるんだよっ」
会話の内容が不穏すぎて、海崎が口をはさむと、伊野は「なんでもない」ととぼけた。
「先輩、すみません、ちょっと寄りたいとこがあるんで、失礼しますっ!」
伊野は宮城にバッと頭を下げたあと、海崎の腕を掴んで歩き出す。
「おいっ、伊野ってば!」
伊野に引っ張られ、よろめきながら海崎もついていく。伊野はいつもこうだ。自分のペースに周囲を巻き込んで、ドキドキさせて、本当に困った奴だ。
「さっきのなんなんだよっ」
「だって宮城先輩、お前と一緒で勉強できるから」
「んん?」
それがなんで理由になるのかと、海崎は首をかしげる。
「なんか釣り合ってる感じでムカつくから、ちょっとマウントとってやったんだよ」
「マウント……?」
伊野の言わんとしていることの意味がわからない。
「まぁ、いいからいいから。行こ行こっ」
「待って、伊野っ」
まただ。また伊野のペースに引っ張られる。伊野といると毎日飽きない。次から次へと何かに巻き込まれる感覚だ。
そんな毎日も楽しいと思う。転校してきて伊野に出会い、伊野に教えられたことは小さなことから、大きなことまで数えきれないほどある。
それから伊野と友達のクラスをいくつか回った。高二はなぜかホラー系の企画が多くて、脱出系なのにホラー、巨大迷路もホラー、ビビリの海崎は逃げ回ってばかりいた。
「はぁ、もうホントダメ……疲れた」
緊張しすぎて喉がカラカラになり、海崎は目の前にあった自販機でペットボトルのミルクティーを買った。
「そんなに? だってどーみても高二の奴らがやってんだから怖くないだろ」
「わかってるよ。そうとわかってても苦手なんだ」
昔から怖がりなのは、海崎自身も自覚している。幼いころのトラウマのせいかもしれない。夜、ひとりきりでいるときに、背後から何か襲いかかってくるんじゃないかと怯えてばかりだった。人には恥をさらすようで言えないが、十六歳になった今でも真っ暗闇は得意じゃない。
「お前って、いろいろ面白いよなぁ」
「なんだよ」
こっちは怖い思いをして疲弊しているのに、伊野はニマニマと笑っている。怖いものは怖いのだから仕方ないだろと言い返してやりたいが、あんまり言うと恥の上塗りをしているみたいだから、ミルクティーを飲んで、反撃の言葉とともに喉の奥に流し込んだ。
「海崎、俺の後ろに隠れちゃってさ。ホント可愛かった」
「いいよもう……逃げたがりだって言いたいんだろ? 俺の人生、いつも逃げてばっかりだから。この高校に来たのだって、実は東京でうまくいかなくてここに逃げてきたんだ。情けない奴だって笑いたきゃ笑えよ」
暗闇からオバケが出てくるのが怖くて逃げて、人と衝突するのが怖くて逃げて、こんなにいくじのない自分がほとほと嫌になる。
「は? お前のどこが?」
伊野はさも当然というふうに言った。
「高校で、他の学校に転校するって、相当な勇気がないとできないよ。父親が転勤だっつっても、俺なら転校したくない。海崎は変わらない道よりも、変わるほうを選んだんだろ? それのどこが逃げなんだ? むしろガンガン攻めてる。めっちゃかっこいいよ」
「え……?」
そんなふうに考えたことなどなかった。転校することは逃げだとばかり思っていた。
「俺は逃げてる海崎なんて見たことないけどな。逃げるどころかサボってるところも見たことがない。勉強も、やんなきゃいけない仕事も、友達に対しても、いつも一生懸命じゃん」
伊野に言われて気がついた。
いつだって、なんとかしなきゃと必死でもがいていた。結果が伴わなかったこともたくさんある。それでも自分を諦めたことはない。思いどおりにいかなくて窒息しそうになっても、それでも真っ直ぐ生きたいと、懸命に口をパクパクさせて泳いでいた。
それは伊野の言うとおり、逃げじゃない。
「……またぼんやりしてる。海崎の頭の中は、俺の十倍は回転してるんだろうな。脳のエネルギー消費エグそうだなー、だから海崎ってめっちゃ食っても細いままなの?」
「そ、それは関係ないって」
伊野が茶化してくるから、海崎は首を横に振る。
たしかに考えすぎるクセはよくない。いつもそれでコミュニケーションのタイミングを逃してしまい、失敗してきた。
「知りたいな。いつも海崎が必死で考えてること」
伊野が微笑みかけてきた。
この優しい顔を向けられると、海崎は弱い。かっこよすぎてクラクラする。
「海崎、ひと口もらっていい?」
「えっ?」
何か言おうとしたときには、すでに伊野にミルクティーを取られていた。伊野は躊躇なく海崎が直飲みしていたペットボトルの飲み口に口をつけ、ひと口飲んでから「ありがとう」とペットボトルを返してきた。
また、伊野と間接キスだ。
伊野の「ひと口ちょうだい」は今に始まったことじゃない。反対バージョンの「おいしいからひと口飲んでみて」もある。
そのたびに、海崎はひとりだけドキドキしている。伊野は友達として接してくれているのに、こんな邪な感情を抱いていることに、本当に申し訳ない気持ちになる。
「あの……すみません」
伊野とふたり自販機の前にいたときに他校の女子高生ふたり組が伊野に声をかけてきた。
「あぁ、さっきの! カフェどうだった? なんもないけど、休憩にはなった?」
「はい、タイミングよく声かけてもらえて嬉しかったです」
どうやら伊野が呼び込みをしているときに声をかけた女子高生らしい。
伊野と話している子は、色白で、目がぱっちりしてて、優しそうな雰囲気の子だ。伊野の好みのタイプ、どストライクなんじゃないだろうか。
「あ、あの……」
女子高生が伊野にスマホを向けてきた。その画面はお友達追加のためのQRコードの画面だった。
「連絡先交換しませんか?」
こんな可愛い女子高生から連絡先を聞かれるなんて、男冥利に尽きるだろう。色白の女子高生のお友達も「この子、すっごいいい子なんです!」と友達のいいところを語り、伊野に友達を推薦し始めた。
辛い。
辛くてとてもじゃないが見ていられない。
「ごめん伊野。俺、時間だ。もう戻るね!」
海崎は居た堪れなくなって、その場から走って逃げ出した。
伊野が女子高生と仲良くしてデレる姿なんて見たくない。
あの場にいたら、海崎は友達として、伊野のことを女子高生に勧めなきゃいけない空気だった。伊野のことを勧めて、ふたりがうまくいくなんて嫌だ。友達としては心の狭い、最悪な奴だと思われるかもしれないが、どうしてもできなかった。
「何やってんだ俺……」
伊野の幸せを願っているくせに、伊野に彼女ができるのは許せない。そんな身勝手な自分が心底嫌になる。
海崎は手にしていたミルクティーに口をつけた。それを飲んだら急に伊野に会いたくなって、海崎は校舎の陰でしゃがみ込み、がっくりとうなだれた。
伊野は心底、嫌そうにため息をついた。
「へぇ。ずいぶん楽しそうに見えたけど」
伊野が女子高生に呼び込みをかけている姿を思い出して、ちょっとだけ嫌味を言ってやる。
「楽しくなんかないよ。喜んでんのは周りだけ。伊野は百人斬りするまで呼び込みやれとか言われてさ、最悪だ……」
「百人斬りっ?」
「そうだよ、JK百人連れて来いってマジふざけやがってあいつら……できるわけねぇだろ!」
伊野は理不尽だと怒っているが、海崎はあながちできなくないんじゃないか、なんて思ってしまった。
「とりあえず今日は、知り合いにも声かけて五十人達成したから、やっと開放された。……ったく俺は早く海崎に会いたかったのに」
伊野はそんなことを言って後ろから抱きついてくる。伊野に抱きしめられて、一瞬、脳が誤作動を起こしそうになったが、これはただの戯れ合いの一種だ。「早く海崎に会いたかった」というのも、ただ「早く休憩したかった」というのと同義語だ。
「はいはい、お疲れ様。伊野はよく頑張ったよ」
伊野の顔が後頭部に触れるくらいに近い。首に回された伊野の逞しい腕が、海崎のすぐ口元にあるから、愛おしくなって今すぐ腕にキスをしたい衝動にかられる。伊野に抱きしめられて、感情がパニックを起こしているが、海崎はそれを隠してなんでもないふりをする。
「もっかい言って。俺、海崎にもっと褒められたい」
「はぁっ?」
同級生に褒められたいとはなんだ! でも、今日の伊野は呼び込みのせいで結構疲れているのかもしれない。
海崎は首に回された伊野の腕をぎゅっと抱きしめる。
「伊野は任されたことを、きちんとやって偉いよ。伊野はみんなを幸せな気持ちにさせる天才だ」
この言葉は嘘じゃない。伊野がいるだけでその場の雰囲気が明るくなる。聞き上手な伊野は誰の話も真剣に聞いてくれるし、下手くそな話をしてもそれをうまく盛り立ててくれる。
だからみんな伊野のそばにいたいと思うのだろう。
「……やばい。今の言葉、めっちゃ刺さったわ」
伊野がさらに強く抱きついてくる。
「ありがと海崎」
そう言って伊野は海崎から身体を離したが、その間際、頭の後ろに伊野の唇が触れたような気がしたのは気のせいだろうか。
伊野と文化祭を見て回ることになったのだが、なにせ時間がない。一緒にいられる自由時間は四十分くらいしかなくて、伊野は「見たいとこだけさっさと見て回ろう」と言って足早に廊下を進んでいく。
「あ、高三の一組から三組はメイド喫茶だ」
高校三年生は受験があり忙しいため、三クラス合同で企画ものをやることになっている。偶然通りかかったメイド喫茶を興味本位で教室のドアの陰から覗いてみると、そこに知ってる顔がいた。
「伊野。宮城先輩がいる……」
海崎は伊野のシャツの袖を引っ張る。とてもじゃないが素通りできなかった。結構ごつい感じの体格の宮城が、眼鏡をかけたままフリフリのメイド服を着ているものだから、おかしくて仕方がない。
「うわ、マジだ……全然可愛くねぇ……」
伊野もドン引きしている。可愛い女子がたくさんいるのだから、そっちに着させればいいのにメイド服を着ているのは全員男だ。ミニスカートの下からのぞく足が、もれなく男の足で全然セクシーじゃない。
宮城は飲み物とお菓子をテーブルまで運んだあと、一昔前の「萌え萌えきゅんきゅん」ポーズをしている。
「ちょ……待って。俺たち見ちゃいけないもの見ちゃったよ……」
伊野が口元を手で覆って、必死で笑い声を抑えている。でも伊野にめちゃめちゃ同意だ。海崎も笑ってしまい、伊野と同じく必死で声を抑える。
「おい」
「わっ!」
こっそり立ち去ろうとしていたところに声をかけられて、心臓が飛び出るくらいにびっくりした。
「伊野、海崎、笑いすぎだろ。そんなにメイドが好きなら寄ってくか?」
メイド服姿の宮城が仁王立ちしている。かわいいヒラヒラ服に対して、中身の人が男らしすぎて本当に似合わない。
「い、いえ、遠慮しておきます……俺たち時間ないんで……」
海崎は両手のひらを宮城に向けてきっぱり拒絶する。宮城のメイド服姿を見ただけでお腹いっぱいなのに、これ以上は耐えられそうにない。
「それか、お前らも着てみるか? この服」
「えっ!」
急に恐ろしいことを思いついた宮城が「着てないやつあるから」などと言い出したので海崎は慌てる。
伊野とふたりでメイド服……想像しただけで絶対嫌だ。
「宮城先輩、それやばいですって。海崎が着たら冗談にならない。こいつの足、マジで白くて綺麗だから」
伊野が変なことを言っているのに、宮城も「たしかに海崎が着たら大変なことになりそうだな……」と同意するようなことを言い出した。
「てか、おい伊野。なんでそんなこと知ってるんだ……? 足、見たのか?」
「それは、まぁ、同じ部屋だと見えちゃうこともありますよね」
「ねぇ、ちょっと伊野、なんの話してるんだよっ」
会話の内容が不穏すぎて、海崎が口をはさむと、伊野は「なんでもない」ととぼけた。
「先輩、すみません、ちょっと寄りたいとこがあるんで、失礼しますっ!」
伊野は宮城にバッと頭を下げたあと、海崎の腕を掴んで歩き出す。
「おいっ、伊野ってば!」
伊野に引っ張られ、よろめきながら海崎もついていく。伊野はいつもこうだ。自分のペースに周囲を巻き込んで、ドキドキさせて、本当に困った奴だ。
「さっきのなんなんだよっ」
「だって宮城先輩、お前と一緒で勉強できるから」
「んん?」
それがなんで理由になるのかと、海崎は首をかしげる。
「なんか釣り合ってる感じでムカつくから、ちょっとマウントとってやったんだよ」
「マウント……?」
伊野の言わんとしていることの意味がわからない。
「まぁ、いいからいいから。行こ行こっ」
「待って、伊野っ」
まただ。また伊野のペースに引っ張られる。伊野といると毎日飽きない。次から次へと何かに巻き込まれる感覚だ。
そんな毎日も楽しいと思う。転校してきて伊野に出会い、伊野に教えられたことは小さなことから、大きなことまで数えきれないほどある。
それから伊野と友達のクラスをいくつか回った。高二はなぜかホラー系の企画が多くて、脱出系なのにホラー、巨大迷路もホラー、ビビリの海崎は逃げ回ってばかりいた。
「はぁ、もうホントダメ……疲れた」
緊張しすぎて喉がカラカラになり、海崎は目の前にあった自販機でペットボトルのミルクティーを買った。
「そんなに? だってどーみても高二の奴らがやってんだから怖くないだろ」
「わかってるよ。そうとわかってても苦手なんだ」
昔から怖がりなのは、海崎自身も自覚している。幼いころのトラウマのせいかもしれない。夜、ひとりきりでいるときに、背後から何か襲いかかってくるんじゃないかと怯えてばかりだった。人には恥をさらすようで言えないが、十六歳になった今でも真っ暗闇は得意じゃない。
「お前って、いろいろ面白いよなぁ」
「なんだよ」
こっちは怖い思いをして疲弊しているのに、伊野はニマニマと笑っている。怖いものは怖いのだから仕方ないだろと言い返してやりたいが、あんまり言うと恥の上塗りをしているみたいだから、ミルクティーを飲んで、反撃の言葉とともに喉の奥に流し込んだ。
「海崎、俺の後ろに隠れちゃってさ。ホント可愛かった」
「いいよもう……逃げたがりだって言いたいんだろ? 俺の人生、いつも逃げてばっかりだから。この高校に来たのだって、実は東京でうまくいかなくてここに逃げてきたんだ。情けない奴だって笑いたきゃ笑えよ」
暗闇からオバケが出てくるのが怖くて逃げて、人と衝突するのが怖くて逃げて、こんなにいくじのない自分がほとほと嫌になる。
「は? お前のどこが?」
伊野はさも当然というふうに言った。
「高校で、他の学校に転校するって、相当な勇気がないとできないよ。父親が転勤だっつっても、俺なら転校したくない。海崎は変わらない道よりも、変わるほうを選んだんだろ? それのどこが逃げなんだ? むしろガンガン攻めてる。めっちゃかっこいいよ」
「え……?」
そんなふうに考えたことなどなかった。転校することは逃げだとばかり思っていた。
「俺は逃げてる海崎なんて見たことないけどな。逃げるどころかサボってるところも見たことがない。勉強も、やんなきゃいけない仕事も、友達に対しても、いつも一生懸命じゃん」
伊野に言われて気がついた。
いつだって、なんとかしなきゃと必死でもがいていた。結果が伴わなかったこともたくさんある。それでも自分を諦めたことはない。思いどおりにいかなくて窒息しそうになっても、それでも真っ直ぐ生きたいと、懸命に口をパクパクさせて泳いでいた。
それは伊野の言うとおり、逃げじゃない。
「……またぼんやりしてる。海崎の頭の中は、俺の十倍は回転してるんだろうな。脳のエネルギー消費エグそうだなー、だから海崎ってめっちゃ食っても細いままなの?」
「そ、それは関係ないって」
伊野が茶化してくるから、海崎は首を横に振る。
たしかに考えすぎるクセはよくない。いつもそれでコミュニケーションのタイミングを逃してしまい、失敗してきた。
「知りたいな。いつも海崎が必死で考えてること」
伊野が微笑みかけてきた。
この優しい顔を向けられると、海崎は弱い。かっこよすぎてクラクラする。
「海崎、ひと口もらっていい?」
「えっ?」
何か言おうとしたときには、すでに伊野にミルクティーを取られていた。伊野は躊躇なく海崎が直飲みしていたペットボトルの飲み口に口をつけ、ひと口飲んでから「ありがとう」とペットボトルを返してきた。
また、伊野と間接キスだ。
伊野の「ひと口ちょうだい」は今に始まったことじゃない。反対バージョンの「おいしいからひと口飲んでみて」もある。
そのたびに、海崎はひとりだけドキドキしている。伊野は友達として接してくれているのに、こんな邪な感情を抱いていることに、本当に申し訳ない気持ちになる。
「あの……すみません」
伊野とふたり自販機の前にいたときに他校の女子高生ふたり組が伊野に声をかけてきた。
「あぁ、さっきの! カフェどうだった? なんもないけど、休憩にはなった?」
「はい、タイミングよく声かけてもらえて嬉しかったです」
どうやら伊野が呼び込みをしているときに声をかけた女子高生らしい。
伊野と話している子は、色白で、目がぱっちりしてて、優しそうな雰囲気の子だ。伊野の好みのタイプ、どストライクなんじゃないだろうか。
「あ、あの……」
女子高生が伊野にスマホを向けてきた。その画面はお友達追加のためのQRコードの画面だった。
「連絡先交換しませんか?」
こんな可愛い女子高生から連絡先を聞かれるなんて、男冥利に尽きるだろう。色白の女子高生のお友達も「この子、すっごいいい子なんです!」と友達のいいところを語り、伊野に友達を推薦し始めた。
辛い。
辛くてとてもじゃないが見ていられない。
「ごめん伊野。俺、時間だ。もう戻るね!」
海崎は居た堪れなくなって、その場から走って逃げ出した。
伊野が女子高生と仲良くしてデレる姿なんて見たくない。
あの場にいたら、海崎は友達として、伊野のことを女子高生に勧めなきゃいけない空気だった。伊野のことを勧めて、ふたりがうまくいくなんて嫌だ。友達としては心の狭い、最悪な奴だと思われるかもしれないが、どうしてもできなかった。
「何やってんだ俺……」
伊野の幸せを願っているくせに、伊野に彼女ができるのは許せない。そんな身勝手な自分が心底嫌になる。
海崎は手にしていたミルクティーに口をつけた。それを飲んだら急に伊野に会いたくなって、海崎は校舎の陰でしゃがみ込み、がっくりとうなだれた。