「お母さん、ちょっとお手洗い行ってくるね。希穂(きほ)はおばちゃん達と待ってて」

 笹川家の待合室は、ひしめく親戚たちにより酸素が薄くなっていた。喪主として妻として、夫方の両親や親戚の嘆きに嘆きで返し、時に気丈にして安心して見せ、合間に今年小学校に上がったばかりの娘の様子に目を配る。
 ひい孫を亡くした夫の曾祖母がしきりと娘の希穂に「かわいそうに」と声をかけるのを、さり気なく遠ざける。おそらく、娘の情緒によい影響はないだろうから。曾祖母から守るために、娘を実母と妹に囲んでもらう。

 頭が痛いのはきっと酸素が薄いせいだけではないだろう。気の張り方がわからなくなっているのかもしれない、と啓子は感じた。
 いよいよ崩れてしまう前に、一度外の空気を吸いたかった。焼き上がりを待つためのこの部屋でなければどこでも良い。そう考えた啓子はトイレに避難することにした。

 
「こんなときまでお化粧直してるの」

 右は女子で左は男子。トイレの表示を確認してL字型の細い通路の角を曲がった時だった。先ほど聞いたばかりの、少女の声が届いた。壁にそって立てば、鏡に映るダークブラウンのブレザーが見える。やはり、あの華やかな喪服の女性の娘だ。啓子は思わず息をひそめて、トイレの中からは死角となる壁にぴたりと張り付いた。

 なぜこんなにも尾原の家の事情が、いや、あの喪服の女性の事情が気になるのか、自分でも判然としなかった。
 確かに漏れ聞こえる単語は事件性があったし、息子を亡くした美しい母親というものに残酷な興味が無いでもない。しかしそれだけで、ここまでするほど自分は他人に興味があったろうか。

「お兄ちゃんが、あんな事になったのに」
「外であまりそういう事を言うんじゃありません。みっともない」
「ママはいつもそう」
「いつもってどういう意味よ」

 一度甲高くなった声が、押し付けられるようにして低く、静かなトーンに変わる。
 あ、と思う。啓子はこのようにして声を操る人間をかつて知っていた。その人は常には甘ったるい声で話していた。それが一瞬にして、人を突き放す、無機質なアナウンスのような声に変わる。啓子もかつて向けられた事がある。
 ああ、あの甘ったるい声じゃなかったから、先程は気付かなかったのだ。今は尾原という姓に変わっていたのか。笹川啓子の精神は一気に、田中啓子へと引き戻された。
 中学生の頃の思い出ともに。

 そうなると、どうしても顔を見て確かめたかった。
 ヒールの低いパンプスを履いた足を一歩踏み出す。外反母趾の形に歪んでいるパンプス。流行りの形のローファーを買ってもらえなかったあの頃の啓子の靴も、同じように歪んでいた。トイレの床の灰色のタイルが、緑色のリノリウムの床に変わる。今歩いているのは田中啓子。そして、目の前に現れるのは、

鷹藤(たかとう)さん」

 尾原の娘だけが振り向いた。
 鏡に向かっていた鷹藤(たかとう)真理奈は、どうせマスクで隠れるであろう口紅を丁寧にティッシュで抑えているところだった。彼女は、振り向くことはせず、鏡越しに啓子と目を合わせてきた。
 中学生の頃、学校のトイレで髪の毛を直したりリップを塗り直したりしている真理奈とよく鉢合わせていた。悠々と手洗い台を一つ占拠する真理奈を横目に、わけも分からず苛立って勢いよく水を出したら、自分のスカートだけが濃い色に濡れたこともある。
 真理奈は香水の香りのするハンカチを貸してくれた。それを返すために洗濯するのに、母に見つかるのが恥ずかしくて夜中に手洗いをして、自室のカーテンレールに干した。アイロンもあてられずにしわだらけになったハンカチを返すことがどうしても出来なくて、結局ずっと机の鍵付きの引き出しにしまわれたままだった。

 真理奈は啓子の顔をじっと見つめて、それから鏡の中の自分の前髪を一度気にした。顎に指をあてて振りむくと、

「アイリは先に戻っていなさい、ママももう行くから」

 啓子と目を合わせたまま、娘にそう声をかけた。甘ったるい声に戻っている。そうだ、こんな声で高木君に話しかけていた。「ソウくん」って。

「ケイちゃん? ええと、田中の?」
「今は笹川です」
「えー! びっくり、こんな場所でねえ、お久しぶり。元気かなんて聞ける場所じゃないわね」
「ええ、本当に」
「聞こえてたでしょ、あの子のね、兄。私の長男なんだけど。今日はその件でここにいるの。かわいそうにね、ちょっと情緒不安定になっちゃって、仕方ないわよね。いつもはああじゃないのよ」

 早口に(にご)しながらもはっきりと告げる真理奈の、本能的にしみついているであろう気丈さが啓子には悲しかった。哀れな母親として元同級生に見られるのは、真理奈にとって耐え難いのだ。いつでもアイロンのかかった、いい香りのするハンカチでありたいのだ。

「本当にね、ご愁傷さまで。言葉も無いわ」
「そちらこそ、ご愁傷さまで」

 一歩、真理奈が踏み出したので、啓子は反射的に後ずさった。やはりどんな時でも真理奈は真理奈だと気圧されてしまう。

「私、もうそろそろ行かないと。喪主だからあまり空けるのもね」

 そうとだけ言い残して逃げるようにトイレを去ったため、真理奈の反応はうかがえなかった。
 私だって大変だったし、あなたより可哀想だし、あなたと同じかそれ以上に気丈なのよ。だってなにしろ『喪主』だもの。
 言外に優越を伝えられただろうか。
 暗い満足を覚えて部屋に戻ってから、用を足さないのにトイレにいた自分が、本当にただ他家の事情を立ち聞きしただけの人になったことに気付いたのだった。

 娘の希穂(きほ)は彼女にとっての叔母にあたる、啓子の妹の膝に頭を預けて眠っていた。まぶたが腫れて、赤ん坊のような寝顔に見える。希穂を起こさないよう、そっと近づき啓子は妹に声を掛けた。

「ねえ、私、妻だから喪主してるんだよね」
「なにを今更言ってんの」

 心配する妹の言葉を、小さく手を振って遮ると、声をひそめて会話を続けた。

「たとえば子供が亡くなった家の喪主は、父かな」
「どうしたの急に、いやな話。そりゃあ一般的にはそうなんじゃないの」
「そうだよね」

 啓子はそうとだけいうと、鼻から細く長く息を抜いて、希穂の額をやわらかく撫でたのだった。