伊野とふたり、岩陰に座って海を眺めている。随分遠くまで来たから、周囲に人影はなく、聞こえるのは自然の音だけだ。
寄せては返すエンドレスな波音が心地よい。普遍的な水の音というのは、どうしてこんなに気持ちが落ち着くものなのだろう。
「海崎、ありがとな」
伊野が急にありがとうなんて言うから「えっ、なんのこと?」と返す。
「ビーチフラッグのときだよ。海崎の声が聞こえた。俺に、何度も何度も頑張れって」
「あ、あのときは夢中で……」
あのときは伊野に勝ってほしくて思わず声が出た。海崎の中では伊野が一番だ。なんでも伊野に一番になってほしい。伊野には笑顔が似合うから。
「海崎があんなことするなんて思わなかったから、嬉しかった。お前の気持ちが伝わってきてさ、海崎のためにも絶対に一位になってやるって頑張ったのに、負けてごめん」
「謝らないでよ、伊野は一生懸命頑張ったんだ。俺、見てたよ。伊野の本気の姿。だからなにも謝ることなんてないよ。伊野は本当にすごいよ。すごくかっこよかった。最高だ」
あの姿のどこに恥じることがある? 伊野は本当に素晴らしかった。
伊野はいつだって真っ直ぐだ。迷いのないその姿に惚れ惚れする。
「海崎、お前って奴は……」
伊野は海崎を見て呆れている様子だ。その目は優しく海崎を見つめているけれど。
「怪我のせいなの?」
海崎は伊野に話を切り出した。ずっとずっと気になっていたことだ。
「俺、聞いたんだ。伊野は空手部で、試合のときに友達と対戦して大きな怪我をしたって。足を痛めたの? 今はもうなんともないの?」
「あー、その話か」
伊野は頭を掻きつつ、うつむいた。だがすぐに海崎に真っ直ぐな視線をむけてきた。
「怪我はほとんど治ってるよ。医者からも空手に復帰していいって言われてる。あのとき負けたのは、俺の実力が足りなかったせいだよ、怪我のせいじゃない」
「そっか……」
伊野は強い男だ。本当に細かいが、ビーチフラッグのとき、一組から六組まで数字順に並んでいた。それでいてフラッグが置かれていたのは中央、三組と四組の直線状だ。その時点で一組は四組よりも不利だったのに、伊野はクラスの誰に言われても一切言い訳をしなかった。もし伊野が三組の位置からスタートしてたら確実に一位だったと思う。
「空手部、もう辞めちゃったの?」
「いや。まだ所属はしてて、もう怪我は治ってるし、復帰してもいいんだけどさ。俺だけ復帰するのがなんか、嫌でさ」
その言い方で海崎は理解した。
伊野は、海崎の前の同室者だった長嶺のことを想っているのだ。
「長嶺くんのこと? 伊野は長嶺くんが帰ってくることをずっと待ってたの?」
その名前を出した瞬間、伊野の表情が変わった。
伊野がこんなさみしそうな顔をするのを初めて見た。その表情を見ただけで伊野がどれだけ長嶺のことを大切にしていたのかわかる。伊野にとって特別な人だったということがひしひしと伝わってくる。
「長嶺は部屋も一緒だったし、同じ空手部で、すごく気が合ったんだ」
伊野は静かに話し始めた。昔を思い出すように語る伊野は遠い目をして海を眺めている。
「我が強い奴でさ、寮のベッドも絶対に下がいいって言って譲らなかった。俺も下がよかったからじゃんけんして俺が勝ったのに、あいつアレコレ文句言いやがって、結局俺が譲ることになったんだぜ?」
ああ。と海崎は合点がいった。だから伊野は寮室をひとりで使うようになってからも、二段ベッドの上を使っていたのだ。伊野にとって下のベッドは長嶺の場所なのだ。
そして、長嶺がいつ帰ってきてもいいように、ベッドを空けて待っていたのだろう。
そこへ海崎が転校してやってきた。海崎がいたら長嶺の帰る場所がなくなる。だから伊野はあんなに転校生は嫌だと訴えていたのだ。
「試合のときにあいつの蹴りをまともにくらっちゃってさ。俺、もともと左足を痛めてて、それをおして試合に出てた。そこを思いっきり蹴られたもんだから余計に損傷がひどくて、学校休んで手術するのにしばらく入院してたんだ」
「それは、辛かったね……」
怪我のため大会は途中棄権。さらに怪我を負って入院生活。それは伊野にとってどれだけ辛かっただろうと想像するだけで、伊野を今すぐ抱きしめてやりたくなる。
「退院して、授業は受けられるようになったけど、部活は復帰できなくて。長嶺は責任感じて俺のことを世話してくれて、俺も『お前のせいじゃない、あれは事故だ』って言ってたんだけどさ」
怪我をさせられても伊野は長嶺を責めることをしなかったのだ。そして、怪我をさせてしまった長嶺は伊野のことを懸命にフォローしていた。それだけだったら、ふたりの友情は壊れることはなかったはずだ。
「長嶺くんは、どうして学校を辞めちゃったの……?」
これを伊野に聞くのは酷なことだろうか。少し迷ったが、どうしてもそのことを知りたかった。
相手が伊野だからだ。海崎にとって伊野はどうでもいい存在じゃない。伊野のことを深く知りたいと思った。
「俺のせいだよ。俺のせいであいつは何もかも嫌になって学校を辞めた」
伊野の目から一筋の涙がこぼれた。
笑顔の下、伊野はずっと苦しんでいたのだ。ずっと長嶺のことを想ってたったひとり、心を痛めていた。
「怪我してるといろいろ不便でさ。地味に痛いし、やりたいこともできない。俺、駅の階段で派手に転んでめっちゃ恥ずかしくて。それを長嶺が笑ったもんだから、つい、『誰のせいでこんな目に遭ってると思ってんだよ』って言っちゃったんだ」
「あぁ……」
聞いているだけで海崎も胸が痛い。
それは禁句だ。優しい伊野がずっと長嶺に隠し通してきた、小さな小さな本音。
いや。伊野のことだから本当はそんなこと思っていなかったかもしれない。不自由な身体で過ごす毎日にイライラしていて、親友の長嶺に弱音を吐きたくなっただけかもしれない。
「言った言葉は取り返せないって、痛いほどわかった。長嶺は『やっぱりそう思ってたんだな』って言って、俺の怪我の責任を取るとか意味わかんねぇこと言って高校を辞めたんだ」
伊野と長嶺、時間をかけて育ったふたりの友情は、たったひと言の言葉で一瞬にして崩れ去った。こんな悲しい結果を簡単に受け入れられるわけがない。だから伊野はずっと長嶺の帰りを待っていた。
もしかしたら、海崎がやってきた今でもずっと、長嶺の帰りを望んでいるかもしれない。
「最悪だろ、俺。きっとどっかであいつのせいだって思ってたんだろうな。いい奴ぶってるだけ。ほんとマジで自分が嫌になる……」
うつむく伊野を放ってなどおけなかった。黙ってなどいられなかった。
「伊野は悪くない。伊野は嫌な奴なんかじゃないよ……」
なぜだろう。張り裂けそうに胸が痛い。涙が込みあげてくる。
「自分で自分の感情をコントロールできなくなることはあるよ。思ってもいない言葉をぶつけてしまうこともある。でも、でも、それは一時的な感情なんだって言われたほうもわかる。だって自分もそういうことをしてしまった経験があるから」
伊野の身体を思わず抱きしめる。伊野は嫌がることもなく、静かに海崎に身体を預けてきた。
「伊野は長嶺くんのせいだなんて思ってない。長嶺くんも伊野の本当の気持ち、わかっていると思うよ。長嶺くんが学校を辞めたのだって、きっと気持ちが高ぶってしまって勢いで決断しちゃっただけなんじゃないかな。今ごろ後悔しているかもしれない。もう一度、高校に通いたいと思い直してくれてるかもしれない」
「そうかな……」
伊野の弱々しい声は、海崎の腕の中でくぐもっている。
「長嶺くんもずるいよ。伊野にこんなに背負わせて、自分はいなくなっちゃって。伊野が、伊野が可哀想だ。俺が長嶺くんに会って、直談判してやる。伊野のことどう思ってるか、いつ学校に戻ってくるんだって聞いてやるっ」
海崎は全面的に伊野の味方だ。伊野のためなら長嶺の家に押しかけることくらいやってやる。長嶺は伊野のことを好きに決まっているから、ふたりの誤解を解いて仲直りさせてやりたい気持ちでいっぱいだ。
「はは……」
海崎の腕の中の伊野の肩が震えている。どうしたんだろうと思って、海崎は伊野の顔を見てやろうと伊野から身体を離そうとする。
「伊野? どうした——」
「見るな」
今度は伊野に抱き寄せられた。強引に抱きしめられ、伊野の力強い腕に掴まれ、痛いくらいだ。
「海崎。もう少しこのままがいい」
肩を震わせて海崎の胸に顔を埋める伊野は、ぎゅっと海崎の身体にしがみついてきた。
「うん……」
それ以上の言葉はなかった。海崎は、少し濡れた伊野の身体に腕を回して、その大きな背中を何度も何度も撫でていた。
寄せては返すエンドレスな波音が心地よい。普遍的な水の音というのは、どうしてこんなに気持ちが落ち着くものなのだろう。
「海崎、ありがとな」
伊野が急にありがとうなんて言うから「えっ、なんのこと?」と返す。
「ビーチフラッグのときだよ。海崎の声が聞こえた。俺に、何度も何度も頑張れって」
「あ、あのときは夢中で……」
あのときは伊野に勝ってほしくて思わず声が出た。海崎の中では伊野が一番だ。なんでも伊野に一番になってほしい。伊野には笑顔が似合うから。
「海崎があんなことするなんて思わなかったから、嬉しかった。お前の気持ちが伝わってきてさ、海崎のためにも絶対に一位になってやるって頑張ったのに、負けてごめん」
「謝らないでよ、伊野は一生懸命頑張ったんだ。俺、見てたよ。伊野の本気の姿。だからなにも謝ることなんてないよ。伊野は本当にすごいよ。すごくかっこよかった。最高だ」
あの姿のどこに恥じることがある? 伊野は本当に素晴らしかった。
伊野はいつだって真っ直ぐだ。迷いのないその姿に惚れ惚れする。
「海崎、お前って奴は……」
伊野は海崎を見て呆れている様子だ。その目は優しく海崎を見つめているけれど。
「怪我のせいなの?」
海崎は伊野に話を切り出した。ずっとずっと気になっていたことだ。
「俺、聞いたんだ。伊野は空手部で、試合のときに友達と対戦して大きな怪我をしたって。足を痛めたの? 今はもうなんともないの?」
「あー、その話か」
伊野は頭を掻きつつ、うつむいた。だがすぐに海崎に真っ直ぐな視線をむけてきた。
「怪我はほとんど治ってるよ。医者からも空手に復帰していいって言われてる。あのとき負けたのは、俺の実力が足りなかったせいだよ、怪我のせいじゃない」
「そっか……」
伊野は強い男だ。本当に細かいが、ビーチフラッグのとき、一組から六組まで数字順に並んでいた。それでいてフラッグが置かれていたのは中央、三組と四組の直線状だ。その時点で一組は四組よりも不利だったのに、伊野はクラスの誰に言われても一切言い訳をしなかった。もし伊野が三組の位置からスタートしてたら確実に一位だったと思う。
「空手部、もう辞めちゃったの?」
「いや。まだ所属はしてて、もう怪我は治ってるし、復帰してもいいんだけどさ。俺だけ復帰するのがなんか、嫌でさ」
その言い方で海崎は理解した。
伊野は、海崎の前の同室者だった長嶺のことを想っているのだ。
「長嶺くんのこと? 伊野は長嶺くんが帰ってくることをずっと待ってたの?」
その名前を出した瞬間、伊野の表情が変わった。
伊野がこんなさみしそうな顔をするのを初めて見た。その表情を見ただけで伊野がどれだけ長嶺のことを大切にしていたのかわかる。伊野にとって特別な人だったということがひしひしと伝わってくる。
「長嶺は部屋も一緒だったし、同じ空手部で、すごく気が合ったんだ」
伊野は静かに話し始めた。昔を思い出すように語る伊野は遠い目をして海を眺めている。
「我が強い奴でさ、寮のベッドも絶対に下がいいって言って譲らなかった。俺も下がよかったからじゃんけんして俺が勝ったのに、あいつアレコレ文句言いやがって、結局俺が譲ることになったんだぜ?」
ああ。と海崎は合点がいった。だから伊野は寮室をひとりで使うようになってからも、二段ベッドの上を使っていたのだ。伊野にとって下のベッドは長嶺の場所なのだ。
そして、長嶺がいつ帰ってきてもいいように、ベッドを空けて待っていたのだろう。
そこへ海崎が転校してやってきた。海崎がいたら長嶺の帰る場所がなくなる。だから伊野はあんなに転校生は嫌だと訴えていたのだ。
「試合のときにあいつの蹴りをまともにくらっちゃってさ。俺、もともと左足を痛めてて、それをおして試合に出てた。そこを思いっきり蹴られたもんだから余計に損傷がひどくて、学校休んで手術するのにしばらく入院してたんだ」
「それは、辛かったね……」
怪我のため大会は途中棄権。さらに怪我を負って入院生活。それは伊野にとってどれだけ辛かっただろうと想像するだけで、伊野を今すぐ抱きしめてやりたくなる。
「退院して、授業は受けられるようになったけど、部活は復帰できなくて。長嶺は責任感じて俺のことを世話してくれて、俺も『お前のせいじゃない、あれは事故だ』って言ってたんだけどさ」
怪我をさせられても伊野は長嶺を責めることをしなかったのだ。そして、怪我をさせてしまった長嶺は伊野のことを懸命にフォローしていた。それだけだったら、ふたりの友情は壊れることはなかったはずだ。
「長嶺くんは、どうして学校を辞めちゃったの……?」
これを伊野に聞くのは酷なことだろうか。少し迷ったが、どうしてもそのことを知りたかった。
相手が伊野だからだ。海崎にとって伊野はどうでもいい存在じゃない。伊野のことを深く知りたいと思った。
「俺のせいだよ。俺のせいであいつは何もかも嫌になって学校を辞めた」
伊野の目から一筋の涙がこぼれた。
笑顔の下、伊野はずっと苦しんでいたのだ。ずっと長嶺のことを想ってたったひとり、心を痛めていた。
「怪我してるといろいろ不便でさ。地味に痛いし、やりたいこともできない。俺、駅の階段で派手に転んでめっちゃ恥ずかしくて。それを長嶺が笑ったもんだから、つい、『誰のせいでこんな目に遭ってると思ってんだよ』って言っちゃったんだ」
「あぁ……」
聞いているだけで海崎も胸が痛い。
それは禁句だ。優しい伊野がずっと長嶺に隠し通してきた、小さな小さな本音。
いや。伊野のことだから本当はそんなこと思っていなかったかもしれない。不自由な身体で過ごす毎日にイライラしていて、親友の長嶺に弱音を吐きたくなっただけかもしれない。
「言った言葉は取り返せないって、痛いほどわかった。長嶺は『やっぱりそう思ってたんだな』って言って、俺の怪我の責任を取るとか意味わかんねぇこと言って高校を辞めたんだ」
伊野と長嶺、時間をかけて育ったふたりの友情は、たったひと言の言葉で一瞬にして崩れ去った。こんな悲しい結果を簡単に受け入れられるわけがない。だから伊野はずっと長嶺の帰りを待っていた。
もしかしたら、海崎がやってきた今でもずっと、長嶺の帰りを望んでいるかもしれない。
「最悪だろ、俺。きっとどっかであいつのせいだって思ってたんだろうな。いい奴ぶってるだけ。ほんとマジで自分が嫌になる……」
うつむく伊野を放ってなどおけなかった。黙ってなどいられなかった。
「伊野は悪くない。伊野は嫌な奴なんかじゃないよ……」
なぜだろう。張り裂けそうに胸が痛い。涙が込みあげてくる。
「自分で自分の感情をコントロールできなくなることはあるよ。思ってもいない言葉をぶつけてしまうこともある。でも、でも、それは一時的な感情なんだって言われたほうもわかる。だって自分もそういうことをしてしまった経験があるから」
伊野の身体を思わず抱きしめる。伊野は嫌がることもなく、静かに海崎に身体を預けてきた。
「伊野は長嶺くんのせいだなんて思ってない。長嶺くんも伊野の本当の気持ち、わかっていると思うよ。長嶺くんが学校を辞めたのだって、きっと気持ちが高ぶってしまって勢いで決断しちゃっただけなんじゃないかな。今ごろ後悔しているかもしれない。もう一度、高校に通いたいと思い直してくれてるかもしれない」
「そうかな……」
伊野の弱々しい声は、海崎の腕の中でくぐもっている。
「長嶺くんもずるいよ。伊野にこんなに背負わせて、自分はいなくなっちゃって。伊野が、伊野が可哀想だ。俺が長嶺くんに会って、直談判してやる。伊野のことどう思ってるか、いつ学校に戻ってくるんだって聞いてやるっ」
海崎は全面的に伊野の味方だ。伊野のためなら長嶺の家に押しかけることくらいやってやる。長嶺は伊野のことを好きに決まっているから、ふたりの誤解を解いて仲直りさせてやりたい気持ちでいっぱいだ。
「はは……」
海崎の腕の中の伊野の肩が震えている。どうしたんだろうと思って、海崎は伊野の顔を見てやろうと伊野から身体を離そうとする。
「伊野? どうした——」
「見るな」
今度は伊野に抱き寄せられた。強引に抱きしめられ、伊野の力強い腕に掴まれ、痛いくらいだ。
「海崎。もう少しこのままがいい」
肩を震わせて海崎の胸に顔を埋める伊野は、ぎゅっと海崎の身体にしがみついてきた。
「うん……」
それ以上の言葉はなかった。海崎は、少し濡れた伊野の身体に腕を回して、その大きな背中を何度も何度も撫でていた。