四月は出会いの季節だ。今年から高校生になった真山祐希は、弾んだ足取りで校門を潜った。

 丈の長いブレザー姿が少しでもかっこよく見えるように、背筋を伸ばして歩く。

 クラスを確認する限り、中学からの友達である葉中翔太も同じクラスのようだが、辺りには見当たらない。

 そのうち会えるだろうと、人の流れに沿って歩いていく。

 入学式の会場である体育館に着いても、翔太の姿は見つけられなかった。他に知っている顔はいないのかと周囲を見渡した時、一人の男子生徒が目に入る。

(うわ、めちゃくちゃ美形だ)

 レベルの違うイケメンがいた。真っ黒な髪と瞳に肌色が引き締められ、輝いて見える。スッと通った鼻筋や、真一文字に引き結ばれた唇から硬派な印象を抱いた。

 あまりにも綺麗で、憧れの存在が画面から出てきたようで、目が離せない。

 熱い視線に気づいたのか、切れ長の瞳が祐希を振り向く。視線が合いそうになり、慌てて下を向いた。

(ひええ……どうしよ、ドキドキがおさまらない)

 男にときめくなんて初めてのことだった。でも彼相手ならしょうがないかとも思う。

 だって素敵すぎて、現実にいることを疑ってしまうくらいカッコいいのだ。平凡を絵に描いたような祐希とは大違いだった。

 これがいわゆる、一目惚れというやつなのだろうか。混乱と動揺で顔に熱が昇る。心臓が全力疾走したみたいにバコバコうるさいし、指の先まで痺れてきた気がする。

 校長先生の話を聞くフリをしながら、意中の彼を盗み見る。横から見ても美しくて、ほうとため息が溢れた。また目が合いそうになり前を向く。

 何度かそんなことを繰り返しているうちに、入学式は終わったようだった。この後教室に向かうらしい。彼の背中をぽーっと眺めながら後ろをついていく。

 真後ろの女子がこそこそと噂話をしているのが、耳に飛びこんできた。

「彼、カッコよくない?」
「あいつでしょ? 遠海久遠。やめときな、いいのは見た目だけだから」
「えー、どこがナシ?」
「中学の時、ラインで告ったらブロックされた子がいるらしいよ。その時の対応が冷たすぎたって」
「どんな?」

 祐希も身体を傾ける勢いで会話を聞いていたが、いいところで教室に着いてしまった。

 親友の翔太が声をかけてくる。小さな体に見合わない大きな声で、手を振りながら笑顔を向けられた。

「よお祐希、同じクラスらしいぜ、よろしくな!」
「ああ、よろしく……」

 間の悪いことに、女子達は大きなグループに合流してしまった。あの輪にはさすがに混ざれない。

 すぐに新任の教師がやってきて、自己紹介の時間になった。他の生徒の声を聞きながら、中学からの持ち上がり組が多いんだなあと理解する。

 遠海が自己紹介をする番が来た。一言一句聞き漏らさないつもりで熱い視線を送る。彼は低く艶のある声で言った。

「遠海久遠だ」

 名前だけ告げると、彼はガタッと椅子を引いて座り、窓の外に視線を飛ばしてしまう。

(え、それだけ?)

 次の人の自己紹介に移ってしまった。まったく周りと仲良くする気がなさそうなクールな態度に、ドキドキと心臓が高鳴った。

(かっこいい……)

 一匹狼って感じがしてすごくいい。最早何をしてもかっこいいと感じてしまうくらい、彼に夢中になっていた。

 祐希が自己紹介をする番が来た。席を立ってハキハキと告げる。

「真山祐希です。桜咲高校は進学校なので、勉強をがんばりたいと思っています。よろしくお願いします」

 まばらな拍手が聞こえる中チラリと遠海を確認するが、クラスメイトにカケラも興味が無さそうだ。視線は窓の外に向いたままだった。

(何を考えているんだろう……知りたい、彼のことを)

 クラスの女子数人が遠海に熱い視線を送る中、祐希も一心に彼の背中を見つめた。

 あっという間に入学式初日の連絡事項は終了し、席を立つ生徒達の中、遠海も億劫そうに立ち上がった。

「遠海くぅん」
「あ、待って! 私も……」

 積極的な女子が声をかけるが、彼は目もくれずにカバンを肩に担いで去ってしまった。一連の様子を見守るだけだった祐希の肩を、翔太がポンと叩く。

「どうしたんだよ、行こうぜ」
「ああ、うん」

 翔太と漫画の話で盛り上がりながらも、心はずっとそわそわしていた。一度も笑うことのなかった彼の横顔が脳裏にチラついてしょうがない。

(もっと彼のことが知りたいな)

 主人公が壮絶なバトルを繰り広げてついに石油王になるまでを、延々と語り続ける翔太の声を話半分に聞きながら、同じクラスにいるうちに友達ぐらいにはなれるといいなと願った。

 けれどその願いは、贅沢すぎるのかもしれない。日が経つ毎にその思いは大きくなっていった。

 なぜかというと、遠海は誰とも関わるつもりがないようで、休み時間は一人で本を読んでいるし、昼休みも放課後もさっさと教室から姿を消してしまうのだ。

 極めつけに、話しかけてくる者への態度の冷たさったら、見ていられないほどだった。最初の一週間は積極的な女子が数人、彼に話しかけに行っていたのだが。

「うざい。話しかけるな」

 何を言われてもピシャリとそう言ってシャットアウトするものだから、女子達は「何あいつ、サイテー」と次第に相手をしなくなった。

 孤高の彼は入学から半月経った今日も放課後になると一人で席を立ち、どこかへと消えてしまった。後ろ姿を目で追いかけていると、翔太が声をかけてくる。

「よ。帰ろうぜ……まーた見てんの? そんなにアイツが気になるのか?」

 翔太にはとっくに遠海に興味があることを気づかれていた。恋心を抱いているとまでは打ち明けていないが、並々ならぬ好意を抱いていることはバレバレだろう。

「うん、すごく」
「そんなに気になるなら、直接声かけてみれば? 女子にはキツイ態度とってるから女嫌いなんだなーとは思うけど、男子とは必要最低限は話してたりするじゃん」

 確かに、プリントの提出などやむおえず話さなければならない時、遠海は必ず男子の係の人に声をかけている。女嫌いという線はありえるかもしれない。

「この時間はよく図書室にいるらしいって噂で聞いたぜ。会いにいってみれば」
「そうだね、行ってみようかな」
「そうしろよ。最近のお前、いくら石油王無双の話振っても乗ってこねえし、つまんないんだもん。さっさと気になることを片づけてこいって」

 背中を押されて、祐希は図書室に出向く勇気を固めた。

 図書室に来るのは初めてだ。しんと静まり返った室内には人の気配もほとんどない。緊張しながら足を進めると、窓際で一人本を読む遠海の姿が目に飛びこんできた。

(わあ……綺麗だなあ)

 窓越しに柔らかな光が室内に差し込んで、まるで遠海を祝福するかのように照らしている。

 俯く彼の長いまつ毛の影が頬にかかる様は、まるで一枚の絵画のように美しい光景だった。突っ立ったまま見惚れていると、彼は無表情で祐希を振り向く。

「お前、最近俺のことをよく見てるヤツだな。何か用か」
「ひあ!? あ、そのっ、ええっと」

 話しかけられた! しかも認知されていた! どうしよう、無視されるものだとすっかり思いこんでいたものだから、とっさに頭が回らない。

(用事、用件、伝えたいこと……)

 遠海に伝えたいことなんて、一つしかない。祐希は頭の中に浮かんだ言葉をそのまま彼に言った。

「好きです! 付き合ってください!」

 場に沈黙が満ちる。祐希の突然の大声に目を見開いた遠海は、眉間の皺を思いきり深めた。

「断る」

 (だよねー! やっちゃったよ! 何をやってるんだ俺は!)

 くだらないとでも言いたげに視線を本に戻し、祐希のことを一瞥もしない彼に、焦りの気持ちがどんどん募っていく。

(このまま無視されるだなんて嫌すぎる!)

 どうにかして彼の注意をこっちに向かせたい。

「お願いします、聞いてください!」
「……しつこい」
「お、俺が石油王になったら、交際を考えてくれますか!?」
「え?」

(あああだからもうなんで、俺のバカー! 石油王ってなんだよ、翔太の影響受けすぎだ! 遠海くん引いてる……よな?)

 翔太に日々耳に流し込まれるように話題にされていた、石油王無双の漫画の名台詞が脳裏を駆け巡る。いや、今はそれどころじゃないんだって!

 頭を抱えながらチラリと彼を確認すると、意外にも彼は真っすぐに祐希の顔を見つめていた。

(あ、あれ? なんか好感触?)

 何がよかったんだろう、石油王効果だろうか。この際なんでもいい、彼が興味を持ってくれるのなら、このネタで引っ張ってやる。

「遠海くんは、石油王ってかっこいいと思う!? なれたら惚れちゃう!?」
「……石油王になるとか、正気かよ」

 返事が返ってきた! もうそれだけのことが嬉しくて、舞い上がった気持ちが高らかにファンファーレを鳴らしている。

 無気力そうにページをめくる目つきとは違い、懐疑的ではあるけれどしっかりと祐希の話に耳を傾けているのがわかる。震える拳で胸を叩いて宣言した。

「遠海くん、待っていてくれ。石油王に、俺はなる! そして君を迎えにくる!」

 そう言い捨てた祐希は図書館から走って飛び出した。

(何をやってるんだろう僕は! ああでも、本当に石油王になれば、もっと興味を持ってもらえるかもしれない!)

 息が切れるのも構わず学校から徒歩十分の家に直行すると、早速「石油王 なるためには」と調べた。

 結論から言うと、具体的な方法は何もわからなかった。そもそも日本の新潟などで油田を掘り当てても採掘権が得られるだけで、石油そのものは得られないとわかった。

 その他にも事業を起こして億万長者になり石油王と呼ばれる、石油王の王族に養子に入るなどの案もあったが、どれもしっくりと来ない。

「やはり俺が石油王になるためには、アラブの国に行くしかないのか……!」

 自分でサウジアラビアかどこかに赴いて土地を買って、そこで油田を掘り当てるしか道はない。

 そう信じこんだ祐希は求人情報サイトを検索すると、時給のいい夜間の工事バイトを申し込んだ。

(待っていてくれ、遠海くん! 俺はお金を稼いでサウジアラビアに行って、必ず石油王になるから!)

 祐希は胸を高鳴らせながら、遠海の表情を思い出す。真正面から見ても左右対称に整っていて、驚いている様子まで美麗だった。

 どうしてこんなに好きなのか自分でもわからないけれど、彼に振り向いてほしい、自分のことを見てほしいという思いが、胸の底からどんどん湧いてくる。今ならなんでもできそうな気がした。

「やるぞー! おー!」

 こうして祐希は学業のかたわら、初めてのアルバイトに勤しむことになった。夜のバイト、しかも肉体労働ということもあり楽ではない。

「おーいバイト、ガレキを運べ!」
「はい!」

 腹に力を入れてワゴンを押すと、先輩から怒号が返ってきた。

「駄目だ、もっと腰を落とせ! 落とすんじゃねえぞ! そんな細っこい腕でいけんのか?」
「いけ、ます!」
「おお、根性あるじゃねえか、その調子だ!」

 先輩達は大きな声で怒鳴ったりするし (工事現場は音が出るし、安全のためだからしょうがないのだが)祐希のような見るからにインドア派な学生バイトを、からかってくる人もいた。

 しかし真面目に仕事をしていると、だんだん認めてもらえるようになった。

 半月も経つ頃にはだいぶ慣れてきて、ゴールデンウィークも全日バイトの予定を入れた。

「え? 祐希、今年は一緒に旅行しないの?」
「ごめん母さん! せっかくだから夫婦二人で楽しんできてよ」

 祐希が行きたいのは毎年恒例の旅行先である那須ではなく、油田のあるサウジアラビアだ。

 朝食の席でご飯をかき込みながら断ると、母と父は顔を見合わせて心配そうに祐希に告げた。

「ねえ祐希、最近バイトをがんばりすぎじゃないの? どうしてもやりたいことがあるって聞いたから許可したけれど、体を壊さないか心配よ」
「勉強はちゃんとしているんだろうな? レベル的に難しめの高校を選んだんだから、しっかり勉強しないと周りに置いていかれるぞ」
「大丈夫だって。今日はバイトじゃなくて、勉強する予定だし。じゃ、行ってきます!」

 祐希は勉強道具を入れたリュックサックを背負うと、逃げるように家を後にした。

 小走りで目当ての図書館に向かう。外の空気を隔てられた館内は涼しく、胸いっぱいに息を吸った。

 深呼吸してから言語の本棚に向かい、目当ての本を探す。

(サウジアラビアに行ったらアラビア語を話せるように、今からしっかり勉強しておかないとな)

 遠海の顔を拝むために欠かさず学校にも通って授業を聞いているし、学校の勉強はしなくても大丈夫だろう。

 体力的に辛くて授業中に寝てしまう日もあるけれど、今は学校の勉強よりアラビア語を習いたい。

 祐希はアラビア語の本を机に積んで、片っ端から読みはじめ……否、読めはしないので眺めた。

(……全然わからない。あ、この本なら日本語の解説が乗ってる……けどやっぱりわからないな?)

 まず字の形を判別するところから始めなければ。うんうん唸りながらうねる蛇のような文字の解読を試みていると、なんとなく視線を感じて顔を上げた。

 なんとテーブルの向かい側に、いつの間にか遠海が腰かけていたようだ。

 びっくりして立ち上がる。ガタンと椅子が大きな音を立てて、遠海は迷惑そうに顔をしかめた。

「大きな音を立てるな」
「ご、ごめん……遠海くんも来てたんだね」
「悪いか」

 祐希は勢いよく左右に首を振った。

「とんでもない!」

 なんてラッキーなんだろう、休みの日にまで遠海と会えて、さらに会話までできるなんて。

 ドクドクとうるさい心臓を抑えながら再び席に座る頃には、もう遠海はこちらを見ていなかった。気怠そうに本に視線を落としている。

(いいなあ。俺はあの本になりたい……)

 あんな風にじっと視線を向け続けてもらえたら、どんなに幸せだろうか……と夢見たが、遠海はいかにもつまらなさそうだ。

 どうしてそんなに無気力な印象を抱かせるのだろう。

 普段の様子を見ていると、遠海は乱読家でジャンルにとらわれずなんでも読む印象だ。好きで読んでるわけじゃないのだろうか。

 今日は何を読んでいるのだろうかとチラチラ背表紙を盗み見ると、外国人の名前が目に飛び込んできた。

「ロックフェラー?」
「知らないのか? 石油王と言えばロックフェラーじゃないか」
「え!」

 それは盲点だった! サウジアラビアに行くことばかり考えていたけれど、石油王と呼ばれる先人から学ぶことだって大切だ。

「その本、次に読ませてもらっていいかな」

 遠海は問いには答えずに、結城が積み上げた本にサッと視線を走らせ、片眉を釣り上げた。

「お前、石油王になるなんて世迷い事、本気で言ってるのかよ」

 遠海と視線があったことに感激しながら、コクリと頷いた。

「そうだよ。だって遠海くんは、石油王に興味があるんだよね? 俺は遠海くんに興味を持たれる男になりたいんだ」
「それでつきあいたいって?」
「うん」

 真剣に見つめるが、彼はすぐに視線を逸らしてしまった。はあとため息を吐く仕草まで麗しい彼は、その場に本を置いて立ち去ろうとする。

「あ、待ってよ!」
「……くだらない。いくら勉強したところで、現実は変えられないってのに」

 遠海は小さく呟くと、背を向けて行ってしまう。見守ることしかできなかった。

(どうして、あんなに悲しそうなんだろう)

 祐希の行動を気にしてくれているようだし、このまま勉強とバイトを続ければ何かわかるだろうか。

 机に座り直して、彼の残した本を手に取った。

 祐希はわなわなと震えていた。信じられなかった、百点満点なのに数字が一つしか書かれていない。

 かつてこんな点数を取ったことがあっただろうか。いや、ない。

 返ってきた答案用紙を見ながら固まることしかできなかった。祐希の手元を翔太が無遠慮にのぞきこむ。

「赤点じゃん」
「キッズバ!」
「は? なんて?」
「アラビア語で、嘘だ! って言ったの!」

 翔太は面くらいながらも、呆れた顔になる。

「そんな役に立たない知識じゃなくて、テスト範囲を勉強しとけばよかったのに」
「役に立たなくないから! 俺の人生には必要だから!」

 残念ながら祐希の訴えは翔太には響かず、更に放課後は赤点対策の補習を受ける羽目になった。

(こんなことをしている暇があったら、少しでも金を稼ぎたいのに……)

 祐希は内心ぐちぐち文句を言いながらも、ひたすら真面目に課題をこなした。

 けれど受難はこれだけではなかった。いつものように卵かけご飯を箸で掻きこんでいると、母がヒヤリとした口調で言い放ったのだ。

「祐希、今日の放課後は学校に残りなさいね。先生にお願いして三者面談をとりつけておいたから」

 祐希は信じられないと目を見張って、箸をテーブルに叩きつけた。

「母さん! 何を勝手なことしてくれたんだ!」
「それはこっちのセリフよ、最近の貴方はおかしいわ。学校でどうしているのか、ちゃんと先生からもお話を聞かないと安心できないの」

 祐希が人生初の壊滅的な赤点を取ったものだから、母も気を揉んでいるらしい。もう少し真面目に勉強しておけばよかったと悔やんだものの、後の祭りだ。

 鬱々とした気分で授業を受けて、萎れたまま弁当を食べていると翔太が指先で肩を突いてくる。

「どうしたんだよ、赤点取ったのがそんなにショックだったのか?」
「そのせいで放課後、親が学校に来るんだ……」
「うわ、ガチで?」

 力なく頷くと、翔太は慰めるように祐希の肩に肘を置いた。

「大変だなあ。俺も一教科赤点だったけど、次頑張れよって軽い感じで言われただけだぞ」

 一教科だけならそういう対応をされたのかなあと、祐希は遠い目をした。

 全教科で赤点を取ってしまったから、息子がグレたのではないかと思われているような気がする。

 遠い目をしながら顔を上げると、窓際の席にいた遠海とバッチリ目があった。

(ふぉ!? 今、俺のことを見てた!?)

 遠海はすぐに視線を逸らしてしまったけど、間違いなく祐希を気にしていた。

(きっと俺が本当に石油王になれるのかどうか、見定めようとしているんだ。待っててね遠海くん、俺は絶対に諦めないから!)

 志も新たに午後の授業を受け、闘志を燃えたぎらせながら三者面談に挑んだ。




 みんなが帰った教室の中で、人の良さそうな担任の男性教師が、困ったように愛想笑いをしながら祐希に話しかける。

「真山さん、何か困ったことがあるなら相談に乗るよ」
「何も困っていません、大丈夫です」
「ちょっと、全教科赤点を取っておいて、問題だと思ってないの?」
「それは……」

 改めてそう言われると、問題があるような気がしてきた。

「次回のテストは頑張ります」

 先生と母親は眉根を下げながら顔を見合わせる。母は更に追及を重ねた。

「最近何か目標に向かって頑張っているのよね。勉強より大事なことなのかしら」
「そうなのか? 真山さん、よければ何をしているのか、教えてもらってもいいかね」
「俺は……」

 言ったら反対されるかもしれない、笑われるかもしれない。

 けれど祐希は本気で石油王を目指していて、それは誰かに馬鹿にされていいような夢じゃないと思ったから、勇気を出して口にした。

「石油王に、なりたいんです」
『石油王?』

 先生と母は示しあわせたように同時に声を出す。ますます困惑を深めた様子で、二人は口々に祐希をたしなめた。

「大変厳しいことを言うが、それは今からなろうと思っても無理なのでは? 夢は夢として持っていてもいいと思うけれど、まずは学校の勉強を頑張らないと」
「そうよ、馬鹿なことを言っていないで現実を見なさい」
「現実的に、本気で、石油王になろうと思ってるよ! アラビア語もだいぶ覚えてきたし、渡航費用が貯まったらサウジアラビアに行くんだ」
「祐希! 何を言ってるの」

 母が悲鳴のような声を上げるが、悪いけれどどうしてもこればかりは譲れない。

 強い眼差しで見つめ返すと、先生が戸惑ったような声を出した。

「どうしても石油王になりたいのかね」
「石油王なんて無理よ、考え直しなさい」
「嫌だ! 俺は絶対に油田を掘り当ててみせる!」

 残念ながら理解してもらえなかったが、祐希は意見を曲げなかった。

 面談は長時間行われたけれど、祐希は一度として無理だとかやめるなどと言わずに、頑なに石油王になりたいと主張した。

(ここで諦めたら遠海くんに失望されて、二度と興味を持ってもらえない気がする。そんなのは嫌なんだ!)

 祐希は本気で石油王になろうと思っていて、諦める気だってさらさらない。

 けれど心のどこかで、石油王になんて薄々なれないのではないかという予感もあった。

 遠海の残したロックフェラーの本を読んで、石油王はあの時代だからこそなれたのだろうとも感じた。

 だからといって、二人に反対されたからと意見を曲げる気はない。祐希が遠海に抱く気持ちは、人に言われて変わるような軽いものじゃないのだ。

 三者面談は意見が割れたまま終わった。困ったように笑う先生と別れて、疲れた顔をした母の後をついていく。

 廊下を歩いている時に、会いたいと願っていた人物とすれ違う。遠海はチラリと祐希を見下ろすと、そのまま声もかけずに教室の方向へと去っていった。

(どうしたんだろう、こんな時間に。忘れ物でも取りに来たのかな。まさか俺のことを心配して……なーんて、あるわけないよね)

 もしもそうだとしたら飛び上がるほど嬉しいんだけどなと夢想する。学校を出るなり始まった母の小言を右から左へと聞き流した。




 祐希はスケジュールを組み立てながら唸っていた。どうやりくりしても時間が足りない……

 週六のバイトとサウジアラビア関係の勉強、さらに学校の勉強をこなすとなると、もっと睡眠時間を削る他なかった。

 学校に通わないという選択肢はハナからない。遠海に会えなくなってしまうからだ。

 また失言を繰り返してしまいそうで、祐希からは話しかけられない。頬杖をついて少し丸まった背中を見つめるだけだけだ。それだけでも頑張る気力が湧いてきた。

(バイト資金を八月になるまで貯めて、サウジアラビアに行くんだ。夏休みの間に勝負をかける)

 幸い手元には三年前に取ったパスポートがある。親に反対されようと、止まる気なんて全くない。祐希は睡眠時間を削ってバイトと勉強に勤しんだ。

「……山、真山! おい、起きろ」
「ふぁ!?」
「ちゃんと聞いてろよ、ここテスト範囲だからな」

 どうやら授業中に寝てしまっていたみたいだ。午後イチの国語の授業はまるで子守唄のようだと頭を描いて、必死でノートを取った。

 どうにも頭がふわふわして、文字が霞んで見える。

 授業が終わるなり席までやってきた翔太は、祐希の目の前でひらひらと手を振った。

「おーい、大丈夫か? うっわ、目の下の隈ヤバいな」
「そんなに目立つ?」
「ああ、真っ黒だ。最近つきあいも悪いし、本当にどうしたんだよ」
「ごめん、バイトが忙しくてさ。勉強にも手が抜けないし」
「バイトの時間減らせば?」

 それはできない、夏休みにサウジアラビアに出発するための資金が足りなくなってしまう。親からは反対されているから、金を借りられそうにもない。

 祐希は首を振ってノートをまとめはじめた。ため息をついた翔太は席を離れていく。

(ごめん翔太、それでもこればっかりは譲れないんだ)

 次は移動教室だと立ち上がる。急にめまいがして立っていられなくなり、目の前が急速に暗くなっていく。

 きゃあ、と隣にいた女子の悲鳴が聞こえる。誰かが支えてくれたような気がしたけれど、確かめる前に意識は閉ざされた。

 ぼんやりと目を開くと、白い天井とカーテンレールが目に飛び込んでくる。どうやらここは保健室のようだ。

 シーツに手をつき起き上がりながら辺りを見渡すと、信じられない人物がベッド脇に腰掛けて本を読んでいた。

「と、遠海くん!」
「起きたか」

 パタリと本を閉じた彼は、不機嫌そうに祐希の顔をのぞきこんできた。寝癖がついているかもと、両手で髪を押さえる。

 どうしよう、顔に熱が昇って下がらない。

「保健室の先生が、過労だと言っていた」
「あ……そうなんだ」

 予想通りだけれど、まさか倒れるほど具合が悪い自覚はなかったため間抜けな声が出た。

 遠海は呑気な祐希の様子を見て、ますます怪訝そうに目を細める。

「お前、なんでそこまで頑張るんだよ」
「だって、遠海くんのことが好きだから!」

 彼のための行いを誰に反対されようと、これだけはどうしても変えられない。

 遠海に出会ったことで、祐希は世の中には一目惚れという現象が本当にあると知った。

 好きな人のためなら、どんなに大変で困難なことでも、がんばりたくなるということも。

「俺のどこを見てそんなに好きになったって言うんだ。何も知らないくせに」
「そう、だけど……でもだからこそ、知りたいんだよ。少しでも遠海くんに近づきたくてたまらないんだ」
「……くだらない。愛とか恋とか、浮かれてるんじゃねえよ」

 吐き捨てるように告げた遠海は、どこか傷ついているように見えた。もしかして、過去に恋愛関係で裏切られたことでもあるのだろうか。

 彼の痛みを和らげてあげたい。身を乗り出して宣言した。

「俺は必ず、サウジアラビアに行くから! 見てて遠海くん、俺の想いは本物だって証明するよ」

 遠海はそうじゃないとでも言いたげに、ため息をついた。

「なんでそんなにサウジアラビアにこだわるんだよ」
「だって、石油王になりたいから……」
「石油の埋蔵量世界一はベネズエラだろ」
「えっ!? 俺はスペイン語を勉強するべきだったのか!」
「じゃなくて」

 突然顎を掴まれて、真正面から視線を合わせられた。待って近いすごい綺麗と慄いていると、彼は低い声で告げる。

「アンタが知るべきなのは、俺のことだろ? さっき知りたいって言ったのは嘘だったのか?」
「やばい嬉しすぎて死ぬ顎クイはきゅんがすぎる……っ知りたいですー!」

 顔を真っ赤にしながら小声で叫ぶと、遠海は祐希の顎を解放した。

「お前の熱意に免じて特別に教えてやる。これを知っても同じような態度をとれるかどうか、見ものだな」

 遠海は腕を組みながら、フッと口の端を吊り上げて笑った。

(初めて笑ったところが見れた、感動……!)

 皮肉げな笑いも尊いと内心拝みながら、彼の言葉に全力で耳を傾ける。しばしためらった後、遠海は口を開いた。

「……俺の親はどうしようもないクズで、稼いだ金を全てギャンブルにつぎ込むようなヤツなんだが」

 のっけから重いと驚きつつも、話の邪魔をしないように呼吸すら潜めた。

「最近、ついに借金までするようになっちまった。消費者金融から手当たり次第に借りていたみたいで、利息が膨らんで五百万円の負債となっていた」
「わあ……」
「引いたか? どうだ、俺と関わるのが嫌になってきただろう」

 借金をしたのは遠海の親であり遠海自身ではないし、その程度で好きの気持ちが揺らぐことはない。

「別にならないよ。困ってるなら、俺が稼いだ金は遠海くんにあげる!」

 思っていた反応と違ったのか、遠海は面食らった。一瞬ポカンと口を開いた後、誤魔化すように咳払いをする。

「そんなことをされても嬉しくない。それに借金を返す必要もないんだ。つい先日、親父に自己破産の手続きを取らせたからな」

 なんでも自己破産をすることで、借金を返済しなくてもよくなるらしい。そのかわり日常生活を送る上で必要最低限の荷物だけしか持てない。

(遠海くんも、大事な物を捨てる羽目になったんじゃないかな)

 心配でハラハラと気を揉んでいたが、遠海は強気な口調で父親を罵っていた。

「親父は母親との思い出の品を最後まで惜しんでいたが、自業自得だ。アイツもこれで少しは反省すればいい」
「遠海くんの家、大変そうだね」

 そんな状況なら確かに、恋愛する暇がないというのも頷ける。

 祐希の想いを受け入れる余裕が無いというのなら、それを見守るのも愛じゃなかろうか……

 きっと想い続けていればそのうちタイミングも巡ってくるだろうと、達観する方に気持ちが傾いてきた時、彼はおもむろに告げた。

「アンタのがんばりを見てて思ったんだ。俺も自分の不幸を嘆いていないで、夜間バイトでもなんでもすればよかったんだって」
「遠海くんも夜間バイトに興味があるの? 紹介しようか」
「いらん、そういう話をしているんじゃない。だから……アンタに触発されたから本の中に逃げ込むんじゃなくて、知識を得るために本を読むことができて、自己破産の知識を得られたんだ」
「そうなの?」
「ああ。感謝してる」

 祐希の頭の中を、はにかむような彼の声音が駆け巡った。感謝してる、感謝してる、感謝……身体中の血液が歓喜に湧き、ゾクゾクと背筋を感動の波が駆け上がる。

(嬉しい……っ! 迷惑なヤツだって思われてるのかなって心配してたのに、まさか感謝されていたなんてっ!)

 頬を染めて瞳を潤ませる祐希を優しげな目で見つめた後、遠海は挑発するようにニヤリと微笑んだ。

「アンタの行動力を見込んで頼みがある。俺と一緒に起業しないか? 石油王にはなれないかもしれないが、一攫千金を狙っていこうぜ」

 雷が身体に落ちたかと思った。遠海に期待されている、それだけでベッドの上を転げ回りたいくらいに気分が湧き立つ。

 それに起業だって? なんて楽しそうな誘いなんだろう。石油王になるよりも再現性のある夢じゃないか。

 好きだって告白した上で誘ってくれているってことは、明言はされていないが遠海も祐希のことを悪く思ってはいないらしい。

 両思いになれるチャンスもあるのだろうと解釈し、間髪入れず誘いに飛びついた。

「喜んでー!」

 勢い余って遠海本人にも実際に飛びつくと、彼は嫌な顔もせずに抱き留めてくれた。

「おい、さっきまで倒れてたヤツが急に動いてるんじゃねえよ。また倒れるだろうが」
「えへへっ、ごめんね! だってあんまりにも嬉しくってさ!」

 にこにこと満面の笑みを浮かべると、彼はバツが悪そうにそっぽ向く。

「正直なところ、俺はまだ自分の状況をどうにかするのが精一杯で、恋愛する気になれないんだ。もう二度と金に困ることのない生活を送りたいって、今はそれしか考えられない」
「そうだよね、そう思うのは自然なことだと思うよ」

 遠海はベッドに祐希を押し戻すと、捲れ上がった上掛けをお腹までかけ直してくれた。優しい。

「アンタの好意を利用するようで悪いなと思ってる。だけど俺は、アンタみたいに根性のあるヤツが側にいてくれたら、諦めずに前に進める気がするんだ」
「俺、遠海くんが挫けそうになったら全力で応援する! 任せておいて!」

 ドンと胸を叩くと、遠海も心得たと頷く。

「頼もしいな。だがそのためには、学校の勉強もやっておかないとな」
「う、それは……そうだねえ」

 しどろもどろになり視線を逸らしていると、遠海は床に置いていた自身の鞄からノートを取り出した。

「貸してやるよ。テスト範囲と対策をまとめてある」
「神様仏様、遠海様……っ! ありがとうございます!」

 捧げ持つように受け取ると、自然と綻んだような笑顔を向けられる。

「いちいち大袈裟なんだよ、アンタは。急に石油王になるとか言い出すし、次に何をしでかすのか気になって目が離せなかった」
「本当に!? それは俺が目も離せないほどに魅力的だって言ってる!?」
「あー、そういうことにしてやってもいい」
「やったー!」

 騒ぎ過ぎて保健室から追い出されたけれど、祐希の心は秋の空のように晴れ渡っていた。



 それから祐希は、週六でシフトを入れていた夜間バイトを辞めた。

 もはやサウジアラビアに行く意味はないし、夜のバイトはどうしても睡眠時間が足りなくなってしまう。

 代わりに土日だけ飲食のアルバイトをして、来たるべき起業の日に備えた。空いた時間は学校の勉強とビジネスの勉強に充てて、遠海と作戦会議をして過ごす。

 遠海は読書家なだけあって、起業の仕方やビジネス書、マーケティングの本まで一通り履修済みらしかった。高校生であっても起業して収入を得ることができるらしい。

「俺達の冒険はこれからだ!」
「冒険か、やってやろうじゃねえか」

 吹っ切れた遠海は意外にもノリがよく、祐希が突拍子もない案を出すと鋭い切り口のツッコミで乗ってきてくれて、それもまた楽しかった。

 夏休み前のテストは遠海との勉強会のおかげで見事高得点を取ることができて、両親はホッと肩の力を抜いた。

「よかったわ祐希。夜のバイトもやめてくれたことだし、石油王なんて馬鹿なことを言っていないで、これからは真面目に勉強してくれるのね」
「うん、石油王になるのはやめたんだ。代わりに、〇〇王と呼ばれるような立派な事業を起こすことにしたからね」
「なにっ!? 祐希、危ないことじゃないだろうな? 父さんにも話を聞かせてくれ」

 やはり両親の説得は難航したが、石油王になるよりはよほど実現性がありそうなプランを根気よく説明すると、最後にはやるだけやってみなさいとゴーサインが出た。

 祐希と遠海が手がけようと思っているのは、新しいアプリの開発だ。最近流行りのAIを利用しながら、原案をより使う人が求める形に落とし込んでいく。

 祐希は夏休みの間、アラビア語の代わりにプログラミング言語を学んだ。図書館での作業中、隣には遠海がいて彼も本を読んで勉強している。

 チラリと横に視線を向けると、そこに遠海がいる。もうそれだけで祐希は幸せで嬉しくて、気分は絶好調だった。

 さりげなく盗み見たつもりなのに、彼は目ざとく祐希の視線に気づく。

「真山、また俺を見ていたのか」
「あ、バレた? だって遠海くん、かっこいいからさ。つい見たくなっちゃうんだ」
「お前の見た目は平凡だよな」
「えー、そうだけど。でも中身は根性あるよ」
「知ってる。それに見慣れると、案外悪くねえなって思う」

(悪くないって、どういう意味で言ったんだろう)

 ちょっとでも好意的に思ってくれてるといいなと切に願う。クスッと笑った遠海は本を閉じて机の上に置くと、頬杖をついて祐希を流し見た。

「そんなに俺のかっこいい姿を見たいなら、来週あたり海でも行くか」
「海! 遠海くんの水着姿!? 見たい、見たすぎる!」

 思わず欲望がアクセル全開な発言をしてしまうと、遠海は呆れたような視線を投げかけてきた。

「注目すべきはそこじゃないだろ……いや、お前にとってはそこなのか?」
「あ、わかった。遠海くんは泳ぐのが上手なんだね」
「まあな」
「ますます気になるー! ぜひ行こう、海!」

 大興奮する祐希の鼻を、遠海はぎゅむっと摘んだ。

「騒ぎすぎだ。もう出よう」

 図書館の外は夕暮れ時にもかかわらず、まだまだ茹だるような暑さが続いている。この後は遠海も祐希もバイトの予定だ。

 まだ一緒にいたいなと切ない気分になりながら、物悲しい気分をより強めるひぐらしの声を、聞くとはなしに聞いていた。

「親父がさ、また働きはじめたんだ」

 ポツリと、呟くようにして遠海が話しはじめる。静かに頷いて美しい顔を眺めた。

「母さんの遺品を取り上げられたのが堪えたみたいで、今度こそ心を入れ替えてギャンブルも辞めると言っていた」
「よかったね。親父さんが稼いでくれるなら、俺達も事業に集中できそうだ」
「どこまで信じられるかわからねえけどな」

 遠海は自嘲するように告げると、遠くに視線を投げた。

 視線の先には公園で遊ぶ親子連れがいて、両親が仲良く寄り添っている。

「恋だの愛だの、くだらないって思っていたんだ。親父があんなに落ちぶれたのは、母さんが亡くなってからだった。人を愛する気持ちは心を弱くする、そう思っていた」

 遠海は真っすぐに祐希を見つめる。強い視線に、ドキリと心臓が高鳴った。

「でも、そうじゃないんだな。アンタを見ていて思ったよ。人を愛する気持ちは、何倍にも力を引き出してくれるんだ」
「そうだね。俺は遠海くんと出会ってから毎日に張り合いが出たし、苦しい時も遠海くんがきっと待っていてくれるから頑張ろうって、そう思えるんだ」
「そうか」

 突然、遠海の指先が祐希の手に触れた。手汗をかいていないだろうかと猛烈に気になりながらも、初めての遠海からの身体接触に感動して身動きがとれない。

「いつまでも待たせて悪かったな」
「え、それはどういう……」

 木陰の下まで手を引かれるままついていくと、遠海は軽く屈んで祐希の口を塞いだ。すぐ目の前に遠海の麗しい顔がある。

 やっぱりまつ毛が長いなあなんて、ボヤける視界の中で現実から乖離した思考が流れていく。

 触れあうだけのキスをして、遠海の顔は離れていった。

 これは現実なのかと一瞬疑ったけれど、目の前にいる遠海からは息遣いを感じられて、繋いだままの手は熱くて汗ばんでいる。

 間違いなく本当に起きたことだと理解した祐希は、夕日にも負けないくらいにぼぼぼっと頬に熱を昇らせた。

「と、ととっ、遠海くん……!」
「久遠って呼べよ、祐希」
「ひええカッコいいが過ぎる」
「この程度で驚いてんなよ、俺はもっとすごいことがしたいのに」
「すごいことぉ!?」
「バカ、叫ぶな。周りに聞こえるだろ」

 遠海はクシャッと祐希の頭を撫でると、照れ笑いをしながら祐希から更に一歩離れた。

「残念だけどそろそろ時間切れだ。バイトが終わったら電話するから、ちゃんと出ろよ」
「あ、またね……!」

 遠海はサッと片手を上げるとカバンを担ぎなおし、足早に駆けていった。信じられない思いで唇を触ると、わずかにしっとりとしていた。

「うわー……っ!」

 祐希はその場でしゃがみ込んで、木に手のひらを強く押し当てる。

(遠海くんが俺に、キスを……! それに、祐希って呼んでくれたし、久遠って呼べだって。もうそんなの)

 愛の告白でしかないじゃないか。改めて思い至った祐希は、服が汚れるのも構わずに地面の上をゴロゴロと転げ回った。

「ママー見て、変なお兄ちゃんがいる」
「しっ、見ちゃいけませんよ」
「青春だなあ、そっとしておいてやろうな」

 親子連れに注目されているのに気づいて、祐希はその場から走り去った。

 その夜、散々ミスをしまくりながらもなんとかバイトを終えた祐希は、ベッドの上で正座待機をして、今か今かと遠海の電話を待っていた。

 予想したよりも早くかかってきた電話で、改めて恋人になってくれるのかと問うと、若干上擦った声が返ってくる。

「そう言ったつもりだったんだが……ああ、肝心なことを伝えていなかったな。好きだ、祐希。俺の恋人になってくれないか」
「ひ……ふぇ、はいぃ……っひくっ!」
「な、泣いてるのか?」
「うっ、うわあああん!」

 滅多なことでは諦めずへこたれず、泣かない祐希だが、この時ばかりは盛大に泣いた。

 通話口でしゃくりあげる祐希の声はずいぶんと遠海を慌てさせたが、嬉し涙は長いこと止まらなかった。