その日の夜、寮では中村の話題で持ちきりだった。
 告白を成功させた中村は、晴れて彼女ができた。その話を聞きたがったり、冷やかしたりで談話室は大盛り上がり。中村もまんざらでもない様子で「あざーす、あざーす」と嬉しそうだ。
「あ、海崎いたいた! ちょっと手伝ってほしいんだけど」
 寮長の宮城に呼ばれて、海崎は「はい」と談話室のソファーから立ち上がり、宮城について廊下を歩いていく。
「共用の冷蔵庫あるじゃん? あれが汚くてさ。今日こそ俺は冷蔵庫を片付ける!」
「それを、手伝えってことですか?」
「そうそう、ひとりじゃ心折れそうだから」
 たしかにそうかもしれない。共用の冷蔵庫の中は期限切れの食品や、誰のかわからない飲みかけのペットボトルが入っていたりとカオス状態だ。あれをひとりで片付けるのは大変だ。
 食堂にある共用冷蔵庫の前に着くと、宮城は深呼吸をして気合いを入れた。
「やばそうなのは捨てよう!」
 宮城は冷蔵庫の中のものを選別していく。その間に海崎は、汚れた冷蔵庫の中を拭き上げる、という分担作業で片付けを進めている。
「海崎、これやばくね?」
 宮城が見せてきたのは、イカの塩辛的な何かだ。賞味期限は二年も前に切れていて、見た目だけで完全アウト。食べられる様子じゃない。
「多分卒業した先輩がそのまま忘れてったんだろうな」
 それからも宮城は『やばい食品』を見せてきては、「これまだ食えるかな?」と面白半分に言う。
「宮城先輩、それ絶対にアウトですよ」
「マジ? ほら、見た目はいけそうだって。匂いやばいけど」
「ちょっ……一年前に期限切れてますって!」
「いやワンチャンご飯に混ぜたら……」
「ダメですって」
 宮城の冗談がおかしくて海崎は笑う。もったいないが、明らかに食べられないものばかりだ。
「あ。これ、長嶺(ながみね)のだ」
 宮城が次に手にしたのは、油性マジックでフタに長嶺と書かれているペットボトル飲料だった。
「これまだいけんじゃね? 長嶺がいなくなったのは海崎が来る三ヶ月前だから、まだ半年くらいだろ?」
「長嶺……?」
「海崎の前に伊野と同室だった奴だよ。伊野とケンカして学校辞めてここからいなくなった」
「伊野とケンカですかっ?」
 伊野の前の同室者は、伊野が原因でいなくなったなんて信じられなかった。伊野はあの性格だ。それが、どうして学校を辞めるレベルの問題に発展したのだろう。
「伊野と長嶺はすごく仲よかったんだよ。ふたりとも同じ空手部でさ。お互い全国大会に出場するくらいすごかった」
「伊野って部活やってたんですか?」
 以前、伊野に聞いたとき「俺も帰宅部」と言われたのだ。伊野は体格がいいから、てっきり運動部に所属していると思っていたから意外だと思ったことを思い出した。
「えっ? そっから? 伊野は海崎に何も話さなかったんだな」
 それから宮城は伊野と長嶺の話をしてくれた。
「ふたりが県大会に出たときのことなんだけどさ。トーナメントを勝ち進んでいったら、同じ高校同士で試合することになったわけ。それで、長嶺は悪気はなかったと思うんだけどさ、長嶺の蹴りで伊野が怪我をしてさ」
「怪我? 重症だったんですか?」
「ああ。伊野は左足靭帯損傷で入院して手術してる。伊野が退院してきて、それからふたりがギクシャクし始めてさ、何があったか詳しくは知らないけど、長嶺が学校辞めて寮からいなくなった。今は怪我の具合はすっかり良さそうだけど、伊野も部活に戻らないままだよな」
「そうだったんですか……」
 伊野にとって大事件じゃないか。そんな話は伊野は微塵も話してくれたことがない。その事実に寂しさを覚えた。
「海崎が初めて寮に来たときさ、伊野は海崎が来るのを嫌がってただろ?」
「……あ、はい……」
 そうだった。伊野が謝ってくれたから、気にならなくなってすっかり頭の中から消えかけていたが、伊野は初対面のとき、転校生の海崎が来ることを嫌がっていた。
「あれ、許してやってくれ。伊野はずっと長嶺が戻ってくるのを信じて待ってたんだ」
「え……?」
「長嶺はもう学校辞めただろって言っても、伊野は聞かなくてさ。『あいつは絶対に戻ってくる』って訴えてた。だからあのとき『転校生は嫌だ』なんて言ってたんだ。海崎のことを嫌いなわけじゃない。伊野が長嶺のことを待ってただけなんだよ」
 伊野が転校生を嫌がっていた理由がやっとわかった。
 ひとり部屋がよかったわけじゃなかった。海崎を毛嫌いしたわけでもなかった。
 伊野はケンカ別れをした親友が戻ってくるための居場所を守りたかったのだ。
「はい。伊野が悪い奴じゃないってことは、話してみてよくわかりました」
 海崎が同室になるということは、長嶺が戻る場所がなくなるということだ。だから伊野は必死で嫌だと訴えていただけだ。今ならわかる。伊野は我が儘を言うタイプではない。
「だろ? 俺もどうなるかってお前らの様子見てたけど、仲良くやってるみたいで安心したよ。伊野もこれで長嶺のこと、諦めがついたんじゃないかな。いつまでも引きずっててもよくないだろ? 海崎が寮に来てくれたのは伊野にとってもよかったよ」
 海崎に気を遣ってくれたのか、宮城はそんなふうに言って笑顔を見せた。
「そうでしょうか……」
 海崎は不安でしかない。伊野は情に熱いタイプだ。親友がいなくなって半年で、その親友のことを忘れてしまうとは思えない。
 伊野は、今でも長嶺の帰りを待っているのではないだろうか。
「ごめん、大丈夫、そんな顔すんなって!」
 宮城が励ますように海崎の肩を抱く。
「来てくれたのが海崎でよかったって俺は思ってるよ。海崎はよく手伝ってくれるし、うるさくないし!」
 寮長という立場から見たらそうなのだろう。寮の仕事をきっちりこなして問題を起こさない、大人しくて真面目な生徒のほうが負担は少ない。
「それに、可愛い」
 そう言われた瞬間、メガネの奥の宮城の目つきが変わった気がした。
「とにかく! 俺は海崎が来てくれてめちゃくちゃ助かってる。だから伊野のことは気にすんなって」
 宮城は海崎の肩をぽんぽんと軽く二度叩いたあと、「よし、片づけるぞー!」と再び冷蔵庫掃除を始めた。
 片付けてみると本当に謎の食品ばかり出てきたが、断捨離したおかげで冷蔵庫は綺麗になっていく。
「うわ、すごいな、こんなに広かったんだ……」
「本当ですね」
 宮城が感動するのもわかる。海崎も冷蔵庫が綺麗になって清々しい気分だ。
「ありがとう海崎。助かったよ」
「いいえ、いつでも言ってください」
 宮城から頼まれごとをされるのは、全然苦じゃない。もともと掃除は性に合うみたいだ。カオスな冷蔵庫掃除だって、ふたりでわちゃわちゃ言いながらやっていたら、小一時間ほどで終わった。
「そういえばさ、海崎もクッキー作ったの?」
 最後の後片付けをしているときに宮城に聞かれて海崎は頷いた。
「あ、はい。作りましたよ。俺は一組で、なかむーは二組で、合同で調理実習しましたから」
「誰にあげたの?」
「だ、誰にもあげてませんよ!」
 宮城までそんな話をしてくるとは思わなかった。今日は中村のこともあって、みんなクッキーの行方に興味があるのかもしれない。
「誰にもあげないの?」
「……はい。あげる人なんていないから……」
 一番仲のいい女子は上原だが、間違ってもあげちゃいけないとわかった。ただでさえ妙な噂が立っているのに、それを助長してはダメだ。
「じゃあさ、俺にくれない?」
「え……?」
「なんかみんな楽しそうで羨ましくて。俺も参加してみたくてさ。ちゃんとお返しするから、な? 海崎!」
 どうしよう。でも、あのまま部屋に置いておいても自分で食べるだけのものだ。