寮に帰ってきて、今日は疲れたから早めに寝ようと夕食やシャワーを早めに済ませた。ヨレ気味のくたびれた部屋着用Tシャツを着て、共同の洗面台の前で歯磨きをしていたらトン、と背後から肩を叩かれる。
「海崎、首の後ろが真っ赤だ。日焼けあとがすごいぞ」
 声をかけてきたのは宮城だった。海崎は「えっ、そんなにひどいですかっ?」と鏡で首の後ろを確認しようとするが、うまく見えない。 
「ここからここまで赤くなってる。海崎は肌が白いから焼けると赤くなるんだな」
 宮城が指で海崎のうなじに触れる。たしかにその辺りは、シャワーを浴びたときにお湯がしみた場所だ。
「今日、高二は遠足で海に行ったんです。それで焼けちゃったみたいで……」
「そうだ。俺の部屋に来いよ。日焼けに効くスプレーの薬があるんだ」
 それは助かります、と海崎が言いかけたとき、どこからともなく伊野が急に現れて「行くな」と止められた。
「宮城先輩。俺も日焼け用の薬なら持ってます。だから結構です」
 なぜか伊野は宮城に強い態度をとる。伊野は一歩も譲らないといった様子だ。
「伊野、お前関係ないだろ」
「とにかく、薬なら俺と海崎の部屋にあるんで大丈夫です!」
 伊野の頑なな態度に、宮城は面白くなさそうにしていたが、海崎が「先輩、気遣いありがとうございます、でも薬は伊野に借ります」と言うと、宮城は引き下がっていった。
「伊野っ、どうしたんだよ」
 宮城がいなくなってから、小声で伊野に聞く。先輩にあんな態度を取るなんて伊野はどうかしている。
「……海崎にばっかり手伝いさせて、宮城先輩、絶対にお前のこと狙ってる」
「はぁ?」
 伊野は何を意味のわからないことを言っているのだろう。
「いいんだよ、俺は部活もないから時間はあるし、高三の先輩たちは受験だろ? 手伝いくらい構わないよ」
 海崎は少しくらい宮城にコキ使われても構わないと思っているのに、伊野は海崎がパシられているように感じるのだろうか。
「お前は何もわかってない」
「何が?」
「とにかく部屋には行くな。先輩に何かされたら俺に言えよ」
 伊野は吐き捨てるように言い、部屋に戻って行った。
「なんなんだよ……」
 なんだか腑に落ちないまま、海崎は歯磨きを口に咥えた。
 まったく伊野は過保護なのだろうか。気にかけてくれることは嬉しいが、先輩にまであんな態度を取って、そのせいで伊野が目をつけられたりしないか心配だ。


「おう、海崎」
 海崎が部屋に戻ると、机の前でスマホをいじっていた伊野が立ち上がった。
「そこ座れ。首の後ろ、薬塗ってやるよ」
「あ、ありがと」
 伊野に言われて海崎は自分のベッドの端に腰掛ける。
「首、見せて」
 伊野は海崎の隣に座り、丁寧に薬を塗ってくれる。うなじを指で撫でられて、ちょっとくすぐったいが、自分では見えないところだから塗ってもらえるとありがたい。
「次、伊野も。いつもの顔の薬」
「えーいいよ、もう」
「ダメだ。俺が許さない」
 いつかのサッカーボールでできた顔の傷もかなり目立たなくなってきている。それでもできることはやってあげたい。伊野は面倒くさがって自分では薬を塗ろうとしないから。
 今度は海崎が、伊野の頬に薬を塗る。
 伊野はこのとき、いつも目を閉じるのだ。
 実は海崎は、この僅かな時間が好きだ。伊野が目を閉じているから、顔をじっくり見ても変に思われないし、少しだけ伊野と距離が近づくことができる。
 伊野は無防備だ。今だったら伊野に簡単にキスできる。実は海崎は、いつもそんな邪なことを考えてしまっている。
 でも伊野は悪いことはされないと、海崎のことを信用してくれているのだろう。だからこそ平気で無防備な姿をさらけ出してくれるのだと思う。
「終わったよ」
 海崎の特別な時間はあっという間に終わった。変に思われないように、海崎はすぐさま伊野から離れる。
「ありがと、海崎」
「このくらいいいよ」
 机の引き出しに薬をしまって、ティッシュで指についた軟骨を拭う。
 なぜだろう。今日はいつもよりもドキドキする。海で、伊野から長嶺の話を聞いたせいだろうか。
 あのとき伊野の涙を初めて見た。海崎もつられて泣いて、そのあと伊野と強く抱き合ったからだろうか。
 伊野は寝る準備を整えている。海崎も支度を整え、早々にベッドの中に潜り込む。
「おやすみ、伊野」
 海崎はベッドの中から伊野におやすみを言って目を閉じる。
 今日は朝も早かったし、遠足で一日中、海にいたから疲れた。
 今日の伊野はかっこよかった。ビーチフラッグのときの真剣な姿は今でも目に焼き付いている。
 やっぱり伊野のことが好きだ。
 男にこんな気持ちになるなんて、きっと自分はどこか歪んでいるのだろう。
 でも男だからって誰でも恋愛対象になるわけじゃない。今まで自分のセクシャリティに戸惑ったことはないし、なんなら恋愛どころか人と関わること自体が怖かった。
 伊野だけが特別で、もしかしたら男が好きなんじゃなくて、伊野という人に惹かれているのかもしれない。
「海崎、俺も入れて。あと少しだけ話しようぜ」
 伊野は部屋の電気を消したあと、海崎の布団をめくりあげ、そこに潜り込んできた。
 えっ、と思った。
 海崎の心拍数が跳ね上がる。やばいやばい。伊野とひとつの布団に入るのは、さすがに耐えられない。
 でも伊野は何とも思っていない様子で、遠慮なしに海崎の横に寝転がっている。
「なぁ、海崎」
「な、なに?」
 海崎は動揺が伊野にバレないようにできるだけ平静を装う。
 伊野は海崎の気持ちなど知らないから、こうして不用意に近づいてくるに違いない。もし海崎が伊野に対して妙な気持ちを抱えていることを知ったら、伊野に避けられるかもしれない。最悪の場合、友達じゃいられなくなる。
「今日、俺がお前に話したこと、誰にも言わないで」
 今日伊野が話してくれたことが、何のことを指すのか、聞く必要もない。長嶺についての話に違いない。
「なかむーにも話したことがない。長嶺が学校辞めた理由は、寮を出て実家に戻らなきゃいけなくなったってことになってるから」
「うん。わかった。誰にも話さない」
 そんなこと、念を押されなくても誰にも話すつもりなんてなかった。伊野の大切な気持ちを、軽々と話題に上げることなどするものか。
「うちの高校もさ、A高校ほどじゃないけど、成績上位の奴らはそこそこいい大学入ってるんだ」
「そうだよね。転校してくるときに見たよ」
 この高校のパンフレットに、大学進学実績が載っていた。そこには名だたる大学の名前が並んでいた。
「だからさ、海崎もこのまま卒業までここにいたらいいんじゃね、と思って」
「えっ?」
 思わず伊野のほうを見るが、暗くてあまり伊野の表情はわからない。
 でも、ずっとここにいてもいいと伊野から言われた気持ちになり、心があったかくなった。
「海崎はいなくならないで」
 ぽつりと呟いた伊野の言葉の重みを知っている。長嶺が寮からいなくなったとき、伊野はどれだけ苦しんだのか、涙が溢れそうになるくらいにわかる。
 ――俺も、俺もずっと伊野と一緒にいたい。
 咄嗟に浮かんだ言葉を海崎はぐっと飲み込んだ。
 伊野は優しい。きっと相手が海崎でなくても、そんな言葉をかけてあげるに違いない。
 伊野の想いと、海崎が伊野に対して抱いている感情は少し異なる。
 伊野のそばにいるだけでは飽き足りず、海崎は伊野にその先を求めている。伊野に触れてほしくて、伊野に触れたくて、伊野が女子に告白されるたびに怖くなって、伊野に特定の相手がいないと知ると心底安心する。
 伊野の心を独り占めしたくてたまらない。「海崎だけは特別だ」と、伊野に言葉で、態度で、示してもらいたい。
「うん。そうなれたらいいな……」
 自分が抱いている伊野へ対する感情は、ひどく我が儘なものだとわかっている。だから伊野には黙っている。心が張り裂けそうになっても、この気持ちは伊野には伝えない。
 それ以上の伊野からの反応がないので様子を伺うと、伊野は目を閉じ、すでに眠っているようだった。
 今日は伊野も疲れていたのだろう。
 下のベッドで寝られてしまって、まいったなと思いながらも、ちょっとだけ嬉しい。
 いつも伊野は二段ベッドの上で寝ているし、先に起きるのは伊野だ。
 だからこんなにじっくりと伊野の寝顔を見ることはなかった。
 いつもは完璧なほどかっこいい伊野だが、寝顔は幼く思えた。静かな呼吸をするさまも、見ていて愛おしい。
「おやすみ、伊野」
 伊野の肩までそっと布団をかけて、海崎は伊野の安眠をなるべく妨げないよう、ベッドの端っこで、できるだけ身体を小さくし、縮こまって眠った。