────『恭吾くん』。
そうだった。昔は『恭』だったくせに、中学に上がった頃からゆあは俺のことをそう呼ぶようになったんだった。
やけにカンに障るこの響き……全然変わってない。
なにがカンに障るかって、“くん”の部分である。
例えばアレだ。会社のお局が新人の嫌味を言うときに使う『新人ちゃん』の“ちゃん”の部分に近しい。
(社会に出たことがあるわけではないので実際は知らんけど。ま、多分合ってるだろ)。
これに関しては俺だけじゃなく、他のやつらに対しても同じ感じなのでわざわざ苦言を吐くつもりはない。
とりあえず、ゆあは変わってない。そう実感した途端、妙な安堵が胸に広がった。
「どういうつもりだよお前」
その安堵を悟られないよう、気持ち強めに声を出せば、ゆあは露骨に顔をしかめた。
「“どういうつもり”? いったいなにが」
「白々しいな。三原とわざわざ席を交換して、今度はなにを企んでるんだって聞いてる」
「ずいぶんな物言いだね。まるで悪人扱いだ」
「ほんとのことだろ」
「まさか恭吾くん、おれのことまだ恨んでるの」
ドクリ、と心臓が脈を打つ。
……一応、覚えてはいたのか。自分のやったこと。
頭の中で一度セリフを整えてからから、俺は静かに口を開いた。
並べた文字列を、できるだけ怒りを込めた声でなぞる。
「あれだけのことをされて恨んでないと思うか? 本当ならお前の顔も見たくない」
そう吐き捨てた瞬間。
痛みを隠そうとするかのように、ゆあの表情が一瞬張りつめ、黒い瞳がわずかに揺れた。
……敬意すら覚えるほどの演技力だ。つくりものだとわかっていても罪悪感がじりじりとせり上ってきて、俺の胸をやたらと酷く痛めつける。
悪かった。強く言いすぎた。
初めからお前のこと恨んでなんかいないよ。
嫌いだと思ったことも、顔を見たくないと思ったことも、一度もない。
これは慰めではなく、本当のこと。
普通なら恨むのが当然であろうことをされたので、普通を保つために俺はゆあを恨んでいるように装っているのだ。
────3年前のあの日も、そうするしかなかった。
ああ……繰り返している。
認めよう。これはゆあではなく俺に問題がある。
だけど俺をこうさせているのはゆあなのでやっぱりゆあも悪いかもしれない。
そうだよ、結局いつもすべてゆあが悪い。
「そんなこと言われたって、おれは今更謝らないよ」
さっきの傷ついた顔は何処へやら。
次に瞬きをしたときには、デフォルトの冷たいゆあがそこにいた。
「だったら、今後俺に何されても文句言うなよ」
その刹那。
ゆあの瞳がスッと不敵に細められ、思わずぞくりとする。
「いいよ。一生……いや、末代まで恨んでくれても」
ああ、それでいいよ。それがいい。
ごめんねなんて言うゆあはゆあじゃない。
お前は誰にもあやまらなくていいんだ。
そう思ったとき、視界の端で一瞬空が光った。
間もなくして雷鳴が響き、分厚い雲の隙間から雨が降り注ぎ始める。
昔から雨が嫌いだ。
鬱陶しい湿気が頭痛を誘うし部活は休みになるし……あの日を、思い出すし。
だけど、圧迫する心臓の音をかき消すほど激しい夕立に、俺は今初めて感謝しているかもしれない。
恨みたいのに。
いくら恨もうとしても恨みきれない自分が、自分をそうさせるゆあが、
……どうしようもなく憎らしい。