三学期目に入ったある日。合唱コンクール前のことだった。
「ソロ、田中さんが歌えばいいのに」
友達と連れ立って音楽室を出た所で、啓子は高木奏に後ろから声をかけられた。
「え、ソロ、なんで」
「だって田中さんうまいじゃん。ソロやりたがる奴いないからってヤナセンが勝手に合唱部のやつ選んでたけどさ、田中さんの声の方が合ってると思うんだよな」
淡々と高木奏は告げた。
誰にも話したことは無かったが、啓子は歌をうたうのが好きだった。ただ、人前に立つのは苦手だし、好きなだけに指導や指摘をされるのが嫌で、合唱部があるとは知っていても入部しなかったのだ。
家で一人の時に、もしくは音楽の授業で、好きに歌えればそれで満足だった。家では思い切り声は出せないが、授業では基本的にみんなで声を合わせて歌うので、啓子はそれに紛れてのびのびと歌えた。
音楽室での高木奏の座席は、啓子の後ろに一列挟んで斜め後ろだ。遠くはないとはいえ、声を聴き分けられてしまうくらい自分は大声で歌っていたのだろうか。
「いや、ソロとか無理でしょ。無理無理」
啓子は早口に否定した。無理、自分にもそう言い聞かせるように繰り返す。
「そうかな、やりたくないならいいんだけどさ。歌、好きだと思ったから」
「分かんない、授業だから歌ってるだけ。真面目だし私。それだけ」
投げつけるように言葉を返すと、啓子は奏に背を向けた。頬が熱くなるのを感じる。「いいの?」と尋ねる友達を引っ張って、逃げるように廊下を渡った。
教室に戻り席につくと、心臓が早鐘を打っていた。これは廊下を走ってきたから。それだけだから。そう思いながらも気持ちはそわそわと落ち着かない。高木奏は、啓子の好きなことを褒めてくれたのだった。一言ありがとうとでも返せばよかったのに、つっけんどんに対応して逃げてきてしまった。
歌うのが好きだと言い当てられて、自分がどんな顔をしたかと啓子は不安になった。ほんの少しも浮かれなかったとは言えない。恥ずかしくても、嬉しかったのだ。しかしそれをさとられたくは無かった。
次の授業が始まる鐘が鳴り始めるのと同時に、高木奏は教室に戻ってきた。ドアの所で、別のクラスの男子に手を上げて解散するのが見える。啓子には見覚えがあった。文化祭でのバンドのステージで歌っていた、目立つ男子だ。奏はその横で最小限の動きでギターを演奏していた。随分と低い位置にギターを吊るすのだなと、体育館のステージ前に集まる黒い頭の山越しに啓子は眺めた。
時折メンバーと目を合わせる以外は、奏は直立で虚空を見つめていた。ソロがあって、多分上手かったのだと思う。前の方で聴いている先輩達が湧いた。それでも奏は棒立ちのまま、見えないなにかに陶酔した顔で弾いていた。
『ソウは演奏の奏』
高木奏の自己紹介が頭をよぎって、それから啓子は、これ以上見ているとなにかが自分の中に生まれそうで、体育館を後にした。
あんな風に思い切り音楽に身を委ねてみたら、自分の体を楽器に出来たら、それを体育館の高い天井に響かせたら、どれだけ気持ちが良いだろう。そんな不似合いなことを夢見させられてはたまらなかった。
文化祭の後、奏は密かにモテはじめた。その空気をうけてか、それまでに増して後ろの席から真理奈が奏にちょっかいをかけることも増えた。奏の対応ははじめは無愛想に、その後親しげに、それからなぜかまた無愛想に戻って、呼び方は「お前」になった。
そのころ真理奈には高校生の彼氏がいるという噂があった。なのに、どうして奏にちょっかいをかけるのか啓子には理解が出来なかった。それに流されるように見える奏も、つまらなかった。
そうして高木奏の事はわざと意識の外に置いていたのに、今日、また引き戻されてしまった事がやるせない。
席に戻った奏に、真理奈が後ろから声をかけるのが見える。ぐるぐると考える啓子の目の前で、真理奈は細い手首を返して、ノックするように奏の背を叩く。
「辞書貸して」
奏は振り向きもせず、肩越しに電子辞書を渡す。
今までも頻繁にそのやりとりを見てきた。真理奈は辞書を受け取ると、国語辞典で次つぎと言葉を検索しては戻る。履歴を見ると、メッセージになるようになっている。たいていはくだらない内容で、メモですら渡す必要がない事だ。それをわざわざ電子辞書の機能を使ってやっているというのが、啓子には馬鹿らしく感じていたが、今日はそれに加えてひどく不潔に思えた。
真理奈は奏の字すらまともに書けないのに、日直の時に奏の字も間違えて書いていた癖に。そっちを先に調べて、書き取りでもしたらいいじゃないかと、皮肉めいたことを考える。そんな事を考える自分も嫌だ。啓子はタ行の並びを恨むことしか出来なかった。
「ソロ、田中さんが歌えばいいのに」
友達と連れ立って音楽室を出た所で、啓子は高木奏に後ろから声をかけられた。
「え、ソロ、なんで」
「だって田中さんうまいじゃん。ソロやりたがる奴いないからってヤナセンが勝手に合唱部のやつ選んでたけどさ、田中さんの声の方が合ってると思うんだよな」
淡々と高木奏は告げた。
誰にも話したことは無かったが、啓子は歌をうたうのが好きだった。ただ、人前に立つのは苦手だし、好きなだけに指導や指摘をされるのが嫌で、合唱部があるとは知っていても入部しなかったのだ。
家で一人の時に、もしくは音楽の授業で、好きに歌えればそれで満足だった。家では思い切り声は出せないが、授業では基本的にみんなで声を合わせて歌うので、啓子はそれに紛れてのびのびと歌えた。
音楽室での高木奏の座席は、啓子の後ろに一列挟んで斜め後ろだ。遠くはないとはいえ、声を聴き分けられてしまうくらい自分は大声で歌っていたのだろうか。
「いや、ソロとか無理でしょ。無理無理」
啓子は早口に否定した。無理、自分にもそう言い聞かせるように繰り返す。
「そうかな、やりたくないならいいんだけどさ。歌、好きだと思ったから」
「分かんない、授業だから歌ってるだけ。真面目だし私。それだけ」
投げつけるように言葉を返すと、啓子は奏に背を向けた。頬が熱くなるのを感じる。「いいの?」と尋ねる友達を引っ張って、逃げるように廊下を渡った。
教室に戻り席につくと、心臓が早鐘を打っていた。これは廊下を走ってきたから。それだけだから。そう思いながらも気持ちはそわそわと落ち着かない。高木奏は、啓子の好きなことを褒めてくれたのだった。一言ありがとうとでも返せばよかったのに、つっけんどんに対応して逃げてきてしまった。
歌うのが好きだと言い当てられて、自分がどんな顔をしたかと啓子は不安になった。ほんの少しも浮かれなかったとは言えない。恥ずかしくても、嬉しかったのだ。しかしそれをさとられたくは無かった。
次の授業が始まる鐘が鳴り始めるのと同時に、高木奏は教室に戻ってきた。ドアの所で、別のクラスの男子に手を上げて解散するのが見える。啓子には見覚えがあった。文化祭でのバンドのステージで歌っていた、目立つ男子だ。奏はその横で最小限の動きでギターを演奏していた。随分と低い位置にギターを吊るすのだなと、体育館のステージ前に集まる黒い頭の山越しに啓子は眺めた。
時折メンバーと目を合わせる以外は、奏は直立で虚空を見つめていた。ソロがあって、多分上手かったのだと思う。前の方で聴いている先輩達が湧いた。それでも奏は棒立ちのまま、見えないなにかに陶酔した顔で弾いていた。
『ソウは演奏の奏』
高木奏の自己紹介が頭をよぎって、それから啓子は、これ以上見ているとなにかが自分の中に生まれそうで、体育館を後にした。
あんな風に思い切り音楽に身を委ねてみたら、自分の体を楽器に出来たら、それを体育館の高い天井に響かせたら、どれだけ気持ちが良いだろう。そんな不似合いなことを夢見させられてはたまらなかった。
文化祭の後、奏は密かにモテはじめた。その空気をうけてか、それまでに増して後ろの席から真理奈が奏にちょっかいをかけることも増えた。奏の対応ははじめは無愛想に、その後親しげに、それからなぜかまた無愛想に戻って、呼び方は「お前」になった。
そのころ真理奈には高校生の彼氏がいるという噂があった。なのに、どうして奏にちょっかいをかけるのか啓子には理解が出来なかった。それに流されるように見える奏も、つまらなかった。
そうして高木奏の事はわざと意識の外に置いていたのに、今日、また引き戻されてしまった事がやるせない。
席に戻った奏に、真理奈が後ろから声をかけるのが見える。ぐるぐると考える啓子の目の前で、真理奈は細い手首を返して、ノックするように奏の背を叩く。
「辞書貸して」
奏は振り向きもせず、肩越しに電子辞書を渡す。
今までも頻繁にそのやりとりを見てきた。真理奈は辞書を受け取ると、国語辞典で次つぎと言葉を検索しては戻る。履歴を見ると、メッセージになるようになっている。たいていはくだらない内容で、メモですら渡す必要がない事だ。それをわざわざ電子辞書の機能を使ってやっているというのが、啓子には馬鹿らしく感じていたが、今日はそれに加えてひどく不潔に思えた。
真理奈は奏の字すらまともに書けないのに、日直の時に奏の字も間違えて書いていた癖に。そっちを先に調べて、書き取りでもしたらいいじゃないかと、皮肉めいたことを考える。そんな事を考える自分も嫌だ。啓子はタ行の並びを恨むことしか出来なかった。